硫黄島神社の次には、皆で硫黄ヶ丘に行きました。私たちは、一日目の午後の出身集落への里帰りの時間に、元山集落出身者のグループで、同じ場所に来てゆっくりと過ごしているので、二日目はのんびりと過ごすことができます。硫黄ヶ丘の入り口の方からの船見岩の写真です。
戦前は、この岩の上にポールがあって、物資を運んで硫黄島に来た船が東側に来るのか西側に来るのかをここから見て、合図の旗で島内に知らせていたといわれる。文字通りの船を見る場所だったそうです。どちら側に船が着くかを知った島民たちは手の空いている子供たちも船が着く方に集まって、荷揚げを手伝ったりしたそうです。
戦前は、この岩の上にポールがあって、物資を運んで硫黄島に来た船が東側に来るのか西側に来るのかをここから見て、合図の旗で島内に知らせていたといわれる。文字通りの船を見る場所だったそうです。どちら側に船が着くかを知った島民たちは手の空いている子供たちも船が着く方に集まって、荷揚げを手伝ったりしたそうです。
硫黄島神社の近くの森です。ここにも銀ネムが目立ちます。
ここに来る前に、今年初めて行った航空機の残骸と高射砲を見学しましたが、それらの写真は先に紹介しています。
天山慰霊碑から航空機残骸・高射砲に寄ってみた後で、硫黄島神社に行きました。
ここに来る前に、今年初めて行った航空機の残骸と高射砲を見学しましたが、それらの写真は先に紹介しています。
天山慰霊碑から航空機残骸・高射砲に寄ってみた後で、硫黄島神社に行きました。
戦前の中心集落であった元山集落からも近く、学校があった場所にも近い場所にある現在の硫黄島神社の鳥居です。
戦前はこの場所とは違う場所にあったと聞いています。当時の中心部であった商店街には、私の祖父がやっていた魚屋・雑貨屋を始め、
氷屋、お菓子屋、豆腐屋などがあったそうですが、その場所は現在は、滑走路になっている場所だと言われています。地形が変わってしまっているために、戦前と今とを比べることは当時の記憶がある人であっても難しくなってしまっています。
戦前はこの場所とは違う場所にあったと聞いています。当時の中心部であった商店街には、私の祖父がやっていた魚屋・雑貨屋を始め、
氷屋、お菓子屋、豆腐屋などがあったそうですが、その場所は現在は、滑走路になっている場所だと言われています。地形が変わってしまっているために、戦前と今とを比べることは当時の記憶がある人であっても難しくなってしまっています。