(1)江戸時代の地誌
北村季吟が貞享元年に著した菟藝泥赴の北白河の項には、
「白河越とて志賀へ出る道あり。古の志賀山越にはあらねど亦山川のさま、かたき所也。白河石とて石垣石ずへなどに用る小米石出る所也。」
とある。季吟の言う「古の志賀の山越」を探ったが、北白河を通過しない道は遂には見付ける事は出来なかった。
安永9年刊行の都名所圖會によれば、北白河の項には逆に
「此里は洛より近江の志賀坂本への往還なり。志賀山越といふ。」
とし、素性法師の滝の歌を引用して、その滝の様子まで挿し絵にしている。
寒川辰清が享保年間に著した近江輿地志略巻之十五志賀郡第十の山中越の項には、
「是即見世村より平安城に出づる道なり。其道山中村を過ぐる故に山中越の名あり。或は今道越ともいふ。是如意越に對する稱なり。」
とし、
「土俗或曰ふ。山中村東端に石矼あり。此より東南に行く山徑を志賀山越といひ、南志賀に到る道なりと。」
としている。これは、山中村から東南と言うことで、比叡平から南志賀に抜ける森可成が整備した県道30号山中越を指してているようだ。
今道の名称は、藤原家隆の歌に
思ひ出づる人の袖もや氷るらんなれし御幸の志賀の今道
を掲載している。しかし、家隆の家集の壬二集では、「はまみち」となっており、誤伝と思われる。
志賀越道が嵯峨天皇時代にはあったので、三井寺に向かう如意越に対して今道越と言うのは疑問が残る。
又、志賀越についての詳細は、同巻之第十三志賀郡第八の如意越の項でに、
「是三井寺より、山城國鹿が谷へ出るの道也。」とし、「則舊記に、志賀の山越と云は是なり。顯昭法橋の【袖中抄】に、北白川の瀧のほとりより登て、如意の峯越に、志賀へ出る事なりとあり。北白川の瀧は、如意輪堂の樓門の瀧是なり。今は北山越を、大輪田越といふ也と云々。是を以て按ずれば、如意越は、則志賀の山越の事にや。」と考察している。しかし、続いて、
「然れども【拾遺抄】に云、是如意越よりは北也。今道よりは南に志賀へ越る道ありといへり。然ればこれ志賀の山越にや。詳ならず。」と他の文献との齟齬を述べ、「【頼經卿記】に曰、後一條院の御時、殿上人紅葉逍遙のために志賀の山越すといへり。瓜生山の西を經て、歩行すと云。瓜生山は北白川の瀧の上なり。」と一乗寺付近を出発する説を掲載し、「土人云、山中の東の端に石橋あり。それより東南に行道、志賀の山越なり。南志賀へ出る順路なりと云。【古今集】爲家卿の抄曰、志賀の山越とは、北白川より、三井寺に出る道なりといふ。」とし、北白川~山中~南志賀又は三井寺説を掲載して、「是等をとくと考ふる時は、如意越を志賀の山越とする事、不當にあらず。」と如意越を志賀越道と結論付けている。
ただ、1200年前は三井寺は小さな寺で、廃寺となった崇福寺・梵釈寺は大寺であった。わざわざ三井寺に向かう理由も少ない。
(2)明治時代の古地図
県道30号山中越道や比叡山ドライブウェイが出来る前はどうであったか明治18年10月編製の「滋賀縣滋賀郡里程圖」の地図を見ると、南滋賀と志賀里から伸びる山中越と坂本から比叡山を登る雲母越の二本しか記録されていない。
山中越の地図から、今の志賀峠~山中町を示している。
つまり明治期になるとこのルート以外は廃れて、林業従事者など以外は利用していなかったと推察される。
(3)日本後紀の嵯峨天皇行幸
前述の嵯峨天皇の行幸を記録した日本後紀によると
日本後紀弘仁六年四月十二日
近江國滋賀韓崎に幸す。便ち崇福寺を過ぐ。大僧都永忠、護命法師等衆僧を率い門外に迎え奉る。皇帝輿を降り堂に昇り佛を禮す。更らに梵釋寺を過ぐ。輿を停めて詩を賦す。
と有る。その詩は前述の通り、文華秀麗集「梵釋寺に過ぎる一首 御製」と残っている。
崇福寺跡を発掘した考古学的調査によれば、「この南の尾根上の建物と北・中尾根上の建物群では、建物の方位や敷石の形状が異なることや南の尾根上の建物群周辺からは白鳳時代の遺物が出土しないことから、現在では南の尾根上建物群を桓武天皇によって建立された梵釈寺に、北・中の尾根上の建物群をあてる説が有力視されています。」としている。つまり崇福寺弥勒仏を祭った本堂は北尾根の場所に、梵釈寺を南尾根にあった事になる。
前述の日本後紀の行幸記載は、崇福寺→梵釈寺である。
とすると、今の志賀峠経由では無く、東海自然歩道を通って来ないと辻褄が合わなくなる。
(4)弁天道夢見が岡ルート
最近大量の土砂が流れ、先を行く事を断念した弁天道燈籠の先には林道が整備されており、よじ登って見ると、後は歩きやすく、夢見が岡に到達した。
小川や水無川とはいえ、一度大雨が降ると地形は変化し、これが数百回程度は繰り返されていると想像できる。大量の土砂が流れる500年前を想像して見ると、ここなら鳳輦が通過出来る。
夢見が岡からは、東海自然歩道を行けば良い。今は細くなっているが、昔はもっと広く、周りの土砂が流れ出る前は広かったのでは無いだろうか。
国土地理院地図には、東海自然歩道の坂以外に、今は砂防ダムに遮られているが、小さな小川沿いに道が有る。傾斜は東海自然歩道より緩やかである。500年前はもっと緩やかであったと思われる。
ここを通過するなら、東海自然歩道の急な坂を通過しなくても崇福寺に到達出来る。
(5)志賀越道の推定
未踏の箇所も有るが、消去法を加え、以上のルート検索により、山中を越え、弁天道燈籠を過ぎ、弁天道西を通って夢見が岡、小川に沿って坂を降り、東海自然歩道により崇福寺北・中尾根の間を行く。
このルートを古代志賀越道と推察する。
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