古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

標準語と札幌

2024年05月07日 | 言語・文法など
以前何かで見たんですけど(すでに古いことなのでソースがわからない)。全国都道府県で「あなたの県の県庁所在地の言葉と東京の言葉とどちらが標準語に近いですか」という設問に対して、ある1か所を除いて全て「東京の言葉の方が標準語に近い」と答えたとのことで、その例外の1か所というのが「北海道」だったそうです。つまり北海道の人は「東京の言葉よりも札幌の言葉の方が標準語に近い」と考えていることとなります。この結果を以前知ったときは「北海道の人にとって札幌の持つ意味が他の県の人がその県の県庁所在地に対する感情と全く違うんだな」と思っただけでしたが、その後考えてみるとそれだけではないことに気が付きました。それは「標準語」の必要性が高かったのは北海道で特別であったということに気が付いたからです。
ご存じのように北海道は国策で開発された地域であり、札幌はその中心として人工的に作られた町です。もともと札幌が作られる以前にはこの場所に定住していた人はいなかったとされます。そこに北海道開拓の中心地として札幌という町が作られたわけですが、当時(明治の初め)各地からの開拓団が北海道に集まるようになっていったものですが、当然各地の言葉が混在することとなります。札幌の街の中でさえも複数の地域からの開拓団や屯田兵が混在していたものであり、「標準語」が必要とされていたものです。それに比べ他の県では明らかにその県内ではほぼ一通りの発音ではないかと思われ、「標準語」の必要性はほぼ希薄であると思われます。
 「開拓使」が「標準語」として選んだのは「開拓使」という「官庁」の中で使用されていた言葉であり、札幌が「国策」として作られたという経緯から考えても「東京語」がバックに作られたとみられるわけであり、その結果「文部省」が制定する「標準語」とほぼ似通ったものであったと思われることとなります。
 文部省が「標準語」を決めたのは明治の初めですが、その理由はネットでは「明治維新以降、日本の首都が京都から東京に遷ったことで東京方言は首都の言葉として位置づけられ」たことからそれを「標準語」としたとされています。動機は全く異なりますが、ほぼ同時期の北海道では必要に迫られて「標準語」が必要であったというわけです。その結果「北海道」では「標準語」的な位置に「東京の言葉」と「札幌の言葉」の二つが存在しているというわけです。
 コールセンターが札幌にかなり多いのですが、その理由としてオペレーターに対する発音等の教育がほぼ必要ないことなどが挙げられているそうですから、その意味では確かに「標準語」が定着しているように思います。(現在標準語という用語自体が存在していないそうでそれに該当する者は「共通語」という呼称のようですが、実態としてはそれほど峻別する意義がないように思います。)
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「薬獵(藥狩り)」について

2024年05月05日 | 古代史
 今日は「5月5日」「こどもの日」ですが、もともとは「端午の節句」であり、「薬獵(薬狩り)」の日でした。それにちなんで以前書いたものを再度投稿します。

 「聖武天皇」の皇后である「光明皇后」は「東大寺」に「四箇院」(「施薬院」「療病院」「悲田院」「敬田院」)を作り、貧しい人や病気の方達を献身的に介護したことが伝承として残っています。例えば『元亨釈書』によると「千人」の人の「垢」を取ることを祈願して、湯屋を建てそこで自ら多くの人たちの「垢こすり」をしたとされ、「全身」が「炎症」を起こし、あちこちが「膿んでいる」ような病気の方については、その傷口の「膿」を口で吸い取ったという逸話まであります。これほどの「献身」が、単に「光明皇后」という一人の女性の「思いつき」でできるものでしょうか。つまり、彼女には「啓発」されるような「前例」となる事例があったのではないかと思われるのです。
 ところで、現在「四天王寺」の別院として知られているものに「勝鬘院」があります。この「寺院」は元々「四天王寺」の「施薬院」として開かれたという伝承があり、またここで「勝鬘経」が講説されたという伝承もあって、そのことから「勝鬘院」と呼ばれるようになったとされています。
 この「四天王寺」は「聖徳太子」の手になる創建が伝えられていますが、この「別院」である「施薬院」についても同様に「聖徳太子」に関わるものとされ、ここでは、「薬草」の栽培から、「調剤」そして「投与」という段階まで行なっていたとされるなど、「貧窮」し、「病」に倒れた民衆の救済にあたっていたとされています。(『四天王寺縁起』による)
 このようなことが事実かどうかと言う点ではやや疑問とする向きもあるようですが、「光明皇后」の事例から判断すると実際にあった見る事もできると思われます。
 ところで、「四箇院」のような「病気治療」などに関連するものとして、「法隆寺」の釈迦三尊像の「両脇侍」の存在があるといわれます。
 この「両脇侍」は『聖徳太子傳私記』では、「薬王菩薩」と「薬上菩薩」であると指摘されています。

「…次法隆學問寺
先金堂。…。内陳南正面戸三本。余三面各戸一本。石壇長口〈傍一字消タリ〉。四面連子也。其内中ノ間。太子御印。與願施无畏。等身金堂釋迦像。〈光銘。太子御入滅事見タリ〉脇士二體。〈薬王。薬上。〉共手持玉。…」(『聖徳太子傳私記』より)

 この「脇侍」は、本体は簡略な造形であるとされる一方、「蓮華坐」が技巧を凝らして造られているとされ、それは『法華経薬王本事品』の「女人の往生者は蓮華の中の宝座の上に生まれる」とされていることと関係しているとされます。(亀田孜「法隆寺の法華経関係の美術」仏教芸術一三二号 一九八〇年)
 
「…若有女人、聞是薬王菩薩本事品、能授持者、盡是女身、後不復受。若如来滅後、後五百歳中、若有女人、聞是経典、如説修行、於此命終、即往安楽世界、阿弥陀仏、大菩薩衆、圍繞住所、生蓮華中、寶座之上。…」(『法華経 薬王菩薩本事品』より)

 この「両脇侍」については、「釈迦像」が「尺寸王身」とされ「上宮法皇」(阿毎多利思北孤)をかたどったものとされていることの類推から、彼の「母」と「夫人」を模したものであり、「法隆寺釈迦三尊」の光背に書かれた「鬼前太后」と「干食王后」を示すのではないかとされます。
 この事と「四天王寺」に「施薬院」が別院として造られたこと、そこで『勝鬘経』が講説されたことには「関係」があるのではないでしょうか。つまり、この「釈迦如来」の「両脇侍」に彼女たちが配されているということは、彼女たちの「功績」を示唆するものだと思われるのです。
 この「釈迦像」はその「光背」に書かれた文章によれば、「上宮法皇」(阿毎多利思北孤)の病に際して「造像」され始められたものであり、その時点では、急ぎ「釈迦像」完成を目指していたものと考えられますから、「両脇侍」については後回しになったものと思われます。
 「釈迦三尊像」の「光背」銘文は以下の通りです。
(奈良国立文化財研究所飛鳥資料館編「飛鳥・白鳳の在銘金銅仏」によります)

「法興元卅一年歳次辛巳十二月鬼/前太后崩明年正月廿二日上宮法/皇枕病弗腦干食王后仍以勞疾並/著於床時王后王子等及與諸臣深/懐愁毒共相發願仰依三寶當造釋/像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安/住世間若是定業以背世者往登浄/土早昇妙果二月廿一日癸酉王后/即世翌日法皇登遐癸未年三月中/如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘厳/具竟乗斯微福信道知識現在安穏/出生入死随奉三主紹隆三寶遂共/彼岸普遍六道法界含識得脱苦縁/同趣菩提使司馬鞍首止利仏師造」

 この「銘文」から、「釈迦三尊像」は「鬼前太后」が亡くなられ、「上宮法皇」が病に倒れた時点以降造り始められた事が判明しますが、結局その完成を待たず「上宮法皇」は他界したものです。当然「釈迦像」の完成は死後のこととなりましたが、この「両脇侍」はその時点において、ほぼ同時に亡くなられた「鬼前太后」と「干食王后」についての「追慕」を表すため造られることとなったものではないかと見られ、その際に「薬王」「薬上」菩薩に擬して造像されたものと考えられます。そして、それは「四箇院」で行われていた、「怪我や病気で苦しむ人を救う」という「事業」の遂行者が彼女たちであったことを示すものではないでしょうか。
 この「四箇院」は「阿毎多利思北孤」の「母」など彼の親類縁者の「女性」達により営まれた、当時としては画期的な「福祉施設」であったものと推測されます。「法隆寺釈迦三尊像」の光背銘文によると「阿毎多利思北孤」と「鬼前太后」「干食王后」はほぼ同時に亡くなったとされていますが、それは何らかの「感染症」によるという可能性もあり、それがこの「施薬院」等における「看護活動」の際に、患者から何らかの「病気」に「感染」した結果という可能性もあると思われます。
 同時期に複数の人間が病に倒れ、死に至るというからにはそのような「感染症」や「伝染病」を考える必要がありますから、「四箇院」の存在はその感染ルートとして考慮の対象とすべきものと思われます。その際最も可能性が考えられるのは「天然痘」ではないでしょうか。
 『敏達紀』にも「疱瘡」による死者が多数に上ったことが書かれていますが、その「疱瘡」という表記やそこに書かれた「火に焼かれるよう」という表現からも「天然痘」が最も疑われます。
 「筑紫」など半島と交渉のある地域から繰り返し「病原菌」が持ち込まれていたものと思われ、「上宮法皇」たち三人もそのような環境の中で「天然痘」患者の救済にあたっていたものであり、患者から感染したものではないかと考えられます。
 「施薬院」には「薬草」を栽培する場所を設け、数多くの「薬草」となる草木を植えていたと伝えられていますが、また『万葉集』にも、「茜さす 紫野行き 標野行き 野守はみずや 君が袖振る」という有名な歌があり、そこで言われている「紫野」とは「塗り薬」として使用されていた「紫根」を栽培していたところと思われ、「標野」とはそのような「薬草」を取るために区画された領域であったと思われます。
 この歌は「大海人」と「額田女王」の間に交わされたとされ、「七世紀なかば」の作と思われますが、このような場所が設けられるようになったのはそれを遡る「七世紀初め」の頃と考えられ、これらで得た「薬草」などを「施薬院」で、病に悩む人々の治療に役立てていたものではないかと思料されます。
 また、『書紀』には「施薬院」で使用する薬を採るためと思われる「藥獵(薬がり)」が行われていた事が記載されています。

「(推古)十九年(六一一年)夏五月五日。『藥獵』於兎田野。取鷄鳴時集于藤原池上。以曾明乃徃之。粟田細目臣爲前部領。額田部比羅夫連爲後部領。是日。諸臣服色皆隨冠色、各著髻華。則大徳。小徳並用金。大仁。小仁用豹尾。大禮以下用鳥尾。」

 ここでいう「藥獵(薬がり)」とは、「野山」に出て「野草」などを取るものですが、女性は、野で「薬草」を摘み、男性は「鹿狩り」をして「若い牡鹿の袋角」を取ったもののようです。(この記事自体「鹿狩り」を推定させるものと言えます)
 また、この記事は「五月五日」にこの「藥獵(薬がり)」が行なわれた事を示していますが、この「五月五日」は古来中国では「薬草」を採取して「毒気」を払う時期とされていたものであり、例えば「六朝時代」の「荊楚」地方(揚子江中流域)の「年中行事」を記した『荊楚歳時記』では「五月五日,謂之浴蘭節。四民並蹋百草之戲,採艾以為人,懸門戶上,以禳毒氣。以菖蒲或鏤或屑以泛酒。 」などとされています。
 この「五月五日」という日付は「倭国」ではこれが「初見」ですが、この年次付近でこれらに関する情報が伝来したのかもしれません。(ただし『隋書俀国伝』によれば「節」の習俗はほぼ中国と同じとされていますから、「隋」との交渉以前からすでにそれら「節」の習慣は国内に定着していたと思われ、「五月五日」の「薬獵」も行われていたのかもしれません。そのあたりは不明ですが、記述がないのは重要とも思われます。)
 後に「天智」の時代にも「藥獵」が行なわれており、その場所が「蒲生野」と記されていることから、この場所についても「蒲(がま)」の栽培を行なっていた「標野」であることが推定されます。「蒲」はもちろん『出雲風土記』に出てくる「大国主の兎」の話の中で、「兎」の背中に塗ったとされる薬草です。
 『推古紀』でも「薬獵」をした場所として「兎田野」と書かれており、「兎」という字が入っているのは「偶然」ではないと思われます。
 このように「四天王寺」の「別院」として「施薬院」が営まれたわけですが、「鬼前太后」あるいは「干食王后」など「王権」の女性達がこの寺院の主役であったと考えられ、その場所で「聖徳太子」は「勝鬘経」を講説したとされているわけですから、「勝鬘経」と深く関係しているのはやはり「女性」であると考えざるを得ません。
 その「勝鬘経」の「講説」を受けた「厩戸某(女性)」が「感激」して、「出家」しその際に「戒」を受け「法号」を名乗ることとなった際に「勝鬘」を選んだと考えられます。そして、その「女性」は「厩戸皇子」(実態としては「阿毎多利思北孤」の「太子」であった「利歌彌多仏利」)の「正夫人」であり、後に「皇后」となった人物と考えられます。
 ところで『続日本紀』の「元正紀」には「菖蒲鬘」についての記事があります。

「(天平)十九年(七四七年)五月丙子朔庚辰条」「天皇御南苑觀騎射走馬。是曰。太上天皇詔曰。昔者五月之節常用菖蒲爲縵。比來已停此事。從今而後。非菖蒲縵者勿入宮中。」

 この「元正女帝」(既に「聖武天皇」に禅譲しているため「太上天皇」と称される)の「詔」では、「昔」は五月の節(五月五日)には必ず「菖蒲」を「鬘」にしていたものである。それは既に行なわれなくなっているが、今後はそれを復活させ、「菖蒲」を鬘にしなければ宮中に入ってはいけない、とする強い「指示」を出しています。
 この「詔」を出した「五月丙子朔庚辰」という日が「五月五日」です。この「五月五日」は上に見たように「藥獵」の日であり、「鬘」にするという「菖蒲」も薬草とされていたものです。
 「菖蒲」は「神農本草経(上品)」では「薬草」の先頭に書かれているものであり、古くから「治風寒、開心孔、補五蔵、通九竅、久服、軽身、延年。」等々の効果があるとされていました。その他の「薬草関係」の書にも非常に多数の効能や処方例が書かれており、「薬草」の代表例であったものです。
「元正」によれば、以前はこれを「藥獵」の際には「鬘」としていたというわけですが、上の『推古紀』の「藥獵」の記事によれば、参加者は皆「冠」を頭にかぶり、それと同色の衣服を身につけ、頭頂には「華飾り」を着けるとされています。但しこれは男性であり、女性はどうであったか不明ですが、「女性」はこの日は「薬草」を採取していたようであり、当然彼女らも(男性と同様)「華飾り」を頭に着けていたことでしょう。この「華飾り」が「菖蒲」の「花」であったという可能性があるのではないでしょうか。 
 また、「元正」が「菖蒲」を「鬘」にするようにという「詔」を出したのは、「厩戸勝鬘」が「菖蒲」を「鬘」としていたからではないでしょうか。
 「厩戸勝鬘」はその名の通り、「花」の「鬘」(髪飾り)を頭に着けていたものであり、それが「菖蒲」であったという可能性があります。それは「阿毎多利思北孤」や「鬼前大后」達への崇敬の念からであり、「施薬院」を開き、貧しいもの、恵まれないもの達への愛情を示した彼女達の「功績」を忘れないために、その「施薬院」附属の「標野」で栽培していた「菖蒲」を髪飾りとして「鬘」にしていたのではないかと思われ、それを「元正」は知っていてそれに倣ったのではないかと考えられます。そのことから「元正」の「厩戸勝鬘」への傾倒が読み取れるものでもありますが、それは「聖武」の「后」である「光明子」に受け継がれたものと思われます。
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