戦艦陸奥は、大正6年に着工して、同10年に完成、昭和18年6月8日爆沈するまで、世界最高の戦艦として連合艦隊の旗艦、お召し艦として活躍、昭和18年6月8日、連合艦隊司令部付として柱島水道(周防大島伊保田沖)警泊中に、謎の大爆発を起こし沈没。総員1471人、うち死者1121人、生存者わずか350人という大惨事に見舞われた。
戦後昭和22年に初の引き揚げが試みられたが、海底42mでの作業は困難を極め、間もなく中止。 昭和45年6月遺族や生存者らの20年越しの熱意が実り、引き揚げ作業が再会。8年間にも及ぶ作業の末、乗組員の遺骨・遺品・主砲など艦体の75%が引き揚げられた。
陸奥記念館はこの引き揚げによって回収された物品をはじめ、全国から寄せられた遺品・資料の展示・保存に努め、これにより陸奥と共に逝った乗組員の冥福を祈り、戦争の悲惨さを後世に伝え、恒久に平和を願うもの。
東和町は昭和47年11月、恒久平和の殿堂として引き揚げられた遺品や艦の一部と、遺族から寄せられた貴重な資料を展示するため、陸奥の沈没地点を望む丘に陸奥記念館を建設した。平成6年3月、そばを通る国道の改修工事のため、現在の場所に新築移転、平成6年4月27日オープンした。陸奥記念館資料引用。
此の度の研修は、秋山 眞之との兼ね合いもあり陸奥記念館を訪れた。
秋山 眞之(あきやま さねゆき)、慶応4年3月20日~ 大正7年2月4日、日本の海軍軍人。
最終階級は海軍中将、位階勲等功級は、従四位勲二等功三級・勲二等旭日重光章、功三級金鵄勲章を授与された。
幼名は淳五郎(じゅんごろう)、正岡子規とは松山中学の同期生、東京予備時代には夏目漱石と同期。
三兄は「日本騎兵の父」と云われた陸軍大将の秋山好古、次兄は朝鮮京城電気重役の岡正矣、子は4男2女。
元参議院議員・大石尚子は、眞之の孫(二女・宜子の長女)。
秋山 眞之は、小田原に居られた、山縣 有朋と会談する為、小田原の山下汽船社長別荘(現商船三井)にいた。此処で盲腸を再発し腹膜炎を起こし他界、享年49歳11ヶ月、その一年前に戦艦陸奥は着工建造された。
戦艦陸奥、改装前か、改装後か?
戦艦陸奥の概要。
陸奥記念館前に展示してある陸奥の錨。
陸奥記念館前に展示してある陸奥の錨説明板。
陸奥記念館の前にある(旧記念館跡)陸奥のスクリュウ―、4基の内その一つ。
陸奥のスクリュウ―の説明板。
陸奥の副砲。
陸奥の副砲説明板。
旧記念館跡に展示されている戦艦陸奥から引き揚げられた構造物。
旧記念館跡から陸奥が沈没した柱島水道(周防大島伊保田沖)を見る。この地点から沖合3km地点で謎の轟沈をした。
旧記念館跡から陸奥が沈没した柱島水道(周防大島伊保田沖)を見る所に「感銘碑」が建立されている。
亡くなられた陸奥乗組員の追悼碑。旧記念館跡に建立されている。
旧記念館跡に建立された「若鷲の碑」。
「若鷲の碑」の説明板。
在りし日の戦艦陸奥、煙突が真っ直ぐなので改装後の陸奥。
陸奥記念館のパンフ。
戦後昭和22年に初の引き揚げが試みられたが、海底42mでの作業は困難を極め、間もなく中止。 昭和45年6月遺族や生存者らの20年越しの熱意が実り、引き揚げ作業が再会。8年間にも及ぶ作業の末、乗組員の遺骨・遺品・主砲など艦体の75%が引き揚げられた。
陸奥記念館はこの引き揚げによって回収された物品をはじめ、全国から寄せられた遺品・資料の展示・保存に努め、これにより陸奥と共に逝った乗組員の冥福を祈り、戦争の悲惨さを後世に伝え、恒久に平和を願うもの。
東和町は昭和47年11月、恒久平和の殿堂として引き揚げられた遺品や艦の一部と、遺族から寄せられた貴重な資料を展示するため、陸奥の沈没地点を望む丘に陸奥記念館を建設した。平成6年3月、そばを通る国道の改修工事のため、現在の場所に新築移転、平成6年4月27日オープンした。陸奥記念館資料引用。
此の度の研修は、秋山 眞之との兼ね合いもあり陸奥記念館を訪れた。
秋山 眞之(あきやま さねゆき)、慶応4年3月20日~ 大正7年2月4日、日本の海軍軍人。
最終階級は海軍中将、位階勲等功級は、従四位勲二等功三級・勲二等旭日重光章、功三級金鵄勲章を授与された。
幼名は淳五郎(じゅんごろう)、正岡子規とは松山中学の同期生、東京予備時代には夏目漱石と同期。
三兄は「日本騎兵の父」と云われた陸軍大将の秋山好古、次兄は朝鮮京城電気重役の岡正矣、子は4男2女。
元参議院議員・大石尚子は、眞之の孫(二女・宜子の長女)。
秋山 眞之は、小田原に居られた、山縣 有朋と会談する為、小田原の山下汽船社長別荘(現商船三井)にいた。此処で盲腸を再発し腹膜炎を起こし他界、享年49歳11ヶ月、その一年前に戦艦陸奥は着工建造された。
戦艦陸奥、改装前か、改装後か?
戦艦陸奥の概要。
陸奥記念館前に展示してある陸奥の錨。
陸奥記念館前に展示してある陸奥の錨説明板。
陸奥記念館の前にある(旧記念館跡)陸奥のスクリュウ―、4基の内その一つ。
陸奥のスクリュウ―の説明板。
陸奥の副砲。
陸奥の副砲説明板。
旧記念館跡に展示されている戦艦陸奥から引き揚げられた構造物。
旧記念館跡から陸奥が沈没した柱島水道(周防大島伊保田沖)を見る。この地点から沖合3km地点で謎の轟沈をした。
旧記念館跡から陸奥が沈没した柱島水道(周防大島伊保田沖)を見る所に「感銘碑」が建立されている。
亡くなられた陸奥乗組員の追悼碑。旧記念館跡に建立されている。
旧記念館跡に建立された「若鷲の碑」。
「若鷲の碑」の説明板。
在りし日の戦艦陸奥、煙突が真っ直ぐなので改装後の陸奥。
陸奥記念館のパンフ。