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伊豫国 港山城跡散策

2017年04月19日 | 伊予松山歴史散策

港山城跡は、伊予鉄道港山駅の南西方向にあり、市道を挟んで東西に分かれ、東は東港山、西は西港山と呼び、西側に江戸時代伊予松山藩の出丸があった。山の山麓に湊三島神社がある。この城は、河野通春の城跡で、応仁の乱では山名方についた河野教通(通直)と細川方となった通春が戦う事になる。両将とも、はじめは京都に出兵していたが、11年後に双方とも帰国し、伊予一円で戦い続け、文明14年(1482)港山の激戦で通春は戦死した。港山城跡の標高は、54、5mある。

港山城は、湊山城とも表記され、築城したのは応仁元年(1467)に河野予州家の河野通春が築城したとする説と、延元3年(1338)の頃、河野通盛が風早郡河野郷(現在の松山市北条付近)から湯築城(現在の道後公園、日本100名城第80番)を築城し居住した際に海の守りとして築城したとの説がある。また、文治2年(1186)に河野通信が築城したとの説もある。複雑な城である。

江戸時代、松平氏になると、伊予松山藩の船奉行が置かれ、三津町と称され小さな漁村から藩の外港へと発展し、参勤交代の実施により三津の港には、160隻程の船が有り、藩主や重臣専用船や藩士の使う船、大坂へ米を運ぶ船が有った。参勤交代の時は、藩船「豊寿丸」とお供の船83隻という規模だったという。

港山城跡の登山口で、港山公民館前にある。

松山市港山町の港山城跡に登って景観を楽しんでもらおうと、地元住民らでつくる「松山西部地域開発協議会」が整備した山頂広場とそこへ続く農道の落成式が平成28年3月26日、同広場であり、関係者約30人が完成を祝った。
 整備は市の助成金を活用し、1月から開始。広場は笹や竹に覆われ歩くのが困難だったが、伐採ですっきりし、中島や興居島、山口県の周防大島などが浮かぶ青い海を望めるようになった。島々の名称を示した案内板を設けたほか、農道も階段を付けるなど歩きやすく整備した。
一人でも多くの人にこの素晴らしい景色を味わってほしい」とあります。愛媛新聞で報道された。

一度行ってみたいと思いながら月日が経過、今年になってから再度、登城道路の整備工事を行い、このほど完成したので今日(4月17日)高浜校区のガイドをしておられる、川内元子さんの案内で、秋山兄弟生誕地の研究員3名とで散策に行って来ました。天候は、生憎の雨天でしたがいい散策が出来ました。帰りには、港山城跡の麓にある、湊三島神社を訪れ、渡部宮司さんからいろいろなお話を伺い散策の締めとしました。

案内板が建てられています。

登城口にある、松山市教育員会が設置してある港山城跡の説明版。

側壁も建設しその上に事故防止のための柵が造られている。

暫く上ると小さな郭跡に辿り着く。そこから振り返ると松山城が見える。

この日は、雨天であったので霞んでいました。

郭跡に木製の句碑が建てられていた。

句は、名は桜物の見事に散る事よ (原句 名は桜偖も見事に散る事よ)

明治28年に漱石が詠んだ句で、「名は桜偖も見事に散る事よ」の句が、子規の添削により「名は桜物の見事に散る事よ」となった。

夏目漱石は、明治28年4月、松山中学の英語教師として赴任、正岡子規が帰松して時漱石の下宿先、愚陀仏庵に52日間居候した。その時開かれていた句会に参加し、短詩系文学に興味を持ち、その後文豪夏目漱石の誕生となる。

港山城跡にも来たのでしょうか?漱石は、松山には僅か1年しか居なかったが、いろんな所を散策し句を残している。

  

登城道路は綺麗に再整備され雨天でも歩きやすく造られていた。

道路の両サイドは、竹林で気持ちのいい道である。

曲がりくねった竹林道を抜けると視野が開けて来た。此処が本丸跡?瀬戸内海が一望出来、晴天時は、遠く長州(山口県)大島が見えるそうです。

この島は、伊予小富士、興居島で、今日は霧がかかり、墨絵の様に幻想的な島となりいい感じに見えた。

三津の渡しで、渡しの始まりは港山城築城後の食料、物資輸送のために始まったのが起源で、三津と港山の間の80m、正式には、松山市道高浜2号線を無料で行き来出来る渡し船。通学や通勤等に利用する市民の足です。今ではTVで放映され全国的に有名となり観光客が訪れております。

松山市道高浜2号線80mの間を行き来する「三津の渡し」松山市が管理運営している。運行時間は、午前7時から午後7時まで、年中無休。渡しは、利用者があると直ぐに動かせてくれる、運行時間なし。

港山城跡を下りて、南側山麓にある湊三島神社を尋ねた。

鳥居には「湊三島神社」とあり。

湊三島神社の渡部定詔宮司さんの特別な計らいで拝殿に上げて頂きお話を伺い、一緒に写真を撮りました。

湊三島神社の社号も「港、湊」を使い分けていた。鳥居の社号碑は「湊三島神社」で拝殿の社号額は「港三島神社」と揮毫されていた。宮司さんに聞くと「港三島神社」が本当ではないかと言われた。この時代になれば、一つにまとめればいいのではないでしょうか。「港三島神社」に。

拝殿には「港三島神社」とある。

拝殿に奉納されている日清戦争の時の絵馬で、最近は、賽銭泥棒が悪さをするが、絵馬も盗難にあるので、監視が大変との事でした。

境内には大きな社号碑があり、昭和天皇の御大典記念に建立されたそうです。

港山城跡の北側に、城主の河野通春の祠があり、此処をお参りして最後にした。

河野通春の説明版。

城主、河野通春の祠で毎年町内の年中行事の一つとして細やかなお祭りを開催しているそうです。

河野通春は、室町時代後期から戦国時代にかけての守護大名、伊予守護。

居城は、港山城で河野氏宗家と対抗した分家の予州家当主。

通春と教通(通直)の抗争は河野氏の衰退を招き、河野氏が守護大名からから戦国大名へ大きくなれなかった一因を成した。

 

愛媛新聞記事(平成28年3月27日付)その内容。

松山市港山町の港山城跡に登って景観を楽しんでもらおうと、地元住民らでつくる「松山西部地域開発協議会」が整備した山頂広場とそこへ続く農道の落成式が平成28年3月26日、同広場であり、関係者約30人が完成を祝った。
 整備は市の助成金を活用し、1月から開始。広場は笹や竹に覆われ歩くのが困難だったが、伐採ですっきりし、中島や興居島、山口県の周防大島などが浮かぶ青い海を望めるようになった。島々の名称を示した案内板を設けたほか、農道も階段を付けるなど歩きやすく整備した。
一人でも多くの人にこの素晴らしい景色を味わってほしい」とあります。

 

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