古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「常識」としての「仏教伝来」

2024年05月31日 | 古代史
 
以下は以前すでに投稿したものですが、改めて記して仏教の伝来についての常識を疑ってみます。

 仏教の伝来については「高句麗」は「前秦」から四世紀前半に伝わったとされ(『三国史記』による)、また「百済」には四世紀後半に「東晋」から伝わったとされます。『三国史紀』によればそれは「三八四年」の記事とされています。

「沈流王元年」(三八四年)「九月 胡僧摩羅難自晉至 王迎之致宮内 禮敬焉 佛法始於此。」(『三国史記』百済本紀)

しかし、「倭国」(と「新羅」)には六世紀になってやっと伝わったものと従来考えられています。この時間差は何を意味するのでしょうか。
 「倭国」への仏教の伝来については従来二つの代表的な説があるようです。「五五二年」説と「五三八年」説です。
 「五五二年」説の根拠は『書紀』に「欽明天皇十三年」とあるところからです。「欽明天皇」元年の干支が「庚申」であり、これは「五四〇年」に当たり、これから計算して「五五二年」になる、というものです。
 「五三八年」説の方は「上宮聖徳法王帝説」や「元興寺伽藍縁起并流記資材帳」などに、仏教伝来の年として「欽明天皇七年戊午年」と書いてあることからです。しかし、確かに「戊午年」というのは「五三八年」なのですが、「欽明天皇」の「七年」が「戊午」であるなら、元年は「壬子」となり、これでは欽明天皇の即位年が「五四〇年」ではなく、「五三二年」になってしまうため、『書紀』とは食い違ってしまいます。
 そのため、現在では「五三八年」説が有利なようですが、決着はしていません。またこの当時の「百済」側の外交記事に倭国が「全く」出てこないため、何時の時点で「聖明王」が伝えたのかは不明なのです。
 ちなみに「上田正昭氏」の説によれば「聖明王」の「即位年」から数えて「二十五年目」に伝わったという伝承があり、その「即位年」に二説あったため、それが年次の違いとなったと述べていますが、「日本側資料」は明らかに倭国の「天皇」あるいは「倭国王」の治世の「何年」に伝来したか(その時の干支は何だったか)という事が伝承として残ったことと考えられ、「百済王」の「即位年」が影響しているとは考えられません。伝来した側の「倭国」の記録にはそのような事柄が関係しているとは考えられないと思われます。
 しかし、「九州年号」の中には「僧聴」という年号があります。元年が「五三六」年と従来考えられています。明らかにこの年号は仏教に強く影響されたものでしょう。当然この年次以前に仏教が倭国王に伝えられたものと思料されますが、そうすると「五三八年」説であったとしても、「遅れている」こととなり、時期として合いません。
 『二中歴』「年代歴」の年号群の中の仏教に関連していると考えられる中で、一番古いものが「僧聴」ですが、「細注」には何も書かれていません。この時点で、もし「仏教の伝来」という「重要」な出来事があったのなら、それに対して何の断り書きも書かれていないということはあり得ないと思われ、このことは「この時点」で仏教が伝来したと言うわけではないことを感じさせます。
 上で見たように「六世紀」半ば付近で仏教が「百済」から伝来した、という事では(通説全体としては)「異論」がないようですが、それでは「朝鮮半島」に渡来してから、「倭国」へ伝来するのに「一〇〇年以上」かかったことになります。
 この「遅れ」については一般には、理由等詮索されることが少ない(ない)ようですが、「倭国」は「五世紀」には(「倭の五王」の時代)「南朝」へ遣使する等、活発な外交活動を展開しており、そのような中でも仏教(だけ)が伝来されることがなかったとすると、はなはだ不審ではないでしょうか。
 「播磨」に「明要寺」という寺があります。この寺は「百済」から「王子」が来倭して、「勅」(つまり倭国王)により建てられた、と開基に関する文書である「丹生山縁起」に書かれています。この伝承の中では、「赤石(明石)に上陸した百済王子『恵』が一族を引き連れて明石川を遡り、志染川上流、丹生山北麓の戸田に達し、「勅許」を得て丹生山を中心として堂塔伽藍十数棟を建てた。王子『恵』は童男行者と称し、自坊を「百済」の年号を採って「明要寺」または舟井坊と呼んだ。」とされています。この「明要」という年号は「九州年号」の中に存在しているものであり、その「元年」は「辛酉」であり、年次としては「五四一年」と考えられています。(ここでは「百済」からとされています当の百済には「明要」という年号があったないしは使用されたという形跡が全く認められず、これは「西方」から伝わったということを示していると思われ、「九州」からの伝搬の暗喩ではないかと思われます。)
 ここでは「勅許」つまり、寺院を開基する許可を「倭国王」から得た、という風に書かれているわけですが、『書紀』では「欽明天皇」が仏法を受け入れるかどうするか、という詮議の際に「蘇我」に「試し」に拝ませることとし、その師を「播磨」に求めた、という風に書かれており、全く状況が食い違っています。
 この記事からは「播磨」にすでに仏教に関連する事物が存在していることを示しているわけですが、「明要寺」はその「播磨」にある寺なのですから、これが「近畿天皇家」の「勅許」で建てられたはずがないこととなります。
 仏教受容に関する近畿王権内部の混乱は「丹生山縁起」に言う「勅許」を与えるような状況でなかったのは明らかですから「近畿天皇家」ではない「他の誰か」により「勅許」が与えられたこととならざるを得ません。しかも「勅許」というのですから、その主体は「倭国王」以外にはありません。つまり「近畿王権」は「倭国王」ではないと言うことに自動的になってしまいます。
 さらに、この時点で「勅許」が与えられている、という事はこの時点の「倭国王」は仏教について理解があり、国内に仏教が広がることを許容していた、あるいは積極的に推進していた、という可能性とともに、仏教の伝来がこの時点よりかなり「以前」のことであったのではないか、という可能性をも示唆するものでもあります。
 ところで「九州倭国年号」の中には仏教に関連すると思われるものが散見されます。また、『二中歴』の「年代歴」の「細注」には仏教に関連することが書かれている場合があります。たとえば「法清」という年号があります。『二中歴』の細注には「法文〃唐渡僧善知傳」とあります。

「法清四元甲戌(五五四~五五七)(法文〃唐渡僧善知傳)

 ここで「法文」と書かれていますが、これは辞書などでは「経」や「論」「釈」など仏教に関連する文章や文書などを言うと書かれています。また『二中歴』では「中国」の事を全て「唐」と表現していると思われ、実際には「唐」から伝わったという事を示すものではないと考えられます。
 また「上記」二中歴の文章の中の「〃」は「自」の誤りではないかと考えられ、もしそうであれば「『法文』が『唐』(中国)から渡った。僧の『善知』が伝えた。」と言う文章と理解できます。 
 同様に『二中歴』「年代歴」の「明要」のところに「細注」として「文書始出来結縄刻木止了」とあります。この『二中歴』の書き方からは「文書」ができたのと「結縄刻木止了」は同時であるように受け取られます。ここで言う「結縄刻木」とは「結縄」により「数字」や「暦」を表し、「刻木」により文字に代わる情報を伝達するというものであったと推量されます。
 つまり「文字」(及び「数字」)が成立していない時代の「コミュニケーションツール」であり、これは「弥生」以来「倭国」では伝統的に使用され続けていたと思われます。しかし仏教の伝来と共に「漢字」に対するアプローチが変化し、さらに「暦」の伝来を一代契機として「列島」に「文字」が成立したものであり、その時点を以て「文書」ができたとするわけですから、逆に言うと「文書始出来」たとすると当然「文字」がなければならないこととなります。さらに「文字」ができるためには「於百濟求得佛經」がすでに済んでいなければならず、このことから「百済」から仏法が伝来したあと、ある程度時間が経過し、その後日本語としての「文字」が成立したと見られることとなります。そしてその時点で「文書」というものが作られたものであり、それを以て「結縄刻木止了」となる、という時系列が推定されるわけです。

(この項の作成日 2011/07/13、最終更新 2015/02/11)
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「唐軍の捕虜」という意味

2024年05月25日 | 古代史
前回から続きます。

「斉明」の詔からは新羅を攻めるという予定であったと思われます。

紓拯(六六〇年)六年「冬十月。…詔曰。乞師請救聞之古昔。扶危繼絶。著自恒典。百濟國窮來歸我。以本邦喪亂靡依靡告。枕戈甞膽。必存拯救。遠來表啓。志有難奪可分命將軍百道倶前。雲會雷動。倶集沙喙翦其鯨鯢。紓彼倒懸。宜有司具爲與之。以禮發遣云云。」
 
 ここに出てくる「沙喙」という地名は新羅の地名であり、現在の「慶尚北道」に位置し、日本海に面した土地と考えられていることを踏まえると、この時の派遣される軍は新羅を直接叩くという予定であったと思われます。
 そのことはこの「詔」とは別の記事においても同様のことが書かれていることで裏付けられます。

同年是歳条
「是年。欲爲百濟將伐新羅。乃勅駿河國。造船。…」

 ここでもやはり百済を救うために新羅を「伐」とされています。しかし「薩夜麻」達は「唐軍」の捕虜になっていたとされます。当時「唐軍」がどこにいたかというと、明らかに新羅領内にはいなかったものであり、では百済領内にはいたのかというと確かに「熊津」にはすでに「都督府」が置かれていましたから「劉仁願」率いる「唐軍」は駐在していましたが、鬼室福信などの旧百済遺臣による攻撃を受けて防戦一方となっていたものであり、そこに唐本国から「劉仁軌」軍が援軍として来た段階で旧百済遺臣たちも後方へ引いたため直接戦闘はほぼ行われていなかったとみられます。ではこの時点で「唐軍」が活発に活動していたのはどこかというと高句麗の地でした。そこに「唐軍」の主流が参戦中だったのです。
 
『高句麗本紀」「(六六〇年)(寶藏王)十九年,秋七月,平壤河水血色,凡三日。冬十一月,唐左驍衛大將軍契苾何力為浿江道行軍大摠管 左武衛大將軍蘇定方為遼東道行軍大摠管 左驍衛將軍劉伯英為平壤道行軍大摠管 蒲州刺史程名振為鏤方道摠管,將兵分道來擊。」

『高句麗本紀」「(六六一年)(寶藏王)二十年,春正月,唐募河南、北、淮南六十七州兵,得四萬四千餘人,詣平壤、鏤方行營,又以鴻臚卿蕭嗣業為扶餘道行軍摠管,帥回紇等諸部兵,詣平壤。夏四月,以任雅相為浿江道行軍摠管 契苾何力為遼東道行軍摠管 蘇定方為平壤道行軍摠管,與蕭嗣業及諸胡兵凡三十五軍,水陸分道並進。帝欲自將大軍,蔚州刺史李君球立言:「高句麗小國,何至傾中國事之有?如高句麗旣滅,必發兵以守。小發則威不振,多發則人不安,是天下疲於轉戍。臣謂:征之未如勿征,滅之未如勿滅。」亦會武后諫,帝乃止。夏五月,王遣將軍惱音信,領靺鞨衆,圍新羅北漢山城,浹旬不解,新羅餉道絶,城中危懼。忽有大星落於我營,又雷雨震擊,惱音信等,疑駭別引退。秋八月,蘇定方破我軍於浿江,奪馬邑山,遂圍平壤城。九月,蓋蘇文遣其子男生,以精兵數萬,守鴨淥,諸軍不得渡。契苾何力至,値氷大合,何力引衆乘氷渡水,鼓噪而進,我軍潰奔。何力追數十里,殺三萬人。餘衆悉降,男生僅以身免。會,有詔班師,乃還。」

『旧唐書』「(六六一年)(顕慶六年)六年春正月乙卯,於河南、河北、淮南六十七州募得四萬四千六百四十六人,往平壤帶方道行營。」

『旧唐書』「(六六二年)龍朔元年…夏五月丙申,命左驍衞大將軍、涼國公契苾何力為遼東道大總管,左武衞大將軍、邢國公蘇定方為平壤道大總管,兵部尚書、同中書門下三品、樂安縣公任雅相為浿江道大總管,以伐高麗。」
 
 上のように「高句麗」では『旧唐書』によれば「派遣」する軍勢を集めたのが「六六一年」であり、実際に派遣したのはその翌年の五月のこととされていますが、『高句麗本紀』によればそれ以前にすでに戦闘が行われているようであり実際には早い段階から唐は本命である高句麗へ遠征軍を派遣していたものであり、それに対応して「筑紫君」である「薩夜麻」たちは高句麗の応援に行っていたものではないでしょうか。
 唐は高句麗を攻める前提で百済をまず攻めたものであり、主たる目的は高句麗でした。そして百済が滅亡してしまった現在、百済に代わって高句麗を南方から支える援軍が必要であったものであり、その意味でも「薩夜麻」は高句麗救援が最優先と考えたとして当然と思われます。そう考えてみると「斉明」達とは別個に「筑紫」地域を中心とした軍が高句麗へと進出していたものではなかったでしょうか。
 この時の「薩夜麻」率いる軍が「筑紫」地域を含む直轄統治領域だけの軍であったと思われることは「薩夜麻達」同様「唐軍」の捕虜となっていて(つまり高句麗への救援軍として)その後帰国した人物として「讃岐國那賀郡錦部刀良。陸奥國信太郡生王五百足。筑後國山門郡許勢部形見等。」「百濟役時沒大唐者猪使連子首。筑紫三宅連得許。」「伊豫國風速郡物部藥與肥後國皮石郡壬生諸石」(いずれも「持統紀」より)がおりますが、彼らは「讃岐」「伊豫」「筑後」「筑紫」「肥後」等のほぼ「直轄統治領域」の人々であり、(「陸奥」(壬生五百足)が入っていますが彼は当時「防人」として徴発されて「筑紫」にいたのではないかと思われ、そのまま遠征軍に参加させられていたものと推定します)あくまでも「筑紫君」の統治範囲だけの軍であったらしいことが推定され、当時の彼ら自身が「日本国王権」への帰属を承認していない領域として(これが旧倭国領域として彼らが考えていた領域)考えていた範囲を示すと思われますが、かなり狭くなっていることは重要です。
 唐の三代皇帝「高宗」は倭国からの遣唐使に対して「璽書」(璽を捺印した書状)を下して、危急の際は「新羅」を救援するようにと指示しています。

「永徽初,其王孝德即位,改元曰白雉,獻虎魄大如斗,碼碯若五升器。時新羅為高麗、百濟所暴,高宗賜璽書,令出兵援新羅。」 (新唐書/列傳 第一百四十五 東夷/日本)

 この時代柵封された諸国にとり「唐」の皇帝という存在は「絶対」であり、その「唐」皇帝からの「璽書」も同様に「絶対」であり、これに反するということは事実上できないことであったものです。
 「倭国」は「柵封」されていたというわけではないものの「域外募国」として「唐」皇帝を「天子」と「尊崇」していたものです。(この辺りは「伊吉博徳」の記録に明らかです)「新羅」を通じて「唐」との国交を回復したという点からも「唐帝」が「新羅」との友好を進める様にという指示を与えたのも理解できるところです。このように一旦急あれば「新羅」に対する援助を行うことを指示したことで「倭国」はその外交方針が非常に決めにくくなったものであり、方針決定を困難なものとした理由の一つと思われます。
 この「璽書」が下されたことにより「百済」と連合して「新羅」と対抗するということが事実上できなくなったと見られます。なぜならそのような行為は下された「璽書」に反することとなり、「唐」の「朝敵」となってしまうからです。
 この時点の「倭国王」はその後「未幾」つまり「幾許もなく」亡くなりますが、次代の「倭国王」もこの「璽書」を無視するわけにはいかなかったものと見られます。彼らの時点であっても「百済」と連係して「新羅」と相対することは出来ないという状態が続いていたということがうかがえるわけです。そして、「伊吉博徳」らの遣唐使たちが、両京に分けて捕らえられた時点で「高宗」が発した「海東の政」を行う宣言の時点でも、「倭国」は(自動的に)「新羅」と連係すべき事となっていたわけです。
 「璽書」が下されている以上「薩夜麻」は「斉明」の意図と同調して「新羅」を攻めることができなくなっているため、(反すると「謀反」と判断される可能性もある)「新羅」を攻めることはせず「高句麗」への援軍をすることとなったのではないかと考えられます。このことから「薩夜麻」の意識として、「璽書」が自分たちに下されたと考えていたこと、自分たちが「列島」における代表権力を継承していると考えていたことが窺えます。(それは「本朝」という「大伴部博麻」の言葉からも知ることができます)
 これら考察からも「大伴部博麻」を含む「四名」は唐のどこかに軟禁されていたものと考える余地があるということがいえます。
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「大伴部博麻」達の捕囚について

2024年05月25日 | 古代史
以下は「大伴部博麻」の捕囚についての現時点での認識です。

 『書紀』には「持統四年(六九〇年)九月条として「三十年間」「唐」軍の捕虜になっていた「軍丁筑紫国上陽羊郡大伴部博麻」が「新羅」からの使節に随行して帰還した記事があります。

咩「(持統)四年(六九〇)九月丁酉。大唐學問僧智宗。義徳。淨願。軍丁筑紫國上陽咩郡大伴部博麻。從新羅送使大奈末金高訓等。還至筑紫。」

そしてその「直後」にその「大伴部博麻」を顕彰する記事があり、その内容は、彼が「百済を救う役」で捕虜になった際に、同じく捕虜になっていた「筑紫君薩夜麻等」を解放するために、自分の身を売って金に代え旅費とした、というものであり、「持統」の詔ではこの行為を「激賞」しています。

「(持統)四年(六九〇)冬十月乙丑。詔軍丁筑紫國上陽郡人大伴部博麻曰。於天豐財重日足姫天皇七年救百濟之役。汝爲唐軍見虜。■天命開別天皇三年。土師連富杼。氷連老。筑紫君薩夜麻。弓削連元寶兒四人。思欲奏聞唐人所計。縁無衣粮。憂不能達。於是。博麻謂土師富杼等曰。我欲共汝還向本朝。縁無衣粮。倶不能去。願賣我身以充衣食。富杼等任博麻計得通天朝。汝獨淹滯他界於今卅年矣。朕嘉厥尊朝愛國賣己顯忠。故賜務大肆。并絁五匹。緜一十屯。布卅端。稻一千束。水田四町。其水田及至曾孫也。兔三族課役。以顯其功。」

(「博麻」は帰国後この話を「関係者」にしたと思われますが、しかしその話を「証明」するものがなければ誰も信じるものはいないでしょう。彼の話を周囲が信じたとすると、彼のことを知っていたあるいは事の経緯を知っていた人物がこの時点でまだ生きていたと言うこととなります。それは彼がその提案をした時点で同席していたうちの誰かではないかと見られ、「土師連富杼」がもっとも考えられる人物です。なぜなら「氷連老人」は「七〇四年」にならなければ帰国できませんでしたし、この「六九〇年」という時点では既に「薩夜麻」は死去したと考えられるからです。つまり「可能性」が高いのは「土師連富杼」か「弓削連元寶兒」のいずれかと見られますが、「弓削連元寶兒」は「七〇四年」に「氷連老人」と共に帰国した「趙元宝」と同一人物という説もあり、そうであれば彼も該当しないこととなりますから、その場合は「土師連富杼」だけが可能性があることとなります。)
 上の「詔」によれば、「大伴部博麻」が「自分の身を売る」という提案をした時に同席していたのは「土師連富杼」「冰連老」「筑紫君薩夜麻」「弓削連元寶兒」の計四人であるとされています。
 ところで、ここには「冰連老」という人物が出てきますが、彼は以下に見るように元々「白雉」年間に「遣唐使」で「学生」として派遣された人物である「冰連老人」と同一人物と考えられます。

『孝徳紀』
「白雉四年夏五月辛亥朔壬戌。發遣大唐大使小山上吉士長丹。副使小乙上吉士駒。駒。更名糸。學問僧道嚴。道通。道光。惠施。覺勝。弁正。惠照。僧忍。知聡。道昭。定惠。定惠内大臣之長子也。安達。安達中臣渠毎連之子。道觀。道觀春日粟田臣百濟之子。學生巨勢臣藥。藥豐足臣之子。氷連老人。老人眞玉之子。或本。以學問僧知辨。義徳。學生坂合部連磐積而増焉。并一百廿一人。倶乘一船。以室原首御田爲送使。又大使大山下高田首根麻呂。更名。八掬脛。副使小乙上掃守連小麻呂。學問僧道福。義向。并一百廿人。倶乘一船。以土師連八手爲送使。」

 ここに出てくる「冰連老人」は「遣唐学生」という身分ですから、首都である「長安」ないしは「洛陽」に滞在し、「法制度」「技術」など多岐に亘って勉学に励んでいるはずの人間です。その人物が何故か「戦争捕虜」である「筑紫君薩夜麻」達と一緒にいたというのです。
 一般的にいうと、派遣された遣唐使団のうち大使や通事、録辞等はすぐに帰国の途につくものであったと思われますが、彼等「学生」や「学問僧」などはそのまま居残るはずのものであり、彼らが「大使」達と共に帰国したとか、翌年派遣された「白雉五年」の遣唐使船で帰国したとか言う「短期」の滞在であったとは考えられず、当然もっと長期のものを想定する必要があると思われます。つまり遣唐学生であった「冰連老人」は少なくとも、「斉明朝」で派遣された「遣唐使」(伊吉博徳が一行に入っていた)が唐に到着した「六五九年十月」という段階ではまだ「唐」に滞在していたと考えざるを得ません。
 さらに、「斉明紀」(六五九年)の遣唐使団については、「倭種」とされる「韓智興」の従者である「西漢大麻呂」に「讒言」されるなどのトラブルの後、「皇帝」から「『海東の政』があるから『汝らは帰国できない』とされ、東西両京に分置・幽閉され、帰国できなかったとされる事件が起きています。

「斉明紀」六五九年十一月の条に引用された「伊吉博徳書」
「十一月一日 朝有冬至之會。會日亦覲。所朝諸蕃之中 倭客最勝。後由出火之亂 棄而不復檢。十二月三日 韓智興傔人西漢大麻呂 枉讒我客。客等獲罪唐朝 已決流罪。前流智興於三千里之外。客中有伊吉連博德奏。因即免罪。事了之後敕旨 國家 來年必有海東之政。汝等倭客 不得東歸。遂逗西京 幽置別處。閉?防禁 不許東西 困苦經年。」

 彼等は「百済」が「滅亡」した後の「六六〇年九月」になって釈放され、帰国の途についています。

「斉明紀」六六〇年七月の条に引用された「伊吉博徳書」
「秋七月 庚子朔…伊吉連博徳書云。庚申年八月。百濟已平之後。九月十二日。放客本國。十九日。發自西京。十月十六日。還到東京。始得相見阿利麻等五人。十一月一日。爲將軍蘇定方等所捉百濟王以下。太子隆等諸王子十三人。大佐平沙宅千福國。弁成以下卅七人。并五十許人奉進朝堂。急引趍向天子天子恩勅。見前放着。十九日。賜勞。廿四日。發自東京。」

 このように「彼等」「遣唐使」達が「留置」され、帰国が叶わなかったのは、「百済」に対する「機密」の漏洩を恐れたからであり、「百済」が滅んだ後になっては拘束する理由がなくなったということから解放されることとなったものと思われます。
 ところでこの時「留置」された人たちの中に「冰連老人」もいたという可能性があります。彼等がトラブルに巻き込まれたのは「冬至之會」という皇帝主催の催しの際のことであり、そこで「出火騒ぎ」が起きたものです。この時の「冬至」は「十九年に一度」という「朔旦冬至」(十一月一日の朝に冬至を迎える)であったものであり、これは「章」と呼ばれる「暦」の周期が一巡りする期間の始まりを示すものでしたから、当時は「皇帝」の治世と関連づけて考えられ、統治の新たな期間の開始とされて盛大なお祝いの会となったものです。
(「伊吉博徳」達「倭国」からの遣唐使達はこの「冬至之會」への出席要請によって来たものではないかと推量します。彼等はなんとしてもこの「冬至之會」に間に合う必要があったものであり、そのためにやや「無理」な行程を踏んでいますが、そのことは彼らが本来「遣唐使」と言うよりは「祝賀使」であったのではないかと推察されることとなるでしょう。)
 そのような重要なイベントであったにも関わらずトラブルが発生してお流れとなったものであり、「唐皇帝」としてはある意味「メンツ」もつぶされたわけですから、その後それについて何の動きもないとは考えにくいものでしたが、案の定、その後三週間ほど経ってから「韓智興」の供人「西漢大麻呂」が「我客」を「讒言」したとされます。(伊吉博徳書による)この「讒言」の内容は不明ですが、「出火騒ぎ」に関係があると考えるのが普通でしょう。
 そしてその「冬至之會」の場には「韓智興」という人物(倭種)がいたと推測されますが、彼がいつから「唐」にいるのかは不明ですが、少なくとも「伊吉博徳」達の遣唐使団とは「別」の立場の人物であったことは間違いありません。なぜなら「彼」の「供人」である「西漢大麻呂」は「我が客」を「讒言」したと「伊吉博徳書」に書かれており、この事は「韓智興」達は「我が客」ではないこと、つまり「同じ遣唐使団の仲間」ではないことを示唆していると考えられるからです。では「白雉四年」の遣唐使団にいたのでしょうか。それも違うと思われます。
 「白雉四年」と「白雉五年」の「連続遣唐使」はその「性格」(出身母体)が異なると考えられ、「白雉四年」の遣唐使節に関する情報についてだけ「伊吉博徳」は入手可能であったと考えられます。それは「伊吉博徳」達と同様彼らも「親百済」系で固められた使節団であったと考えられるからであり、そのような人物達について書かれた「伊吉博徳言」という記事中に「別」という言い方で「韓智興」と「趙元寶」の両者について書かれているわけですから、この「別」というのが「文脈」に沿って素直に解釈すると他に挙げられている遣唐使団メンバーとは「別」という意味と考えられることから、この「白雉四年」の遣唐使団には「いなかった」人達であったと考えられるわけです。彼らは「たまたま」帰国(慶雲元年の際の)が一緒であったため、ここに書かれただけであると推察されます。
 また、「白雉四年」以前には遣唐使は長く途絶えており、その前の遣唐使は「六三一年」のことでした。この時の遣唐使がそのまま唐の国に残っていたとすると、その後派遣された次の「遣唐使」である「白雉四年」ないし「五年」の「遣唐使船」に同乗して帰国しなかったことになり「不審」と考えられます。このことから彼ら(「韓智興」及び「趙元寶」及びその供人達)については、「白雉五年」(六五四年)の「遣唐使」の一員であったというのが有力と思われますが、ほかの可能性として考えられるのは「六四八年」に「新羅」に「表」を託して国交を回復したという時点です。この時「表」を託しただけで誰も同行しなかったというのもやや考えにくく、確かに「皇帝」へ届けられたという「見届け役」が必要であったとも思われ、その役割を「韓智興」達が担ったということもありえます。いずれかの時期に派遣された人物たちであったというのが当方の意見です。
 つまり「以前」に派遣されていた「遣唐学生・遣唐僧」等も「遣唐使船」到着の知らせにより「帰国」のため集まっていたものと見られ、「唐皇帝」はそのような立場の人たちも「招待」していたものと見られます。そして、そのような中で「出火騒ぎ」が起きたものであり、これに関してはその後一旦「韓智興」に対して「三千里の外の流罪」という刑が下されるなど相当重い罪状であったことから考えて「謀反」を疑われたという可能性があります。そうであれば、その時点でそこにいた関係者全ては「捜査」のため留め置かれていたものと見られ、その後「西漢大麻呂」の証言により「倭客」が逮捕されるという結末となったものと推量されます。このような過程を経た後「皇帝」により「帰国不可」という「勅」が出されたものです。
 こう考えると、この時発せられた「汝等倭客」という「皇帝」の言葉の中には「以前から」「唐」国内に滞在していた人たちを含む、当時宮殿内にいた「倭国関係者」全員が含まれていたと見るのが相当であり、このことから「留置」された人物の中に「冰連老人」などの「白雉年間」の「遣唐学生」なども含まれていたものと見られます。
 そして、翌年の「百済滅亡」後の時点で「百済王」や「百済王配下」の将軍達と共に、彼等も「恩赦」を下され、「放免」されたものと考えられます。
 この時「冰連老人」も「伊吉博徳達」と同様「恩赦」を賜って「解放」されたと見られるわけですが、しかし、この時「冰連老人」が「伊吉博徳」達と同行して帰国したかどうかが「不明」なのです。
 この時に同行しなかった「学生」などがいたことは「博麻」の帰国が「大唐学問僧」に同行するものであったことからも判断できます。この「大唐学問僧」という人物も「唐」に居残ることとなった人達であると考えられ、その中に「冰連老人」が居たとしても不思議ではないと思われます。
 そもそも派遣された遣唐使団の員数を考えると、この時以前派遣された者が全員帰国できなかったとしても不思議ではないと思われます。つまり「白雉四年」に派遣された遣唐使団のうち「大使大山下高田首根麻呂」が乗船した船は難船しましたが、「大使小山上吉士長丹」の乗った一隻は「唐」の国へたどり着きました。この員数が「一百二十一人」、それに加え「新羅」を経由して送られた「白雉五年」の遣唐使団は全て「唐」までたどり着けたものと見られ、この時の乗船者数は記載されていないため不明ですが、「分乘二舩」と書かれていることからも「白雉四年」とほぼ同数であったのではないかと推測され、この時の員数の総数は約二五〇名ほどと見積もられます。
 「遣唐使船」は「帆」を使用して航行しますが、無風や逆風も想定し、「水手」(漕ぎ手)を乗船させていたと思われますし、また「海賊」や漂着した際の防備を考え「射手」も同船していたと思われますから、実際の「遣唐学生」や「遣唐学問僧」の総数はそれほど多くはなかった可能性はあります。「白雉四年」の遣唐使団に「学生」と「学問僧」として『書紀』の中で「名前」が乗っている人数である「十八名」は主要なメンバーを示すものとは思われますが、他のある程度無名のメンバーを入れてもこの倍程度であったかも知れません。
 つまり、「六五九年」の遣唐使団が派遣された時点では「唐」には五十名程度の「学問僧」と「学生」がいたと推定されるものです。
 これらの「学生」と「学問僧」の多くは(「学業」の成果に応じてではあるものの)、次回の船で帰国する予定であったと考えられますが、これに対し「六五九年」の遣唐使はやはり「大使」の乗った「一隻」が難船し、「伊吉博徳」も乗船していた「副使」の乗った船だけが「唐」に到着できたものです。このため「船」は「一隻」しかなく、そのため彼等全員が「乗り切れなかった」という可能性もあると思われます。このような事情もあって、そのまま「残留」した「学生」などがいたのかもしれません。
 そう考えると、「冰連老人」は終始「唐」国内にいたという可能性が強いと思われ、そうであれば彼と同席していた「博麻」達も「唐」国内に抑留されていたという推測することも可能と思われます。
 また「唐」との「戦後処理」が終った後については、彼等「薩夜麻」他の三人が「博麻」の措置に「無頓着」であったとは考えられません。「博麻」が自分達のために「身を売った」事は、もちろん「薩夜麻」を含むその時同席していた他の三人は承知していたわけであり、彼等が帰国後「博麻」の身分回復措置を行なっていなかったとしたら、それも不思議です。
 「博麻」が「体を売り」そのことにより「薩夜麻」達が帰国可能となったとすると、帰国した後で「薩夜麻」達が「博麻」を探し出し、その費用を弁済することぐらい簡単なことではなかったでしょうか。しかし、何故か「薩夜麻」や他のメンバーは「博麻」の解放に尽力したようには見えません。
 「薩夜麻」帰国以降は「新羅」との関係はそれほど悪くありませんでしたし、「遣新羅使」はかなりの数に上ります。そのような中で「博麻」について照会し、調査することは可能であったと考えられますが、そのようなことがなされた「形跡」は見あたらないようです。
 「新羅」と「唐」が交戦状態となって以降、「倭国」は「唐」ではなく「新羅」の側に立って行動していたことは明らかです。そして「半島」からは「唐」が撤退し、事実上「半島」は「新羅」により統一された形となった後については「新羅」とそれほど険悪な関係ではなかったと考えられます。
 もし「旧百済国内」に「博麻」がいたとしたら、彼らは「新羅」と連絡を取って彼(博麻)を捜索することも、また早期に帰国させることも可能であったはずです。しかし、「博麻」は「六九〇年」にならなければ帰国することはできませんでした。また彼は「大唐学問僧」と帰国を同行しています。このことは「彼」が拘束されていた場所が「唐」であり、「倭国」と「唐」との間には使者などの「往還」がなくなった事に起因して「博麻」を救出することができなかったという理由もあり得ることとなります。これらのことから「博麻」が当時「旧百済」や「新羅」などにはおらず、「唐」国内のどこかで「債務」返済のため「労働」していたという推測は有力であるようにも思われます。 
 また、「七〇四年」の遣唐使船の帰国に同乗して来た人物の中に、この時の「百済を救う役」という戦いで「捕虜」になった人たちがいました。

『続日本紀』
「慶雲四年(七〇七)五月癸亥 。讃岐國那賀郡錦部刀良。陸奥國信太郡生王五百足。筑後國山門郡許勢部形見等。各賜衣一襲及鹽穀。初救百濟也。官軍不利。刀良等被唐兵虜。沒作官戸。歴卅餘年乃免。刀良至是遇我使粟田朝臣眞人等。隨而歸朝。憐其勤苦有此賜也。」

 彼ら「讃岐國那賀郡錦部刀良。陸奥國信太郡生王五百足。筑後國山門郡許勢部形見等。」は(「等」とされていますから、まだ他にもいたのかも知れません)「捕虜」になった後「唐」に連行され、そのまま「官戸」に「身を没して」いたものです。この「官戸」とは、「唐制」では「官賤民」の一種であり「官奴婢」より少々ましな程度の存在です。しかし、本来「戦争捕虜」は「官奴婢」として遇されるのが通常であったと思われ、彼等はそれなりに良い待遇であったとも言えます。「官奴婢」ではなく「官戸」の場合は「長年月」経過して「老年」に達した場合、「良民」として解放される場合もあったからです。彼らもこの例に漏れず、「解放」されたものでしょう。
 また、『天武紀』にも「大唐学問僧」と同行帰国した「捕虜」の例が書かれています。

「(天武)十三年(六八四年)十二月戊寅朔癸未。大唐學生土師宿禰甥。白猪史寶然。及百濟役時沒大唐者猪使連子首。筑紫三宅連得許。傳新羅至。則新羅遣大奈末金儒。送甥等於筑紫。」

 彼らの場合も「没大唐」とされていますから、「七〇四年」の帰国者と同様「唐」で「官戸」とされていたと考えられます。この時の彼ら「猪使連子首。筑紫三宅連得許」も「老年」となったため「恩赦」があり、解放されることとなっていたものでしょう。 
 更に『持統紀』にも捕虜の帰国記事があります。

「(持統)十年(六九六年)夏四月壬申朔…戊戌。以追大貳授伊豫國風速郡物部藥與肥後國皮石郡壬生諸石。并賜人■四匹。絲十鈎。布廿端。鍬廿口。稻一千束。水田四町。復戸調役。以慰久苦唐地。」

 ここで「唐」で「捕虜」になっていたと思われる「伊豫國風速郡物部藥」と「肥後國皮石郡壬生諸石」の二人について、冠位を授けると共に「褒賞」を与えていますが、彼等がどのようにして帰国できたのかについては詳細が記されていません。しかし、その前年の九月に「遣新羅使」が発せられた記事があります。

「(持統)九年(六九五年)秋七月丙午朔…
辛未。賜擬遣新羅使直廣肆小野朝臣毛野。務大貳伊吉連博徳等物。各有差。
庚戌。小野朝臣毛野等發向新羅。」

この「遣新羅使」については「帰国」記事がなく、いつ帰国したのかが明確ではありませんが、翌年の「四月」に「元捕虜」であった彼等の帰国記事があるわけですから、彼等はこの「遣新羅使」の帰国に伴ってきたものという推定も出来るでしょう。
 つまり、彼等も「官戸」として没されていたと思われ、解放された後自力で「新羅」までは帰国途中であったものと思われるものです。
 「博麻」の場合も「大唐學問僧智宗 義徳 淨願」と同行して帰国したこととなっており、また「從新羅送使大奈末金高訓等 還至筑紫」とあって、『天武紀』の場合と同様「新羅送使」により送り届けられているようです。
 これら唐で捕虜となっていた人たちは一様に「官戸」あるいは「官奴婢」という立場に落とされていた(「没」と表現される)わけですが、これに対し「博麻」を含む四名はそのような立場ではなかったことは明確です。かれらは「願賣我身以充衣食」とあるように帰国への途上の「衣食」がありさえすれば帰国できる状況であったわけですから、かなり自由な立場であったこととなります。戦争捕虜でそのような扱いを受ける可能性があるのは、彼らが高級将校とその警護役という立場であることを唐軍が承知していた場合ではないでしょうか。彼らはせいぜい軟禁状態にあったものであり、母国から遠く離れているという状況もあり逃走の恐れもほぼないものと考えられていたものではなかったでしょうか。その意味でも倭国における最高司令官ともいえる「筑紫君」である「薩夜麻」が、「唐」の戦地統治を補佐していたと思われる「郭務悰」と同行して帰国しているのはある意味この推定を裏付けるものです。彼が重要人物という認識がなければこのような扱いとはならないと思われるからです。
 これら一連の記事から見て、「博麻」がそれまで「唐」に滞在していたと考える事はかなり有力であると考えられます。
 ところで彼らはなぜ「唐軍」の捕虜となったのでしょう。そう疑問に思うのは「斉明」の軍を発遣する「詔」等からも「新羅」を伐つという戦略ではなかったかと思われるからです。
(続く)
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【古田武彦記念古代史セミナー2024】での講演の件

2024年05月13日 | 古代史
本年11月9―10日の日程で開催予定の標記【古田武彦記念古代史セミナー】で当方が講演をすることとなりました。現在そこでお話する内容を詰めていますが、正直ちっともまとまりません。5月17日までに講演タイトルと概要を提出することとなっているのですが、現時点ではいずれも悩んでいる最中です。
与えられたテーマが七世紀の倭国の外交というものであり、日本国と倭国の存在状況について述べよというわけですが、当ブログをお読みの方はわかっていらっしゃると思いますが、そのあたりの論をあまり手掛けていないのが現状です。そのため急ごしらえで(!)論を練っているというわけですが、この時代の列島の状況はかなり混沌としており、そのせいか海外資料もそこそこ混乱しているなど信頼できる依拠資料にも事欠く有様です。そういうこともあってあまり深く考えてこなかったという面もあります。
いずれにしても現在の段階では従来ややあいまいに済ませていた点を再度細かく検討する必要がありますが、そのおかげで2-3新しい観点も見つかりこれをとっかかりに論をまとめようと悪戦苦闘しています。
とりあえずこのブログをご覧の方で11月9―10日に八王子で行われるセミナーに興味を持たれる方はぜひ聴きに来ていただきたくここでPRしておきます。
当方人前で話したことなどなく、どんな風になるかはなはだ結果に責任は負えませんが、ぜひ気軽に来ていただければいいのかなと思っています。
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「改新の詔」と「部民」と「奴婢」

2024年05月07日 | 古代史
 「改新の詔」に先立って「東国国司詔」が出されています。

「大化元年(六四五年)八月丙申朔庚子条」「拜東國等國司。仍詔國司等曰。隨天神之所奉寄。方今始將修萬國。凡國家所有公民。大小所領人衆。汝等之任。皆作戸籍。及校田畝。其薗池水陸之利。」

 この「詔」では「万民」は全て公民(国家所有)という前提(大義名分)が謳われていると思われ、それは諸豪族に対する「牽制」の意義が強いと思われます。それが顕著に表れるのが「土地兼併禁止詔」と云われる「大化元年九月」の「詔」です。

「大化元年(六四五年)九月丙寅朔甲申条」「遣使者於諸國。録民元數。仍詔曰。自古以降。毎天皇時。置標代民。垂名於後。其臣連等。伴造。國造各置己民。恣情駈使。又株國縣山海林野池田。以爲己財。爭戰不已。或者■并數萬頃田。或者全無容針少地。及進調賦時。其臣連。伴造等先自收斂。然後分進。修治宮殿。築造園陵。各率己民隨事而作。易曰。損上益下。節以制度。不傷財害民。方今百姓猶乏。而有勢者分株水陸以爲私地。賣與百姓。年索其價。從今以後不得賣地。勿妄作主、兼并劣弱。百姓大悦。」

 ここでは特に「仍詔曰。自古以降。毎天皇時。置標代民。垂名於後。其臣連等。伴造。國造各置己民。恣情駈使。又割國縣山海林野池田。以爲己財。」の部分が注目されます。そこでは「天皇ごとに」置かれた「標代民」という存在と、「其臣連等。伴造。國造」が置いた「己民」というものが書かれており、この両者については従来「並列的」に存在しているという理解が大勢であったものです。しかしそれでは文意が通らないのは明らかです。もしそう理解するなら「毎天皇時。置標代民。」と云う文が前置されている意味が不明となってしまうでしょう。
 ここは明らかに「標代民」という存在が「其臣連等。伴造。國造」によって「窃取」されており、それが彼らの「己民」とされていて「恣情駈使」されているということを糾弾している文章であると理解すべきです
「標野」というものが「薬草」を採集するために「区画」された領域を示すものであると考えられることの類推から、この「標代民」というものも、他から「区画」され「天皇」のために特別に配置された「人民」を示すと考えられますが、それが「窃取」され、「恣意的」に使用されているということと思われます。
 それはその直後の対句的文章である「又割國縣山海林野池田。以爲己財。」という中にも現れており、「國縣山海林野池田」は本来私的なものではなく「倭国王」の所有にかかるものであるのにも関わらず、それを「割いて」「己財」としていると非難しているわけです。そして今後その様な事態(実体)を認めないという宣言であると思われます。
 従来からもこの宣言における「権力」は「所有権」として発せられているもののそれは全ての諸豪族の権利を上回る「公権力」として発動されていると見るべきという考え方がありましたが、それは「正鵠」を得ていると云うべきであり、ここにおいて「強い権力」が発現したこと、そのような「権力者」が倭国に発生したことを示すものと考えられます。
 その直前の「東国国司詔」では「凡國家所有公民。大小所領人衆。」という表現が見られ、「公民」以外に「人衆」がいたという事を示していますが、その実体は「大小」(これは諸豪族を指すと思われる)の所領となっていた本来「公民」であったものを指すと思われます。
 ここでこれらの詔を通じて表明していることは、全ての民は「公民」であり、「諸豪族」の配下にあるような「民」も本来は全て「天皇の民」であると言う事でしょう。(このことからこの時点の「公民」の中には「奴婢」も入るべき事が判ります。それは「公地公民制」の象徴である「班田制」において「奴婢」にも「班田」が与えられていることからも理解できます。)
 しかし、もちろんこれはその「詔」を出した時点における「大義名分」が言わせる言葉であって、その現在時点における「大義名分」を過去に押し広げたものであるといえます。
 しかし、その直後に出された「改新の詔」ではややニュアンスが異なっています。

 「大化二年(六四六年)春正月甲子朔。賀正禮畢。即宣改新之詔曰 其一曰。罷昔在天皇等所立子代之民處々屯倉及別臣連。伴造國造村首所有部曲之民處處田庄。仍賜食封大夫以上各有差。降以布帛賜官人百姓有差。又曰 大夫所使治民也。能盡其治則民頼之。故重其祿所以爲民也。」

 ここでは「伴造國造村首所有部曲之民處處田庄」について、それが本来「倭国王」のものであるという非難はされておらず、その存在を認めつつ、今はそれを廃止して「食封」に変えるという事を宣言しています。つまり「所有権」が誰に帰するものかはここでは敢えて触れていないわけですが、それはそれ以前に出した「詔」に対する反発が強かったからではないしょうか。つまり「改新の詔」では実体を認める立場に微妙に変わったと考えられます。「窃取」や「横取り」などの感覚はある意味「被害者的」なものであり、また一方的でもあるわけで、それは元々統治能力の低下と関連しているわけですから、諸豪族に対して非難するいわれは本来ないわけです。
 「改新の詔」以前に「東国国司」などを通じて各諸国に伝えられたこのようなある意味一方的な情報に対してかなりの反発があり、その結果既定方針は変えないものの「諸豪族」の元の「部曲」(私奴婢ないしは家人)というものの存在を認めた上でそれを廃止するという事としたものと思われます。 
 ところで「翰苑」という史書があります。「唐」の張楚金の撰によるもので「七世紀後半」の作とされているものです。この中に「倭国」に関する歴史的認識が書かれている部分があります。

(以下「翰苑 蕃夷部 倭國」の全文。また【 】内は「雍公叡」による注を示します)

「憑山負海、鎮馬臺以建都/分職命官、統女王而列部/卑弥娥惑、翻叶群情/臺與幼齒、方諧衆望 」

 この中の「分職命官、統女王而列部」という部分は古田氏の解読によっても「官職を分って任命され、女王に統率せられてそれぞれ「~部」という形に分けられている。」という意とされます。つまり「卑弥呼」の元に「部」という官職が存在していたという記事なのです。
 ご存じのように「倭国」には古代より各種の「部」が存在していました。その起源について考える場合、「卑弥呼」の時代まで遡って考える必要があることを示すものです。
 たとえば、その代表的なものが「解部」であると思われます。これは『豊後風土記』にも出て来るものであり、その起源はかなり古く少なくとも「五世紀代」までは遡上すると考えられます。
 『倭人伝』にも「其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸、及宗族。尊卑各有差序、足相臣服。」という文章があり、これは「律」の存在とその実務を運用する吏員である「解部」の存在を推定させるものですが、それはまた一種の官僚構造の存在をも推定させるものです。
 いつの時代でも「国家秩序」の維持というのは重大事項であり、優先的にこれらに関する制度が決められ、また必要な「部」が決められていたと考えられるものです。
 『古事記』『書紀』を見ると、以下のように各種の「部」が見られます。

(以下例)
「額田部 三技部 雀部 鳥取部 鳥甘部 品遲部 土師部 田部 玉倉部 河上部 楯部 倭文部 神弓削部 神矢作部 大穴磯部 泊橿部 玉作部 神刑部 日置部 大刀佩部 川上部 鷹甘部 春米部 織部 壬生部 葛城部 飼部 車持部 藏部 宍人部 御戸部 廬城部 河上舍人部 史部 漢手人部 衣縫部 漢陶部 畫部 錦部 漢部  山部 山守部 佐伯部 石上部 犬養部…」
 
 以上のように多数に上りますが、いずれも「官僚制」というより「部民制」であり、同じ「部」から発してもそれを「職掌」としていたものが「世襲」になり、その職掌と離れた実体となってもなお「姓」(カバネ)となって生き続けてたものと思われます。つまりこれらについても起源は「卑弥呼」まで遡上するという可能性が強いと考えられることとなるわけです。
 そもそも「倭国」は「殷周」段階から既に「中国流」の制度で運用されていたと思料されます。そして、「漢代以降」はそれら「官僚制」の元に各諸国を統治するための「官吏」が派遣され、彼らの実務を実行するために各種の「部」が置かれたものであり、その後代的なものが『書紀』『古事記』に出てくる各種の「部」であると考えられます。 
 「六世紀後半」までの「倭国」はその「統治権」はかなり狭く、せいぜい西日本が統治エリアに入っていたものの、東国にはその権威は及んでいなかったと見られます。
 他方、後の新日本国王権となる「近畿王権」もまだ弱小であって、東国に広く統治権を及ぼすような権威は持っていなかったと見られます。
 この様な状況を総括して云うと「六世紀後半」までの「倭国」は、全国的な立場で見ると、その諸国への権威は間接的であり、また「緩やか」であったと見られるわけです。
 『常陸国風土記』など見ても「古」は「各」「クニ」に「別」や「造」などが配置されていたとされていますが、彼らは「九州倭国王朝」の権威を認めながらも、彼らに何らかの拘束や束縛はほとんど受けずに各々の「クニ」を統治していたと見られます。このような「倭国中央」と「諸国」の関係はあたかも「南北朝」以降の「中国皇帝」とその周辺諸国の関係に近似しており、「倭国王」が「将軍号」を貰い「倭国王」である旨の「承認」を「中国皇帝」から受けていたように、各諸国は「倭国中央」から「別」や「造」の地位を認めて貰い「直」などの「姓」をもらう事で「倭国」の「周辺諸国」としての地位を確固とする、という手法を用いていたと考えられます。
 これは「諸国連合」とも違い、「緩い封建制」とでも言うべき状態と思われ、各諸国がほぼ自立していた状態であると思われます。「諸国」にとって「九州倭国王朝」は「天朝」であり、遠くの存在であって日常の政治とは隔絶していたと考えられます。
 「五世紀」の「倭の五王」時代には「騎馬勢力」を使用して東国に至る広い範囲にその威厳と威力を示したものであり、「部」や「造」などにはそのような権威を直接著す「武具」「馬具」「刀剣」などが賜与されたと見られ、また「祭祀」や「墓制」などについては「倭国王朝」との結びつきを示す意味でも同様の形態を取ったものと見られますが、それはそれ以上ではなく、特に「倭国王朝」が直接「政治力」や「武力」を展開するというようなことはほぼなかったと見られます。
 折々、「倭国王朝」の権威を確認するようなイベントがあり(「即位」など)、各諸国は(特に首長クラス)はそのようなときには、「倭国」に使者を派遣し、あるいは首長が自ら出向き、互いの関係の再確認を行っていたと見られます。
 しかし、この「改新の詔」時点で始めて「東国」などに対して「統治権」を確立したわけであり、それは「中間管理的権力者」の存在を許さないという以下の詔の一文からも明らかです。

「「大化二年(六四六年)三月癸亥朔壬午条」「…天無雙日。國無二王。是故兼并天下。可使萬民。唯天皇耳。…」

 ここでは明確に「王」が直接「万民」を使役すると宣言しています。つまり、従来各諸国に(この場合「クニ」か)存在していた「別」や「造」という存在を飛び越えて、この時点で始めて彼らは直接的な統治権を奪取、確立したのであって、それ以前にはそのような強大な権力は保有していなかったと見られることとなります。
 これは一種の「革命」ですが、このような「革命」が成功した要因は「警察・検察」という「治安維持」に関する勢力を手中に収めたからであり、それを「諸国」に展開可能とする「官道」の整備との関連が重要であったと思われます。
 このような状況は、これが「改新の詔」と呼称されているように、また『書紀』では「蘇我氏」を打倒した「クーデター」により成立した政権であるところの「孝徳天皇」の「詔」として出されていることでも分かるように、彼らは「革命政権」であったと見られ、そのこととこれら「詔」が語る背景とは重なっていると言えるでしょう。
 また「部民」にとってみればそれまでともすれば「二重支配」となっていたものが、「倭国王」が直接支配すると云うことで、支配と搾取が二重に課せられることはなくなった訳ですから、この「革命」は歓迎されたものと見られます。
 「改新の詔」以前には「奴婢」と「部民」の大部分は実質なにも変わらないものであったとみられますが(「鳥飼部」「馬飼部」に典型的なように「奴婢」と同様「入墨(黥)」がされていたと見られる)、「改新の詔」以降は「間人」のような「雑戸」となって下層ではあるものの「良人」として「奴婢」からは区別されるようになり、「歴史的段階」としては一ステップ進んだものと言えるでしょう。
 それまでは「良民」や「奴婢」など「万民」が仮に「公民」であったとしても、諸国に配置した「別」や「造」によりその運用は負託されていたものであり、それは容易に彼らの「己民」つまり「私民」という扱いになり、また認識されることとなったと思われます。
 「別」や「造」などは「豪族」と呼ばれる存在であったとみられますが、彼らの存在や彼らの私民の存在を認めないということと、『常陸国風土記』に云う「惣領」により「我姫」を「八国」に分割再編したという事は、その事業内容において共通していると思われます。このような再編が「別」や「造」の権威を破棄するものとなり、「大国」としての「国」の誕生とそこに配置されることとなった「国宰」の権威を絶対化するものとなるのは当然とも思われ、『常陸国風土記』の記事はこの「詔」の内容が実行に移された時期と実態を示すものと考えられ、これらはほぼ同時期に行われたことを示唆するものと云えるでしょう。
 「部民制」というものについては、その起源が「五世紀」代にあり、当時は「倭国王権」と強くつながっていた民であり、当時の「武装植民」(屯田兵)として派遣されたような存在もいたと思われますが、多くは領土拡張の際に「捕虜」とされた人々であり、彼等は「奴婢」となり、特定の氏族に使役される形で「部民」とされていったものと思われます。本来は彼等は「倭国」という国家に直属するものであったはずですが、それが多少年代を過ぎると「倭国王権」の統治が「弛緩」するところとなり、「現地権力者」の使役するところとなっていったものと思われます。
 「倭国王権」の力を示す後続の行動や勢力が減退したり消滅したりしてしまったという実体が発生したことがそのような地方権力の成長を促す原因となったと思われます。そのような「諸国」と「倭国王権」との「つながり」が切れてしまうような「典型的」な出来事と言うのが「磐井の乱」であったのではないでしょうか。
 この「乱」は「筑紫」という「倭国王朝」の中心部と言うべき場所が、「物部」により占拠、制圧されてしまったことを意味すると考えられ、このことから「九州倭国王朝」の力が「東国」などに及ばなくなったと見られます。その結果、「起源」としては「倭国王権」と結びついていた「部民」さえも「地方勢力」の配下となって「己民」とされていったという経過を招くこととなったものでしょう。
 このような状態を打破するために行われたのが「改新」であり「革命」であったものと考えられ、それは「筑紫」を占有していた「物部」を打倒・追放した事により実現したものであって、『書紀』に云う「守屋」を打倒した「六世紀後半」に想定されるべきものであると考えられます。この時点で「受命」つまり「天命」を受けた人物が現れたものです。
 つまり、上に見たような「土地兼并禁止詔」などが出された時期というのは「六世紀末」ないしは「七世紀初め」という時期が最も想定されるものであり、『隋書俀国伝』に言う「阿毎多利思北孤」ないしはその太子「利歌彌多仏利」の為した事業と考えられます。(ただし「改新の詔」的なものはこれ以降も何度か出されたものと思われます)
 「改新の詔」以前も以後も、明確に「良民」と言えるものは「農民」特に「稲作」を行なっていた人々であると思われ、それは「公地公民制」の基本が「班田制」であり、「稲作」をして「租負担」を負うものだけが「公民」と考えられていたことからも明確であると思われます。(「奴婢」への班田は彼等の食用に供するためであり「租負担」はなかったもの)
 この「改新の詔」では「犯罪人」以外の「奴婢」を「良民」へと解放し「入墨」も廃止したものですが、それはひとつに「班田農民」として「租」を負担させる意義があったと見られます。この時点でかなりの「奴婢」が「良民」へと身分が変わったと思われ、彼等が「田作」をすることにより国家としての「租」生産能力のアップと、それが国家への収入という形で現実化することを期待したものと思料します。
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