平城京朱雀門
古来風躰抄 上
ただし、上古の歌は、わざと姿を飾り、詞を磨かんとせざれども、代も上り、人の心も素直にして、ただ、詞にまかせて言ひ出だせれども、心深く、姿も高く聞ゆるなるべし。また、そのかみは、ことに撰集などいふ事もなかりけるにや。ただ山上臣憶良といふ人なん、類聚歌林といふもの集めたりけれど、勅事などにしもあらざりければにや、ことに書き留むる人も少なくやありけん。世にもなべて伝はらず、見たる人も少なかるべし。ただ、万葉集のことばに、「山上臣憶良が類聚歌林に曰く」など書きたるばかりにぞ、、さる事ありけると見えたる。「宇治の平等院の宝蔵にぞあるなると聞く」とぞ、物知りたりし者、語ること昔侍りしかど真にや侍らん。
この憶良と申すは、柿本人麿など、同じ時の者なり。少し人麿よりは後達にやありけんとぞ見えて侍る。憶良は遣唐使に、唐に渡りなどしたる者なり。
その後、奈良のみやこ、聖武天皇の御時になん、橘諸兄の大臣と申す人、勅を承りて、万葉集をば撰ぜられけると申し伝ふめる。その頃までは、歌の善き悪しきなど、強ひて選ぶことは、なかりけるにや。公宴の歌も、私の家々の歌も、その席に詠める程の歌は、数のままに入りたるやうにぞあるべき。
それより前、柿本人麿なん、ことに歌の聖にはありける。これはいと常の人にはあらざりけるにや。彼の歌どもは、その時の歌の姿心に叶へるのみにもあらず。時世は樣々改まり、人の心も、歌の姿も、折につけつつ移り変るものなれど、彼の人の歌どもは、上古、中古、今の末の世までを鑑みけるにや。昔の世にも、末の世にも、皆叶ひてなん見ゆめる。