「サッカー文化フォーラム」夢追い人のブログ

1993年のJリーグ誕生で芽生えた日本の「サッカー文化」。映像・活字等で記録されている歴史を100年先まで繋ぎ伝えます。

Jリーグスタート以降、日本サッカー30年の記録から(6) 21歳にして日本代表で「別格の存在」となった中田英寿選手、その「心・技・体」をあらためて記録に留めます(その2)

2023年01月22日 17時27分18秒 | サッカー選手応援
前回の(その1)では、21歳にして日本代表で「別格の存在」となった中田英寿選手の足どりを振り返っておきました。

2006年6月22日、ドルトムントのホームスタジアムでのブラジル戦の終了ホイッスルが鳴ると、ピッチ中央に仰向けに横たわり、まるで精も根も尽き果てたかのように選手生活に幕を閉じた、中田英寿選手。

1993年、16歳の時から日本代表のユニフォームを身にまとって国際舞台に立ち続け、弱冠21歳にして日本代表の「別格の存在」となって9年のも長きにわたって日本代表を牽引してきた中田英寿選手。

中田英寿選手は、何故、それほど若くして「別格の存在」となり得て、何故、9年のも長きにわたって牽引し続けてこれたのでしょうか?

そのことに思う時、中田英寿選手の「心・技・体」のすべてが、まさに当時の代表選手たちに比べて1歩も2歩も先を行く高いレベルにあったからではないかと感じました。

つまり中田英寿選手は、早くから自らの「心・技・体」を鍛錬し続け、20歳代になろうかという頃には、そのすべてを高いレベルまで鍛え上げたが故、若くして「別格の存在」となり得たのであり、その後も「心・技・体」の鍛錬を怠らなかったが故、長きにわたって日本代表を牽引できたのだと思うのです。

今回は「早くから「心・技・体」を鍛錬し続けた中田英寿選手」について記録に留めておきたいと思います。それが中田英寿選手のことを後世に語り伝える上で、欠かせないと確信しています。

まず、その「心(しん)」。
中田英寿選手はメンタル面で、当時の他の選手より抜きん出ている点がいくつかあります。

一つは平常心というか、どんなことにも動じない、感情の起伏の少ない、強い精神力です。前回も書きましたが「W杯なんて一つの大会に過ぎない」と捉えるマインド自体が驚異的です。サッカー選手なら最高峰の舞台でプレーすることは夢でありも目標であるのが一般的な捉え方ですが、中田英寿選手はそうではありません。

そもそも、中田英寿選手は「「サッカーは人生のすべて」といった考え方でサッカーをやっているわけではない」と常々話している選手です。

たまたま、今のこの時期、サッカーでさまざまな経験を積めるし、自分も成長できるからサッカーをやっているだけ、といったフラットな気持ちでサッカーを捉えている人です。

そのことは平常心として肩に力の入らない精神状態をもたらしますが、反面、こだわりのない淡白な気持ちにも陥りやすいものです。シドニー五輪のベスト4を賭けたアメリカ戦、日韓W杯のベスト8を賭けたトルコ戦、中田英寿選手も悔しかったには違いないでしょうけれど、他の選手ほど悔しい気持ちには見えませんでした。

かと言って、すべての場面で淡々と、淡白にプレーする選手かと言えば違います。ジョホールバルの奇跡を生んだ獅子奮迅のプレーぶり、衝撃的なデビューを飾ったセリエA開幕戦のユベントス戦のプレーぶり、2001年コンフェデ杯準決勝・土砂降りの豪州戦で見せた地を這うようなFK、さらにはASローマがシーズン制覇を決めたユベントス戦で途中出場ながら1ゴール1アシストをあげたプレーなど、ここ一番に持てる力を出し切る集中力も、どんなことにも動じない平常心と強い精神力の延長上にあるメンタルだと思います。

どんなことにも動じない平常心、強い精神力は、特に対外的な発信の場面でも顕著です。
中田英寿選手は、実はとてもフレンドリーな人だということを、少しでも接点のある人ならば口を揃えて言います。

そのフレンドリーさは、身近な人だけに示されるものではなく、一国の首相などを相手にした場合にも、動じない平常心と精神力に支えられて発揮されます。
セリエA・ペルージャでプレーしていた時、欧州歴訪中の小渕恵三首相がイタリアを訪問しました。

その時、小渕首相とイタリアの首相との昼食会に、イタリアで活躍する日本人として中田英寿選手が単独で招待されました。
普通であれば、一国の首脳の昼食会に単独で出席するなど、ビビる以外の何物でもない体験でしょうけれど、中田英寿選手はまったく違いました。

臆することなく堂々と二人の首脳との昼食会をこなしたのです。彼がいかに動じない平常心と精神力を持った人かを物語るエピソードです。

けれども、多くのメディアを通じて発信される自分のことや、日本代表に関する喧騒にも似た報道に対しては、常にクールにというか、フレンドリーさとは無縁の、時として冷淡と思えるほど起伏の少ない姿勢を貫きます。

その姿勢は、メディア側から見ると「この年代で、そういう態度をとり続けるのは考えられない」とばかり、時にはバッシングの対象にしたり、時には記事の中で皮肉たっぷりな見出しをつけたりしてきました。

例えば、こういうことがありました。中田英寿選手は「ピッチの上では対等」という考え方が特に強い選手で、日本代表での練習でも試合でも、必要なコミュニケーションをとる際「さん」づけなどの敬称をつけることは決してしません。

これは試合中の瞬時、瞬時の状況の中で必要なことを伝えるのに、いちいち長い名前を呼んだりしない、スポーツ競技なら常識でもあり、ピッチ上では「ヒデ !」「カズ !」「ナナ !」などと呼び合います。

ところがキャプテン・井原正巳選手は「イハラ」と呼ばれていたのでしょう。ある時、中田英寿選手が大声で「イハラーー!」と指示を出している姿と音声がテレビカメラに捉えられました。マスコミはすぐ飛びつきました。

決して否定的な論調ではないにしても「中田選手は井原正巳選手を堂々と呼び捨てにして指示していました」というコメントがつけば「へぇ~、中田選手は平気でそういう言葉遣いをする人間なんだ」という印象をもたれる可能性は十分あるわけです。

ですから、中田英寿選手の胸の内、心の内を知り得ない一般人の多くがメディアの論調を真に受けて中田英寿選手のイメージを抱いていました。
そのことで、中田英寿選手がずいぶん損をしたのではないかとも思いますが、中田英寿選手は、それに頓着することなく「どうせメディアが勝手に作っているだけだから」と受け流してきました。

20歳代前半の青年が、メディアという巨大な力に対しても、なんら怯むことなく、臆することなく堂々とした姿勢を取り続けていたというのは、驚異的であり、他の同世代の選手たちと比べて、はるかに抜きんでたマインド、精神力の持ち主だということを示しています。

しかし、それほどに強靭な精神力の持ち主の中田英寿選手も、全国紙のインタビュー記事が発端となって、いわゆる右翼団体からの執拗な糾弾行為にさらされたことがありました。当時、若干21歳の青年に対するものです。

彼がいかに強靭とはいえ、糾弾行為から身の安全を確保するために取らざるを得なかった日々は、どれほど恐怖だったことか。事情を知らないメディアなどは、いい加減なことを書きたてました。しかし、彼は医師の診断で「極度のストレスが原因」と言われるほどの症状を呈するほどに追い詰められていました。

この時、中田英寿選手はフランスW杯のため日本を離れることができたため、致命的なことにならずに済みましたが、これが日本から離れられない状況がもっと続いたならと考えると、暗澹たるものがあります。

この「どんなことにも動じない平常心、強い精神力」は「非常に明晰な頭脳」と合わせ持っている、中田英寿選手の「資質」にほかなりませんが、それは、日本代表チームの一員として他の選手たちと同じ目線に立とうとする場合、自分の精神的強さ、頭脳明晰さがあまりにも抜きん出ているが故に、かなり他の選手たちと相和するのが難しいというハンディを背負うことになります。

チームの中で若い方に属する20歳代半ばまでは、自分がマイペースで他の選手たちとつるむことがなくても、せいぜい「変わったヤツ」と見られるだけで、そのハンディはさほど表面化しませんでしたが、20歳代後半、特に自分が自他ともにチームリーダーとして見られる、2006年ドイツW杯に向けたチームの中では、その強い精神力が邪魔をして、チームメイトから反発を買うことになっていきます。

すべからく団体競技のチームは、いわゆる「チームとしてまとまり」「チーム全員がお互いに助け合って」勝利にまい進することが基本であり、強いチームというのは「まとまり」や「互いに助け合う」マインドが他のチームより勝っているのが普通です。

そんな中で、リーダー格の選手に対する他の選手の意識が違う方向を向いていれば、いわゆるベクトルが合わないわけで「まとまり」や「互いに助け合う」マインドが他のチームより勝るのは難しくなります。

中田英寿選手の「心」の部分で唯一、残念なのは、そのあまりに強い精神力、平常心に加え、人とつるむことを好まないマイペースな性格が、チームの他の選手たちを遠ざける結果となったことです。

中田英寿選手は平塚に入団した理由の一つに「タテ社会ではないみたいだから」というチーム内の風通しのよさをあげ「ピッチの上では皆、対等」という考え方を貫いてきました。しかし、年月を経て、自分がチームの中で先輩と呼ばれる立場になり、若い選手たちから「こうして欲しい」と要求されたり「自分たちはこう思う」と意見される立場になった時、自分が若い時に望んでいた「タテ社会ではない関係」とか「ピッチの上では対等」といった考え方で、後輩選手たちにも接したかどうか・・・。

逆に「ヒデさんはタテ社会の先輩」であり「ヒデさんの前では対等たり得ない」と思われるようなふるまいになっていなかったのかどうか、もし、そうだとしたら、若き日に先輩たちに対して行なっていたふるまいがブーメランのように自分に返ってきたのではないかとすら思ってしまいます。

それでも中田英寿選手は、彼なりに全力を尽くしています。2006年ドイツW杯の第一戦・豪州戦に逆転負けした後、次戦クロアチア戦を3日後に控えた夜、中田英寿選手は選手だけの夕食会を提案して実現させています。

日本代表の歴史には、選手だけのミーティングや食事会で徹底的に議論を戦わせたことがターニングポイントとなって、チームが劇的にまとまり快進撃を続けたケースが幾つかあります。

中田英寿選手もそうした「チームとしてのまとまり」を取り戻したい一心で提案して実現した夕食会だったに違いありません。
でも結局それは夕食会以上のものにはなりませんでした。中田英寿選手と他のすべての選手、その間に生じた溝は埋まることなく大会は終わりました。

ブラジル戦終了後、ピッチ中央に仰向けに横たわった中田英寿選手のもとに近づく選手が一人としていなかったという現実が、その溝の深さを物語っていました。

これは「ないものねだり」なのかも知れませんが、もし中田英寿選手が、その食事会で、自分の思いをすべてさらけ出し「まとまって戦いたい」「そのために自分がどうすればいいか教えて欲しい」といった趣旨のスピーチでもしていたらと思います。

中田英寿選手ではなく「中田英寿氏」となった今、聡明な氏のことですから、いろいろと思うところはあると思います。けれども、当時の自分の考え方やふるまいを、決して後悔することはないと思います。

中田英寿選手が自ら発信したインターネットでの記録は、「nakata.net」という書籍になっています。欧州のサッカーシーズンである秋から春まで毎にまとめられているのではないかと思いますが、05-06、すなわち現役生活最後となったシーズンの本を読んでみますと、2005年11月16日に国立競技場で行われたアンゴラとの試合について、とても興味深い記述があります。

少し引用します。「実は今回ほど、やっていて虚しさや寂しさを感じた試合も初めてだと思う。
特に、後半の途中、試合中なのにもかかわらず、まるで俺自身が第三者かのように試合を感じた瞬間があった。
その時、観客席をふっと見上げたら、両ゴール裏のサポーター席を除いた正面スタンドとバックスタンドは、まるで誰も試合を楽しんでいないかのように静けさが漂っていた。
そして、その視線をグラウンド上に落としてみた。そしたら案の定、ピッチの上にも同じような静けさが漂っていた。試合中にもかかわらず・・・・。
それを見た瞬間、恥ずかしながら俺はそのピッチ上の状況を打開する術が、思い浮かばなかったし、何のために試合をやっているのか混乱してしまった。そして、他の選手たちは一体どういう気持ちでやっているんだろうか、何を目的でサッカーをやっているんだろうか、と考えてしまった。
チームとしてこの試合で何をやりたいのか、それぞれ個人として何をやりたいのかが見えなかったんだよね。
〈中略〉
日本代表が今のレベルからもう一つ上のレベルに行くには、相手が強い時や跡が無いような厳しい状態の時に、出来るサッカーを常時やる "集中力と精神面の強さ"を手に入れるだけでいいと思う。
それは、本当に個人個人の気持ち次第。
味方に要求できる強さ、味方を信じて走れる強さ、味方を助ける声を出せる強さ、そんなちょっとした強さが今の日本代表に一番欠けている事だと思う。」

以上が引用部分ですが、この日の記述について編集者のコメントだと思いますが、「翌年7月3日のメールには『半年前に引退を決意した』と綴られているが、引退決意は実はこのころから徐々に本格的なものに固まりつつあったのかもしれない」というコメントがついています。

今回のテーマである「21歳にして日本代表の別格の存在となった中田英寿選手の「心・技・体」」のうち「心」の部分は、そのあまりに強靭な精神力、他を寄せ付けないマイペースな性格ゆえに、自分のサッカー人生の集大成にしたかった最後の大会にきて、チームメートの共感を得られないという破綻をきたしてしまいました。

引用した記述にもあるように、中田英寿選手が指摘している「日本代表に欠けている点」は、まさに「もっとも」なことです。ですから、何年経過しようが、後年の中田英寿氏は、何一つ悔いがないわけです。
当時も、このことに異論を挟む代表選手はいなかったと思います。
にもかかわらず、実際は、他の選手たちに、その思いは伝わりませんでした。
中田英寿選手も、さきに引用した日の最後にこう記述しています。

「ただ、これらはすべて他人が助けてくれる事ではなくて、自分で変えるしかないのだけれど・・。」

つまり、中田選手の思いが伝わらなくても、それは仕方のないこと、各自が自分で変えるしかないことなので、変わらなければ仕方のないこと、と思い定めていたようで、あとは自分が現役を辞めることしか選択の余地がないと心に決めたのだと思います。

さて、中田英寿選手の「心」の部分の大きな特徴として「どんなことにも動じない平常心、強い精神力」について述べてきましたが、もう一つの特徴は「非常に明晰な頭脳」です。その具体的な要素として「語学力」「研究心」「先見性」があげられます。

まず「語学力」。私たちが舌を巻いたのは、セリエA・ペルージャに移籍して現地で開いた最初の記者会見です。現地の記者から「何かイタリア語で一言」と問われ、即座に流暢なイタリア語で「もうお腹がすいたので勘弁してよ、パスタでも食べにいきたいな」と返したのです。

21歳のサッカー青年が、実は大変な勉強家で、イタリア語会見に耐えられるだけのボキャブラリーを習得していたことを、まざまざと知った場面でした。

「研究心」でも、数々のエピソードがあります。中学時代に中田英寿選手にサッカーを指導した方は、何かを教えた時、他の選手からはさほど質問が出なくとも中田英寿選手だけは、先生があきれるほど質問してきたといいます。自分が納得いくまで探求する、その姿勢も彼の持つ資質です。

その「自分が納得いくまで探求する」姿勢は、Jリーグ入りした時、そして欧州挑戦を決めた時のクラブ選びでも如何なく発揮されました。

山梨・韮崎高校からJリーグ入りする際、(その1)でもご紹介したとおり当時の12クラブ中、11クラブから誘いを受けるという高評価の中、横浜M、横浜F、ベルマーレ平塚の練習にそれぞれ参加しています。

中田英寿選手は、選ぶ基準を明確に持っていました。それは「自分が活きるポジションですぐ試合に出られる可能性があるクラプ」というものでした。その結果、平塚を選んだわけです。「タテ社会ではないみたいだから」つまり、先輩の言うこと、目上の人が言うことが絶対みたいなチームではなさそうというのも中田英寿選手の判断の決め手だったようです。

そして欧州挑戦を決めた時の選択基準もほぼ同じでした。当時、欧州のビッグクラブといわれるチームからのオファーも幾つかありました。

サッカー選手であればビッグクラブの一員になることは、W杯でプレーすることと同様、夢であり目標です。しかし、中田選手は「ビッグクラブの一員になっても、すぐ試合に出られなければ意味がない」という考えのもと、例え小さなクラブでも、自分をキチンと評価してくれて試合に出られる可能性の高いクラブ、ということでセリエAに昇格したばかりのペルージャを選んだのです。

このように、自分がキチンとして基準を持ち、それに合うクラブを納得いくまで調べて、確認して、その上で決めるという確固たる姿勢を、若くして貫いたことが、彼の成功の大きな要因だと思います。

選ぶクラブがビッグクラブで「常勝軍団」であることなど、彼にとっては不必要だったようですが、それは逆に、そういうクラブの一員が持つ「勝者のメンタリティ」を涵養する機会を得られなかったのではないかという、ある意味の「悲劇」でもあったのではないかと当ブログは指摘しておきたいと思います。

日本に来た大物外国人選手、あるいは指導者の中で、ジーコやドゥンガ、あるいはベンゲルといった人たちはサッカープレーヤーの持つべき大切なマインドに「勝者のメンタリティー」をあげています。

「勝者のメンタリティー」を分かりやすく言えば、それは「負け犬根性を持つな」「勝負には絶対勝つんだ」というマインドをチームを構成するすべての選手が共有していなければ、試合には勝てないんだ、ということのようです。

そして、「勝利」を重ね続けているビッグクラブ、常勝軍団と呼ばれるクラブには、長い間に培われてきた、その「勝者のメンタリティー」が備わっており、どのクラブも、そこを目指していくべきだ、ということのようです。

中田英寿選手が選んだクラブは、対照的に、まだ「勝者のメンタリティー」が備わっているとは言い難いクラブだったと思います。

そこで自分が常に試合に出続け、スキルと経験を積むことはできたと思いますが、チームがタイトルを取るとか、王者と呼ばれることはありませんでした。

「どんなことにも動じない、感情の起伏の少ない平常心」のところでも書きましたが、シドニー五輪のベスト4を賭けたアメリカ戦、日韓W杯のベスト8を賭けたトルコ戦、中田英寿選手も悔しかったには違いないでしょうけれど、他の選手ほど悔しい気持ちには見えなかったのは、この「勝者のメンタリティー」と無縁ではないのではないか、そう思えてならないのです。

中田英寿選手の持つメンタリティーの3つ目の要素「先見性」で特筆すべきは、当時のアスリートとして初めてといえる「インターネットを通じた独自の情報発信を始めた」という点です。

自分の公式サイトを開設して、情報発信するというスタイルはサッカー選手のみならず、当時の日本のスポーツ界を見渡しても最初の取り組みだったのです。

それは、メディアが自分のことを取り上げる時、まったく自分を理解していないかのような内容であることに愛想をつかし、メディアを頼った情報発信に見切りをつけて始めたことでもありますが、それを20歳代前半にして始めてしまう先見性は目をみはるばかりです。彼の不断の研究心がもたらしたものでもあります。

こうして自らが情報発信するようになってから、中田英寿選手のメディアへの露出、特にテレビ出演は明らかに変化しました。

まず、自らがプロデュースした番組を2000年7月からCS(スカイパーフェクTV!)チャンネルに開設しました。「nakata.net TV」と題して、月1回ペースで自身の近況報告やプライベートなことを発信するインタビュー、あるいは親しい人との対談などの内容で、さしずめ「元祖・個人チャンネル開局=ユーチューバー」といったところです。

ですから、地上波のテレビ出演の必要がなくなった形となり、地上波出演をほとんど受け付けない時期もありましたが、次第に信頼のおけるキャスター、例えばテレ朝・ニュースステーションの久米宏氏などの番組、あるいは作家の村上龍氏がインタビュアーを務めるような番組には、ある程度の間隔で定期的に出演するという向き合い方に変えていったようです。

それ以外の、いわゆるバラエティ番組やワイドショー系の番組には一切出ないという姿勢を貫いたようです。

「先見性」については、もう一つ特筆すべき点があります。
それは彼が「サッカー選手である自分という存在が、一つの知的財産である」という認識を持っていたという点です。

中田英寿選手があまりファンとの写真撮影やサインに応じないのは有名でしたが、これも彼が気難しいからとか、面倒くさがり屋からと言った理由ではなく、それらが安易に使用されたりすることを嫌ったからと言われています。

こうした「肖像権の無断使用」など、知的財産権を侵害する行為に対する高い防衛意識をもって、考えをはっきりと主張したことにより、他の多くの選手、他のスポーツのアスリートたちも、その重要性を認識するようになったという点でも、彼は先駆者であり「先見性」を持った選手だったのです。

次に「技(ぎ)」について見ていきたいと思います。
中田英寿選手が16歳でU-17世界選手権の舞台にたった当時、彼のピッチにおける主戦場は、サイドハーフというかウィングにあたるポジションでした。

そこで彼は、国際舞台でも十分通用するスピード(走力)を披露します。ドリブルやクロスの精度といった技の部分も、大会までの長期間にわたる合宿や自主練習でかなり向上しています。

次に彼は、ベルマーレ平塚で、いわゆるトップ下のポジションに求められるスキルを磨きます。広い視野を確保するための姿勢をとり、常に周りの状況を首を細かく振りながら確認するプレースタイル、そこで得た状況判断から繰り出されるスルーパス。

中田英寿選手の凄いところは、常に動きながらも、そうした周りの確認、状況判断を怠らずに続け、その精度をあげていこうとする向上心です。

中田英寿選手が繰り出すスルーパスは「キラーパス」と呼ばれます。平塚時代に出す彼のパスは、決してJリーグ仕様の、緩いものではなく、世界のトップリーグレベルの試合で求められる国際仕様の高速パスなのです。

それは、いずれ自分が海外でプレーした際に通用するパス精度を磨くという意味と、Jリーグや日本代表も、これぐらいの高速パスを普通に繰ることができなければ、国際舞台では通用しないというメッセージがこもったものでした。

スピードの遅い日本人選手の速度に合わせたパスを出すという選択はしませんので、その高速パスが、もし通れば、まさに相手を仕留めることができるキラーパスなのですが、受け手がなかなか追いついてくれない場面が出てきます。

それでも、受け手が誰であろうと「このパススピードが世界基準なんだから、受けてくれ」と言わんばかりのキラーバスが繰り出されます。

平塚でも日本代表でも、受け手の選手からは泣き言が出されましたが、その一貫したプレースタイルはペルージャ移籍以降の海外での経験に活きていきます。

このスルーバスについては、よく相手のスピードに合わせた、ほど良いパスを繰り出す選手と比較されることがあります。

代表的なのは小野伸二選手です。彼が繰り出すパスは、相手の欲しいところにピタリを収まることが多く、それは「エンジェルパス」とか「ベルベットパス」と評される、相手に優しいパスということだと思います。

どちらが良い悪いという見方はまったく無意味です。けれども、大きな違いが一つあります。パス一つでチームが盛り上がり、まとまって勝利を目指せる力を与えるのはどちらか、と言えば、これは小野伸二選手のパスだと思います。

「キラーパス」は相手を一発で仕留める効果も持ちますが、追いつけなかった味方の士気を削ぐリスクもはらみます。それは、チームのまとまり感、盛り上がり感の強さにも影響を与えます。

1999年ワールドユース選手権で、小野伸二選手が果たした役割は、まさに自分のバスで見方を盛り上げ、まとまって勝利を目指す力を与えたものだったと思います。

中田英寿選手の「キラーパス」を語る時、それが日本代表や所属クラブを国際基準に引き上げるためのメッセージを込めたパスではあったと思いますが、目の前の試合、目の前の大会を勝ち進む手段として、果たしてどうだったのでしょう。

特に2006年ドイツW杯の日本代表チームが、1戦毎にチームとしての「まとまり」を失っていったのではないかと思われる様子を見た時、イレブンの思いが「司令塔の中田英寿選手を中心に戦い抜くぞ」という結束力とは縁遠いものになっていたのではないでしょうか。その見方は穿ち過ぎでしょうか。

次に「プレースキック」に触れたいと思います。
中田英寿選手が「日本代表の別格の存在」になる1997年夏あたりまで、彼がプレースキックを任されることは、さほど多くなかったと思います。

けれども、日本代表でも、ペルージャでも、彼の存在が大きくなるにつれ、プレースキックを任される場面が増え、その経験をもとに精度も少しづつあげていきます。

のちに日本代表では中村俊輔選手と言う稀代のプレースキッカーが現れたことから、中田英寿選手はあっさりと、彼にその座を譲ります。

最後に「シュート」の技についても触れておきたいと思います。
中田英寿選手は、もともとFWポジションが長い選手ではありませんから、そのシュートが注目される機会は少なかったのですが「日本代表の別格の存在」になってからは、常に得点に絡むことが求められ、また海外でプレーを始めてからは、攻撃陣であれば点に絡まなければ失格とさえ評価される厳しい環境の中で、得点に対する意識を相当高めたようです。

ベルマーレ平塚でプロ選手としてのキャリアを始めた頃、同僚で大先輩のGK・小島伸幸選手が、中田英寿選手の練習における意識の高さに舌を巻いたそうです。

中田英寿選手が練習後、自主練習の形で誰もいないゴールマウスに向かってシュート練習をしていたそうです。ところが、ほとんど枠に飛ばないことから小島選手が「こいつ、へたくそだなぁ」とあきれていたそうです。すると中田英寿選手のシュート練習につきあっていたコーチも、小島選手と同じ思いで怒声を浴びせたそうです。

すると、中田英寿選手は「何言ってんですか、試合中はGKがいるんですよ、それを考えたらポストの内側20センチじゃなかったら決まるわけないでしょ」と言い返したそうです。

それを聴いた小島選手は「とことん、思い知らされましたよ、中田英寿ってのは、ホントに目標設定が高い男なんだなぁって」

そのような意識の高い練習の積み重ねの延長線上に、オーバーヘッドキックでゴールを決めて見せたり、強烈なミドルシュートでゴールを奪うなどの結果があり、まさに万能型のゴールゲッターに成長しています。

このように「ドリブル」「パス」「プレースキック」「シュート」のどれをとっても非常に高いレベルまで自分のスキルを磨き、上達していったのは、彼の「あくなき向上心」があったからだと思います。

16~17歳の頃は、走力と身体の強さだけが国際レベルでも通用する選手でしたが、その後の練習と研究で、「視野の広さと一瞬の状況判断」「ドリブル」「パス」「プレースキック」「シュート」どの技も国際レベルまで引き上げていったことがわかります。

チームの司令塔としての役割も、これらのスキルが高まるとともに強まったと言えます。まだ10代の頃、チームの司令塔は常に別の選手が務めていました。それが、21歳になる頃には、クラブでも日本代表でも、チームの司令塔と言えば彼のことを指すようになりました。

日本代表での中田英寿選手が、まさに司令塔としての地位を確立したことを示す象徴的な記事があります。2000年1月1日付のスポーツ紙各紙は、この年のスポーツの中心的なイベントであるシドニー五輪に関する特集を組みました。

その中で「スポーツ報知」紙は、サッカー五輪代表が中田英寿選手に率いられ32年ぶりのメダル獲得が期待できるとして「中田を感じる 中田で変わる 中田が勇気に」という見出しを打ちました。


彼が五輪代表の中心選手として、いかに圧倒的存在であるかをよく表現している見出しだと思います。
「司令塔」は、彼が飽くなき努力を積み重ねて自分の「技」を磨き、その結果に得たポジションです。

最後に「体(たい)」について見ていきます。
すでに書きましたが、1993年にU-17世界選手権に出場した日本代表は、その2年前から強化が始まっていますが、当時、中学2年生だった中田英寿選手は、関東選抜の一員に選ばれています。そこから日本代表候補の選考が行われたわけですが、当初、彼を送り出した指導者の方は、日本代表候補に残るのは難しいのではないかと感じていたそうです。

ところが、日本代表候補にピックアップされたので、指導者の方は理由をたずねたそうです。その答えは「確かに彼は技術的には不十分ですが、走力、敏捷性などのフィジカル面で秀でており国際試合で通用するだけの素質を持っていますので」というものでした。

当時まだ中学生でしたから体は細かったのですが、走るスピードと、身のこなしの素早いムチのような身体を持っていたようです。

その身体に、少しづつ筋肉をつけ、当たり負けしない体幹を鍛え、日本代表での国際試合でも、海外クラブでの試合でも、少々では倒れない強靭な身体を作っていったわけです。

中田英寿選手の「体(たい)」を語る上でもう一つ大切なことは、長期離脱を強いられるような大きなアクシデントに見舞われることがなかった点です。

それは持って生まれた骨格の強靭さと、選手生活の中での徹底した自己管理、ケアの賜物なのですが、実は食生活という点では、やや苦労したようです。

実は大変な野菜嫌いで通っていて、頑なに野菜を食べない理由としては、「野菜を食べて得られるものより嫌いなものを無理して食べるストレスの方が影響が大きい」と話してしたそうです。

身体づくりの上でハンディとなったことと言えばそれぐらいで、2004年春あたりまでは、海外クラブ在籍中も含めて、長期離脱せずに日本代表を支え続けた「体」は、驚異的ですらあります。

サッカー選手にケガはつきものと言われるほど、ケガのリスクを抱えながらプレーすることになるわけですが、中田英寿選手の凄いところは「技(ぎ)」のところでも触れましたが、常に相手の状況を把握し続けながらプレーすることで、後方からのタックルや激しい接触プレーなどの不測の事態になるべく巻き込まれないようにしてきたことです。

それも中田英寿選手を「日本代表の別格の存在」たらしめ、それを長きにわたり維持し続けられた大きな要因だと思います。

ケガには強い中田英寿選手も勝てないアクシデントはありました。それはサッカー選手の職業病とも言われている、通称・恥骨炎になったことです。
2003~2004年シーズン終盤、2004年春あたり、ボローニャ在籍当時に発症したそうですが、痛みをおしてシーズンを戦いボローニャの1部残留に貢献しました。

シーズン終了後のオフ、2ケ月間は治療に専念して2004~2005年シーズンはフィオレンティーナに移籍、新シーズン当初から復帰しましたが、オフのトレーニング不足がたたりパフォーマンスが上がらず、日本代表の招集も約1年間にわたり見送られました。

2005年3月、約1年ぶりに日本代表に召集されましたが、この日本代表での1年のブランクは、実は、中田英寿選手抜きで、ドイツW杯アジア予選を戦ってきた他の選手たちとの心理的な距離を広げてしまった不幸な1年間だったようです。

特に日本代表ジーコ監督が、あたかも中田英寿選手にポジションを用意してあげるかのような布陣をとったことが火に油を注ぐことになったようです。

恥骨炎が癒えてまもない中田英寿選手のパフォーマンスが、目に見えて低調なのを見た他の選手たちは、不満を募らせていき、以前のように別格の存在としては見ず、一人だけ浮いている存在として見る選手が増えてしまいました。

「中田英寿選手の「心・技・体」」の「心(しん)」の部分でも書きましたが、自分のサッカー人生の集大成にしたかった最後の大会、2006年ドイツW杯において、チームメートの共感を得られないという破綻をきたしてしまいましたが、その破綻を招くことになったのが、2004年春から2005年3月までの恥骨炎という「体」の異変による日本代表からの離脱でした。

ドイツW杯グループリーグ敗退を見届けて、あっけなく選手生活の幕を閉じた中田英寿選手ですが、「心・技・体」のすべてをハイレベルな状態に鍛え上げ、維持し続けて10歳代後半から20歳代の長きにわたり疾走し続けたことを思えば、完全燃焼して精魂尽き果ててしまっても、何ら不思議ではないことなのかも知れません。

しかし、最後の最後は、不幸な終わり方だったなぁと思います。ドルトムントの空を見上げて「これが最後の試合だ」と中田英寿選手が思っていたことを、チームメートの誰一人知らずにいたのですから。

選手時代の中田英寿選手は、一般受けするようなリップサービスや愛想のいいふるまいなどを意識的に避けてきたようにも思います。

本来はとてもフレンドリーなオープンな人柄でも、メディアからの自己防衛本能や、平静で動じない性格もあって、一般のサッカーファンから見た場合、例えばカズ選手やゴン・中山雅史選手などに対して抱く選手像とは対極にあるタイプの選手に映ったことでしょう。

それでも「何もそこまでしなくても」と思うようなエピソードもあります。
1997年11月、マレーシア・ジョホールバルの奇跡を起こした試合後、ピッチ上ではお祭り騒ぎのようにしてイレブンが集合写真やTVカメラ撮影に応じていますが、なぜか中田英寿選手だけは、写真やTVカメラに映りこもうとせず、ひたすら最後方をウロウロしているように見える姿が残っています。

まさに「何もそこまでしなくても」と思うような行動ですが、一種の照れ隠しだったのかも知れません。この試合のヒーローが中田英寿選手であることは誰の目にも明らかなのですが、それ故、彼は「そんなに自分をクローズアップしないでください」という気持ちになっていたのではないかと思います。

一方で、自分が得点を決めた時はなおのこと、味方の得点や勝利の瞬間にもクールに、控えめにしか喜びを表さない中田英寿選手にも、長い選手生活の中で、こんなに喜びを爆発させたことがあるんだ、という場面のスポーツ紙の記事もあります。

2002年W杯のグループリーグ第2戦、ロシアとの試合でゴールを決めた稲本選手を祝福するため、多くの選手が飛びつくようにして輪を作りましたが、その輪に中田英寿選手も喜びを爆発させながら、少し遅れ気味ではありますが、飛びついた場面です。

このような表情の中田英寿選手は本当に珍しく、普段はどう考えても控えめにしか喜びを表に出さない選手ですが、この場面を見ると、中田英寿選手も「喜びを爆発させることがある」普通の選手だとわかって、グンと親しみが増します。

今後、サッカー日本代表の中心となるような選手で、中田英寿選手のようなタイプの選手が、また現れるだろうかと自問した場合、なかなか現れる予感がしないタイプであるように思います。
おそらく、この時代だからこそ出現したカリスマではないかと思います。

理由は二つ、この1993年から2006年までの時代が日本サッカーが国際舞台に駆け上がる時代であり、中田英寿選手はまさに、その時代と歩調を合わせて成長した選手だからというのが一つ。

もう一つは、一般のサッカーファンに伝わる中田英寿選手のイメージがメディアを通すことによって少し歪められることがあり、それを嫌った中田英寿選手が、いち早く自らの手で情報発信するというアスリートとしては初めての取り組みをした選手であること、です。

これは、まさに時代的な背景が生んだ選手ということであり、今後の日本代表選手には、むしろ生まれにくい選手だからかも知れません。

しかし、中田英寿選手ほど若くして、しかも長期にわたり「日本代表における別格の存在」であったことは、Jリーグ以降の日本サッカーの30年における輝かしい偉業であることも事実です。

中田英寿選手が世界最高峰と言われるイタリアリーグで、堂々たるプレーを見せ続け、その割には大言壮語を吐くでもなく、終始、謙虚にふるまい続けたことにより、日本人プレーヤーに対する世界の評価を格段にあげてくれて、その後の多くの日本人選手の海外挑戦の道を拓いた功績は、称賛して余りあります。

この神秘的なカリスマのことは、これからも長きにわたって、いろいろな角度、切り口から語られていくと思いますし、すでに選手生活を終えて久しい中田英寿氏が、それら一つ一つに反応することは、これからもないと思います。

なぜなら中田英寿氏自身が、若い頃よく「「サッカーは人生のすべて」といった考え方でサッカーをやっているわけではない」と話していたものの、やはり14年間のサッカー人生から得たものも大きく、現在は「FIFA親善大使」を務めるほど、世界のサッカー界から見ても著名な存在になったことからも窺えるように、いろいろな角度、切り口から語られるだけの価値のある存在になっているからです。

当ブログも含めて私たちが意を用いなければならないのは、中田英寿選手を語る場合、それが例えば間違っても「名誉棄損」にあたるようなこととか「肖像権の無断使用」にあたるようなことなどについては、細心の注意を払わなければならないということです。すなわち「安易な考え方で」中田英寿選手を語ってはならないという「戒め」を持ち続ける必要があります。

中田英寿選手を近くで長い間ウォッチし続け、濃密なコミュニケーションをとり続けたことで、中田英寿選手も信頼を寄せ心を開いてきたジャーナリストが何人かいます。

もっと中田英寿選手に迫りたいと思えば、そうしたジャーナリストが残したテキスト、著作を丹念にひも解くのがいいのではないかと思います。

ただ、通算14年間という時間軸全体を通して「別格の存在となった日本代表」中田英寿選手を語っているのは、おそらく、当ブログの今回の2回シリーズしかないと思いますし、その核心部分が非常に高いレベルに鍛え上げられた「心・技・体」の部分であることに切り込んでいるテキストも、今回の2回シリーズしかないと思います。

それは、今回のシリーズが「Jリーグがスタートして以降の日本サッカー30年の記録から」というテーマであり、後世に残す記録としての価値を最重要視しているからに他なりません。

何十年後かに、この記録を読んだ方が、1993年のJリーグ草創期から進化・発展を遂げた2006年までの間「日本代表の別格の存在」であった中田英寿選手のことを伝える内容として、もっとも適切ではないかと思っています。

ご愛読、ありがとうございました。

【本稿は、1月22日(日)17時から書き始めていますが、最初の仕上がりは1月23日(月)21時過ぎです】
【1月24日(火)には、テレビ出演の件やジョホールバルでの集合写真の件などのところを一部加筆しています。】
【1月25日(水)には、ASローマでのリーグ制覇を決めた試合のところや、その後の日本人選手の海外挑戦の道を拓いた部分などを加筆しています】
【1月28日(土)には、「心」の部分にドイツW杯での夕食会の部分や、「体」の部分の恥骨炎の部分などを加筆しています】
【1月29日(日)には、「心」の部分の最後のところに、nakata.net書籍版からの引用など、「技」の部分のところに平塚時代のシュート練習のエピソードなどを加筆しています】
【2月2日(木)には、nakata.netTVのことなどを加筆しています】
【2月4日(土)には、「技」の部分に2000年1月1日付スポーツ報知特集記事のことを加筆しました】
【3月28日(火)には、2002年W杯のロシア戦で見せた、喜びを爆発させた中田選手の表情を捉えた記事などのことを加筆しています】
【6月28日(水)には、「体」の部分で野菜嫌いについて紹介して、発疹のため記者会見に少し色の入ったメガネをかけてきた話を記述しましたが、発疹は別の理由であることが判明しましたので削除しました。合わせて「心」の部分で、強靭な彼でも心折れかねない糾弾行為を受けた経験のことを追加しました。】
【加筆前にお読みになった方は、再度、完成稿をお読みいだたければと思います】


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Jリーグスタート以降、日本サッカー30年の記録から(6) 21歳にして日本代表で「別格の存在」となった中田英寿選手、その「心・技・体」をあらためて記録に留めます(その1)

2023年01月20日 12時47分12秒 | サッカー選手応援
日本サッカー30年の記録をひもとく時、1993年から2006年までの14年間、すなわち30年の前半分の期間、日本のサッカーを牽引してきた中田英寿選手の存在がいかに大きかったかを、2回シリーズで記録に留めておきたいと思います。

2006年夏、ドイツW杯のグループリーグ最終戦を終えたピッチ上に、仰向けに横たわり静かに自分の選手生活の最後をかみしめていたであろう中田英寿選手の姿は「伝説のシーン」として長く語り継がれるに違いありません。

あれから16年、すでに中田英寿選手の足どりを知らない世代も増えて来ましたので、(その1)では、本題に入る前に、その足どりを振り返っておきます。「中田選手の足どりなんて、人に教えるぐらい知ってるよ」という方も、何か新しい発見があるかも知れせんので、一通りお読みください。

・中田英寿選手が多くのサッカーファンの前で、そのプレーを披露したのは1993年8~9月、日本で開催されたU-17世界選手権の舞台です。

ご存じのとおり1993年は、まさにJリーグがスタートした年でしたが、同じ年に、中田英寿選手は、松田直樹選手、宮本恒靖選手、財前宣之選手、船越優蔵選手たちとともに国見高校の監督をされていたU-17日本代表・小嶺忠敏監督に率いられ、日本で開催された世界選手権にホスト国として参加したのです。

このチームは、将来のW杯日本招致を見据えてグループリーグ突破を目標にして強化が進められ、前大会優勝国のガーナをはじめ、イタリア、メキシコの入った厳しいグループを、見事勝ち抜きました。

このチームでは財前宣之選手が10番を背負った大黒柱でしたが、中田英寿選手も主力のサイドハーフで獅子奮迅の活躍を見せました。

特に第3戦のメキシコ戦の前半、右サイドを50mほど疾走、最後にもう一段加速して倒れ込みながら中央にクロスを送り、船越選手の先制ゴールをお膳立てしたプレーは圧巻でした。
代表でのキャリアの最初の頃は、サイドを駆け上がってクロスを供給するプレースタイルだったようでした。

・1995年、Jリーグをめざす高卒新人の最大の目玉として12クラブ中、11クラブから誘いを受けるという高評価の中、中田英寿選手は、自ら幾つかのチームの練習に参加した上で、ベルマーレ平塚を選択、入団しました。

・1995年、もう一つ上のカテゴリーの、いわゆる「ワールドユース選手権」にも主力として出場します。この大会では2トップのすぐ後ろに位置して攻撃陣の一角を担い2得点をあげ、グループリーグ突破に貢献しています。

・1996年、アトランタ五輪サッカーのメンバーとして、松田直樹選手と共にチーム最年少19歳で出場しています。

ご存じのとおり、この大会、初戦のブラジル戦に勝利して「マイアミの奇跡」と呼ばれることになりましたが、中田英寿選手自身は、チーム戦術が守備をガッチリ固める戦いに終始したことから「もっとDF陣が押し上げてくれないと勝てない」と不満を漏らしたこともあって、第3戦のハンガリー戦ではスタメンを外され、不完全燃焼となった大会でした。

・1996年、ベルマーレ平塚では得点能力の高いベッチーニョ選手をFWに据え、中田英寿選手をトップ下に置く布陣を採用、これ以降、中田英寿選手はトップ下を不動のポジションとして進化していきます。

・1997年5月、日韓共催W杯記念試合として東京・国立競技場で開催された韓国戦にフル代表として初招集されると、いきなりスタメン、トップ下を任され正確なスルーパスを連発、すぐにチームメイトの信頼を勝ち得て、多くのチャンスメイクに絡みました。

翌日のスポーツニッポン紙には「加茂監督は普通のオッサン、W杯は国際大会の一つと言い切る強心臓、(中略) 98フランスW杯出場を何気なくやって、2002年でも主役の座を手にしそうな背番号8」と、輝かしい未来を予見するような記事が載っています。

・そして同年9月からのフランスW杯アジア最終予選、期間中に加茂監督が更迭され岡田コーチが昇格するというショックに見舞われながら、ギリギリのところで第三代表決定戦のイラン戦に臨むところまで来ました。

中田英寿選手はこの時、弱冠21歳。すでに日本代表の中でも「別格の存在」といっていい程の存在感を示しています。

このイラン戦を戦いながら中田英寿選手の脳裏には、高校2年に出場した全国高校サッカー選手権時に提出したアンケートに「日本は98年フランスW杯に出場できると思う」と答え、その理由として「自分が出るから」と書いたことがよぎったのではないでしょうか。

「いまこそ、自分の力で初めてのW杯出場権を獲得する」「自分はそうやって道を切り拓いてきたし、アンケートに書いたことは絶対に実現する」という気持ちが、あのイラン戦での、これでもかこれでもかというチャンスメイクを生み出したように思います。

あのイラン戦でのプレーは、かつてアトランタ五輪アジア最終予選の準決勝サウジアラビア戦で前園真聖選手が見せた、ここ一番の鬼気迫るプレーに匹敵する中田英寿選手の渾身のプレーだったと思います。

その結果、中山雅史選手の先制ゴール、城彰二選手の同点ゴール、そして岡野雅行選手の劇的なVゴールを引き出し、彼が高校時代に自らに課した約束を見事に果たしたのです。

中田英寿選手自身も「「ジョホールバルの歓喜」として語られている、あの試合の結果があったことで、国内外からの注目度が一気に高まり、同年12月に開催された「フランスW杯組み合わせ抽選会記念試合 世界選抜対欧州選抜」にも選抜され、その後、日本代表の不動の司令塔として、また自ら海外でプレーすることになるキャリアのターニングポイントになった」と語っているようです。

・1998年6月、フランスW杯に初出場、3戦全敗でグループリーグ敗退した日本代表にあって、一人、中田英寿選手は世界と伍して戦える逸材として高い評価を得ました。

・98-99シーズンの戦力強化を図る海外クラブの中で中田選手獲得に名乗りをあげたクラブは12にのぼったそうです。ここでも95年にベルマーレ平塚を選んだように、彼の深謀遠慮が発揮されます。加入後、すぐにレンタルに出されてしまいそうなクラブを避け、チーム作りで自分が活きるクラブを探し、1998年7月、セリエAに昇格したペルージャに移籍しました。

・同年9月、開幕戦で王者ユベントス相手にいきなり2ゴールを奪うという驚異的なパフォーマンスでデビューを飾りました。

・以降、2000年シドニー五輪サッカー、2002年日韓W杯そして2006年ドイツW杯に至るまで、文字通り日本代表の大黒柱として欠かせない存在であり続け、また、その期待を背負い続けてきました。

・2002年日韓W杯は、自国開催でありグループリーグ突破が至上命題とされた大会です。トルシエ監督が4年かけて作ったチームの大黒柱は中田英寿選手であり、プレー面でもチームワーク形成の面でも中田英寿選手の双肩にかかる期待は相当なものでした。

 その期待を背負いながら中田英寿選手は見事にそれに応え、グループリーグを首位で突破するという日本サッカー史に刻まれる偉業を成し遂げたチームの、紛れもないリーダーでした。
 こうして自分に寄せられた日本代表としての期待に一つひとつ応えながら、代表でのプレーを終えると自分の所属するヨーロッパのクラブへと淡々と帰るサッカー人生を続けてきました。

・この間、所属クラブがペルージャからASローマ、パルマ、ボローニャ(レンタル)、フィオレンティーナ、ボルトン(プレミアリーグ)と変わっています。

ペルージャでの成功の高揚感を知る者にとっては、ローマでのスクデット獲得などの栄光はあったものの、中田英寿選手が、それぞれのクラブでの、さまざまなチーム事情も絡んで、なかなか大黒柱として完全燃焼できる機会を得られなかった印象があります。

ポジション的にも、本来のトップ下のポジションでプレーできたかというと、必ずしもそうではなく、ボランチやサイドハーフなど、監督の方針やチーム事情に左右されたポジションを黙々とこなしていた印象です。

代表での立場も、2002年まではトルシエ監督の強い意向のためクラブとの兼ね合いに苦労する状況が続き、ジーコ監督になってからは、チームの中で図抜けた存在であることがチームメイトとの間に微妙な隔たりを生み、必ずしも幸福な代表人生とはいえなかった印象があります。

そうしたクラプでの状況や代表での立場が、徐々に中田英寿選手から「純粋にサッカーに情熱を傾ける」マインドを削いでいったことは想像に難くありません。

・そして2006年、すでに前年11月にドイツW杯を最後に引退の意向を固めていた中田英寿選手の最後の舞台ドイツW杯、6月22日のドルトムントのホームスタジアムで行われた第3戦ブラジル戦、1分1敗で後のない日本代表は玉田圭司のゴールで先制しますが、結局1-4でグループリーグ敗退が決まってしまいます。

試合が終わって選手たちがロッカーに引き上げる中、中田英寿選手がセンターサークルで仰向けになりドルトムントの空を仰ぐシーンが、彼のピッチでの最後の姿になりました。

ブラジル戦から10日後、2006年7月3日、彼の公式HPで現役引退が発表されました。

・その後の彼の多彩な活動は、多くの人が知るところですが、やはり日本代表の別格の存在として駆け抜けた14年間は「日本サッカー30年の記録」において、とりわけ「中田英寿選手の心・技・体」について、あらためて記録に留めたい14年間であります。

次回(その2)において、詳細に記録していきたいと思います。
どうぞ、お楽しみに。


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日本サッカーの進化を実感させる2つのニュース、JFA宮本専務理事誕生と、JPFAアワードの新設

2023年01月19日 15時02分05秒 | サッカー選手応援
17日、18日とたて続けに、日本サッカーの進化を実感させる2つのニュースが飛び込んできました。
一つは、日本サッカー協会の専務理事に宮本恒靖氏が就任したというニュースです。宮本氏は選手時代から文武両道を地で行く頭脳明晰な方で、現役引退後、FIFAが運営する大学院で学んだという日本が誇る人材です。

1年前にJFA理事に選任され、国際委員長と会長補佐を兼務されていたそうですから、まさにエリート街道まっしぐらといった状況です。

FIFAのインファンティーノ会長などは、いわゆる「サッカー村」の人ではなく、テクノクラート、つまりエリート官僚のような立場で、FIFAの運営を通じて頭角を現した人です。

ますます複雑・多様化する国際社会におけるサッカーの世界の中で、それに的確に対応して日本サッカーの国際的プレゼンスをあげていくには「サッカー村」の年功序列や、なんとか閥の力関係で上層部の人選をしていたのでは、立ち行かなくなります。

当ブログが「日本サッカー30年の記録から(5)岡田武史監督突然の表舞台登場の遠因? ネルシーニョ氏代表監督要請破棄事件とは」で指摘した、JFA幹部の当事者能力のなさなどは、まさに前時代的な組織の象徴のような出来事でした。

Jリーグ(社団法人日本プロサッカーリーグ)が、村井チェアマンのもとで、高い経営能力を発揮して、そのあとを野々村チェアマンという、これまた潜在能力の高い経営者的チェアマンを招いたことで、JFAより経営的な面でかなり先を行っていた感じですが、宮本専務理事の誕生は、JFAもいよいよ経営能力重視の上層部人選に舵を切っていくのでしょうか?

その意味では、今度は田嶋会長の「引き際」そして誰を後任に据えるのかが見ものとなったとも言えます。

もう一つ、JPFAアワードの新設もかなり画期的なニュースでした。JPFA(日本プロサッカー選手会)は、1996年の設立以来すでに四半世紀を数える歴史を持っていますが、2022年に初めて海外で活躍する選手が吉田麻也新会長をはじめ役員に就任するという転換期を迎えました。

まさに日本のプロサッカー選手ではあるものの、海外で活躍する選手がこれだけ増えている中の、自然な成り行きということでしょう。

吉田麻也会長も、代表キャプテンをはじめクラブでの安定的な活躍のためには、普通に考えると、こうした、いわば「頼まれ仕事」は少しでも減らしたいところかも知れませんが、そこが吉田麻也選手の凄いところです。

ただ「頼まれてやる」だけではなく「やるからには」時代に即した新機軸を打ち出したい。今回の「アワード」は、これまで「選手の支援」「チャリティ活動」といった範囲に留まっていた活動から一歩大きく踏み出したといっていいと思います。

特に、Jリーグの選手のみを対象とした「Jリーグアウォード」は、海外に出た選手が顕彰の対象から外れるという意味で、今日的ではなくなってきたと言えます。

また「Jリーグアウォード」は外国籍選手がMVPを獲得することが多かったことからも、日本人ナンバーワン選手は誰かという関心をそいでいたことになります。

今回の「JPFAアワード」は、その二つの空白を埋めるという意味でも、実に画期的な顕彰制度です。当「サッカー文化フォーラム」は、JFA「サッカーの殿堂」では評価されないけれど決して忘れてはならない、いわばサッカーファミリーの空白を埋める形で顕彰する制度の創設を目指しています。

そういう夢と目標を持っている当フォーラムにとって、こういう空白を埋めることを狙いとした顕彰制度は「快挙」と叫びたいぐらいのニュースです。

現在は、女子のプロサッカー選手まではカバーされていないと思いますので、早く何らかの形で組織化されることを願っています。

また「JPFAアワード」では、顕彰を象徴するようなトロフィーはまだないようです。アカデミー賞を象徴するトロフィー・オスカー像やバロンドールを象徴するボール型のトロフィーのような象徴的なトロフィーを用意して、日本人サッカー選手なら誰もが目指すアワードになればいいなと願います。

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Jリーグスタート以降、日本サッカー30年の記録から(5)岡田武史監督突然の表舞台登場の遠因? ネルシーニョ氏代表監督要請破棄事件とは

2023年01月11日 17時40分01秒 | サッカー日本代表
日本サッカー30年の記録から、ある大きな出来事の真相を探っていくと、それに関連して、新たな疑問や闇の部分が浮かび上がってきます。

カズ選手がフランスW杯代表から土壇場で落選した時の衝撃を、当時の少し時間を巻き戻して、つぶさに検証してみると、ずいぶん違った真相が見えてきました。

すると、その落選劇のもう一人の当事者である岡田監督という人は、前年、突然、代表監督の座に押し上げられ、表舞台に登場した人ですが、では、なぜ表舞台に登場する立ち位置にいたのか、これもまた、当時の時間を巻き戻して、つぶさに確認してみると、サッカーの神様に導かれたとしか、いいようのない「代表監督としての決断力や戦略的資質」とは全く別の理由から、加茂監督のコーチに選任されていたことがわかりました。

そうした、流れから新たに浮かんできたのが、1995年11月に起きた、日本サッカー協会の加茂監督続投決定に至る、各方面を巻き込んだドタバタ劇でした。

1994年12月、ファルカン日本代表監督の解任を受けて、日本代表監督に就任した加茂監督は、フランスW杯出場権獲得のミッションを視野に入れながらも1年契約(95年11月30日まで)で、仕事ぶりを見て契約を更新するという状況でした。

仕事ぶりを評価するのは、日本サッカー協会の「強化委員会」というチームで、当時、現役を引退したばかりの加藤久氏が委員長に抜擢されていました。

加藤氏率いる強化委員会は、加茂監督の仕事ぶりをいろいろな角度から分析した結果「加茂監督の戦術と采配には、相手に応じ対応するという柔軟さと臨機応変さに欠けていて、特に加茂氏が採用しているゾーンプレスの戦術は、相手チームに研究された攻撃をされると対応できない弱さがある」と結論付け、第一候補にベンゲル氏、第二候補にネルシーニョ氏、第三候補にオフト氏を推薦しました。

加茂氏は、それら3人の候補がすべてダメだった場合、やむなく続投という位置づけだったのです。
それが1995年10月30日に行われた日本サッカー協会幹部会(長沼会長、岡野副会長、川淵副会長ほか2名の5名)で審議され、各氏に意向を打診して決めようということになりました。

長沼会長は加茂氏に電話を入れたところ、加茂氏は「自分の優先順位が低いことから続投の芽はないと判断して横浜Fにお世話になることに決めています。あとは契約を残すばかりです」と回答がありました。

川淵副会長がベンゲル氏と監督を務めるグランパス、そしてオフト氏と監督を務めるジュビロに電話を入れたところ、いずれも固辞の姿勢でした。

第二候補のネルシーニョ氏と所属のヴェルディは、すでに強化委員会レベルで打診した際に好感触を得ていたことから、候補者をネルシーニョ氏一本に絞り、条件面の詰めに入りました。それを任された加藤委員長がネルシーニョ氏側と条件面の交渉を行ない、11月18日に幹部会に報告されたネルシーニョ氏側の希望額は、協会が出せる限度額と1億円ほどの開きがありました。

翌11月19日、加藤委員長は再びネルシーニョ氏と接触して、条件のすり合わせを行なった結果、協会の提示額とほぼ一致させる条件を加藤委員長に伝えました。

同じ日、幹部会は、1億円もの開きがあるネルシーニョ氏の希望条件は受け入れ困難との観測を抱き「やはり加茂続投で行くしかない」と、加藤委員長の報告持ち帰りを待たずに、すでに横浜Fとの契約寸前まで行っている加茂氏に翻意を促すことに決めたのでした。

加藤氏が11月19日夜遅く「ネルシーニョ氏が協会条件を受諾意向」を長沼会長に報告したものの、それは「時すでに遅し」の徒労でした。

協会は11月20日、川淵副会長が電話で加茂氏に続投意思を確認しましたが、加茂氏は固辞します。しかし11月21日、幹部の話し合いであらためて加茂氏への要請を確認、当日、長沼会長が自ら加茂氏に面会して続投を要請しました。

そこでも一旦は固辞しますが、それは契約寸前までいっている横浜Fに詫びを入れてキャンセルを了承していただかないことには受けられないからです。

その時の様子を加茂監督は自身の著書「モダンサッカーへの挑戦」(1997年3月講談社文庫版)の中で、こう記しています。

「契約書にサインするばかりになったとき、日本サッカー協会のほうが大きく揺らぎ、急転して私と再契約する方向に傾いたのだ。」

「もちろん、そんなことができるはずはない。横浜フリューゲルスに合わせる顔もないではないか」

「だが、日本リーグの全日空時代から部長としてサッカー部のめんどうを見、このころには、フリューゲルスの顧問になっておられた長谷川章さんがこう言ってくれた。」

「フリューゲルスでやらなければならない君の気持ちはわかった。しかし自分の思いどおりにやりなさい」

「長谷川さんは、理不尽な話をすべて飲み込み、私に日本代表監督を続けることを勧めてくれたのだ。この言葉がなければ、私は協会の要請を受けることはできなかっただろう。この恩に報いるためにも、何が何でも最後の結果をださなければと思っている。」

こうしたいきさつがあって、加茂監督は続投要請を受け入れました。しかし、奇妙なことに協会は、ネルシーニョ氏に「条件交渉断念、要請撤回」を伝える作業を怠ってしまいました。ヴェルディの森下社長に「加茂監督続投」の結論が知らされたのは、11月22日の午前、まもなく始まる記者会見の直前でした。

そのようにして、11月22日昼過ぎの記者会見で「加茂監督続投」が発表されたのです。
ネルシーニョ氏の「腐ったミカン」発言は、その日の夜、浦和レッズとの試合後の会見で飛び出しました。長沼氏、川淵氏の名をあげ「噓つきで腐っている。みかんの箱の中に何個か腐ったミカンが混じっているようなものだ」と非難したのです。

ヴェルディの森下社長は「ネルシーニョ監督のプライドを傷つけ、加茂監督の仕事をやりにくくして、一体何のためにこんなことをしたのか」と語ったそうです。

続投が決まった加茂監督も「自分は被害者だとは思わないが、決定に対しては疑問がある」と漏らしています。

この経緯について、週刊「サッカーマガジン」誌は、この11月22日発売の号(No.533,95.12.6)で「最終予選までネルシーニョ全権監督、本日正式発表へ」という特集を組んでいます。同誌も見事にハシゴを外されたクチでした。同特集の末尾には「次号からは『ネルシーニョ代表の青写真』を連載する」と予告も打ちましたが、掲載されることはありませんでした。

「サッカーマガジン」誌にしてみれば、当日発売の最新号に打った自信の記事を手にしながら、それが誤報だと知らされる会見を目の前で見せられる思いは、いかばかりだったでしょう。

ちなみに、当時、発売日が同日だった週刊「サッカーダイジェスト」誌は「ネルシーニョ監督、本日正式発表へ」といった類の記事は掲載しませんでしたが、これは、むしろサッカー協会への食い込み度が、「サッカーマガジン」誌のほうが圧倒的に強かった違いによるものではないかと推測しています。

「サッカーダイジェスト」誌は、当時、伝統的に海外サッカーを手厚く報じるタイプでしたから。

「サッカーマガジン」誌は、次号、11月29日発売号で「混迷の11月22日『フランスへの男を選ぶ』急転までの全真実」と題して、4ページの徹底リポートを掲載、協会の意思決定プロレスを痛烈に批判しました。

当ブログも、大部分をこの記事に依拠して書き込んでいます。
こうしてみると、おわかりのとおり、当時の日本サッカー協会の上層部がいかに代表監督人選を私物化していたか、ということです。

当時の登場人物や団体の立場、役割などをもう一度、簡略化してご紹介しましょう。

長沼会長、岡野副会長、 この方たちは、もともとが日本人監督派、加茂続投派だったが、報告書にもとづく監督選任を無視できず、最初は沈黙していたが。ネルシーニョで決まりかけた最後になって、加茂続投を持ち出し、結局ネルシーニョに仁義もきらずに押し切った。

川淵副会長、 この方もどちらかと言えば、加茂続投派だったが、自分が統括する強化委員会の報告書を無視できない立場でもあり態度が迷走。最後は続投を認める側に加担したことからネルシーニョから「嘘つき」といわれる羽目になった。

加茂監督、 強化委員会報告書で自分の評価がかなり低いことを知り、川淵氏に辞意を伝達して、横浜フリューゲルスへの復帰をコーチ陣とセットで準備、ほぼ契約直前までいっていたが、長沼会長の直談判を受け「続けるべきか、固辞すべきか」ハムレット状態に。しかし横浜フリューゲルスの恩人に背中を押されて、どうにか続投を受諾するという苦渋の選択でした。

ネルシーニョ氏、協会から代表監督就任要請を受け、条件交渉に入った。代表監督は光栄であるものの条件面では希望額を提示、それが協会限度額と開きが大きいと知り譲歩したが、当初希望額が協会側に伝わったことで、ネルシーニョ断念の口実を作ってしまった。しかし、交渉継続中のまま「加茂監督続投」を発表され突然ハシゴを外されてしまった形になり「協会に腐ったミカンがある」と激怒した。

強化委員会(加藤久委員長)、加茂監督の1年間の仕事の評価についての結論として、先に3人の外国人監督との交渉を優先すべきという報告書を協会幹部に提出、後任選びに駆り出され、ネルシーニョ氏やヴェルディとの折衝役として舞台に上げられながら、最後にハシゴを外され、報告書も反故にされ面子を失った。

加茂氏との契約寸前までいった横浜フリューゲルスも監督人選をイチからやり直さざるを得なくなり、ネルシーニョを代表監督に送り出そうとしていたヴェルディも面子を失ってしまいました。

日本サッカー協会の一握りの幹部が、どれほど多くの人たちを振り回したのかを顧みることなく下した決定が「ネルーシニョ氏代表監督要請破棄」というドタバタ劇の顛末でした。

この一連の稚拙な組織の意思決定プロセスの反省が、このあとの教訓になったことは言うまでもありません。なにしろ代表監督選考の「諮問機関」にあたる「強化委員会」の報告書は、この当時は建前だけの紙きれに過ぎない扱いをされていたのです。

一応、組織的な意思決定の手続きを踏んでいるように見せかけて、その実、自分たちが恣意的に物事を決めてしまうという、協会を私物化したやり方が、まだ、この頃はまかり通っていたということです。

ただ、強化委員会報告書が問題提起した加茂監督の問題点は、2年後、アジア最終予選という真剣勝負の場で現実のものとなってしまいました。その結果、あの1997年10月、カザフスタンの地で長沼会長が発表した「加茂監督を解任して岡田コーチを昇格」という、まさに瀬戸際での発表となったわけです。

もし1995年11月の時点で、ネルシーニョ監督になっていたら・・・、というタラレバの話をしたいところですが、その可能性はなかったと見るべきでしょう。当時、協会幹部に加茂監督解任の選択はなかったのです。ネルシーニョへの要請という動きは、協会幹部が手続きを踏んだフリをするという、ハタ迷惑な態度をとったことによって生じた副産物であり、ネルシーニョ監督誕生はあり得ない話だったと言えます。

もし加茂監督が続投要請を固辞し続けたら・・・、というタラレバもありますが、それも「ない」と思います。加茂監督の著書から紹介した部分に「長谷川さんは、理不尽な話をすべて飲み込み、私に日本代表監督を続けることを勧めてくれたのだ。この言葉がなければ、私は協会の要請を受けることはできなかっただろう。」というくだりがありますが、長谷川さんという方にしても、日本代表監督と横浜フリューゲルスの監督を考えた場合、そう応じるしかないのではないでしょうか。

それが仮にベンゲル氏であったとしても、同じだったことでしょう。仮にベンゲル氏が前向きだったとしても、協会幹部はなんらかの理由をつけてベンゲル監督誕生を阻止したことでしょう。横浜フリーゲルスに合わせる顔がないぐらいに困ってしまった加茂監督の胸中などお構いなしに、加茂続投を強行した協会幹部ですから。

ということは、歴史の針は刻々と、加茂監督のもとアジア最終予選の土壇場まで、出場権獲得が風前の灯となるまで、引っ張られていくことに向かっていたということになります。

「ネルーシニョ氏代表監督要請破棄」事件は、協会一握り幹部による「多くの関係者振り回し事件」でしかなかった、ということがわかりました。

ヴェルディの森下社長ですが、この事件で「ネルシーニョ氏は協会からプライドを傷つけられ」とコメント、さらに2年半後の1998年6月、カズ落選発表では「岡田監督からプライドを傷つけられ」とコメントする役回りとなりました。ヴェルディがそういう立場になってしまったのも、何かの因縁なのかも知れません。

また一つ、30年の記録を紐解く中で、真相を知りました。
ありがとうございました。

【文中、週刊「サッカーマガジン」誌の「ネルシーニョ全権監督、本日正式発表へ」の特集関連のところを、本日1月12日、一部加筆しました。】


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Jリーグスタート以降、日本サッカー30年間の記録から(3) カズ選手「フランスW杯代表落選の衝撃」前夜の様子から見えてくるもの

2023年01月09日 08時04分02秒 | サッカー日本代表
【このタイトルは、2023-01-04 に投稿した内容を「お題投稿、募集中」向けに再投稿したものです】

1998年6月2日、フランスW杯開幕まで1週間、初戦のアルゼンチン戦まで、あと10日ちょっとしかない時期に、キャンプ地であるスイス・ニヨンで、日本代表・岡田監督は屋外で記者会見を開き、手短に「外れるのはカズ、三浦カズ、北沢、市川の3人」と発表しました。

記者団からは軽いどよめきが出ましたが、それが国内外に打電されるや否や、衝撃のニュースとして、瞬く間に日本中を駆け巡りました。

ふだんは日本代表選考のニュースが、報道・放送の中心ではないテレビのワイドショー番組や週刊誌系のメディアが連日のように大々的に報じましたので、増幅につぐ増幅で、大騒ぎになりました。

あれから24年、カズ選手はいまだに現役選手を続けています。カズ選手が心底サッカー小僧で、自分の引き際だとか、有終の美といったことには頓着していないかのような若々しさでサッカーを続けていることは紛れもない事実です。

けれども、一方で私は「日本代表としてワールドカップに出たい」という唯一無二の目標を永遠に失ってしまったカズ選手が「サッカー選手として出口を見つけられずに彷徨い歩き続けているのではないだろうか」という思いもぬぐい切れないでいます。

当時、決断した岡田監督に対しては「もっと違った選択があったのではないか」という指摘がずいぶん浴びせられました。曰く「カズ選手を外さなければならない必然性より、カズ選手を残しておく必然性のほうが大きかったのではないか」たとえ100歩ゆずって「カズ選手を外さなければならないとしても、もう少し本人のプライドを尊重するやり方があったのではないか」等々。

いま、あらためて当時のスポーツ紙記事をつぶさに読み直してみると、発表後の衝撃の記事もさることながら、直前、1~2週間ぐらいの日本代表の動向からは、ある意味、カズ選手の落選はむしろ当然の流れであり、岡田監督も「カズはもうダメだな」と思いつつ劇的なコンディションの戻りに一縷の望みを託して引っ張った結果の6月2日発表だったように感じました。

一旦スイスに連れていってからの3名切りということもあって、余計「かわいそう」ムードをかきたてた事件でした。

現地スイスでの発表前夜にあたる6月2日付けの毎日新聞朝刊は、一面に「カズ、北沢は落選濃厚」の見出しを打って見通しを報じました。

それを読むと、直前の国内でのキリンカップ2試合そしてスイスでのテストマッチ・メキシコ戦、いずれもカズ選手と北沢選手は出番なし、カズ選手は昨年9月のアジア最終予選初戦ウズベキスタン戦以来得点がなく、足を痛めるなど本番で力を発揮できないと判断された。とあります。

キャンプ地・スイスに出発する前から、カズ選手は構想外になっていたことを示しています。そのキリンカップの期間中、スポーツ紙一面にカズ選手が「落選3人も、先発11人も早く決めて」と訴えているという記事が躍りました。

文字どおり日本代表の中で一目も二目もおかれているカズ選手ですから、記者に話したことが記事になっても監督批判とは受け取られませんが、他の選手にはマネのできないことです。
しかし、一方では他の選手が黙々とポジション獲得のために汗を流している中、カズ選手は「気が気でない、心ここにあらず」といった心境だったのではないでしょうか?

「どうも自分の立場があやしい、先発はおろか最終メンバーにすら残れないのではないか、いや、そんな筈はない、自分が落ちる筈がない、でも、試合に出してもらえていない、途中交代でさえもチャンスがなくなっている」

そう考えた時に思わず「なんとかしてくれ」という気持ちが出たのではないでしょうか。

6月2日の落選発表を受けて、もっとも辛辣な言葉を浴びせたのが、カズ選手が所属するヴ川崎のニカノール監督でした。少し長くなりますが、当時のスポーツ紙記事を転載します。6月5日付けの東スポ紙です。東スポ紙は夕刊紙ですので、発売は6月4日夕刊ということになります。ちなみに記事は一面ではなく中面です。

見出しは「岡田は嘘つきで汚い男だ」「ニカノール監督カズ落としに激怒」
本文はこうです。「2人(カズと北沢)を外したのは計画的で、実に汚いやり方だ。最初から22人に選ぶつもりがないのに、カズと北沢を25人に入れたのは、2人の名前がなければマスコミが騒ぐ、だから、もう遅いという、ギリギリのタイミングで2人を切ったんだ」と言って声を震わせた。

怒りの収まらないニカノール監督はさらに、こう続けた。「キリン杯でカズ以外のFWは全員使った。森島をトップで使ってもカズは使わなかった。中盤も北沢以外は全員使っている。2人を外すことはスイスに行く前から決まっていたんだ。切るんなら、そこでハッキリ言うべきだった。監督は間違ったことを言うこともある。しかし、絶対ウソをつくべきではない。ウソをつく人間を私は許せない」と岡田監督をコキ下ろした。

という内容です。
スイスに行く前から切ることを決めていて、それを隠して連れて行ったことが「ウソつき」ということになるのかどうか、首をひねるところもありますが、同じ監督目線のニカノール監督にすれば、もう岡田監督のハラは完全に読めたのでしょう。

そして、最初に25人にして、そこにカズ選手と北沢選手を入れたのは「2人の名前がなければマスコミが騒ぐ」と考えた。これも「監督ならば、そう考えても不思議ではない」という監督目線の発言でしょう。

では、どうすべきだったか、です。
日本を離れる前に22人を発表して、そこでどれだけマスコミが騒ごうと、毅然としているべきだったのでしょうか。それにも異論が出そうです。
残された短い時間の中でチームを固めなければならない時に、世間の大騒ぎにどう向き合えばいいのか? と。

そもそも、どんなに戦術的にもコンディション的にも合わなくとも、カリスマ・カズは22人の中に残すべきだったのでしょうか?

それにも異論が出そうです。22人のうち一人たりとも使えない選手を残して、使える選手を外すわけにはいかない。それが選考の王道だ、と。

こうして、カズ選手「フランスW杯代表落選の衝撃」前夜の様子を伝えるスポーツ紙の報道をつぶさに点検していくと、どうみてもカズ選手が選考に残る可能性がないことが明白になった中での6月2日の会見だったようです。

まさにニカノール監督が喝破したように「もう遅いという、ギリギリのタイミングで2人を切った」ことによって、衝撃の度合いが最小限に抑えられたのかも知れません。
それでも国内ではワイドショーも週刊誌も、ハちの巣をつついたような騒ぎで取り上げたのですが、代表選手たちは海外にいて、直接、その喧騒にさらされることはなかったのです。

日本サッカー史に残る大事件でもあった出来事でしたが、代表選手たちが直接巻き込まれることがない形で済んだのは不幸中の幸いだったのかも知れません。

この事件は、私もずっと、わだかまりが残っていた問題でした。
私の考え方は「22人にカズ選手を残して何の問題もないのではないか」という点と、「ドーハの悲劇」の戦友である柱谷哲二選手が「よくも二人のプライドをズタズタにしてくれた」と取材マイクの前で語った言葉に「確かにそうなんだよなぁ」とシンパシーを感じた点です。

一つ目のわだかまりに関して、岡田監督は、25人を発表した時に、清水エスパルスの伊東輝悦選手を選出しています。当の伊東選手が「友達から『どっきりカメラ』じゃないかと言われました」と語っていたように、いわばサプライズの追加招集のような選出でした。

この「友達から『どっきりカメラ』じゃないかと言われました」というコメントは、当時のテレビ番組のことをご存じの方であればピンと来るのですが、日本テレビ系列で放送された「どっきりカメラ」という番組名からきています。

この「どっきりカメラ」、全国各地でロケを行ない、仕掛人がターゲットを騙す様子を隠しカメラで撮影して視聴者に見せ、ターゲットが驚いたところで「どっきりカメラ NTV」と書かれたプラカードを持って登場して丸く収める、という番組でした。つまり伊東輝悦選手も、よほどサプライズだったようで「騙された」のかと思ったというわけです。

今にして思えば、ここに一つのカギがあるように思います。

伊東選手は所属の清水では、本来、攻撃的MFのポジションが中心でしたが、この時期はチーム事情もあって、中盤の守備的なポジションで活躍していました。本大会グループリーグ3試合を通過するには、どうしても守備にウエイトを置かなければならない。守りの面で計算できる選手を分厚くすることにしたい。当時のスポーツ紙の報道では「25番目の男」という見出しももらっていましたが、岡田監督をはじめ首脳陣の間では、最終的に残す選手という考えだったと見ていいと思います。

そう方針が決まった時、FW陣で一番序列の低い選手は切らなければならない。伊東選手を招集した時点で、すでにFWの序列最下位はカズ選手、結局、最後までそれは変わらなかったわけで、それはハタ目にも明らかだったのでしょう。

ですから「22人にカズ選手を残して何の問題もないのではないか」という私の考えは「W杯で戦うチームの戦い方」を度外視したものでしかないということになります。
私自身が納得せざるを得ないことだと思い至っております。

もう一つの「よくも二人のプライドをズタズタにしてくれた」という点に対するシンパシー。これも、ニカノール監督が、いみじくも説明してくれたように「二人のプライドがズタズタになる度合が一番小さくて済むタイミングがあのタイミングだった」と考えるべきなのかも知れません。

国内発表で25人ではなく、いきなり22人にした場合のセンセーショナルなインパクトを考えると、本人たちのズタズタ感の実相より、マスメディア等、外部からの増幅圧力が働いたズタズタ感のほうが、数倍大きく報じられ、収拾がつかなかったかも知れないということを感じます。

このように「カズ選手落選」事件に関して残っていた、私自身のわだかまりも、今回の再点検によって消えつつあります。
やはり、当時はシンパシーだとか感情面に左右された判断があり、その残滓が「わだかまり」として長く心に残っていたようです。

また一つ、30年の記録をひもとく中で、問題が解決したような気持ちになりました。
ありがとうございました。

【文中、伊東輝悦選手がサプライズの追加招集となった部分のところを、本日1月12日、一部加筆しました。】
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Jリーグスタート以降、日本サッカー30年の記録から(4)岡田武史監督は、そもそもなぜ、日本代表コーチだったのでしょう

2023年01月08日 17時38分05秒 | サッカー日本代表
前回の「日本サッカー30年の記録から(3)」では、カズ選手フランスW杯代表落選前夜の様子から、落選の経緯などを探ってみました。

カズ選手落選のこともさることながら、前年のフランスW杯アジア最終予選のさなかに緊急避難的に誕生し、その延長線上でカズ選手を外した岡田武史監督についても、その後の見事な監督人生を思うにつけ、はっきりしておきたい点がありました。

そもそも、岡田監督がなぜ加茂監督のもと日本代表コーチとして就任することになったのか、加茂監督はなぜ岡田武史氏をコーチに選んだのか、どうしても明らかにしておきたくなりました。

1997年10月、加茂監督のもとでフランスW杯アジア最終予選を戦う日本代表の戦績が思わしくなく、このままでは出場権獲得が危ういとばかり、日本サッカー協会がカザフスタンのホテルで開いた記者会見について、サッカージャーナリストの杉山茂樹さんが「平成サッカー史を変えた怒涛の1週間。代表監督解任から謎の同点弾まで」というレポートの中で、加茂監督の更迭と後任・岡田武史氏が発表された時の状況をこう書いています。(原文のURLは下記のとおりです)
https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/jfootball/2019/04/28/post_49/

「発表したのは確か長沼健サッカー協会会長(当時)だったと記憶するが、加茂監督を解任すると発し、「次の監督は」と続いた瞬間も、その人物が、傍らに座る岡田武史さん(当時ヘッドコーチ)だと思った人はいなかった。「岡田」と言われて、報道陣は一様にエッと驚嘆することになった。」

「それでもなお、岡田さんは一時の暫定監督だろうと勝手に推測していた。帰国後、ジーコなど、
それなりの人と折衝するのだろうと。」

(中略)

「そうしたなかで「岡田」の名前を聞かされた選手たちは、彼らも一様に「エッ」と仰け反ったそ
うだ。というのも、当時の岡田さんはそれほど監督にはほど遠い雰囲気の持ち主だったからだ。い
かにも監督然とした加茂監督とのパイプ役として、選手たちから親しまれていた。」

こうしてみると、加茂監督を更迭した日本サッカー協会にしても、監督としての適性云々の話ではなく、1週間も空かないうちに次々と試合が続く最終予選の中で、新たな監督選任などできるはずがなく、内部昇格しか選択肢がない中『監督にはほど遠い雰囲気の持ち主だった岡田さん』を据えたということが見えてきます。

杉山茂樹さんのレポートには、監督になるや否や、岡田さんが別人格になったかのように一変したことも紹介されており、その後の岡田監督が歩んだ道を思うと、この決断が日本サッカーの歴史を作ったとも言えるのですが、私には「では、なぜ岡田さんが日本代表コーチとして、この加茂監督更迭のあとを引き継ぐ立場に就くことになったのか、そもそも、なぜ加茂監督は岡田さんをコーチに選んだのか」について、ぜひ知っておきたいと思うようになりました。

加茂監督が岡田武史氏をコーチに選任した時のことについて、加茂氏が自身の著書「モダンサッカーへの挑戦」(1997年3月講談社文庫版)の著者あとがきの中でこう書いておられます。

「日本代表の仕事で忘れてならないのが、スタッフの優秀さとチームワークだ。(中略)私がまず選任したのは岡田武史コーチだった。若く、単独チームを率いてJリーグなどのクラブで監督をした経験はないが、非常にクレバーで、人間的にも素晴らしい。ある時期まで、私は選手と個人的に深く関わらないようにしてきた。次々と選手を入れ替えなければならない時期に、情が移ってはいけないからだ。その分、岡田コーチには、細かくフォローしてもらわなければならなかった」

これを読むと、まさに岡田さんは加茂監督に「選手との間に立って役割を果たしてもらうコーチとしての適性」を評価して選任したことがわかります。

決して、監督としての決断力や戦略家の適性を見て選任したのではないようです。その人が、まさに「瓢箪から出た駒」のように監督に就任して、就任するや否や、監督としての決断や戦略を次々に打ち出していったのですから、わからないものです。

加茂さん更迭を受けて就任した岡田監督の初戦となったアウェー・ウズベキスタン戦、実は負けてしまえばフランスW杯出場権は消滅する、という崖っぷちの試合でした。その試合、0-1とリードされたままロスタイムに入ろうかという時間帯に、最後尾から蹴りこんだ井原選手のロングボールがゴール前20~25mのあたりで相手DFと競り合った呂比須ワグナー選手の頭をかすめて、ゴール方向に転がったのです。

このシーンについて、さきほどご紹介した杉山茂樹さんのレポートにはこのように記されています。
「呂比須がヘディングした場所からゴールまでの距離は20m?25mあった。三浦知良がそのボール
を追いかけたものの、追いつかず、GKは楽々キャッチするものと思われた。」

「そんなボールをウズベキスタンのGKがなぜ後逸することになったのか。井原が最後尾から蹴っ
たボールがほぼ直接、ゴールに吸い込まれることになったのか。」

「GKがカズの動きに幻惑され、ボールから目を離したとしか言いようがないが、数ある観戦歴の
なかでも、このゴールほど、不可解でミステリアスなものは珍しい。日本サッカー史に重大な影響
を与えたゴールがこの有様では、大真面目にサッカーを論じることがバカバカしくなるほどだ。だ
が、それがサッカーの持つ恐ろしい魅力でもある。"事実は小説よりも奇なり"を地で行くゴールとはこのことだ。」

「タラレバ話をしたくなる。あのゴールが決まっていなければ。普通にGKがキャッチしていれば......。」

「岡田さんのその後の人生は、この運によって支えられているといっても言い過ぎではない。」

杉山さんが「このゴールほど、不可解でミステリアスなものは珍しい。」と指摘した、このゴール、それはサッカーの神様が岡田さんに与えた恩寵かも知れません。

すなわち「加茂監督の下で、監督を全力で支え、そして図らずも突然押し上げられた監督の仕事を従容として引き受け、別人格になったかのように監督の仕事に向き合ったこの岡田という人、監督を続けてみなさい」という具合にサッカーの神様が思われたのではないでしょうか?

それを杉山茂樹さんは「岡田さんのその後の人生は、この運によって支えられている」と評したのだと思いますが、訳のない運ではなく、サッカーの神様が「岡田武史、汝であれば監督という仕事にも全身全霊で向き合える、続けよ」と、神様だけができる「未来を見通せる力」で与えた「運」といってもいいのかも知れません。

また一つ、30年の記録をひもとく中で、私の中に残っていたナゾが解けた気分です。
ありがとうございました。

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Jリーグスタート以降、日本サッカー30年間の記録から(3) カズ選手「フランスW杯代表落選の衝撃」前夜の様子から見えてくるもの

2023年01月04日 17時02分29秒 | サッカー日本代表
1998年6月2日、フランスW杯開幕まで1週間、初戦のアルゼンチン戦まで、あと10日ちょっとしかない時期に、キャンプ地であるスイス・ニヨンで、日本代表・岡田監督は屋外で記者会見を開き、手短に「外れるのはカズ、三浦カズ、北沢、市川の3人」と発表しました。

記者団からは軽いどよめきが出ましたが、それが国内外に打電されるや否や、衝撃のニュースとして、瞬く間に日本中を駆け巡りました。

ふだんは日本代表選考のニュースが、報道・放送の中心ではないテレビのワイドショー番組や週刊誌系のメディアが連日のように大々的に報じましたので、増幅につぐ増幅で、大騒ぎになりました。

あれから24年、カズ選手はいまだに現役選手を続けています。カズ選手が心底サッカー小僧で、自分の引き際だとか、有終の美といったことには頓着していないかのような若々しさでサッカーを続けていることは紛れもない事実です。

けれども、一方で私は「日本代表としてワールドカップに出たい」という唯一無二の目標を永遠に失ってしまったカズ選手が「サッカー選手として出口を見つけられずに彷徨い歩き続けているのではないだろうか」という思いもぬぐい切れないでいます。

当時、決断した岡田監督に対しては「もっと違った選択があったのではないか」という指摘がずいぶん浴びせられました。曰く「カズ選手を外さなければならない必然性より、カズ選手を残しておく必然性のほうが大きかったのではないか」たとえ100歩ゆずって「カズ選手を外さなければならないとしても、もう少し本人のプライドを尊重するやり方があったのではないか」等々。

いま、あらためて当時のスポーツ紙記事をつぶさに読み直してみると、発表後の衝撃の記事もさることながら、直前、1~2週間ぐらいの日本代表の動向からは、ある意味、カズ選手の落選はむしろ当然の流れであり、岡田監督も「カズはもうダメだな」と思いつつ劇的なコンディションの戻りに一縷の望みを託して引っ張った結果の6月2日発表だったように感じました。

一旦スイスに連れていってからの3名切りということもあって、余計「かわいそう」ムードをかきたてた事件でした。

現地スイスでの発表前夜にあたる6月2日付けの毎日新聞朝刊は、一面に「カズ、北沢は落選濃厚」の見出しを打って見通しを報じました。

それを読むと、直前の国内でのキリンカップ2試合そしてスイスでのテストマッチ・メキシコ戦、いずれもカズ選手と北沢選手は出番なし、カズ選手は昨年9月のアジア最終予選初戦ウズベキスタン戦以来得点がなく、足を痛めるなど本番で力を発揮できないと判断された。とあります。

キャンプ地・スイスに出発する前から、カズ選手は構想外になっていたことを示しています。そのキリンカップの期間中、スポーツ紙一面にカズ選手が「落選3人も、先発11人も早く決めて」と訴えているという記事が躍りました。

文字どおり日本代表の中で一目も二目もおかれているカズ選手ですから、記者に話したことが記事になっても監督批判とは受け取られませんが、他の選手にはマネのできないことです。
しかし、一方では他の選手が黙々とポジション獲得のために汗を流している中、カズ選手は「気が気でない、心ここにあらず」といった心境だったのではないでしょうか?

「どうも自分の立場があやしい、先発はおろか最終メンバーにすら残れないのではないか、いや、そんな筈はない、自分が落ちる筈がない、でも、試合に出してもらえていない、途中交代でさえもチャンスがなくなっている」

そう考えた時に思わず「なんとかしてくれ」という気持ちが出たのではないでしょうか。

6月2日の落選発表を受けて、もっとも辛辣な言葉を浴びせたのが、カズ選手が所属するヴ川崎のニカノール監督でした。少し長くなりますが、当時のスポーツ紙記事を転載します。6月5日付けの東スポ紙です。東スポ紙は夕刊紙ですので、発売は6月4日夕刊ということになります。ちなみに記事は一面ではなく中面です。

見出しは「岡田は嘘つきで汚い男だ」「ニカノール監督カズ落としに激怒」
本文はこうです。「2人(カズと北沢)を外したのは計画的で、実に汚いやり方だ。最初から22人に選ぶつもりがないのに、カズと北沢を25人に入れたのは、2人の名前がなければマスコミが騒ぐ、だから、もう遅いという、ギリギリのタイミングで2人を切ったんだ」と言って声を震わせた。

怒りの収まらないニカノール監督はさらに、こう続けた。「キリン杯でカズ以外のFWは全員使った。森島をトップで使ってもカズは使わなかった。中盤も北沢以外は全員使っている。2人を外すことはスイスに行く前から決まっていたんだ。切るんなら、そこでハッキリ言うべきだった。監督は間違ったことを言うこともある。しかし、絶対ウソをつくべきではない。ウソをつく人間を私は許せない」と岡田監督をコキ下ろした。

という内容です。
スイスに行く前から切ることを決めていて、それを隠して連れて行ったことが「ウソつき」ということになるのかどうか、首をひねるところもありますが、同じ監督目線のニカノール監督にすれば、もう岡田監督のハラは完全に読めたのでしょう。

そして、最初に25人にして、そこにカズ選手と北沢選手を入れたのは「2人の名前がなければマスコミが騒ぐ」と考えた。これも「監督ならば、そう考えても不思議ではない」という監督目線の発言でしょう。

では、どうすべきだったか、です。
日本を離れる前に22人を発表して、そこでどれだけマスコミが騒ごうと、毅然としているべきだったのでしょうか。それにも異論が出そうです。
残された短い時間の中でチームを固めなければならない時に、世間の大騒ぎにどう向き合えばいいのか? と。

そもそも、どんなに戦術的にもコンディション的にも合わなくとも、カリスマ・カズは22人の中に残すべきだったのでしょうか?

それにも異論が出そうです。22人のうち一人たりとも使えない選手を残して、使える選手を外すわけにはいかない。それが選考の王道だ、と。

こうして、カズ選手「フランスW杯代表落選の衝撃」前夜の様子を伝えるスポーツ紙の報道をつぶさに点検していくと、どうみてもカズ選手が選考に残る可能性がないことが明白になった中での6月2日の会見だったようです。

まさにニカノール監督が喝破したように「もう遅いという、ギリギリのタイミングで2人を切った」ことによって、衝撃の度合いが最小限に抑えられたのかも知れません。
それでも国内ではワイドショーも週刊誌も、ハちの巣をつついたような騒ぎで取り上げたのですが、代表選手たちは海外にいて、直接、その喧騒にさらされることはなかったのです。

日本サッカー史に残る大事件でもあった出来事でしたが、代表選手たちが直接巻き込まれることがない形で済んだのは不幸中の幸いだったのかも知れません。

この事件は、私もずっと、わだかまりが残っていた問題でした。
私の考え方は「22人にカズ選手を残して何の問題もないのではないか」という点と、「ドーハの悲劇」の戦友である柱谷哲二選手が「よくも二人のプライドをズタズタにしてくれた」と取材マイクの前で語った言葉に「確かにそうなんだよなぁ」とシンパシーを感じた点です。

一つ目のわだかまりに関して、岡田監督は、25人を発表した時に、清水エスパルスの伊東輝悦選手を選出しています。当の伊東選手が「どっきりかと思いました」と語っていたように、いわば追加招集のような選出でした。
今にして思えば、ここに一つのカギがあるように思います。

伊東選手は中盤のやや守備的なポジションで活躍している選手でした。本大会グループリーグ3試合を通過するには、どうしても守備にウエイトを置かなければならない。守りの面で計算できる選手を分厚くすることにしたい。

そう方針が決まった時、FW陣で一番序列の低い選手は切らなければならない。伊東選手を招集した時点で、すでにFWの序列最下位はカズ選手、結局、最後までそれは変わらなかったわけで、それはハタ目にも明らかだったのでしょう。

ですから「22人にカズ選手を残して何の問題もないのではないか」という私の考えは「W杯で戦うチームの戦い方」を度外視したものでしかないということになります。
私自身が納得せざるを得ないことだと思い至っております。

もう一つの「よくも二人のプライドをズタズタにしてくれた」という点に対するシンパシー。これも、ニカノール監督が、いみじくも説明してくれたように「二人のプライドがズタズタになる度合が一番小さくて済むタイミングがあのタイミングだった」と考えるべきなのかも知れません。

国内発表で25人ではなく、いきなり22人にした場合のセンセーショナルなインパクトを考えると、本人たちのズタズタ感の実相より、マスメディア等、外部からの増幅圧力が働いたズタズタ感のほうが、数倍大きく報じられ、収拾がつかなかったかも知れないということを感じます。

このように「カズ選手落選」事件に関して残っていた、私自身のわだかまりも、今回の再点検によって消えつつあります。
やはり、当時はシンパシーだとか感情面に左右された判断があり、その残滓が「わだかまり」として長く心に残っていたようです。

また一つ、30年の記録をひもとく中で、問題が解決したような気持ちになりました。
ありがとうございました。


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新年おめでとうございます。今年もご愛読よろしくお願いいたします。

2023年01月02日 10時59分25秒 | ブログ
新年あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
首都圏は穏やかな天気です。全国さまざまな気温、積雪等の違いがあるかと思いますが、よい年を迎えられたでしょうか?

マスクこそ手放せないものの、行動制限のない日常は本当にありがたいものです。私たち高齢者は、感染すると重症化そして死に至るリスクが高いようですから、油断せず、不要な外出は控えております。

いつになったらコロナの心配をせずに出かけたいところへ出かけられるのか、もうそういう日は戻ってこないのかなどと、年老いた者同士、語り合っています。

その分、当方のように「記録を残すこと」にできるだけ多くの時間を割きたい者にとっては、外出せずに作業に没頭できる状況というのは、むしろ神様からの贈り物といってもいいかも知れません。

そう考えて、ひたすら没頭したいと思います。

さて、昨年暮れをもって、新規のサッカー関連番組・試合の収録保存や、スポーツ紙・サッカー専門誌の収集保存は終了しましたので、これからのブログの書き込みは「30年間の記録から」をメインテーマにして、その間の日本のサッカー文化の成長と発展、その結果としての進化の過程を克明に記録した中から、皆さんと共有したい事柄について書いていきたいと思います。

多くの読者の方はご存じかと思いますが、お読みのブログの左側に「プロフィール欄」「ブックマーク欄」「最新記事欄」とありますが、「ブックマーク」にある「サッカーの世界にようこそ」が、当ブログが運営しているウェブサイトです。

このウェブサイトこそが、日本のサッカー文化の成長と発展、その結果としての進化の過程を、時系列的に、そして体系的に、あらゆる角度から網羅的に克明に記録したサイト、いや、まだ記録を始めたばかりのサイトです。

当ブログは、このサイトを日本唯一の、いや世界を見渡しても、これほどサッカー文化全体を俯瞰して網羅的に、体系的に紹介しているサイトはないだろうという自信を持って作りたいと考えております。

「サッカーの世界にようこそ」のトップページを開いていただくと「データパビリオン」「ヒストリーパビリオン」「アートギャラリー」「サッカー文化フォーラムセミナールーム」というナビゲーションタブがあります。

そこから各タブに入ると、まさにEXPOのパビリオンに入ったと同じ気分になっていただくように作りたいと思います

サイトの作成は、まだ緒に就いたばかりで、長い長い年月がかかると思います。サイト作成には費用もかさみますので、懐具合とにらめっこしながらの製作になります。

いま悩んでいるのは「データパビリオン」の仕上げ方です。いまのところ、これまで収録した試合や番組などの一覧表が並んでいるだけですが、これは入り口の部分で、個別の試合や番組の動画を見ていただいてこそパビリオンです。

前にも書き込みでご紹介しましたが、個別の試合、番組については10分程度の動画にしてYouTubeに流し、そこに飛んでいただいて楽しんでいただくことを考えたのですが、試合も番組も、たとえ10分程度でもYouTubeに流してしまえば、著作権の問題から逃れられなくなります。

昨年春から夏にかけて約130本の動画をYouTubeに流したところで、ある著作権者からストップがかかり、YouTubeアカウント停止処分を受けてしまいました。

いま別のアカウントを立ち上げて、あらためてYouTubeに流し始めていますが、すべて非公開にしています。
これを皆さんに楽しんでいただくには、この「サッカーの世界にようこそ」を訪れていただいた方だけが、会員登録などの手続きを経た方のみアクセスできるようにするなどの手だてが必要となります。

また「データパビリオン」の一覧表は時系列的に並べた表だけの段階ですが、これを分野別に並べ直したものもご紹介する予定ですし、最終的には一人一人の選手別の出演番組などもわかるような仕上がりをめざしています。

パビリオンには「ヒストリーパビリオン」というのもあります。これも、いまのところ「伝説のあの年」ということで、1986年以降の各年の出来事を克明に記録したページだけで、テキスト中心ですが、ここにも関連動画や写真画像をふんだんに盛り込んで、まさにパビリオンを楽しんでいただく仕上がりをめざしています。

また「伝説の・・」については「伝説のあのチーム」「伝説のあの試合」「伝説となったあの選手・指導者たち」という切り口で多くの伝説を語り継いでいきたいと思います。まだ手つかずですが。

このほかのタブについての説明は省略して、これからのブログの書き込みは、主として「伝説の・・」の項目になると思います。
週2回のペースでの書き込みをめざしています。
どうぞ、頻繁におたずねいただきますよう、お楽しみに。
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