古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「薩夜麻」達が「唐」の捕虜となっていた理由

2024年08月10日 | 古代史
「(斉明)六年(六六〇年)冬十月…
詔曰…而百流國遥頼天皇護念。更鳩集以成邦。方今謹願。迎百濟國遣侍天朝王子豐璋將爲國主 云云。詔曰 乞師請救聞之古昔。扶危繼絶 著自恒典。百濟國窮來歸我 以本邦喪亂靡依靡告。枕戈甞膽。必存■救。遠來表啓。志有難奪可 分命將軍百道倶前。雲會雷動 倶集沙喙翦其鯨鯢。■彼倒懸。宜有司具爲與之。以禮發遣云云。…」

この斉明の詔からは「新羅」を攻めるという予定であったと思われることとなります。
 「詔」の中に現れる「沙喙」というのが「新羅」の地名であり、現在の「慶尚北道」に位置し、日本海に面した土地と推定されていることを考えると、「斉明」の軍は「新羅」を直接攻めることを考えていたと受け取ることができます。確かに「新羅」の城を制圧した記事もありますが、しかし「持統」の「大伴部博麻」に与えた「詔」の中では「薩夜麻」達は「唐軍」の捕虜になっているとされています。「新羅」軍ではなく「唐」の軍に捕らわれたというわけです。しかし当時「新羅」には「唐」の軍はいません。では「百済」にいたのかというと当時「熊津」の城には「唐」の「占領軍」が陣取っていましたが、戦闘らしい戦闘は行われておらず、しかも主力は「百済」の残存勢力でした。
当時唐軍がどこにいたかというと、対高句麗戦に唐軍の主力は参加中でした。
このことから考えて「薩夜麻」達は「高句麗」の応援に行っていたものではないかと考えられるでしょう。
「唐」は「高句麗」を攻める前提でまず「百済」を攻めたものであり、主たる目的は「高句麗」であったものです。とすれば「百済」がすでに滅亡している現在、「高句麗」救援が最優先なのは当然でしょう。つまり「斉明」達が「新羅」を攻めている間に「薩夜麻」達「筑紫王朝」からは「高句麗」へと進攻していたものではなかったかと考えられることとなります。それを率いていたのが「薩夜麻」であったものと思われ、かれらは「平壌道」を進行してきた「突厥王子契必加力」が主力の唐軍と戦いとなり、捕虜となっていたものと推測されます。下記によれば「加巴利濱」に「泊った」ようですから百済の東側を海岸沿いに進行していたとみられ、その先で高句麗軍と合流したものと考えられるでしょう。
 「薩夜麻」は「筑紫君」であり「筑紫朝廷軍」の総帥と考えられますから、彼とその側近が捕囚となっていると思われる状況を考えると、ほぼ「高句麗」支援として派遣された部隊は全滅したものではなかったでしようか。
 
(六六一年)七年七月丁巳崩。皇太子素服稱制。
是月。蘇將軍與突厥王子契■加力等。水陸二路至于高麗城下。皇太子遷居于長津宮。稍聽水表之軍政。
八月。遣前將軍大華下阿曇比邏夫連。小華下河邊百枝臣等。後將軍大華下阿倍引田比邏夫臣。大山上物部連熊。大山上守君大石等。救於百濟。仍送兵杖五穀。

是歳。…又日本救高麗軍將等。泊于百濟加巴利濱而燃火焉。灰變爲孔有細響。如鳴鏑。或曰。高麗。百濟終亡之徴乎。

 ここには「日本救高麗軍將」と書かれており、これらの記事からは高麗に軍を派遣しているのが明らかです。「大系」の注でも「日本が高句麗にも救援軍を分遣しようとしたことは、海外資料には見えないが、下文元年・二年の関係記事からも確かであろう」としており、高句麗へも軍を派遣したらしいことを推定しています。
 また「日本救高麗軍將等」というのが「筑紫」地域を含む直轄統治領域とその至近の諸国だけの軍であったと思われることは「唐軍」の捕虜となっていてその後帰国した人物として以下の記事の人物が『書紀』『続日本紀』に現ることから推定できます。

①(六八四年)(天武)十三年…十二月戊寅朔…癸未。大唐學生土師宿禰甥。白猪史寶然。及百濟役時沒大唐者猪使連子首。筑紫三宅連得許。傳新羅至。則新羅遣大奈末金儒。送甥等於筑紫。」

②(六九六年)(持統)十年…夏四月壬申朔…戊戌。以追大貳授伊豫國風速郡物部藥與肥後國皮石郡壬生諸石。并賜人?四匹。絲十鈎。布廿端。鍬廿口。稻一千束。水田四町。復戸調役。以慰久苦唐地。」

③(七〇七年)四年…五月…癸亥。讃岐國那賀郡錦部刀良。陸奥國信太郡生王五百足。筑後國山門郡許勢部形見等。各賜衣一襲及鹽穀。初救百濟也。官軍不利。刀良等被唐兵虜。沒作官戸。歴■餘年乃免。刀良至是遇我使粟田朝臣眞人等。隨而歸朝。憐其勤苦有此賜也。

 彼らは「筑後」「筑紫」「肥後」「讃岐」「伊豫」等のほぼ「筑紫朝廷」からみて「直轄統治領域」の人々であり、(「陸奥」(壬生五百足)が入っていますが彼は当時「防人」として徴発されて「筑紫」にいたのではないかと思われ、そのまま遠征軍に参加させられていたものと推定します)あくまでも「筑紫君」の直接統治可能な範囲だけの軍であったらしいことが推定されます。
 また③の記事では「初救百濟也。官軍不利。刀良等被唐兵虜。沒作官戸」とされていますから明らかに「白村江の戦い」で捕虜となったわけではなく、それ以前に「唐軍」に囚われていたというわけであり、そのことは「薩夜麻」の指揮下にあって「高句麗」支援の戦いの中で「唐軍」の捕虜となったことが窺われることとなります。同じことは「大伴部博麻」に対する「持統」の「詔」の中にもうかがえます。そこでは「博麻謂土師富杼等曰。我欲共汝還向本朝。…」とされ「博麻」と「汝」(土師富杼等)とが同じ「本朝」に属していることが窺え、それは即座に「筑紫朝廷」を指すと見られることから、この時の「薩夜麻」と同時に捕囚となっていた人たちもやはり「筑紫君」の統治範囲の外部の人間ではないことが窺え、軍の構成として「筑紫」とその周辺地域からしか編成されていないことが強く推測できます。
 彼らはそこで「突厥王子契必加力」が主力の唐軍と戦いになり捕虜となっていたものと推測されます。このことから「薩夜麻」や「大伴部博麻」達は一時「高句麗」国内の唐軍の支配下領域に軟禁されていたものと思われることとなります。
 のちに「劉仁軌」率いる「唐軍」に「泰山封禅」に他の半島諸国の王と共に参列させられていますが、その出発地は「熊津」と思われますから、身元が判明した時点で都督府がおかれていた「熊津」に移動させられていたものと推量します。
コメント

倭王権と「飛鳥」

2024年08月10日 | 古代史
以前(2021年3月)投稿した論を再度提示します。現在考慮中の案件との関係でやや関係があると思われるものです。

評木簡には数種類ありますがこれは「時期の違い」と考えられます。一つは「評」から始まるもので「国」も「年次」も書かれないものです。その中でも「五十戸」表記があるものと「里」表記のものがあります。

「評」から始まるもので「五十戸」制
三方 評 耳五十戸土師安倍→? 031 荷札集成-132(木研5-8 藤原宮跡北辺地区
湯 評 大井五十戸凡人部己夫 011 飛鳥藤原京1-109(荷札 飛鳥池遺跡南地区

「評」から始まるもので「里」制
三方 評 竹田部里人粟田戸世万呂塩二斗? 031 荷札集成-135(飛20-26 藤原宮跡北面中門地区
板野 評 津屋里猪脯 032 荷札集成-232(藤原宮1 藤原宮跡北面中門地区

二つ目は「国名」が「前置」されるものです。(ただし「干支」は前置されない)
これも「五十戸」が表記されるものと「里」のものとあります。

「国」が前置されるもので「五十戸」制のもの
遠水海国長田 評 五十戸匹沼五十戸野具ツ俵五斗 051 荷札集成-62(木研25-4 飛鳥京跡苑池遺構
高志国利浪 評 ツ非野五十戸造鳥 081 荷札集成-141(木研25- 飛鳥京跡苑池遺構

「国」が前置されるもので「里」制のもの
妻倭国所布 評 大野里 081 荷札集成-3(木研5-81 藤原宮跡北辺地区
海国長田 評 鴨里鴨部弟伊同佐除里土師部得末呂 081 荷札集成-63(木研5-82 藤原宮跡北辺地区
吉備中国下道 評 二万部里多比大贄 031 荷札集成-223(木研5-8 藤原宮跡北辺地区
上毛野国車 評 桃井里大贄鮎 031 荷札集成-110(木研5-8 藤原宮跡北辺地区
三川国波豆 評 篠嶋里大贄一斗五升 031 荷札集成-53(木研5-85 藤原宮跡北辺地区

三つめが「年次」(干支)が冒頭に書かれるものです。

「干支」が前置され「国」も書かれるもので「五十戸」制のもの
乙丑年(665)十二月三野国ム下評 大山五十戸造ム下部知ツ従人田部児安 032 荷札集成-102(飛20-29 石神遺跡
乙亥歳(675)十月立記知利布 五十戸 止下又長部加小米 081 木研27-39頁-(46)(飛1 石神遺跡(ただしこれは「国」名が書かれていない)
丁丑年(677)十二月三野国刀支 評 次米恵奈五十戸造阿利麻舂人服部枚布五斗俵 032 飛鳥藤原京1-721(荷札 飛鳥池遺跡北地区
丁丑年(677)十二月次米三野国加尓評久々利 五十戸 人物部古麻里? 031 飛鳥藤原京1-193(荷札 飛鳥池遺跡北地区
戊寅年(678)四月廿六日?富 五十戸 大 039 荷札集成-87(木研26-2 石神遺跡 (ただしこれは「国」名が書かれていない)
戊寅年(678)十二月尾張海評津嶋 五十戸 韓人部田根春舂赤米斗加支各田部金 011 荷札集成-22(木研25-4 飛鳥京跡苑池遺構(ただしこれは「国」が省略されている)
庚辰年(680)三野大野評大田 五十戸 ?部稲耳六斗(〈〉)(裏面(〈〉)削り残 033 荷札集成-92(木研27-3 石神遺跡
辛巳年(681)正月生十日柴江 五十戸 人若倭部?◇三百卅束若倭部〈〉◇ 011 木研30-198頁-(1)(伊 伊場遺跡 (ただしこれは「国」「評」名のいずれも書かれていない)
辛巳年(681)鰒一連物部 五十戸   032 木研30-14頁-(14)(飛2 石神遺跡(ただしこれは「国」「評」名のいずれも書かれていない)
辛巳年(681)鴨評加毛 五十戸 矢田部米都御調卅五斤 032 荷札集成-68(木研26-2 石神遺跡(ただしこれは「国」名が書かれていない)
丙戌年(686)月十一日大市部 五十戸 人 019 荷札集成-38(木研27-3 石神遺跡(ただしこれは「国」「評」名のいずれも書かれていない)
丁亥年(687)若狭小丹評木津部 五十戸 秦人小金二斗? 031 飛鳥藤原京1-18(荷札 飛鳥池遺跡南地区(ただしこれは「国」が省略されている)

「干支」が前置され「国」も書かれるもので「里」制のもの
癸未年(683)十一月三野大野 評 阿漏里阿漏人白米五斗? 059 荷札集成-91(飛20-27 藤原宮跡大極殿院北方 (ただしこれは「国」が省略されている)
甲申年(684)三野大野 評 堤野里工人鳥六斗 032 荷札集成-95(木研26-2 石神遺跡
乙酉年(685)九月三野国不→ 評 新野見里人止支ツ俵六斗? 011 荷札集成-88(飛20-30 石神遺跡
戊子年(688)四月三野国加毛 評 度里石部加奈見六斗 011 荷札集成-103(木研25- 飛鳥京跡苑池遺構
庚寅年(690)十二月三川国鴨 評 山田里物部万呂米五斗 032 荷札集成-46(飛20-30 石神遺跡
辛卯年(691)十月尾治国知多 評 入見里神部身〓三斗 032 荷札集成-33(飛20-26 藤原宮跡北面中門地区(ただしこれは「国」名が書かれていない)
甲午年(694)九月十二日知田 評 阿具比里五木部皮嶋養米六斗 031 荷札集成-32(飛20-26 藤原宮跡北面中門地区
丙申年(696)七月三野国山方 評 大桑里安藍一石 031 荷札集成-101(飛20-28 藤原宮跡内裏・内裏東官衙地区
丁酉年(697)月〈〉〈〉 評 野里若倭部〈〉? 031 荷札集成-120(飛20-28 藤原宮跡内裏東官衙・東方官衙北(ただしこれは「国」が省略されている)
丁酉年(697)若侠国小丹生 評 岡田里三家人三成御調塩二斗 011 荷札集成-127(藤原宮1 藤原宮跡北面中門地区
丁酉年(697)若佐国小丹〈〉生里秦人己二斗? 011 荷札集成-117(飛20-27 藤原宮跡北面中門地区
戊戌年(698)若侠国小丹生 評 岡方里人秦人船調塩二斗? 011 藤原宮3-1165(荷札集 藤原宮跡東面大垣地区
戊戌年(698)三野国厚見 評 里秦人荒人五斗 032 藤原宮3-1163(荷札集 藤原宮跡東面大垣地区
戊戌年(698)六月波伯吉国川村 評 久豆賀里 039 藤原宮3-1174(荷札集 藤原宮跡東面大垣地区
己亥年(699)十月吉備中→ 評 軽部里 039 飛20-27上(荷札集成-2 藤原宮跡北面中門地区
己亥年(699)十月上?国阿波 評 松里 039 荷札集成-75(木研5-84 藤原宮跡北辺地区
己亥年(699)十二月二方 評 波多里大豆五斗中 011 藤原宮3-1173(荷札集 藤原宮跡東面大垣地区 (ただしこれは「国」名が書かれていない)
庚子年(700)四月若佐国小丹生 評 木ツ里秦人申二斗? 031 荷札集成-125(藤原宮1 藤原宮跡北面中門地区

 以上「分類」しましたが、この中で実態として「年次」と「国名」を伴う「里」制は「三野」を別とすれば「六九〇年代」以前が確認できないことから、「持統」即位付近つまり「庚寅年」の時点で全国的な変更があったものと推定します。ただし「国」が前置されない中で「里」表記のものがありますが、上に見るように「年次」付きの木簡では「里」が「五十戸」に後出するのは明らかですから、この「国」名なしの場合も同様であり、「年次」表記が何らかの理由で省略されたかあるいは「削られた」「折られた」等の理由によると思われます。
「庚寅年」の時点付近より後の時代のものは「藤原宮」周辺からの出土に限られているようですから、「庚寅年」に何らかの「改革」が行われたと考えられますが(そのような徴証は『風土記』他各資料にみられます)、それが「持統」の即位と関係しているとみられるとともにその即位が「藤原宮」においてのものであったということを示すものです。(ただし「掘立柱形式」の仮の大極殿であったと思われますが)
 「三野」は「五十戸制」から「里制」への移行が他国に比べ十年近く先行しているように見えます。それについては別途検討することとして、「里制」が「三野」を先蹤として始められたものであり、それを「庚寅年」に全国展開したというように考えられるものです。そして「庚寅年」以前の「評木簡」の多くが「飛鳥京」周辺から出土していることを捉え、多くの論者が「近畿王権」の下に木簡が集められていたと理解しているようですが、私見とは異なります。
 私見では「飛鳥京」の地域は「倭王権」の直轄領域であり、「近畿王権」の誰もが立ち入ることができない「不可侵」の領域であったと考えています。
 各種資料を見ると「飛鳥(明日香)」を冠して宮殿名が呼称されているのは「舒明」「皇極」「天武」に限られており、他に確認できません。たとえば「欽明」の宮については「磯城郡磯城嶋。仍號爲磯城嶋金刺宮」という記事があり、また「敏達」については「宮于百濟大井」とする記事があります。その後「遂營宮於譯語田。是謂幸玉宮」と遷ったようですがこれも「飛鳥」ではありません。その後の「用明」は「宮於磐余。名曰池邊雙槻宮」と書かれていますし、「崇峻」は「宮於倉梯」と書かれています。さらに「推古」は「皇后即天皇位於『豐浦宮』」とあり、その後「遷于小墾田宮。」とされているなどこれらはいずれも「飛鳥(明日香)」を冠して呼ばれてはいません。これはそれ以前の「王宮」についても同様であり、「飛鳥」を冠して呼称された、あるいは「飛鳥」という地域に宮殿を建てた「天皇」はいないというわけです。つまりこれらの「宮」がある地域は「飛鳥」ではないというわけであり、本来の「飛鳥」はかなり「狭い」地域を指す名称ではなかったかと考えられます。現代では拡大して解釈する論者もおられるようですが、実態としてかなり限定的に使用されていたと思われるものです。
 「飛鳥」を冠する「宮名」は「舒明」の「天皇遷於『飛鳥岡傍。是謂岡本宮』」に始まりその後「火災」?があり「田中宮」を仮宮として過ごした後「百済川」の側に「百済(大)宮」を作ったとされますが、この「百済川」についても「飛鳥」の地を流れる川であり「百済宮」も当然「飛鳥百済宮」と呼称されるべき存在であったと思われます。
 「皇極」の場合は「天皇遷移於小墾田宮。或本云。遷於東宮南庭之權宮。」とあり一見「推古」の「小墾田宮」に遷ったと思われますが、その後の記事で「自權宮移幸飛鳥板盖新宮。」とあることから考えると「或本云。遷於東宮南庭之權宮」という方が正確なようであり、この「東宮」は「舒明」の皇太子(中大兄皇子)の宮を指すと思われ、「百済宮」に付随していたと考えるべきでしょうから、そこに「皇極」のための「宮」を増設したとみるべきであり、これまた「飛鳥」の地にあったと考えるべきでしょう。(ただし「孝徳」の死に際して「冬十月癸卯朔。皇太子聞天皇病疾。乃奉皇祖母尊。間人皇后并率皇弟公卿等。赴難波宮。壬子。天皇崩于正寢。仍起殯於南庭。以小山上百舌鳥土師連土徳主殯宮之事。」という記事から見て「南庭」には「殯宮」を営んだということもあり得ます。)そしてそこから正式な「宮」として「飛鳥板盖新宮」を新設したとするのです。
 「孝徳」は「改新の詔」は「飛鳥板盖新宮」で行ったとみられますが、すぐに「難波」にその本拠を移動させます。『書紀』によれば「是月。天皇御子代離宮。遣使者。詔郡國修營兵庫 蝦夷親附。或本云。壞難波狹屋部邑子代屯倉而起行宮。」とありますし、その後「壞小郡而營宮」とありますがこの「小郡」は「難波の小郡」を指し、これ以降も「天皇幸于難波碕宮」「車駕幸味經宮觀賀正禮。味經。此云阿膩賦」「天皇從於大郡遷居新宮。號曰難波長柄豐碕宮」とするなど終始「難波」に拠点があったものであり、「飛鳥」とは縁が遠い「天皇」でした。ところが「孝徳」の末年には皇太子以下が「往居于倭飛鳥河邊行宮」という事案が発生し、「孝徳」は一人「難波」で死去します。その後の「斉明」はそのまま「飛鳥」に宮殿を構え、皇極時代と同じ「飛鳥板盖宮」に戻ります。その後「災」といいますから「落雷」による火災でしょうか「飛鳥川原宮」へ遷りますが、「於飛鳥岡本更定宮地」ということとなり、「號曰後飛鳥岡本宮」ということとなります。
 その後発生した「百済を救う役」の際「天智」は「筑紫」の「長津宮」で後方支援の指揮をとっていましたが、その後「近江」へ遷都しました。その後を襲った「天武」は「飛鳥浄御原宮」に居を構えます。
 これらの推移を見てわかるように「舒明」「皇極」「斉明」「天武」以外に「飛鳥」に「宮」を構築した天皇はいないのです。
 また、ここに挙げた「舒明」「皇極」(「斉明」も)は「物部」「大伴」という「王権」に非常に近いところにいる豪族の系譜に「仕えた」という記録がないことがすでに明らかとなっています。たとえば、有力豪族である「大伴」「物部」の記録によると「推古」に仕えていた人物の息子の代には「孝徳」に仕えていたこととなっており、この事から彼らが仕えていた「天皇」の記録という「近畿王権」系の資料としては、『推古紀』と『孝徳紀』が元々連続していたことを示すものであって、さらにそこから直接『天武紀』へとつながるものではなかったかということとなるでしょう。
 このことについてはたとえば『伊豫三島縁起』をみても明らかです。それを見ると冒頭に各代の「異族来襲」を撃退した話やそれに関連する事績などが書かれていますが、「舒明」「皇極」のところだけ記事がありません。つまり「舒明」「皇極」の前後を見ると以下のように記事が並びます。

「三十三代崇峻天王位。此代従百済國仏舎利渡。此代端正元暦。配厳島奉崇。面足尊依有契約。同奉崇彼島。毘沙門天王顕彼嶋秘書也。三十四代推古天王位同二暦《庚戌》。三島迫戸浦雨降。此〔石+切〕〔号+虎〕横殿。于今社壇在之。〔車+専〕願元年《辛丑》。従異國渡同亡。三十七代孝徳天王位。…」

 ここでは「辛丑」とされる「〔車+専〕願元年」記事が「推古」の条に書かれています。この「辛丑年」は「舒明」の末年であり、また「皇極」の初年でもあるはずです。しかしあたかも彼らはいなかったかの如く「推古」の代の記事として書かれているように見えるわけであり、「推古」からいきなり「孝徳」へとつながっています。つまり「舒明」「皇極」「斉明」は「近畿王権」から見ると「いなかった」ものであり、「没交渉」であったことが窺えます。
 ところが『万葉集』になると状況は変わります。「舒明」「皇極」「斉明」という三天皇の事跡、歌が複数掲載されているのに対して「孝徳」の歌は全くみられません。また『万葉集』中の地名が出てくる歌のうち大多数は「飛鳥」の地のものです。これらの状況は他の資料とちょうど逆になっているようです。
 『万葉集』はそもそも「倭国王朝」の勅撰集が元となっていると考えられますから、そこに「舒明」などの歌があるということから考えて、この「飛鳥」の地については、ある特別な意味を持った場所であることが推定されます。
 彼らは上に見たように「近畿王権」に深い関係があると考えられる「大伴」「物部」などと縁が遠く、宮殿のあった場所である「飛鳥(明日香)」という土地は「近畿王権」の誰も「王宮」を建てていないこととなり、しかも遺跡からはその「王宮」が「正方位」つまり正確に「南北」を向いた建物だけで構成されていたことも明らかとなっています。当時「正方位」をとる建物やそのような技術力を持ちまた行使できる権力者がどこにでもいたとは思えず、ここが「倭国王権」の直轄領域であったことが強く示唆されますが、それは「富本銭」の鋳造所が「飛鳥」の領域内にあったことからも言えると思われ、「貨幣」の鋳造が「王権」の特権的事項であることを考えると、この「飛鳥」が「倭王権」の直轄領域であることを強く示唆するものといえるでしょう。そしてその「富本銭」が「近畿王権」の鋳造でないことは『書紀』『続日本紀』にその姿が一切現れないことでも判明します。
 これらのことと「木簡」が多数集まっていたこととは当然深く関係しているものであり、多くは「荷札木簡」であり「王権」に直送される性質の物資が「飛鳥」の地から検出されるということは、この地域に「倭王権」が存在していたことを示すものです。
 「近畿王権」はこの土地には「オフリミット」であり、関与することが出来なかったと考えられるわけです。(次代の「藤原京」もこの土地の至近に造られるわけですが、その領域の一端は「飛鳥」の地にいわば「食い込んでいる」のが確認でき、「藤原宮」が「飛鳥」の地の「延長」として考えられていたことを推定させます。このことから「持統王権」は「倭王権」の分流の一つであることを示唆させるものです。
 結局「飛鳥宮」は「倭王権」の直轄地であり、そこに「倭国王」がいたことを推定させるものであって、決して「近畿王権」の都であったとは想定できないのです。
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