「元祖(春や昔十五万石の城下哉)の句碑で現在は子規記念博物館の南側にあり、昭和24年4月国鉄松山駅前に建立された句碑である。
今年、松山の染井吉野桜の開花は、昨年よりも7日遅い3月30日の開花であった。開花してから7日~8日頃が満開となると言われているので、今週土日がその時期にあたる。天気予報は、曇り時々雨で、花見の天気にはなりそうもない予報である。
さて、この間まで寒かった日々は、4月に入り急に気温が上がり春本番となって来た。
松山と言えば、俳句の街、俳句と言えば正岡子規、まず頭に浮かぶのが、「春や昔十五万石の城下哉」春の季節にピッタリの句である。
伊予松山初代藩主、加藤嘉明は、20万石、第二代藩主の蒲生(がもう)忠(ただ)知(ちか)は出羽国上山藩から24万石で入封、第三代目藩主は、伊勢国桑名藩から15万石の禄高で松平定行がお国入り、時は、寛永12年(1635)であった。この句が出来た明治28年(1895)いまから122年前の事である。この時、子規は小学校・中学校・東京大学予備門(この時夏目漱石が在学していた)まで一緒に勉学に励んだ秋山眞之は、日清戦争でお国のために戦っていた。子規は自分も何かお国の為に働きたいと考え、従軍記者として戦地に赴くことにした。明治28年3月14日宇品より帰松し、父の墓に詣で、16日料亭「明治楼」で送別会を受け、翌日広島に帰り4月10日御用船「海城丸」に、近衛師団司令部と共に乗り、宇品から清国へ向かった。
子規は、松山はこれが見納めかと言う思いを込めて、この句となったのであろうと言われている。
画像の句碑は、もと国鉄(現JR松山駅)駅前にあり、のちには転々と所在を変え現在は、子規記念博物館の南側にある。
そして、「春や昔十五万石の城下哉」の句碑は現在松山に4基存在する。その句碑を辿ってみることにした。
昭和52年、松山城三之丸・堀之内(市営松山球場東南)に移設された時の「春や昔十五万石の城下哉」の句碑。
この「春や昔十五万石の城下哉」の句碑移転経緯、何故こんなに移転されたのか?
①昭和24年4月国鉄松山駅前に建立
②昭和28年松山市駅前ロータリー東端に移設
③昭和52年松山城三之丸・堀之内(市営松山球場東南)に移設
④平成11年3月現在地(子規博)
正宗寺にあった自然石(伊予青石)の(裏)に 碑陰として「昭和24年4月4日、松山市観光協会 後援 井関邦三郎、越智日新、明比森行」と記載されています。
昭和37年5月に建立された二番目の「春や昔十五万石の城下哉」の句碑でJR松山駅前にある。松山を代表する俳句であるとともに大きな句碑で、松山を訪れる人々を出迎えています。
子規は新聞「日本」の記者でしたが、明治27年に勃発した日清戦争に従軍記者として参加することを志願し、周囲の反対を押し切って明治28年、清国へと旅立ち、この句は、従軍の前に松山へ帰郷した三月中旬に詠まれたと言われている。伊予松山藩は、江戸幕府の親藩であることを子規は、誇りに思っていた。十五万石の城下町も今は昔となってしまった。故郷松山を慈しみ、目に焼きつけようとするかのような句である。子規の家は、代々松山藩に仕えた藩士の家柄であった。
「春や昔十五万石の城下哉」の句碑裏面で、昭和37年5月建立・・松山市長 黒田政一、寄贈 創立50周年記念 松山信用金庫理事長 そして施工者、石工サン達の名前が刻印されている。
JR松山駅前の松山東警察署JR松山駅前交番の前に建立してある。
「春や昔十五万石の城下哉」の句碑。松山を代表する俳句であるとともに、子規の代表句でもある。そのため大きな句碑として建立し、松山を訪れる人々を出迎えています。
三番目の「春や昔十五万石の城下哉」の句碑。
建立場所は、松山市勝岡町の松山発電所記念公園にある。
この場所は、松山火力発電所として昭和33年に建設され、高度成長期の四国の電力安定供給に貢献しました。発電所としての役目を終えた後、発電所の開発・運転に長年にわたりご支援・ご協力いただいた地域の皆さまに感謝の意を込めて、跡地の一部を芝生広場・スポーツ施設としてご利用いただくことといたしました。開園は、平成15年9月18日とある。
発電所記念公園に「春や昔十五万石の城下哉」の句碑を設置した理由を担当職員に伺ったが、分からないとの返答であった。
松山発電所記念公園に併設して、松山太陽光発電所がある。
松山太陽光発電所。
昭和33年に建設された当時の火力発電所。
松山発電所記念公園に設置してある、松山発電所の記念碑。
四つ目の「春や昔十五万石の城下哉」の句碑は、道後温泉のホテル宝荘玄関に造園した小さな子規庭園の中にある。
子規が生誕した松山市に、子規の庭と題した小規模の庭が数カ所造園されている。そのうちの一つが、道後温泉街にある、ホテル宝荘の玄関を入ると正面に扁額があり、その左側に平成27年3月に造園された「子規の庭」がある。そしてその象徴として「春や昔十五万石の城下哉」の句碑が建立されています。
なお、ホテル宝荘は現在改築中です。
子規の庭で有名なのは、奈良市の天平倶楽部の庭に造られている「子規の庭」があります。
子規は、明治28年4月従軍記者として清国に渡り、帰国後療養のため帰郷した子規は同年8月27日から10月17日までの52日間、漱石の下宿に子規は居候し漱石と共同生活を送った。同年10月26日~4日間奈良に渡り滞在そこで詠まれた句が「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」であった。子規の「春や昔十五万石の城下哉」と並んで有名な句である。
正岡子規は東京・根岸の自宅で明治35年9月19日午前1時、亡くなり享年36歳でした。若い二人は「春や昔十五万石の城下哉」の句を詠み子規を偲んでいた。今年は、子規・漱石生誕150年になりその記念行事が開催中である。