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子規記念博物館

2013年09月14日 | 伊予松山歴史散策
今日子規記念博物館に行って来ました。
正岡 子規、慶応3年9月17日(1867)- 明治35年(1902)9月19日は、子規(常規(つねのり)、幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めた。9月19日は命日で、松山の正宗禅寺(子規堂)では、糸瓜忌として法要が行われる。
子規は、俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面に亘り創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした明治時代を代表する文学者の一人である。死を迎えるまでの約7年間は結核を患っていた。夏目漱石と秋山眞之とは、東大予備門時代同窓生である。漱石は、子規との出会いが無かったら、文豪夏目漱石は誕生してなかっただろう・・人との出会いで人生は大きく変貌する・・大切にしないといけない。
東京大学中退後、叔父・加藤拓川の紹介で明治25年(1892)に新聞『日本』の記者となり、家族を呼び寄せ、そこを拠点として文芸活動の拠点とした。
生まれは、伊予国温泉郡藤原新町(現、愛媛県松山市花園町)に松山藩士正岡常尚と八重の間に長男として生まれた。母は、藩の儒者大原観山の長女。
お墓は東京北区田端の大龍寺にあり毛髪等が松山市末広町の子規堂(正宗禅寺)にある。
注:糸瓜忌とは、正岡子規の忌日。9月19日、絶筆の「絲瓜咲て痰のつまりし仏かな」など3句にヘチマが詠み込まれていることから、呼ばれるようになった。


子規記念博物館正面で、短詩系文学博物館としては国内最大級。子規に関する資料は全国の8割がた収集されている。


9月19日、糸瓜忌を迎える、子規記念博物館の懸垂幕。


子規記念博物館正面、子規の掲示板。


子規記念博物館正面玄関で、化粧格子扉のデザインは、俳誌「ホトトギス」第7巻1号の中村不折が描いた表紙を模して製作。上部の化粧格子については、次の画像で説明。


子規記念博物館正面玄関上部にある化粧格子彫刻で、デザインは
左より、ホトトギス第14巻7号 中村不折画の表紙
    ホトトギス第 4巻1号 浅井 忠画の表紙
ホトトギス第12巻4号 中村不折画の表紙
ホトトギス第 9巻1号 中村不折画の表紙
ホトトギス第14巻3号 橋口五葉画の表紙を模して製作された化粧格子である。


糸瓜忌開催の案内板・・道後温泉駅前にある、道後温泉観光案内所に提示。


糸瓜忌を控え、へちまコンテストを行いその作品が博物館1Fに展示してある。


へちまコンテストの作品の一つ。


道後寄席が毎年子規記念博物館だ開催されているが、今までの講師の幕がロビー掲示してある。


子規記念博物館入り口にある「子規旅立ちの姿」等身大がある。


東京都北区田端、大龍寺にある正岡子規の墓所。


松山市花園町にある子規生誕地の記念碑。撮影時にちょうど後方に坊ちゃん列車が通りかかった。


画像は、愚陀佛庵で、明治28年春に松山中学英語教師として東京から松山に来た夏目漱石が下宿し、自分の俳号「愚陀佛」をとって愚陀佛庵と名づけられた。漱石は、親友正岡子規が故郷松山で療養を始めたことを知り、愚陀佛庵での生活を勧め、51日間、子規は1階で、漱石は2階で、共同生活を送った。その間、子規は療養しながらも句会などの俳句活動を続け、多くの俳人がここに集まった。漱石はこの時から俳句を嗜み文学の道を歩み始めた切っ掛けとなった場所である。その後高浜虚子の勧めで小説を書くことになり、明治38年1月、ホトトギスに「我輩は猫である」を発表、好評をえこれが文豪夏目漱石の誕生であった。なお、愚陀佛庵は、平成22年7月12日未明からの大雨により、松山城東雲口登城道斜面において土砂崩れが発生し、愚陀佛庵は倒壊いしてしまった。なお子規記念博物館2Fに愚陀佛庵の一部を再現し展示してある。
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