「サッカー文化フォーラム」夢追い人のブログ

1993年のJリーグ誕生で芽生えた日本の「サッカー文化」。映像・活字等で記録されている歴史を100年先まで繋ぎ伝えます。

チーム育成部門スタッフが1年間市役所職員になる話

2016年04月14日 09時52分11秒 | スポーツ

2~3日前のテレビニュースで画期的なニュースを見ました。「チーム育成部門スタッフが1年間市役所職員に」というニュースです。

といっても、これはJリーグチームの話ではなくプロ野球チームの話です。

北海道日本ハムは、北海道紋別市にファイターズベースボールアカデミーの浅沼寿紀コーチ­を2016年4月1日付で1年間職員­として派遣したというのです。

Jリーグチームもプロ野球チームも、その他のプロスポーツチームも地域との交流・貢献の一環として少年たちの指導の機会を設けていますが、まるまる1年間職員を派遣するという話は初耳です。

いろいろな民間企業が自治体との人事交流をするというのも一般的になっていますが、いわばプロスポーツ業界ともいえる業界の取り組みという意味で画期的だと思います。

また、自治体からプロスポーツチーム側に職員を派遣するというのもよくある話ですが、逆方向の派遣は聞いたことがありませんでした。

私は、これまで、歴史の浅いJリーグのほうが地域密着という理念をもとに、地域との交流に関しては他のプロスポーツに先んじてきたと思っていますが、チームスタッフを自治体職員として1年間派遣してしまうという北海道日本ハムの取り組みは、この方式の先鞭をつけるケースになると感じました。

今回の場合、なぜ紋別市なのかということになるわけですが、紋別市では近年こどもたちの体力低下を懸念する状況になっているそうです。体力測定の結果が年々よくないというわけです。そこで市として、こどもたちの体力増進、スポーツ振興という施策を重点課題に据えたのです。

その具体的な方法を考えた時、プロスポーツチームから専門家を招いて体力づくり・スポーツ環境の整備を図ろうという知恵が出たわけです。

北海道の場合、地域が広いですから一口に専門家を招くといっても「通い」ではなかなかできないということも1年間派遣という方式になった一因だと思います。

テレビでは、浅野コーチが紋別市に赴任する日のこともレポートしていました。コンテナ1個だけの引っ越しだったそうですが、地域の多くの人たちが引っ越しに駆けつけてくれたそうです。

そうです、目に浮かぶようです。地方というのは荷物の多い少ないに関係なく大勢の人が出迎えたり見送ったりしてくれるところです。

さっそく地元の学校に指導にでかけた浅野さん、紋別高校では、たった6人しかいなかった野球部に新入生徒のうち11人が入部してきたそうです。これがスタートになって数年後に「夢の甲子園」てなことになったら、これまたスゴいことになるかも。

Jリーグチームの場合、多くは財政的に厳しいですから同じようなことができるチームは限られると思いますが、スポーツ分野の知見という点で貴重なノウハウを持つチームスタッフがどこかの自治体に1年間しっかりと指導に入るというのは、この上ない地域貢献になると思います。

ビッグクラブと言われる余力のあるチームは、ほとんどが大都市圏にあり北海道紋別市のような感じにはならないかも知れませんが、それでも、東京のクラブが島しょ部や福島の震災被災自治体に、埼玉のクラブが秩父地域の自治体にといった支援は考えてもいいテーマではないでしょうか?

いまスポーツの持つ力、スポーツ関係者の持つ知見・ノウハウの重要性は社会の公共財といっても過言ではない時代にあります。紋別市の取り組みに関して国や県が何らかの役割を果たしたのかどうかわかりませんが、公共財という考え方に立てばプロスポーツチームの取り組みに対して何らかの支援を考えてもいいのかも知れません。

前回の「村井チェアマン直言、AEDによって救命できたスタジアムの話」もそうですが、Jリーグチームが社会的により意義ある存在として、その地位を高めていくためには、取り組むべきテーマがいろいろあるんだなぁ、ということを実感させられた話題でした。

今回も当ブログにお立ち寄りいただき、ありがとうございました。下のクリック、よろしくお願いします。では、また。

 


エル・ゴラ誌スタッフのツィート事件と2~3のテレビ番組に思う

2013年01月07日 19時35分27秒 | スポーツ

サッカー専門新聞「エル・ゴラッソ」のデザイナーをしている人がツイッターで「もうヨーロッパに日本人選手はいらないし、不快だ」などと発信していた件について、エル・ゴラ紙がどういう対応をとるのか関心を持っていた。

この発言、どこにでもある辛辣なサッカーフリークの発言だが、エル・ゴラ紙のデザイナーという看板を背負ってしまうと、当然問題にされる。

当の本人は、そのことをまだ理解できないレベルだったのだろうか? あるいは看板を背負っていても、あまり気にしないタイプだったのだろうか?  はたまた、よく、仕事に忙殺されたり失敗して怒られたりすると、ムシャクシャして会社を貶めるような行動に走る人がいるが、そのケースだったのだろうか? いずれ、そのあたりの情報も漏れてくるだろう。

で、私が関心をもっていたエル・ゴラ紙の対応だが、サッカーファンの皆様、及び関係者の皆様に対して極めて不適切なものであったことを深くお詫びいたしますとした上で、本人には厳しく注意し、今後ツイッターなどWeb上での発言は自粛するという。

まぁ、これはマイナーメディアの対応なので、エル・ゴラ紙は自ら「まだマイナーレベルです」と発信しているのと同じだ。

エル・ゴラ紙は、新聞タイプの唯一のサッカー専門誌なので、当サッカー文化フォーラムでも、とびとびにバックナンバーを保存している。この新聞はコアなファンに支えられているタイプの媒体だと思うので、別に営業的には大きな影響を受けないのではないか。

今回の対応も、そのような「影響の大小」を勘案して決められたように思える。

このように人も会社も「事件・事故が起きた時」、そのレベルが対外的にばれてしまうもので、はからずもエル・ゴラ紙がそうなってしまった。

ところで、そのツイッターで「不快だ」とこき下ろされたうちの一人、インテルの長友選手のことを、6日のフジテレビ21時からの「Mr.サンデー拡大版」が取り上げていた。

「ニッポンの底力スペシャル」というサブタイトルで、日本の素晴らしさ、日本人の素晴らしさを見直して、もっと自信をもってやっていこうよ、というメッセージの番組だろうと思う。

長友選手は、彼の地イタリアで「お辞儀を広めたジョカトーレ」であり、いまホームタウン・ミラノでは「日本といえばお辞儀」というほどのブームになっていると紹介している。

なんでも、以前「お辞儀」は、日本人を侮蔑的に表現する時の動作だったようだが、長友によって「お辞儀とは相手に感謝し敬意を払う日本人の心、特に武士道の心からきている素晴らしい動作なのだ」と理解されるようになったというのだ。

テレビでは「お辞儀とは、武士が、あなたに敵意はありませんよという意思を示すために、敵ならば切り落とされかねない『頭』を差し出すように下げるところからきている」という説明までついていた。

この番組をみていて思ったことがある。

1995年~1996年頃、来日したアーセン・ベンゲルやドゥンガなどが次々と単行本を出した。その前から日本でブレーしていたジーコも同様に単行本で語っている。

それらを読んで、世界のサッカー関係者は、単にサッカー論を語るのではなく「サッカーというものが、その国のもつ文化、精神を色濃く反映するものなので、異なる国でサッカーの仕事に就く場合には、その国の文化、国民性・精神といったことを理解することが不可欠だ」と口を揃えることに強い印象を受けた。

その後、私がサッカーのことを話したり書いたりする際には、これらの教えが常に念頭にある。

そして時は流れ、いま長友選手の話だ。日本のトップクラスの選手たちが徐々に海外での経験を積み、はじめは自然に自分を出すことに慣れていなかったところからスタートしたが、今は、彼のように自然に自分を出すことができるようなところまで来た。

日本人の持っている特質は、海外からも敬意を持って受け入れられるものなのだ。チームに対するあくなき貢献、それでいて決して奢らないふるまい、それがチームメイトからますます信頼を深め、いい形で進化していく。

「日本人は、なぜ、もっと日本の持つ素晴らしい文化、日本人が持つ素晴らしい特性に自信をもって、積極的に発信し行動していこうとしないのか、不思議で仕方がない。自分たちに自信をもってサッカーにも取り組みさえすれば、必ず日本サッカーにも素晴らしい未来が待っている」

かつて、そう予言していたベンゲルやドゥンガ、ジーコたち。まさしく、そのとおりになった。

そして、いま「ニッポンの底力」を表す一例としてジャパンフットボウラーが、テレビを見ている多くの日本人に紹介されている。誇らしい限りだ。

「もうヨーロッパに日本人選手はいらないし、不快だ」などと発信していたツイッター氏にはなかなか理解してもらえないかも知れないが、せめてエル・ゴラ社内で「サッカーというものが、その国のもつ文化、精神を色濃く反映するものなのだ」ということについて、どう思うか議論してもらえればと願う。

ところで、この一つ前のブログで、ビデオテープ映像のHDD取り込みで1982~1983シーズンのブンデスリーガ、奥寺康彦選手が活躍したベルダーブレーメンの試合のことを紹介したが、実は奥寺康彦選手も、当時ドイツで、日本人のメンタリティを持った素晴らしい選手と評価されていた。

献身的なチームへの貢献、奢らない謙虚な人間性などサッカー選手としての能力の高さだけでなく、日本人の素晴らしさへの称賛につながる評価だった。すでに30年前にして、そういう日本人選手を私たちは財産として持っていることを付け加えたい。

そのような切り口で紹介してくれるのかどうか不明だが、NHK-BSで「欧州サッカーの日本人先駆者・奥寺康彦選手の挑戦」という番組を11日(金)23時から放送してくれるという。

いまはサッカーの試合解説に登場することも少なくなった奥寺さんなので、現役当時のことをあまりご存じない方はぜひ見て欲しい。奥寺さんの活躍が日本人への敬意、日本文化への理解の深まりにも貢献したというあたりについても、誇張する必要はないが多少なりともわかる内容だといい。放送後、紹介できればと思う。

最後に正月のサッカー特番の話題を一つ。

BS民放5局共同制作の番組「STEP FORWARD~前進、その先 へ~: 世界の頂点へ~サッカー日本代表の軌跡~」という放送があった。

その名のとおり、BS民放の各社が、自分たちの番組編成で都合のいい日に再放送するので、いまだに同じ番組がBSの番組表に時々出てくる。

6日(日)は、BS-TBSで16時からの放送だったので「ながらテレビ」した。番組は2時間たっぷりのドキュメンタリータッチで、日本代表の節目となった試合・出来事などを、キーマンとなった選手へのインタビューを交えて見せてくれる。

番組は、1992年ハンス・オフト監督を迎えた日本代表が、アジアカップ広島大会で優勝、翌年の「ドーハの悲劇」へと続く時期から始まる。語り部は、闘将・柱谷哲二氏、ゴン中山こと中山雅史氏だ。あとに登場する宮本恒靖氏、遠藤保仁選手、長谷部誠選手も「あの時、わたしは・・・・」という形でインタビューに答える。遠藤保仁選手は全体を通してまんべんなくインタビューを受けていたように感じた。

そして1997年ジョホールバルの歓喜へと続き、1998年W杯初出場・フランスでの闘いへ。このへんの語り部はゴン中山氏、

次いで、トルシエ就任から2002年日韓W杯へ。さらにジーコ就任、2004年アジアカップ重慶大会、ドイツ大会での敗北へ。こりあたりの語り部は宮本恒靖氏、

さらにはオシム就任、オシム病魔後の岡田監督、2010年南アフリカW杯でのグループリーグ突破、遠藤保仁選手と長谷部誠選手へのインタビューが続く。

そして最終章、「日本代表の課題は?」と問われ、柱谷哲二氏は明快に「個です、個の力で得点力をあげること」と答えた。

柱谷哲二氏が「ワクワクするような選手」と評した香川真司選手、そしてサッカージャーナリストの多くが、日本人ナンバーワン選手と評価している本田圭祐選手、さらにはインテルで3年間の契約延長を果たした長友選手。

南アフリカ大会で足りなかった「個の力で得点力をあげる」課題が克服できそうな選手たちだ。

この番組のことを紹介したのは、日本代表の軌跡を辿る時に、歴史のどの部分を切り取るかに注目しているからだ。

この番組の場合、日本代表の出発点は1992年だ。わたしもそれが自然だと思う。これから先は、出発点は1992年もしくは1993年がスタート地点として定着していくと思う。

なぜ、そんなことを書いたかというと、どこから物語を始めるかということを結構議論すると思うからだ。ちょっと前の時代であれば、1985年のメキシコW杯アジア予選での木村和司選手の伝説のフリーキックあたりからスタートしていた。

このタイプの番組は、だいたい新年特番で、ここ10年以上、何回か、どの局かは別にして放送されている。私は、それらを並べてみたいと思っている。

テレビ局の切り口の違いもあるだろうし、時間の経過とともに埋没していった出来事もあると思う。またキーマンとして登場した選手の変化も見たい。いろいろな楽しみがある作業だ。

いずれ、その時は、このブログでも紹介したい。


年末年始もHDD化ざんまいでした。

2013年01月06日 20時09分46秒 | スポーツ

あけましておめでとうございます。今年もサッカー文化がにぎわうよう、いろいろと話題提供していきたいと思います。皆さんからの反応もお待ちしています。

年末年始は、高校サッカーに天皇杯決勝、そして今日は大学選手権決勝と、切れることなく楽しんでいますが、一方で手持ち映像ビデオのHDD取り込み作業も進めました。

12月中旬に400本通過とお知らせして、まだ、それほど経っていませんので500本にはなっていませんが、成人の日あたりまでには500本通過といきたいところです。

その中で珍しい映像のことを幾つかご報告したいと思います。

1982~1983シーズンのブンデスリーガ最終節、ベルダーブレーメンvsボーフムという試合がテレビ東京で放送され、その映像を取り込みました。

どうです。30年前の映像ですよ。まだまだきれいな映像ですので、ぜひ多くの方に見ていただきたいと思います。テレビ東京さんにはオリジナルが残っているのでしょうけど、我々のようなところが取り扱わなければ、もう日の目を見ることはないでしょう。

番組ホストはおなじみ金子勝彦さん、この日は、そのベルダーブレーメンでのシーズンを終えてオフの帰国となった奥寺さんもゲストにきていました。三菱ダイヤモンドサッカーの枠ではなく、1時間16分の映像ですので前後のCMを入れて1時間20分の枠だったのでしょう。

このシーズン、フレーメンは得失点差で惜しくも優勝を逃し2位だったそうですが、奥寺さんは全試合出場できたので、とても充実したいいシーズンだったと話していました。

つぎの話題は、1994年のJリーグ放送でのCMについてです。ご存知のように1993年と1994年の2シーズン、いまのスカパーになる前、CS放送はスポーツ・アイというチャンネル名でJリーグの全試合放送という快挙を成し遂げてくれたのです。

私が現在、膨大なサッカー情報を蓄積できたのは、この2シーズン全試合放送があったからこそといって過言でありません。

私の取り組みの最初の目標が、この2シーズン全試合放送をすべて収録することでしたから。

その全試合放送分の映像のHDD取り込みも、93年分はおおかた終わりました。放送では、前期のサントリーシリーズ、後期のニコスシリーズごとに全試合を通して同じCMを見ました。

どの試合にも同じCMが流れてきますので、いやでも目につきます。後期には結婚情報のOMMGのCMが流れましたが、正装した若い男女がタンゴを踊る内容です。

94年の前期に流れたのがコカ・コーラのCMなのですが、私はこの内容は禁じ手だと思っています。ラモス、武田、北澤といった面々のプレーシーンを絡めて「ゴーゴーヴェルディ、コカ・コーラ」とやる内容です。Jリーグのすべての試合を放送する前に、いやでもこのCMを見せつけられるわけです。

当代随一の人気チーム、ヴェルディのことですから、いろいろなCMにお呼びがかかった時期です。それはそれでいいのですが、この番組にそれを使うことは、やはり禁じ手を使ったと思わざるを得ません。別に規制があるわけでありませんから、いい悪いの問題ではないですが、だからと言って何をやってもいいというものではない、という意味で禁じ手を使ったと思うのです。

私は、このブログで何度も名門ヴェルディの凋落について触れてきました。そのこころは「驕れるものは久しからず、盛者必衰の理(ことわり)をあらはす」です。

このCMそのものはヴェルディの驕りでもなんでもありません。そういう意味では不幸な使われ方をしたというのが妥当かも知れませんし、それらも含めて驕りのイメージが増幅したかもしれないなと感じたCMでした。


HDD化作業は、半年で400本を達成です。

2012年12月13日 23時47分39秒 | スポーツ

私の誕生日であり、日本サッカーにとっても記念すべき日の6月14日、今年のその日から始めたサッカー映像ビデオテープのHDD変換作業、本日がちょうど半年目ですが400本に到達しました。

最初はビデオキャプチャ1台だけでしたので100本に到達するまで2ケ月弱かかりました。これではペースが遅すぎるとばかり、ビデオキャプチャを1台増設して、その後の2ケ月強で一気に300本まで伸ばしました。

そのままのペースであれば、半年で500本も可能だったのですが、次の2ケ月間、金を稼ぐほうのことに時間をとられ、なかなか伸びず、何とか半年で400本まで漕ぎつけたというところです。

それでも、次の半年間で500本上乗せして最初の1年で900本という数字がイメージできるところまできたので自信になります。

この3ケ月間でまとまった作業を行なったのは、一つにはJリーグ1993年シーズンの試合のHDD化です。一部分、1994年シーズンも混じっていましたが、ここまで変換したJリーグの試合145本の多くが1993年シーズンです。ビデオテープのままであれば再生してみなければ内容がわからなかったのですが、パソコンに取り込んでしまえば部分的にでも簡単に取り出して確認できますので、まさにデジタル化の威力です。

ところで1993年シーズンは、鹿島アントラーズとヴェルディ川崎が前期、後期それぞれ制してチャンピオンシップを争いましたから、結局その2チームが語り継がれているわけですが、それ以外に清水エスパルスとサンフレッチェ広島の強さも目立っていたようです。

特に清水は前期、後期とも優勝争いにからみ、惜しいところで優勝を逃したチームのようです。清水は天皇杯、ナビスコ杯を含めてたびたびファイナリストになる機会が多く、そのほとんどを勝てなかったために「シルバーコレクター」という悔しい称号を得ているチームですが、それはJリーグ初年度から、いや前年、Jリーグ最初のタイトル争いだった1992年ナビスコ杯の時から呪縛にとりつかれ、ずっと続いているようです。

この呪縛から逃れるには、Jリーグチャンピオンか天皇杯のいずれかを制するしかないように思われます。

1993年シーズンの、チームの強さ弱さを分けた要因は何か、それを考えてみると「監督力」に行きつき、特に外国人監督もしくはヘッドコーチにプロサッカーの世界を制する力量の差を見る思いがしました。

ヴェルディにはヘッドコーチのネルシーニョ、アントラーズにはプレイングマネージャー格のジーコ、エスパルスはレオン監督、サンフレッチェもバクスター監督といった具合です。

そのほか上位に入ったチームに横浜マリノス、ジェフ市原があり両方とも日本人監督でしたが、むしろ充実した戦力を生かしきれなかったチームという印象です。

この年、名古屋が年間12勝24敗、浦和が年間8勝28敗ということで、年間1位チーム、2位チームの勝ち数、負け数とほぼ逆の結果でした。この2チームは監督の力量とチーム戦力、両方とも相当劣っていたということになります。

なにぶんJリーグ初年度。どの程度のチーム作りで臨めばいいのか手探りだったのだと思います。けれども、浦和、名古屋ともJリーグ屈指の資金力を誇るチームです。外国人監督を招へいしたり、実力ある外国人選手を呼ぶことは可能だったのですが、特に浦和はJリーグに参戦するにあたってのチーム作りを、監督人選も含めて読み誤ったということでしょう。なにぶん名門と言われたチームです。順送りで功労者を監督に据えていかなければOBが黙っていないといったタイプのチームだったことが、初年度の結果を招いたのだと思います。

1993年のJリーグをHDD化しながら、そのようなことを考えています。

ここ最近のHDD化作業で、もう一つ、まとまった量を手掛けているのが1990年イタリアW杯です。1986年メキシコW杯、1982年スペインW杯も変換作業しましたが、明らかに違うのが大会テーマ音楽の有無ではないかと思います。イタリアW杯の開会式では、ボーカルグループが登場して曲を披露しました。以来、どの試合でも彼らのサウンドが場内に響いているようです。たぶん、W杯がアンセムやテーマ音楽に彩られるようになった最初の大会なんだなぁと、テーマ音楽を聴きながらHDD化作業を楽しんでいます。

このように、一見単調な作業に思えるHDD化作業ですが、いろいろな切り口が楽しめる作業です。次の目標は500本です。到達したら、またご報告したいと思います。


シーズン前半に論評したガンバと鳥栖、対照的な結末

2012年12月09日 15時46分46秒 | スポーツ

2012年シーズンのJリーグも終わり、あとはクラブW杯に出場している広島の活躍と、天皇杯に興味が残るだけとなった。

今シーズンの中で、このブログで取り上げたチームが二つある。一つは4月7日に取り上げたガンバ、もう一つは6月3日に取り上げた鳥栖だ。

ガンバの降格は、Jリーグのスターティング10(テン)の中で、降格経験のないチームの一つだったのでニュースインパクトも大きかった。

しかし、4月7日の段階で、私は今シーズンのガンバの行く末に予感を覚え、思わずブログで「何の根拠があって寺田がPKを蹴るのか」と厳しく指摘した。

その日、広島との試合、以下ブログにこう書いた。

「前半2点リードされたガンバ、後半早々1点を返し、さらにPKのチャンス、得たのは確かに寺田だったが、何の根拠があって蹴るのが寺田か?

これを決めるか決めないか、シーズン全体の流れにもかかわる場面だ。それは勝負の世界に身をおいている人間なら本能的にわかる。

この場合、結果に納得を得られるのは遠藤保仁が蹴ることだ。少なくともキッカーが遠藤であるべきなのは誰の目にも明らかだ。それがピッチ上で判断されないなら、あとは指揮官が指示すべきことだ。」

そして、最後にこう締めくくった。「それをやれなかったピッチのメンバー、指揮官。今シーズンのガンバは当分浮上できない。」

あの時のPK失敗で失った試合の流れ、その試合は結局、後半40分台にさらに2点を失い大敗。そしてシーズンを終え降格という結果を招いた。最善の選択をしないと悔いを残すのだ。

松波監督でなくとも、もし同じ対応であれば、勝負の世界に身をおいている者としては甘い。私が「まずいっ、寺田でなく遠藤に蹴らせろっ」と感じたのは、あとあと禍根を残す可能性があるぞ、という本能からきたものだ。

もう1チーム、鳥栖は5位でフィニッシュした。ACL出場権のかかった最終節を落としチームとしては大魚を逃したと思っているかも知れないが、ACL出場は戦力的な分厚さがないと戦えないし、うかつにシーズンに突入するとガンバの二の舞になる。むしろクラブ全体として戦略をキチンとしてからACLを狙って欲しい。

鳥栖については、6月3日に「鳥栖、ユン・ジョンファン監督にみる『監督力』」というブログを書いた。つまり、あぁ、この監督に率いられているうちは、このチームはそこそこやるな、という感覚だ。

まず、豊田陽平選手をはじめとした主力選手の持つ潜在能力を引き出す力量が、この監督は高いと感じたのが一つ。

そして、前線からのプレッシングを可能にする体力維持のトレーニングが、夏場に再度可能だという日程的な運、この運を味方に付けられる監督だとも感じたのだ。

そしてシーズン終了、5位というフィニッシュは初昇格のチームとして史上最高順位とのこと。エースの豊田陽平選手は今シーズンのベストイレブンとなった。彼はそれぐらいの力量のある選手だったわけで、それをユン・ジョンファン監督は的確に引き出したと言える。豊田選手にとって、ユン監督は、今後の選手生活を含めても、おそらく最高の監督との出会いとなったことだろう。

研究され、戦力に変化も生ずる来シーズンの鳥栖の戦いぶりに注目したい。6月3日のブログで私はこう締めくくっている。

「名将への道のりには幸運も必要であり、いろいろな意味で巡り合せの良さも条件の一つかも知れない。松本育夫監督という伯楽との出会いから始まったユン・ジョンファン監督の名将への道、当ブログは、これから20年ぐらいのスパンで彼を追ってみたい。

これも『サッカーを愛する者』にプレゼントされた『夢』といえるだろう。」

それにしても、「スターティング10」という栄誉あるチームでありながらチーム初の降格という屈辱を味わったガンバ、片や、チーム消滅の危機にさらされたこともある金欠チームながら初昇格で史上最高順位でフィニッシュした鳥栖。

私は、折に触れ、かつてJリーグ初代王者に輝き2連覇したもののJ2に降格して低迷を続けるヴェルディと、そのヴェルディに、理不尽なジャッジもあって敗れたと信じて疑わず、その後、圧倒的な三大タイトル奪取数を誇ってJリーグに君臨するチームを作り続けたアントラーズとの彼我の差を思うのですが、ガンバと鳥栖の未来にも似たような行く末が待っているのではないかと考えてしまいます。遠藤保仁、今野泰幸といった日本代表クラスが、そうならないよう踏ん張ることを願っています。


オリジナル10(テン)と呼ぶ違和感

2012年12月03日 13時29分08秒 | スポーツ

1993年からのJリーグスタート時の10チーム(厳密には1992年のナビスコカップ開始時ということになるが、ここではリーグ戦スタート時)のことを「オリジナル10(テン)」と呼ぶ向きがあります。

インターネット字典のウィキペディアによれば「この呼称はJリーグが自ら定めた呼称であるとは確認がされていない」とあります。

そうであれば、なおさらのことですが、その10チームを「オリジナル」と呼ぶのは違和感があります。

なぜなら「オリジナル」と、「オリジナルでないもの」との違いを、私たちは、加工されたり複製されていない原型のものが「オリジナル」で、いわば創造物と模倣物の違いと理解しているからです。

Jリーグ1年目から構成されたチームが創造されたチームで、2年目以降に加わったチームが模倣チームだということには、どう考えてもならないと思います。どなたかが「オリジナル10」と名付け、それが結構メディアに流れて知られるようになったのだと思いますし、名付けた方も「決して10チームが創造されたチームで2年目以降のチームが模倣チームでありません。オリジナルとは、Jリーグの原型となった10チームとなったという意味です」と説明されるのではないかと思います。

それならば、オリジナルではなく「ファースト10(テン)」とか、スターティング10(テン)と呼ぶべきではないでしょうか? ファースト10の場合、よく最初の10年間というような使われ方をすることがあるので、スターティング10の方がいいかも知れません。スターティングイレブンという言葉があります。先発メンバーです。先発の10チームです。「スタテン」と呼ぶのも一興です。

要するに「最初の10チーム」として識別できればいいのであって、何も「オリジナル」などと別格扱いして欲しいような呼称を使う必要はないと思います。

10チームを選定した「Jリーグ」側では、最初の10チームにあえて呼称を付ける意思がないのだと思いますが、ヘンな呼称が出回って流布されるよりは、「スターティング10(テン)=スタテン」がふさわしい呼び方だという見解を出していただくほうが、いいように思います。

これをお読みいただいた関係者の方々の善処を期待しております。


Jリーグ広島優勝に思う

2012年11月30日 22時12分04秒 | スポーツ

明日、Jリーグ20シーズン目は最終節を迎えます。

最終節を待たず、サンフレッチェ広島が優勝を決めました。勝ち点1しか違わないベガルタ仙台とのマッチレースを制しました。

私は、このような長丁場のレースでは歴史と伝統が結果を左右すると信じているタイプで、その代表的なものがワールドカップであり欧州チャンピオンズリーグだと感じています。

わがJリーグも20年の歴史を積み上げる中で、少しづつ、そのような様相を見せ始めていることに少し誇らしい思いを抱いているところです。

その思いに照らしてみれば、広島の優勝は妥当な結果であり、仙台が栄冠を掲げるまでには、もう少し時間という名の歴史が必要だと思うし、もし仙台が優勝するとすれば、今回の経験が生きて達成されるのだと思います。

広島は、Jリーグがスタートした時の10チームのメンバーです。リーグチャンピオンこそ今回初めてでしたが、1994年前期にはステージ優勝を経験しており、天皇杯で2回、ナビスコカップで1回決勝を戦っています。

さらに2部落ちの経験も一度ならず二度までも経験して、その都度一年で一部に復帰しています。こうした、さまざまな経験が「勝ち切るために何が必要か」という勝者のメンタリティを育んできているのです。歴史と伝統の重みとは、そういう「形に現われるものではないけれど確実に存在する」、いわばチームとしての無形の財産だと言えるでしょう。

したがって仙台も、今回の経験が確実にチームの財産となっていくことになります。

広島の栄冠のベースになっている要因に、浦和に移ったベドロビッチ前監督が築いたチーム作りと、Jリーグ全チームの中でナンバーワンと言われる育成の素晴らしさがあげられています。私は、それに付け加えて底抜けに明るいチームのムードも付け加えたいと思います。

人によっては「軽薄すぎる」と評するほどの、ゴール後や勝利後のチームパフォーマンス、若いメンバーが多いからこそ出来る面もありますが、それがピッチ上の風景としてなじむ程、よく練られたパフォーマンス、プロチームとして独自の個性を持つことの重要性からみれば、もはや大きな財産と言えるでしょう。優勝したあとの今後も、このパフォーマンスが続くのかどうか気になるところですが、むしろ続けて欲しいと思いますし、優勝という結果を出した今、軽薄だとは誰も言えなくなったと思います。

森保監督は、就任1年目、しかも若くしてJリーグ優勝監督の歴史にその名を刻みました。優れた日本人監督が育って欲しいと願う私は、ぜひ来年以降も優勝を争うチーム作りをして欲しいと思います。未知数と思われたストイコビッチ監督が見事名古屋を強豪チームに変身させた手腕を、ぜひ森保監督にも発揮して欲しいと期待しています。


しばらくぶりです。HDD化作業は300本突破です。

2012年10月23日 21時56分24秒 | スポーツ

前回の書き込みが8月20日でしたから、2ケ月ごぶさたしました。

その間没頭していたのはHDD化作業とファイルメーカーによるデータベース化作業です。

HDD化作業については、前にもご紹介していましたが、6月14日にスタートして以来、8月11日に100本達成、その後2ケ月ちょっとで300本に到達しました。最初の2ケ月弱で100本、次の2ケ月強で300本、理由はビデオキャプチャを装着したパソコンを1台増やして2台体制にしたからです。

次の目標は年内に500本。ということは半年で500本ということになります。そうすれば年間1000本ペースが見えてきて、来年の今頃はビデオテープ置場の2階の部屋も少しは隙間が見えるようになるのではと期待が膨らみます。

ファイルメーカーによるデータベース化作業というのは、HDD化した映像アーカイブス内容を自由自在に検索、ヒットできるようにするデータベースの構築です。いまは映像だけですが、これにサッカー雑誌、スポーツ紙、書籍等の情報を加えて、例えば一つの大会、一つの試合、一つのチーム、一人の選手を多角的、総合的に振り返ることができるようにするのが最終目標です。

そうすれば、さまざまなジャーナリズムはもとより大学等における研究資料にもなると思います。「サッカー文化フォーラム」が手がけるアーカイブスとして、そこまで提供したいと思っています。

あとは、単独作業でどこまでやれるかです。

HDD化しているビデオテープは、1993年から1994年が中心です。Jリーグがスタートしたのが1993年ですから、試合も当然ですが一般番組も増えてきました。Jリーグ立上げにまつわる情報番組、ヒーローを求める視点からのドキュメンタリー番組、プロスポーツとしてエンターテイメントな部分を拾い出した番組、その後も連綿と続くサッカーを題材とした番組が、スタートしたのもこの頃です。

まさに「サッカー文化」が芽をふき、その後の20年で花もつけるようになったのだと思います。いま見直すと、やはり芽吹きの時期の番組は、まず出演者が限られています。また企画も薄っぺらで初歩的という感じがプンプンします。

初期の頃というのは、何でもそうでしょう。それでも、スタートした頃は新鮮だったはずです。サッカー文化の20年を感じます。このあと雑誌でもスポーツ紙でも同じことを感じるのでしょうか? 楽しみです。


HDD化作業を通じて見えてきたこと3題

2012年08月20日 15時36分20秒 | スポーツ

外に出ると暑いので、外出の用件がなければ極力HDD化作業に集中しています。

今はまだJリーグ開幕前後、つまり1990年代はじめの試合・番組が中心ですが、作業していると、いろいろなことが見えてきます。3題取り上げてみます。

(1)奥寺康彦さんが、1992年の段階で、すでに日本代表の試合運びについて、いわゆる勝ち切る試合の終わらせ方を再三指摘していたのが、印象に残ります。

1992年8月、ユベントスが来日してくれて、日本代表と2戦試合しました。第1戦は2-1でリードしながらロスタイムに同点にされて、勝てた試合をフイにしてしまいました。解説していた奥寺康彦さんは「いつもいつも、最後の最後にチャンスをものにできない試合をしている」と指摘していました。この年は1月にバルセロナ五輪サッカーアジア最終予選の韓国戦で引き分けでも出場権獲得という試合のロスタイム寸前のところで失点して敗れ出場権を逃していましたので、ここぞという大事な試合の勝ち切り方について指摘したのだと思います。

このあと10~11月のアジアカップで優勝したり、翌年のワールドカップアジア一次予選を着々と勝ち続けたことで、最後の詰めを意識して勝ち切るサッカーについての共通意識、共通戦術が不足してしまったのだと思います。

すでに、この当時、試合開始からの5分間とか終了間際の5分間といった、危険な時間帯については選手ならずとも知っている時代でしたが、では、その危険な時間帯をどう乗り切るのか、勝っている試合、あるいは負けていない試合を、どう、そのまま終わらせるのかについて、代表チームでは、明確な意識と戦術はとられていなかったようです。

つまり、まだ「危ない時間帯だから気をつけろ」で終わりといった時代だったと言えます。それは映像を見ているとよくわかります。いまなら、とにかく相手にボールを渡さない意識、それに必要なサポートといった動きが当たり前ですが、当時の試合を見ていると、前線のサイドでマイボールになっても、誰もサポートに行かないので、その選手は誰もいないゴール前にクロスをあげてしまったり、入る見込みのないシュートを打って相手ボールにしてしまうといったことが普通に見られます。

このあたりが、いわば経験ということなのでしょう。まだワールドカップに行くには甘すぎるということでしょう。奥寺さんは欧州のシビアな戦いで揉まれてきましたから、その辺が歯がゆくてしょうがなかったのだと思います。オフト監督ですら、その詰めの部分について意識が高かったとは言えないと思います。Wikipediaの「ドーハの悲劇」という項目には、そのような評価が書かれています。

まぁ、オフト監督だけではなく、何か方法がなかったものかと思いますが、すでに、いろいろな総括がなされた今となっては、ここまでにしておくべきだと思います。

(2)サッカー番組におけるさんま、木梨、川平兄弟の存在について感じました。

1992年1月、日本テレビ系列で「さんまの史上最大のバラエティ だからサッカーは面白い」という番組が1時間30分枠で放送されています。もっとも制作は静岡第一テレビなので、全国くまなく放送されたかどうかわかりませんが、関東で1時間30分枠のサッカーをテーマにしたバラエティ番組が放送されたのは、おそらく、これが最初ではないかと思います。

出演者がラモス、カズ、武田ですから読売クラブのアピール番組でもあるのですが、当時の日本代表の中核でしたから、文句のないところでもあります。

さんまさんは、すでにトヨタカップ中継にも必ずゲスト出演しており、また日本リーグのポスターにも起用されるなど自他共に認めるサッカー好きですが、このような形でサッカーだけのバラエティ番組を作れるようになったのは、やはりさんまさんの存在あればこそでしょう。さんまさんは、最近でこそ、はしゃぐ年てもなくなったようですが、現在に至るまでサッカー番組を楽しいものにしてくれた大功労者です。

楽しくしてくれたもう一人の功労者は、とんねるずの木梨さんでしょう。うまいぐあいに、帝京高校野球部出身のタカさんと、同高サッカー部出身の木梨さんですから、この二つを軸にしたスポーツバラエティ番組を作るには打ってつけであり、今なお対決ものの番組を続けているバイタリティには頭が下がります。

野球好きの大物芸能人は昔から途切れることなく多く、現在もSMAPの中居正広さんなどがいます。それにひきかえサッカー好きの大物芸能人の系譜には少し不安が残ります。スパサカから巣立った加藤浩次さんが「スッキリ」の司会に抜擢され、大物への階段を上りつつありますが、彼はスッキリではサッカー好きという色をあまり出さないようにしている感じです。まだスパサカをやっているので控えているのかも知れませんが、もしスパサカを卒業したら、どうぞ遠慮なくサッカー好きを前面に出してください。

最初にあげたさんまさんの番組でもう一つ目を引くというか、耳に残るのがジョン・カビラさんのナレーションです。おそらく、これでサッカー番組のナレーションならジョン・カビラさんという評価も定着したのではないかと思います。

以来、ジョン・カビラさんは、いつの頃からか主な舞台をフジテレビに移し、20年にわたってサッカー番組を盛り上げる役割を果たしてこられました。まるで感謝状の文句みたいですが、まさにそうだと思います。サッカー文化において、ジョン・カビラさんを得たことは幸福だったと思います。いまや彼は、そのトークの歯切れのよさ、元気のよさで一般の情報番組の司会にも起用されています。

このジョン・カビラさんの弟、川平慈英さんの存在もサッカー界にとっては大きいです。このブログでも紹介しましたが、彼が1991年にWOWOWスーパーサッカー・イタリアリーグセリエAのナビゲーター&実況役として登場した時は、実況だけは、やはり、あまりに無謀なキャスティングで、わずか何回かで降りましたけれど、読売クラブユースでやっていたサッカー選手で、しかも役者さんもやっているという筋の良さがあって、久米宏さんのニュースステーションで使ってもらい、いい感じでサッカーを盛り上げてくれました。

結構、私たちは、この二人にサッカーを盛り上げてもらったな、という感じをもっています。

例えばプロ野球を考えてみてください。プロ野球放送がもっとも楽しかった頃、それは、みのもんたさんの「プロ野球好プレー珍プレー」番組でのナレーションを聞けた頃ではないかと思います。そういう意味では、川平兄弟がサッカー番組からいずれ離れていくことになった時、彼らに代わる名ナレーター、盛り上げ役が現われて欲しいものです。

(3)NHKの山本浩アナは、日本代表の大事な試合放送が多かっただけに、夢を逃した試合担当という印象も深かったです。

サッカー日本代表の試合放送は、1990年代前半までは、ほとんどがNHKでしたから、NHKの実況担当アナウンサーは多くの方がいらっしゃいました。その中で山本浩さんは、当時、中堅クラスのアナウンサーだったのでしょう。幾つかの日本代表の試合を担当されたわけですが、それがワールドカップ出場権がかかった、妙に大事な試合で、いずれも夢を逃した試合担当という印象が残っています。

1985年秋の国立、韓国戦、これはご自身も著書「メキシコの青い空ー実況席のサッカー20年」でも詳しく述べておられますが、メキシコワールドカップアジア最終予選、日本VS韓国の初戦、日本ノホーム、国立競技場で行われた試合がそうでした。

1989年6月、イタリアワールドカップアジア一次予選の最終戦、ピョンヤンで行なわれた北朝鮮との試合がそうでした。

そして、いわゆるドーハの悲劇、1993年10月のアメリカワールドカップアジア最終予選、最終戦のイラク戦、3大会続けて大事な試合の実況を担当すること自体、サッカー実況アナウンサーとして冥利に尽きるわけですが、それが全部、夢を叶えられない結果となった放送であった点、当サッカー文化フォーラムとしては、ぜひ山本浩さんにご登場いただき、ご本人の感想をお聞きしようと思います。

その逆、いわば、ことごとく勝ち戦を担当したとして名物になったアナウンサーもいます。1997年当時のフジテレビは、サッカー中継において不敗神話を自任しており、それを実況していたのが長坂哲夫アナということのようです。そして、いわゆるジョホールバルの歓喜を彼が担当して、いわば夢を叶えた実況が完結したわけです。

長坂アナは、残念なことに2009年、南アフリカワールドカップの前哨戦であるコンフェデレーションズカップ中継のため南アフリカ滞在中に起こした不祥事のため、アナウンサー職を追われてしまったようです。

まぁ、山本アナが担当する試合が多かった時代、日本代表がまだまだアジアの壁を破れない苦闘の時代であり、その苦闘の上に成長した時期に担当できたのがフジテレビであり長坂アナということでしょう。

これからも、妙に勝ち試合を担当するアナ、妙に負け試合を担当するアナが生まれるに違いありませんが、山本アナのように、史上最強のサッカー実況アナウンサー、サッカーアナウンサーの師匠と呼ばれることを目指して頑張って欲しいものです。


静岡県サッカーミュージアムを見てきました。

2012年06月29日 22時45分38秒 | スポーツ

突然ですが「静岡県サッカーミュージアム」というのが、どこにあるかご存じですか?


私も、ありそうだとは思っていましたが、場所までは意識したことがありませんでした。ところが、2年ほど前に、思いがけないことで場所を知りました。


静岡県のもっとも東寄り、神奈川県境から熱海市、三島市、沼津市と続くわけですが、それらの街と街の間に、なじみのない町があります。函南町とか長泉町といったところで、清水町というのもあります。合併前の清水市とは違う町です。三島市は高原直泰選手、沼津市は小野伸二選手の育った町として知られていますが、その間にJR御殿場線が南北に通っています。富士山と箱根の間を通過しているわけです。その御殿場線は南から沼津市、長泉町、裾野市、御殿場市を北上しています。その長泉町というところに「静岡県サッカーミュージアム」があります。


説明が長くなりましたが、なぜこんなところにあるのだろう、という素朴な疑問も湧きます。


なぜならも長泉町の中心部にあるわけでなく、富士山の方向に向かって少しづつ高くなっていく丘陵地帯にあるからです。


それがわかったのは、そのあたりが「クレマチスの丘」という散策地域として開発され、複数の美術館、レストランなどが点在する花とアートの丘になっているという情報を得てからです。


静岡県サッカーミュージアムが、それら「クレマチスの丘」のピースの一つという位置づけなら、もっと知名度もあがったのだろうが、そのへんがおくゆかしいというか「それとこれとは別」という考えが垣間見えます。


この地域を知る、もう一つのキーワードが「スルガ銀行」です。このブログでも、東京・六本木で、スルガ銀行が主宰する「d-labo」というセミナーハウスの催しを紹介したことがあるし、「スルガバンクカップ」という、日本のナビスコカップ覇者と南米・コパ・スメダリカーナ覇者との冠大会を主催しているので、ご存じの方も多いと思います。


調べているうち、少しづつわかってきたのですが、この「クレマチスの丘」になじむように、スルガ銀行の本社機能を置いている「キャンパス・ヘブン」という名称の建物がありますし、「静岡県サッカーミュージアム」の事業主体は、財団法人・静岡県サッカー協会とスルガ銀行です。


したがって「静岡県サッカーミュージアム」がこの地域にあるのは、スルガ銀行さんが少なからず支援しているに他ならず、県中央部の静岡・清水地区でもなく、県西部の浜松・磐田地区でもないことの意味もなんとなく解けてくるというものです。


さて、静岡県サッカーミュージアムの場所をおわかりいただいたところで、ミュージアムの中にご案内しましょう。


今回、沼津に用があったので、寄ってみました。JR三島駅北口から「クレマチスの丘」行きというシャトルバスが一日何便か運行されています。私が乗ったバスは女性の運転士さんでした。私以外に同じ便に乗った人は、スルガ銀行さんに用のある人だけでしたから、私は運転士さんに行き先をたずねられました。


ちょっととまどいながら「いわゆるクレマチスの丘に行きたいのですが」と答えると、それではという感じで車内放送のスイッチを入れてくれました。全員がスルガ銀行さんなら、クレマチスの丘のPR放送は必要ないかも、と思ったのかも知れません。


三島駅から運転士さんのマイクでは25分ほどということでしたが、実際は20分弱で到着しました。クレマチスの丘の停留所を下りて、少し戻るように歩いて5分ぐらいでしょうか着きました。


一言で「広い」です。東京・文京区にある「日本サッカーミュージアム」に比べたら、何分の一の広さかと思っていたことを思えば「広い」です。これだと「日本サッカーミュージアム」にひけをとらない。それが第一印象です。


演出もよかったです。展示室に入る廊下で、突然、ゴン中山選手のメッセージに迎えられましたから。

もっとも、入場無料のせいか、受付はそっけないものでした。事務室には地元のお年寄りの方か、あるいはサッカー協会の重鎮の方か、お二人の年配の方と、一人の女性がいらっしゃいました。別に無視した感じではありませんし、女性の方は愛想もよい方ですが、チケットやパンフレットのやり取りがないので、どうぞご自由にという感じになりました。


受付にはリーフレットが置いてありましたが、これが魅力的です。中身はミュージアムのエッセンスを紹介している同じものですが表紙が6種類もあります。写真をつけておきます。



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中が広いです。いろいろパネルなどに仕切られているので、あまり感じませんが、実は相当広いです。


日本サッカーを牽引してきた代表的な選手たちのユニフォームや記念品なども立派な陳列ケースに収められており見ごたえがありました。


そして静岡のサッカーが各世代を通じて長年日本サッカーをリードしてきたことが、さまざまな優勝カップなどでよくわかりますし、うなるばかりです。


なにより感心したのは、静岡出身の選手だけではなく、静岡のチームでプレーしたことのある選手も含めてプレーヤーに対するリスペクト精神に溢れています。主要な選手はネームプレートになって語り継がれていく、この顕彰精神が、これからも多くのサッカー少年少女を育てていくことでしょう。


このミュージアムを見ながら、こうしたサッカー専用のミュージアム施設は、アントラーズのホームスタジアムにカシマサッカーミュージアムがあるというのは知っていますが、ほかにあまり知りません。地域的に埼玉、横浜、千葉などがサッカーどころですから、静岡サッカーミュージアムのようなものが欲しいと感じたところです。


もう一つ感じたのは、ぜひ「指定管理者」方式を採用していただき、イベント等をからめた幅広い魅力的な運営ができるということです。例えば50人ほどが座って映像を楽しめる階段状のミニホールがあります。


100インチスクリーンには、小野伸二選手、高原直泰選手、岩下敬輔選手が大写しでインタビューに答えている映像が映っていました。おそらく、このような感じの映像を、ほとんど入場者のいないホールで開館時間中流れているのでしょう。


こういった点について事業性を考えれば、これだけのコンテンツを無人の部屋に流しておくのは、ただただもったいない限りです。おそらく、いまはスルガ銀行さんが収益度外視で運営費をみてくれているのでしょう。それにしても、これだけのハードとソフトを生かさない手はありません。


これにフォトギャラリーなどが加われば、私がイメージしている「サッカー文化フォーラム」の施設イメージです。


ということは、ぜひ「指定管理者」を導入していただきたいと思いますし、当フォーラムに任せて欲しいと思います。


そのようなことを感じた「静岡サッカーミュージアム」でした。