報道の責任逃れに呆れる
http://lite.blogos.com/article/322514/
私がこのブログを読んで思ったのは『…する恐れ』の表現は必ずしも責任回避を意味していないのでしょう。
否定的なニュアンスを含む将来起こり得る事象に使用されているようです。
肯定的なニュアンスなら見込みとか可能性があるとか違った表現になります。
確かに将来起こり得る事象なので決め打ちすると批判されます。そのくだらない炎上に付き合っている暇がないのです。
気象庁のリリースされた文書からそのままというのもありますし、他社と並びになりますからその辺りは協調性です。
しかし、書きたかったのは本当はそれではなく、
肩書きが「京都大学大学院経営管理研究部教授」なのにこの程度のブログなのですね!
最近、ブログを書いていて痛感するのがこれでいいのかという迷いです。
書きながら調べて結局破棄した数は知れません。
専門家でもなければ、単に意見を述べたいだけで
結果として恥を晒すのがオチです。
気象で言えば、表現よりその責任をどう成立させるのか難しいです。
石原良純さんが前にハズレるといちいち反応していたのを思い出します。
気象の現場は古くは下駄を蹴り上げて裏表するよりはマシなくらいで良かったのです。
傘を持って行くか行かないかの差くらいでしたから。
しかし、最近の気象情報はコンピューターの精度が向上してかなりの確率で雲の流れが予測されます。
なので大方当たるので昔とは比べ物にならないですよね。
視聴者もコンピューターの解析結果と知っているからそんなに熱くなりません。
ただ、気象予報士を弄りたがる司会者は多くそれも一つのルーティーンになっています。