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法隆寺に行ってきました:その3 正岡子規の句碑 「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」

2019年07月14日 | 伊予松山歴史散策

法隆寺には、境内案内と参詣に当たり禁止・注意事項が掲げられている。

今回は、正岡子規の句碑 「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」である。

35年前、近鉄奈良駅前か、JR奈良駅前からか観光バスの出発した地点の記憶が定かでなく、観光コースも法隆寺のみだったのか、他の観光地がセットになっていたのかも記憶に残っていない。

ただ、鮮明に脳裏に残っている事は、バスガイドさんが、子規が詠んだ句碑の説明で「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」有名な俳人、正岡子規の句ですと説明された事だけは何故かおぼえている。
そして、その時大変失礼な質問をした。それは、正岡子規は何処の出身の方ですかと伺うと、

すみません。どこの出身の方は知りませんとの返事が返ってきました。私は小さな声で愛媛県松山市ですとささやくように言うと有難うございましたと確か言われた。

子規は果物が大好きで、特に柿が好きで、この茶店で食べた。その後,「柿茶屋」と呼ばれていたが、大正3年に取り払われた。この時に聞こえてきた鐘は西円堂の鐘と言われている。子規が愛媛松山に居た、夏目漱石の下宿先「愚陀仏庵」から東京に帰る途中奈良に立ち寄り、東大寺近くの宿で若い女中さんが、むいてくれた柿を食べているとき、東大寺の鐘が聞こえてきた。奈良最終日に法隆寺を参拝して、鏡池の西にあった茶店でこの句を詠んだ。 

参考までに:夏目金之助(漱石)は明治28年4月松山中学(現、愛媛県立松山東高校)の英語教師として赴任、給料は校長より高く毎日坊ちゃん列車で道後温泉入浴に通った。松山は、東京都比べると何も優れたものはないが、道後温泉だけは東京にはなく素晴らしいと言った。入浴の帰りに老舗和菓子屋で「さらしな団子」を食べて帰るのが日課であった。さらしな団子は後に「坊ちゃん団子」と呼ばれることになる。

この有名な句碑は、法隆寺鏡池の西にある。

  句碑表面には

 法隆寺の茶店に憩ひて 子規
 柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺 と揮毫されている。

句碑は記憶にあるが、句碑表面に揮毫されている「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」以外の付随され書かれている文字は記憶になく、今回句碑を見て35年前バスガイドさんから説明を受けた時の記憶を辿るが思い出せなかった。

正岡子規は、慶応3年9月17日、伊予松山15万石の藩士、馬廻り役の家系で家禄100石の家臣、正岡常尚の長男として温泉郡藤原町(現、松山市花園町)で生まれた。幼名は処之助、のちに升(のぼる)と改名した。明治13年、旧制松山中学(現・松山東高等学校)に入学。明治16年、同校を中退し、末は博士か大臣かを志して、親友の秋山眞之、清水則遠と共に上京、受験勉強のために共立学校(現・開成高校)に入学した。

翌年、旧藩主家の給費生となり、東大予備門(のち一高、現・東大教養学部)に入学し、常盤会寄宿舎に入った。同窓に夏目漱石がいた。大学中退後、叔父・加藤拓川の紹介で明治25年に新聞日本の記者となり、家族を呼び寄せそこを文芸活動の拠点とした。幼少時代からの親友である秋山眞之は、東大進学をあきらめ、海軍兵学校に入学、その後勃発した日清戦争で命を掛けて母国防衛に身体を捧げている事に感銘した子規は、病弱な身体を推して、明治28年、新聞日本の社長・陸羯南の猛反対を押し切り従軍記者として清国に渡り、帰国の船中で喀血、神戸須磨で療養し、その後松山に帰郷した。

松山で親友の夏目漱石の下宿(愚陀仏庵)で52日間居候生活をし、漱石より10円を借り、東京に帰る途中何故か同年10月26日〜29日の4日間奈良に行っている。奈良に滞在し、「柿くえば鐘が鳴るなり法隆寺」の句が詠まれたのである。この奈良旅行中、滞在したのが当時の奈良の老舗旅館であった「對山樓」であり、この宿で詠んだ「秋暮るゝ 奈良の旅籠や 柿の味」の句を始め、柿の木も現存している。對山樓は現在、日本料理天平倶楽部となっておりそこに子規庭園がある。

参考までに

正岡子規の幼馴染である秋山眞之は、日清戦争でお国のために戦っていた。子規は自分も何かお国の為に働きたいと考え、従軍記者として戦地に赴くことにした。明治28年3月14日宇品より故郷である松山に帰り、父の墓に詣で、16日料亭「明治楼」で送別会を受け、翌日広島に帰り4月10日御用船「海城丸」にて近衛師団司令部と共に乗り、宇品から清国へ向かった。

子規は、松山はこれが見納めかと思いを込めて、「春や昔十五万石の城下哉」を詠んだ。

「春や昔十五万石の城下哉」の句碑は現在松山に4基存在する。それだけこの句の存在が大きいのである。その一つの句碑は、JR松山駅前に建立されており、松山を代表する俳句であるとともに松山には沢山の句碑が建立されているが一番大きな句碑で、松山を訪れる人々を出迎えている。

明治28年10月26日~29日の間、東京に帰る途中奈良に立ち寄り名句「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」を詠んだのである。

秋山眞之が大正7年2月、小田原にいた元老、山県有朋と会見、その時小田原で盲腸炎を患い、腹膜炎を併発し大正7年2月4日、山下汽船(現、商船三井)の創設者、山下亀三郎の小田原の別荘で病死、49歳11ケ月の若さであった。眞之の辞世句、「不生不減明けて鴉の三羽かな」、三羽かなの、一人は清水則遠(東京予備門時代に病死)次の一人は正岡子規(明治35年9月19日逝去)そして秋山眞之だと言われている。

句碑裏面には

 明治廿八年秋子規居士遊覆の憩ひし所に建之
 碑面の書は居士自筆の句稿より拡大せさるもの也
 大正五年丙辰九月 青々
 発起 斑鳩吟社 イ巻鳥(けんちょう)社同人
と揮毫されている。

句碑裏面全体を撮る。その後方に聖霊院がある。

東京に帰る途中奈良に立ち寄った時には、脊椎カリエスの病状は進んでおり、東京根岸の自宅までよく辿り着いたものだと思う。

子規は、病状については、口に出さなかったが苦痛であったのではないか?子規最後の長く遠い旅路の奈良路であった。
そんな深い思いもこの句碑に織り込まれているような気がしながらシャッターを押した。

画像は、日本料理天平倶楽部(元・老舗旅館「對山樓」)

平成28年6月1日、長野県安曇野市にある秋山好古揮毫の石碑取材の帰りに行き撮影した。
明治28年10月26日〜29日の4日間奈良に滞在した時の老舗旅館「對山樓」であり、この宿を詠んだ「秋暮るゝ 奈良の旅籠や 柿の味」の句を始め、柿の木も現存している。對山樓は現在、日本料理天平倶楽部となっておりそこに子規庭園がある。

「秋暮るゝ 奈良の旅籠や 柿の味」の句を詠んだ柿の木が現在もある。
老舗旅館「對山樓」の若い女中さんがむいてくれた、柿を食べているとき東大寺の鐘が聞こえてき。奈良最終日に法隆寺参拝をして、鏡池の西にあった茶店で「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の句を詠んだ。
画像は、当時の柿の木が現存し、その奥に大きな建物の屋根が見えるのが東大寺である。

平成28年6月1日、長野県安曇野市にある秋山好古揮毫の石碑取材の帰りに行き撮影した。

これからは子規に関する松山市にある画像である。

松山市花園町にある正岡子規の生誕地跡。

正岡子規の生誕地跡には俳句ポストが設置してある。

正岡子規の生誕地跡にある松山市が設置した説明版。

正岡子規の生誕地跡は小さな庭園風の造りになっておりベンチも設置してある。

暫し子規を偲びながら俳句を詠み俳句ポストに投函する人もいる。

画像は、昭和20年7月26日、松山大空襲で焼失する前の愚陀仏庵(夏目漱石の下宿先)で、場所は、松山市二番町三丁目7番地・三越松山店南側にあった。
愚陀仏庵は、上野義方宅の離れの屋敷で、漱石の俳号「愚陀仏」から命名した。
明治28年8月27日、正岡子規は松山に帰り、漱石の勧めで52日間愚陀仏庵に居候として過ごした場所である。

一階に子規が、二階に漱石が居住し、一階では毎晩賑やかに句会が開かれていた。礎石も句会に参加するようになり、これが文豪、夏目漱石の原点となった。漱石は、子規の筆名(ペンネーム)であった一つで子規から譲り受けたものである。

そして子規は、東京に帰る時、漱石から10円を借り受け、途中奈良に立ち寄るのである。何故奈良に立ち寄ったのだろうかそれは不明である。

 松山大空襲で焼失した愚陀仏庵は、昭和57年萬翠荘の北側に復元された。

しかし平成22年7月12日午前8時ごろ、豪雨のため土砂崩れで全壊した。

画像は、倒壊前の愚陀仏庵で句会やお茶会が毎日開催されていた。

場所も、久松定獏の松山邸宅として建設した萬翠荘(国指定重要文化財)の北側にあり、松山城の山麓に位置する歴史文化が漂う場所にあった。

萬翠荘は、大正11年、旧伊予松山藩主の子孫にあたる久松定謨伯爵が、別邸として建設した愛媛県最初のフランス様式の建物である。

その後再建計画案が出てきているが未だ再建されてない。

愚陀仏庵でのお茶会で、よく使われたのが「亀八・(亀屋八城)」のお茶菓子で、老舗の和菓子店が道後温泉本館前にあった。
亀八は、京都の和菓子店であったが、先々々代の時三越松山店から招かれ道後に来た。
残念ながら14年前に惜しまれながら店舗は畳まれた。
最後の社長が、元ミス長野(信州)に選ばれた美人の御上(女社長)であった。

 

 倒壊前に掲示してあった愚陀仏庵の説明版。

夏目漱石が明治28年4月9日、松山中学の英語教師として赴任、その時の下宿先跡で(松山市二番町3丁目7番地・三越松山店南側)現在は駐車場になっており。
現在は、記念碑と説明版が設置してある。
画像は、愚陀仏庵跡で再建地候補の一つとして挙げられたが未だ再建されてない。

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