一昨年も、去年も、この砲台には訪れていて
写真を撮影しましたが、
一緒に行った皆さんが砲の周りに集まっているのが
多く写ってしまっていて、掲載できませんでした。
今年は、周りに人がいない、砲身の写真を撮影できました。
ホームページやブログなどで、いろいろな方々が、
硫黄島の戦跡などの写真を紹介して下さっていますが、
「他の人がうつってしまっている。」写真は少ないです。
それは、紹介して下さっている方々が、
私のように墓参で行っている人ではなく、
自衛隊の関係や、行事などで、比較的、少人数で
ゆっくり、見てまわれるスケジュールの中で撮影なさった
写真を掲載してくれているからだと思います。
「仕事で硫黄島に」という方によって写真が紹介されているのが
多く見られます。
島で一泊する小笠原丸での年に1度実施の墓参訪島の
動き、スケジュールをおさらいしますと
1日目 : 慰霊式典
祈念館到着、宿泊する私たちは荷物を部屋に運んで、お弁当昼食
戦前の出身ごとにグループ行動、バスで、それぞれの
出身に連れて行ってもらう「里帰り」。
巡回バスで祈念館へ。
2日目 : 島内の戦跡などを、硫黄島協会の方、父島・母島から参加の
中学生などを含めて、いくつかの班ごとに分かれて、バスで
移動して回る。昼食は、厚生館でお弁当。
この2日目に行く場所は、毎年、およそ、順番も含めて同じです。
入間からの日帰りでの時も、島にいられる時間が2,3時間と短くなりますので、
ぎゅっと圧縮されて場所も減りますが、基本的には、回る場所は一緒です。
この2日目に、いろいろな場所に回る時に、場所によっては、他の班が
バスに戻ろうとしている時間であったりもします。
何度も行かれている方々、ベテランの方々の中には、
同じ場所を何度も見ているので、戦跡の見学場所では、降りずに
バスに残られる方もいらっしゃいます。
お祈りをするスポットではない場合に、同じ場所を毎年見ても
仕方ないので、暑い中を、バスから降りて、行って戻るより
バスの中で過ごされます。
このようにグループで、バスから降りて、見る場所まで行って、
自衛隊の方による解説を聞いたり、碑では、お供えやお祈りをしたり
などをしながら、回ります。
ほとんどの場所で、同じ場所に、班のメンバーの方々が集まりますので、
他の方が入らない写真を撮るのは難しくなります。
なので、私は、バスから降りると、走ります。
引率の自衛隊の方を抜かして、先に到着して、写真撮影。
または、皆さんが、バスに戻るために歩いて移動開始した
後まで残って撮影してから、走って追いつきます。
「いつもパタパタして落ち着かないの」という異名を
頂戴してしまうことに、なってしまいました。
できるだけ多くを見て、多くを写真とビデオに収めようと
すると、ついつい欲張って、走りまわることに
なってしまいます。
何人かの解説、引率に慣れている自衛隊の方が同行して下さるのですが、
長年これらの戦跡などで解説をして下さっていた
自衛隊員の方が、昨年が最後で、定年で退官なさるとご挨拶されました。
今年は、やはり顔見知りの別の隊員の方が解説して下さいました。
その、昨年退官のベテランの方の 水平砲 での解説も、
三回、聞きました。
「早くに発砲してしまったことから、米軍に場所特定されて、
集中攻撃されて、使えなくなったことから、別名「勇み足砲」とも
呼ばれますが、私は、この砲がが「勇み足」で活躍しなかったかというと
そう思っていません。」という内容の説明をなさって下さっていました。
大阪山砲台の砲身のように、砲身に銃撃痕はなく、
きれいな巨大な砲身を見せてくれています。
元は、コンクリート壁に覆われていて、そこから砲身をのぞかせて
いたそうで、まわりに、壁跡が少し残っています。
隣にも、砲があって、その隣の砲は、いまでも、コンクリート壁に
覆われています。
場所が、擂鉢山の正面麓という、
米軍が上陸してから、擂鉢山を目指して星条旗を掲げるまでに
激戦になった地域にあります。
上陸戦での早い段階で、破壊されて、使えなくなったのは
確かだと思います。この砲群が、どれぐらい活躍したかは
分かりませんが、最初の砲撃が「勇み足」だったということは
ないと思います。すぐにこの砲の場所が敵に知れたとの
ことですが、
あれだけ囲まれて、この場所にあったのですが、どっちにしても
早い段階に破壊されるべき運命だったのだと思います。
「このタイプはもっと遠くを狙う砲で、眼下の
米軍が上陸した浜を狙うタイプではない。」とも、説明して
もらった記憶があります。
かなり時代の隔たりがあり映画二作ですが、
1962年の映画「史上最大の作戦」で、ロバート・ミッチャム演じる
コータ准将たちが、ノルマンディー上陸をする場面も
迫力があります。(ジョン・ウェインは、この映画では、
内陸に下りる空挺団を指揮する役でした。)
「史上最大の作戦」から遡ること13年の1949年の
ジョン・ウェイン主演の「硫黄島の砂」の、
上陸場面も、上陸戦の激戦ぶりの迫力では負けていません。
「硫黄島の砂」では、一部、報道が撮影した
実際の記録映画の映像も使われています。
(見比べると分かるのですが、艦上から、犠牲者の
棺を弔砲で海に送る場面など。)
多くの西部劇などで大スターになったジョン・ウェインは、
1949年の「硫黄島の砂」で、アカデミー賞主演男優賞ノミネートされましたが、
主演男優賞受賞作となったのは、実に20年の歳月を経ての、
もちろん、カラー作品の、「勇気ある追跡」でした。
「硫黄島の砂」には、星条旗を掲げた6人の中で、
生き残った3人も、宣伝効果を高めるために呼ばれて、
出演(「父親たちの星条旗」の原作本を読んで知りました。)
しているそうですが、どれが、そのジョン・ブラッドリー
(「父親たちの星条旗」原作者、ジェイムズ・ブラッドリーの父)
達3人だか、少しだけしか映っていないので、私には分かりませんでした。
(本には、ジョン・ウエィンと、三人が一緒に映っている
写真が載せられています。)
映画「硫黄島の砂」には、上陸を狙われて、激しい
銃撃を受けている場面があります。
写真を撮影しましたが、
一緒に行った皆さんが砲の周りに集まっているのが
多く写ってしまっていて、掲載できませんでした。
今年は、周りに人がいない、砲身の写真を撮影できました。
ホームページやブログなどで、いろいろな方々が、
硫黄島の戦跡などの写真を紹介して下さっていますが、
「他の人がうつってしまっている。」写真は少ないです。
それは、紹介して下さっている方々が、
私のように墓参で行っている人ではなく、
自衛隊の関係や、行事などで、比較的、少人数で
ゆっくり、見てまわれるスケジュールの中で撮影なさった
写真を掲載してくれているからだと思います。
「仕事で硫黄島に」という方によって写真が紹介されているのが
多く見られます。
島で一泊する小笠原丸での年に1度実施の墓参訪島の
動き、スケジュールをおさらいしますと
1日目 : 慰霊式典
祈念館到着、宿泊する私たちは荷物を部屋に運んで、お弁当昼食
戦前の出身ごとにグループ行動、バスで、それぞれの
出身に連れて行ってもらう「里帰り」。
巡回バスで祈念館へ。
2日目 : 島内の戦跡などを、硫黄島協会の方、父島・母島から参加の
中学生などを含めて、いくつかの班ごとに分かれて、バスで
移動して回る。昼食は、厚生館でお弁当。
この2日目に行く場所は、毎年、およそ、順番も含めて同じです。
入間からの日帰りでの時も、島にいられる時間が2,3時間と短くなりますので、
ぎゅっと圧縮されて場所も減りますが、基本的には、回る場所は一緒です。
この2日目に、いろいろな場所に回る時に、場所によっては、他の班が
バスに戻ろうとしている時間であったりもします。
何度も行かれている方々、ベテランの方々の中には、
同じ場所を何度も見ているので、戦跡の見学場所では、降りずに
バスに残られる方もいらっしゃいます。
お祈りをするスポットではない場合に、同じ場所を毎年見ても
仕方ないので、暑い中を、バスから降りて、行って戻るより
バスの中で過ごされます。
このようにグループで、バスから降りて、見る場所まで行って、
自衛隊の方による解説を聞いたり、碑では、お供えやお祈りをしたり
などをしながら、回ります。
ほとんどの場所で、同じ場所に、班のメンバーの方々が集まりますので、
他の方が入らない写真を撮るのは難しくなります。
なので、私は、バスから降りると、走ります。
引率の自衛隊の方を抜かして、先に到着して、写真撮影。
または、皆さんが、バスに戻るために歩いて移動開始した
後まで残って撮影してから、走って追いつきます。
「いつもパタパタして落ち着かないの」という異名を
頂戴してしまうことに、なってしまいました。
できるだけ多くを見て、多くを写真とビデオに収めようと
すると、ついつい欲張って、走りまわることに
なってしまいます。
何人かの解説、引率に慣れている自衛隊の方が同行して下さるのですが、
長年これらの戦跡などで解説をして下さっていた
自衛隊員の方が、昨年が最後で、定年で退官なさるとご挨拶されました。
今年は、やはり顔見知りの別の隊員の方が解説して下さいました。
その、昨年退官のベテランの方の 水平砲 での解説も、
三回、聞きました。
「早くに発砲してしまったことから、米軍に場所特定されて、
集中攻撃されて、使えなくなったことから、別名「勇み足砲」とも
呼ばれますが、私は、この砲がが「勇み足」で活躍しなかったかというと
そう思っていません。」という内容の説明をなさって下さっていました。
大阪山砲台の砲身のように、砲身に銃撃痕はなく、
きれいな巨大な砲身を見せてくれています。
元は、コンクリート壁に覆われていて、そこから砲身をのぞかせて
いたそうで、まわりに、壁跡が少し残っています。
隣にも、砲があって、その隣の砲は、いまでも、コンクリート壁に
覆われています。
場所が、擂鉢山の正面麓という、
米軍が上陸してから、擂鉢山を目指して星条旗を掲げるまでに
激戦になった地域にあります。
上陸戦での早い段階で、破壊されて、使えなくなったのは
確かだと思います。この砲群が、どれぐらい活躍したかは
分かりませんが、最初の砲撃が「勇み足」だったということは
ないと思います。すぐにこの砲の場所が敵に知れたとの
ことですが、
あれだけ囲まれて、この場所にあったのですが、どっちにしても
早い段階に破壊されるべき運命だったのだと思います。
「このタイプはもっと遠くを狙う砲で、眼下の
米軍が上陸した浜を狙うタイプではない。」とも、説明して
もらった記憶があります。
かなり時代の隔たりがあり映画二作ですが、
1962年の映画「史上最大の作戦」で、ロバート・ミッチャム演じる
コータ准将たちが、ノルマンディー上陸をする場面も
迫力があります。(ジョン・ウェインは、この映画では、
内陸に下りる空挺団を指揮する役でした。)
「史上最大の作戦」から遡ること13年の1949年の
ジョン・ウェイン主演の「硫黄島の砂」の、
上陸場面も、上陸戦の激戦ぶりの迫力では負けていません。
「硫黄島の砂」では、一部、報道が撮影した
実際の記録映画の映像も使われています。
(見比べると分かるのですが、艦上から、犠牲者の
棺を弔砲で海に送る場面など。)
多くの西部劇などで大スターになったジョン・ウェインは、
1949年の「硫黄島の砂」で、アカデミー賞主演男優賞ノミネートされましたが、
主演男優賞受賞作となったのは、実に20年の歳月を経ての、
もちろん、カラー作品の、「勇気ある追跡」でした。
「硫黄島の砂」には、星条旗を掲げた6人の中で、
生き残った3人も、宣伝効果を高めるために呼ばれて、
出演(「父親たちの星条旗」の原作本を読んで知りました。)
しているそうですが、どれが、そのジョン・ブラッドリー
(「父親たちの星条旗」原作者、ジェイムズ・ブラッドリーの父)
達3人だか、少しだけしか映っていないので、私には分かりませんでした。
(本には、ジョン・ウエィンと、三人が一緒に映っている
写真が載せられています。)
映画「硫黄島の砂」には、上陸を狙われて、激しい
銃撃を受けている場面があります。