EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

松山地方梅雨明けしたのでは?

2014年07月17日 | 伊予松山歴史散策
昨年松山地方の梅雨明けは、7月8日であった。今年は異常気象で6月になっても低温が続き6月3日に高松地方気象台は四国地方、梅雨に入った模様と宣言した。
7月9日、台風8号の影響で暖かく湿った空気が入って梅雨前線が活発化して、真夜中から早朝に掛けて⚡雷鳴を轟かせ闇を切り裂く稲妻が長く多く発生した。
昨日まで梅雨らしき天候であったが、今日17日、午後から松山地方は一気に
空には夏の雲が現れ梅雨明けしたかの様な天候になった。現在午後3時13分外気温は31度ある。九州南部は今日、梅雨明けしたと宣言した。
民放の某気象予報士は、日本にあった梅雨前線は消滅したと言っているのでJA各地の梅雨明けは間近であろう。
愛媛県は、只今第96回全国高等学校野球選手権愛媛大会真っ最中である。












7月9日、未明松山市上空は、物凄い雷が発生、その都度稲妻が発生した。
画像は、7月9日付の愛媛新聞掲載の画像引用、松山空港近くに発生した稲妻。
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秋山好古揮毫石碑「忠魂碑」新潟市市民文化遺産に認定される

2014年07月10日 | 伊予松山歴史散策
新潟市市民文化遺産に認定・秋山好古揮毫石碑「忠魂碑」の新潟日報記事紹介                           

この度、新潟市が市民文化遺産を創設、秋山好古揮毫石碑「忠魂碑」が認定され、新潟日報新聞の記事になった。市内各地区から文化遺産となる貴重な遺産が200件余りが推薦され、認定調査委員会が調査・ 審査した結果159の遺産が認定、7月5日付の新潟日報新聞にその内容が記事になり、記事の写真に取り上げられたのが秋山好古揮毫石碑「忠魂碑」であった。
新潟市民文化遺産制度は下記の通りです。
「新潟市の郷土の宝を再認識を促す」 を目的で、認定基準は「郷土の歴史や文化を象徴しているもの「世代を超えて地域で 受け継がれ、今後も保存すべき貴重なもの」とする・・が対象です。
対象となる文化遺産は「建造物・旧跡・記念碑・芸能・有形・無形文化財の等々」だそうです。
市民から推薦を受けた認定候補を、有識者による認定調査委員会が調査・ 審査し、結果を公表して、認定文化遺産を紹介するガイド ブックを発行する予定とあります・・新潟日報記事より。
新潟市江南区横越地区からは、秋山好古揮毫の石碑「忠魂碑」を推薦する事に 横越コミュ二ティ協議会(10月16日)の会議で決定し今回晴れて認定された。
忠魂碑の揮毫は、
秋山好古が、第13師団長として大正2年に新潟県高田に赴任していた時に、横越村の村長さんが新潟県知事伊澤知事に、忠魂碑の揮毫依頼し、そして伊澤知事が秋山好古にお願いしたそうです。
伊澤知事は、奇しくも前任地が愛媛県であり、好古は伊澤知事を「私の郷里愛媛県で財政を立て直した有能な知事である新潟県でもいい仕事をすると思いますと」新潟県民に紹介しております。
伊澤知事はその後、東京市長を歴任後、東京警視庁総監になられた。
特記事項として、新潟市江南区横越地区遺族会の皆さんは、現在も忠魂碑の前で毎年慰霊祭を開催されており私も平成22年9月6日の慰霊祭に参列させて頂きました。
松山市にある秋山兄弟生誕地の関係者の一人としてこの度の市民文化遺産認定は本当に嬉しい事であります。


新潟日報は、新潟市市民文化遺産認定を記事として7月5日付で掲載した。記事に使った写真が秋山好古揮毫した「忠魂碑」であった。新潟日報新聞は昨日(7月9日)新潟市の神田氏から送って頂いた。


1.碑   文 :  忠魂碑
2.所 在 地:  新潟県新潟市江南区沢海二丁目15番30号 日枝神社
3.揮 毫 者:  陸軍中将 秋山好古
4.建 立 者:  賀表講
5.建立年月日:  大正2年7月 
6.碑石大きさ:  高さ 2m70cm 横幅 1m48cm 厚さ 42cm


忠魂碑の揮毫は、秋山好古が、第13師団長として大正2年に新潟県高田に赴任していた時に、横越村の村長さんが新潟県知事伊澤知事さんに、忠魂碑の文字を揮毫依頼し、そして伊澤知事が秋山好古にお願いしたそうです。伊澤知事は、奇しくも前任地が愛媛県であり、好古は伊澤知事を「私の郷里愛媛県で財政を立て直した有能な知事である新潟県でもいい仕事をすると思いますと」新潟県民に紹介しております。
伊澤知事はその後、東京市長を歴任後、東京警視庁総監になられた。


石碑の由来:203高地は当初あまり重要視されなかったが、旅順港停泊中のロシア海軍太平洋第一艦隊(通称旅順艦隊)に砲撃しようとする際、弾着を観測する兵を配置するのに最適な場所であると気づいた日本海軍連合艦隊の参謀であった秋山眞之少佐がこの高地を攻略することを進言した。203高地からは旅順港が良く見通しが出来る高地で日露戦争の決する重要な鍵を握る場所になった。明治37年9月20日の総攻撃戦闘に大町助作一等兵士も参加露軍鉄條網切断の任に当たり目的は達成したが敵弾に当たり戦死した。第8中隊所属の斉藤源次郎上等兵は、奉天に前進中盛京省田義屯地点に於いて露軍と激戦奮闘したが敵弾を受け壮烈な戦死を遂げた。また清田幾平伍長は、ローゼンガルトフカの激戦で戦死した。三名の陸軍兵士は、新潟県沢海地区から出兵し名誉の戦死をされ村葬として明治37年12月3日に葬儀が行われた。三名の霊を祀るために忠魂碑が建立された。


現在は、日露戦争で戦死された三名の兵士と、先の大戦(大東亜戦争)で戦死された兵士の方々との合同慰霊祭として毎年9月に忠魂碑の前で開催されている。私も平成22年9月6日に開催された慰霊祭に参列させて頂き写真を撮らせて頂いた。


平成22年9月6日の新潟市は、残暑が厳しく本来は忠魂碑の前に祭壇を作りその前で慰霊祭を開催しているが、あまりの猛暑でこの年は日枝神社本殿で行われた。画像奥に忠魂碑が見える。この年に限って本殿に宮司さんは祭壇を設けた。


遺族会の関係者一人一人が祭壇の奥に見える忠魂碑に向かって玉串を供え英霊に拝した。
私は、秋山好古が揮毫した石碑の調査を現在も調査しているが、現在全国に51基の石碑が発見されている。内訳は、東京都1基、千葉県3基、神奈川県1基、静岡県1基、新潟県2基、愛媛県43基で、その内慰霊碑(忠魂碑・慰霊碑・表忠碑・招魂碑)が20基ある。忠魂碑の前で慰霊祭を開催しているのは、ここ新潟市江南区沢海の忠魂碑だけである。この事も踏まえて新潟市は、市民文化遺産の一つとして認定されたものと私は思います。
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松山市高浜地区・史跡「四十島」見学

2014年07月08日 | 伊予松山歴史散策
昨日(6月7日)、梅雨前線の北上と台風8号の影響で松山地方は大雨雷注意予報が出ていた。四十島見学と史跡散策は以前から計画していたので天候に関係なく出掛けた。ガイドをして頂いたのは、高浜地区史跡を奉仕活動で案内を行っておられる「川内さん」にお願いした。
本日の目的は四十島を上から眺める場所に行く事、この地は私有地で現在太陽パネルを設置してあるので許可が必要、初めて四十島を上から見た。この島は、夏目漱石「坊ちゃん」に出てくる「別名ターナー島」、同小説では「青島」で登場する。島の松ノ木が枯れ、高浜小学校の北岡先生が25年の歳月を掛けて自費で船を調達し松を植栽、毎日のように水を与え育て上げ立派な松になっている。24本あり平成17年国登録記念物に指定。松は根から有機酸を出し岩に食い込み岩から水分や養分を摂取しているから育つそうです。大学の権威のある教授がもうこの島には松は育つまいと言われ松山市や愛媛県はあきらめていたが、北岡先生が「なにくそ魂」の精神を発揮し研究を重ね育て上げ現在は立派に松が育っていた。(当時北岡先生は、高浜小学校の理科の先生)高浜沖、四十島付近で大正11年11月15日、旧日本陸海軍の大演習が行われ、これの観閲に摂政宮(後の昭和天皇)が大正天皇の名代としてお越しになられた。(大正天皇は御身が弱く地方には出向かれてなく殆ど摂政宮様が名代として出向かれていた)観閲された場所が高浜の荒神山でここに秋山好古が揮毫した記念碑が建っている。この石碑も掲載しますので見て下さい。


平地から見た四十島(ターナー島)で次に出る四十島は小高い山の上から見た島ですので高低差を比較して下さい。


小高い山(丘)の麓に神社がある。その境内に正岡子規の句碑があった。
句は、明治25年秋の句で「初汐や松に浪こす四十島」、「初汐」は旧暦8月15日の大潮の事で、この時期の潮波は大きく、四十島を越えてしまいそうな大潮が発生するそうだ。
また、明治25年は(1892)伊予鉄道が三津から高浜まで延長され、子規達はよくここに遊びに来た。この時期、子規は東京大学を中退する事を考えていて、夏目漱石は退学を思いとどまるよう説得に松山に来ている。


子規の句碑の横に、野村朱燐洞の句碑がある。句は「かがやきのきみは白波うちかへし」死の直前大正7年4月作。朱燐洞は、この年の10月31日流行性感冒により26歳の若さでこの世を去った。(明治26年~大正7年)子規が読んだ句「「初汐や松に浪こす四十島」が明治25年、その翌年に朱燐洞が生まれ、そして26年後この地に来て句を詠んだ「かがやきのきみは白波うちかへし」である。


私有地持ち主の許可を得て小高い山に上げてもらった。四十四島の高さが18mだから、標高20m位だろうか?
初めて四十島を上から見る事が出来た。子規も、漱石も、朱燐洞もここから島を見たものと思う。
所在地は、松山市高浜一丁目115番地、堤塘(ていとう)=土手として法務局に登記されている。所有者は、平成17年7月8日愛媛県から松山市に登記替えされた。成り立ちは、花崗閃緑岩の大小三つの岩が連なって出来ている。
高さ18m 面積1200平方m(363坪)、島の周り約140m。地質がもろく、波浪や海流の影響を受け、年々細っている・・その内消滅するのではないかと心配している。
後方は興居島で、元読売巨人軍投手、西本 聖の出身地。


四十島について。
1、 所在地は、松山市高浜一丁目115番地。
2、地目は、土地の種類は(堤塘・ていとう=土手)として法務局に登記されている。
3、位置は、高浜港から500m・黒岩海岸から200m沖合。
4、所有者は、平成17年7月8日、愛媛県から松山市に移管。平成17年11月18日、国指定登録記念物に指定。
5、成り立ち、地殻変動で地上に出来た。年代は不明。
6、松の復活、20数年前に松が枯れ、今後この島には松は生息出来ないと大学の権威者が言われた。
  これに対し、なにくそ魂でいろいろと研究された当時高浜小学校の理科の先生「北岡先生」が25年の歳月を掛けて自費で船を調達し松を植栽、毎日のように水を与え育てげ立派  な松になっている。24本あり平成17年国登録記念物に指定。松は根から有機酸を出し岩に食い込み岩育っている。


この日は雨が降っていたがこの山に上がった途端に止み島の後ろに船が現れそしてバックの山は「伊予小富士」でいい感じに雲が掛かった。
四十島の大きさを書いておきます。
島の高さ、18m 回り、140m 広さ、1199m2(363坪) 対岸の距離、150m 島の名前、四十島 俗名、ターナー島・・である。


山から下りて、やはり私有地の了解を得て(黒岩海岸)四十島を撮った。


高浜港の後ろにある荒神山山頂にある、秋山好古が揮毫した石碑。
1.碑   文 :  摂政宮殿下特別大演習御野立場
2.所 在 地:  松山市高浜町二丁目乙74番地29  荒神山 標高27m
3.揮 毫 者:  陸軍大将 秋山好古
4.建 立 者:  新濱村
5.建立年月日:  大正13年1月 
6.碑石大きさ:  高さ 2m 97㎝ 横幅 99㎝ 厚み 36cm


荒神山山頂。皇太子が結婚された記念に大正13年1月、記念碑を建立した。伊予鉄道高浜駅から徒歩10分標高27m。


荒神山山頂から見た四十島(左に小さく見える島)高浜港から船が出港しているが、ここで大正11年11月15日 昭和天皇が皇太子時代に陸海軍の大演習が行われた。大演習をこの荒神山から観閲された。


海南新聞:大正11年11月15日付の記事、大正11年11月14日 昭和天皇が皇太子時代に陸海軍の大演習が行われた。大演習をこの荒神山から観閲された。「海南新聞:大正11年11月15日付の記事」荒神山に上られる皇太子殿下。下の画像は、観閲されるお席。海南新聞は、現在の愛媛新聞。後方の山は、興居島の伊予小富士。


昨日、高浜地区史跡散策をして昼食を松山観光港🍴でいろいろとガイドさんのお話を聞きながら楽しい昼食の一時を過ごした。このレストランは屋根付きの屋外席もあり、屋外席で食した。後方の船は、九州小倉航路と広島、呉航路。


この建物は、萬翆荘で旧伊予松山藩主第16第久松定謨、松山の別邸として建築中であったが、大正11年11月陸海軍の大演習が行われ事が決まり観閲に来られる摂政宮様の宿泊所とするために突貫工事で建設したものである。摂政宮様は二階のお部屋に泊まられた。
昭和20年11月から暫く連合軍司令官の宿舎として使われた時代もあった。



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日本100名城番外編紀行、伊予川之江城散策

2014年07月05日 | 伊予松山歴史散策
徳川家康は、伊予国を慶長5年9月15日関ヶ原の戦いに於いて武勲を挙げた加藤嘉明に20万石、藤堂高虎にも20万石を与え2藩で江戸時代を迎えた。その後9藩に分かれ幕末には8藩で維新を迎えた。伊予9藩の一つが川之江藩である。
川之江藩は、寛永13年(1636)一柳直家が川之江藩2万6千石の領主になり、城山に城を築こうとしたが、寛永19年(1642)病没。領地は没収されて天領となり、明治に至ったため、わずか6年の「うたかたの川之江藩」で終わった。
川之江城が築城されたのは、南北朝時代、延元2年(1337)、伊予守護河野氏の砦として、土肥義昌が鷲尾山に川之江城を築いきこれが川之江城の始まりである。川之江は、地理的にも重要な位置にあり(土佐・阿波・讃岐と隣接)数々の攻防があり悲劇の地であった。

川之江城管理事務所から貰った資料によると、興国3年(1342)北朝方、細川
頼春が讃岐より7千の兵を率いて攻めてきた。
義昌は出城の畠山城主由良吉里と共に防戦したが破れ、城を落のびて各地を転
戦した末、武蔵国矢口の渡で戦死をしている。
細川氏の領有後、河野氏に返され、城主は妻鳥友春になった。元亀3年1572)
阿波の三好長治が攻めいったが、撃退している。
土佐の長曽我部氏の四国平定の力に抗しきれなかった友春は、河野氏に背いて長曽我部氏に通じた。怒った河野氏は河上但馬守安勝に命じて、城を攻めとらせた。天正7年(1579)前後のことと思われる。河上但馬守は、轟城の大西備中守と戦い、討たれたという話も残っているが、天正10年(1582)長曽我部氏の再度の攻撃に破れ、戦死落城している。その時、姫ヶ嶽より年姫が飛込んで自殺したという悲話伝説も残っている。

天正13年(1585)豊臣秀吉の四国平定に破れ、小早川、福島、池田、小川と目まぐるしく領主が替り、加藤嘉明の時、最終的に廃城になった。
その後年月を経て城跡は、本丸附近の石垣に僅かに名残を留めるに過ぎなかったが、川之江市制施行30周年記念事業として、市民の浄財を基に城の再建が計画され、昭和59年度より城山公園整備事業として着手した。
建築にあたっては、日本城郭の権威者である東京工業大学名誉教授藤岡通夫博士の指導を受けた。昭和61年6月30日本丸跡に天守が完成した。涼櫓・櫓門・隅櫓・控塀も順次完成し、園路広場の面整備の完成をもって昭和63年3月31日城山公園整備事業は全て完了した。・・・とある。
画像は、昭和61年6月30日、市制施行30周年記念事業として建築した天守で、創建当時の資料、設計図などなく、模擬天守として完成した。伺ったのは4年前の4月5日である。

時間を作り伊予8藩特に、吉田藩跡、新谷藩跡、小松藩跡、西条藩跡の散策を計画してみたい。伊予8藩の内、松山、今治、宇和島、大洲の4藩は天守があり城持ち大名で、松山城天守、宇和島城天守は現存12天守の一つで、吉田、新谷、小松、西条の各藩は当時から天守は無く、陣屋で城無し大名であった。


昭和61年6月30日、市制施行30周年記念事業として建立された記念石碑。


昭和61年6月30日、市制施行30周年記念事業として建立された模擬天守。


JR四国予讃線川之江駅からも天守が見える。


天守最上階内部。


天守最上階から見た大王製紙の一部。


昭和61年6月30日、市制施行30周年記念事業として建立された模擬「櫓門」


石垣を見ての新しい「打込はぎ」。


先の大戦で川之江から出征され戦死された霊を祀る平和の像が建立してあった。深い意味では、戦国時代攻め込まれ攻防の末亡くなった人たちの霊も合わせての像だと勝手に思う。


平成元年当時の市長が平和の像建立に当たり碑文を」書いている。

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日本100名城番外編紀行、日本三大水城、黒田官兵衛の中津城散策

2014年07月03日 | 伊予松山歴史散策
6月23日、午後福沢諭吉旧邸を見学して最後の訪問地である、黒田官兵衛の城、中津城を散策した。6月21日(土)大分県由布市湯布院町川上でアマチュア無線の九州マイクロウエーブ大分大会に参加して、22日(日)南次郎の墓参、日出城址、杵築城、23日、宇佐八幡宮、福沢諭吉旧邸を見学、最後の訪問地が中津城であった。
さて、中津城は、福沢諭吉の出身地豊前国中津(現在の大分県中津市)にあった城で、黒田孝高(如水)通称を黒田 官兵衛が築城、そして細川忠興が完成させた城である。
天守の存在については不明で、江戸時代の絵図には天守は描かれていない一方、黒田孝高(如水・官兵衛)の手紙には「天守に銭を積んで蓄えた」とあり、天守の存在をうかがわせる記録もある。江戸時代後期の「中津城下図」には、中津川沿岸の本丸鉄門脇に三重櫓が描かれているのみである。・・と資料に記載されている。
天正15年(1587)九州征伐の軍功で豊臣秀吉から豊前国6郡を与えられ入国し、翌16年から築城を開始した。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで徳川家康に従って軍功を挙げた二代目黒田長政18万石が筑前一国を与えらら転封となり、代わって同じ軍功から豊前一国と豊後二郡を与えられ入国した細川忠興が未完成だった工事を引き継ぎ、忠興は新たに三ノ丸を増築し、大家川の本流を堤防を築き塞ぎ、更に山国川の水を城内に引き入れ海城とした。
その後二代目細川忠利39万9千石が城主となり、寛永9年(1632)肥後国熊本へ転封、その後に播磨龍野から小笠原長次が入国8万石、その後享保2年(1717)奥平昌(まさ)成(しげ)が10万石で城主となり明治維新を迎える。奥平昌成は、元禄8年(1695)宇都宮藩城主、元禄10年(1697)丹後宮津藩城主となり、中津藩城主となる。奥平9代で維新を迎えた。
中津城に残る黒田孝高(如水・官兵衛)が普請した石垣が現存していてこれは見るに値する。普請され現存する近世城郭の石垣としては九州最古のものがある。本丸上段北面石垣(模擬天守北面下)は、黒田氏の石垣に細川氏が石垣を継いだ境が見られる。また、本丸南の堀と石垣は、中津市によって修復、復元されている。
昭和39年(1964年)旧藩主奥平家が中心となり、市民らの寄付を合わせて鉄筋コンクリート造りの復興天守ブームに便乗して、本来なかった2層の小天守と共に模擬天守が築城された。天守の造りは、小倉城や名古屋城などの天守外観の復興に携わった設計士が手がけ、 鉄筋コンクリート構造で、外観は萩城天守をモデルとして、外壁仕上げは下見板張りに変更、5層5階で高さは23メートルある。模擬天守は(奥平家歴史資料館)として一般公開されている。昭和39年以降から中津城はごたごた騒ぎでややこしい城になっている。

※宇佐八幡宮で書き忘れたが、昭和の大横綱双葉山定次の出身地が宇佐市である。時間(フエリー乗船)の関係で双葉山生家見学は出来なかった。


慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで東軍に属した黒田官兵衛・長政父子は、その軍功により筑前52万石の大名となる。画像は模擬天守と模擬小天守で昭和39年鉄筋コンクリート構造で、外観は萩城天守をモデルとして外壁仕上げは下見板張りとして、5層5階構造で高さは23メートルある。


中津川堰堤から見た天守で中津城一番の良い姿で見える場所だそうです。


中津城天守と手前が小天守、その手前に黒田官兵衛資料館があった。資料館はNHK大河ドラマ黒田官兵衛放映決定により造られた様だ。


天守には小天守横の石段を登り続き塀に沿って入る。


この角度からも中津城のいい景観が望める。


NHK大河ドラマ「黒田官兵衛」放映決定で記念に創られたのか?官兵衛さんの像。


中津市が掲示してある説明版。


黒田官兵衛時代の石垣で、ある資料によると近江国穴太衆が積んだ穴太積(野面積)であると言われている。この近くに櫓を配し舟入を置き中津川からの物質の搬入にした。現在はその場所は石垣で塞がれている。


中津城内部、一階には売店もあった。


中津城天守最上階。


中津城天守最上階から見た模擬小天守と薬研堀。


日本三代水城の一つ中津城で、天守最上階から見た二ノ丸跡と、山国川(中津川)河口とその奥は瀬戸内海周防灘である。
日本三代水城は、
中津城:築城者・黒田官兵衛孝高、築城年・天正16年(1588)瀬戸内海周防灘に臨む
高松城:築城者・生駒親正、築城年・天正18年(1590)瀬戸内海に臨む
今治城:築城者・藤堂高虎、築城年・慶長7年(1602)瀬戸内海来島海峡に臨む


「独立自尊」福沢の偉業を称え、明治37年7月8日、福沢家のご意思に沿って、中津城公園に記念碑を建立した。当初は公園地の中央(三ノ丸跡)にあったが、昭和7年10月18日、現在の位置に移設された。立派な記念碑である。
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