「サッカー文化フォーラム」夢追い人のブログ

1993年のJリーグ誕生で芽生えた日本の「サッカー文化」。映像・活字等で記録されている歴史を100年先まで繋ぎ伝えます。

HDD化作業を通じて見えてきたこと3題

2012年08月20日 15時36分20秒 | スポーツ

外に出ると暑いので、外出の用件がなければ極力HDD化作業に集中しています。

今はまだJリーグ開幕前後、つまり1990年代はじめの試合・番組が中心ですが、作業していると、いろいろなことが見えてきます。3題取り上げてみます。

(1)奥寺康彦さんが、1992年の段階で、すでに日本代表の試合運びについて、いわゆる勝ち切る試合の終わらせ方を再三指摘していたのが、印象に残ります。

1992年8月、ユベントスが来日してくれて、日本代表と2戦試合しました。第1戦は2-1でリードしながらロスタイムに同点にされて、勝てた試合をフイにしてしまいました。解説していた奥寺康彦さんは「いつもいつも、最後の最後にチャンスをものにできない試合をしている」と指摘していました。この年は1月にバルセロナ五輪サッカーアジア最終予選の韓国戦で引き分けでも出場権獲得という試合のロスタイム寸前のところで失点して敗れ出場権を逃していましたので、ここぞという大事な試合の勝ち切り方について指摘したのだと思います。

このあと10~11月のアジアカップで優勝したり、翌年のワールドカップアジア一次予選を着々と勝ち続けたことで、最後の詰めを意識して勝ち切るサッカーについての共通意識、共通戦術が不足してしまったのだと思います。

すでに、この当時、試合開始からの5分間とか終了間際の5分間といった、危険な時間帯については選手ならずとも知っている時代でしたが、では、その危険な時間帯をどう乗り切るのか、勝っている試合、あるいは負けていない試合を、どう、そのまま終わらせるのかについて、代表チームでは、明確な意識と戦術はとられていなかったようです。

つまり、まだ「危ない時間帯だから気をつけろ」で終わりといった時代だったと言えます。それは映像を見ているとよくわかります。いまなら、とにかく相手にボールを渡さない意識、それに必要なサポートといった動きが当たり前ですが、当時の試合を見ていると、前線のサイドでマイボールになっても、誰もサポートに行かないので、その選手は誰もいないゴール前にクロスをあげてしまったり、入る見込みのないシュートを打って相手ボールにしてしまうといったことが普通に見られます。

このあたりが、いわば経験ということなのでしょう。まだワールドカップに行くには甘すぎるということでしょう。奥寺さんは欧州のシビアな戦いで揉まれてきましたから、その辺が歯がゆくてしょうがなかったのだと思います。オフト監督ですら、その詰めの部分について意識が高かったとは言えないと思います。Wikipediaの「ドーハの悲劇」という項目には、そのような評価が書かれています。

まぁ、オフト監督だけではなく、何か方法がなかったものかと思いますが、すでに、いろいろな総括がなされた今となっては、ここまでにしておくべきだと思います。

(2)サッカー番組におけるさんま、木梨、川平兄弟の存在について感じました。

1992年1月、日本テレビ系列で「さんまの史上最大のバラエティ だからサッカーは面白い」という番組が1時間30分枠で放送されています。もっとも制作は静岡第一テレビなので、全国くまなく放送されたかどうかわかりませんが、関東で1時間30分枠のサッカーをテーマにしたバラエティ番組が放送されたのは、おそらく、これが最初ではないかと思います。

出演者がラモス、カズ、武田ですから読売クラブのアピール番組でもあるのですが、当時の日本代表の中核でしたから、文句のないところでもあります。

さんまさんは、すでにトヨタカップ中継にも必ずゲスト出演しており、また日本リーグのポスターにも起用されるなど自他共に認めるサッカー好きですが、このような形でサッカーだけのバラエティ番組を作れるようになったのは、やはりさんまさんの存在あればこそでしょう。さんまさんは、最近でこそ、はしゃぐ年てもなくなったようですが、現在に至るまでサッカー番組を楽しいものにしてくれた大功労者です。

楽しくしてくれたもう一人の功労者は、とんねるずの木梨さんでしょう。うまいぐあいに、帝京高校野球部出身のタカさんと、同高サッカー部出身の木梨さんですから、この二つを軸にしたスポーツバラエティ番組を作るには打ってつけであり、今なお対決ものの番組を続けているバイタリティには頭が下がります。

野球好きの大物芸能人は昔から途切れることなく多く、現在もSMAPの中居正広さんなどがいます。それにひきかえサッカー好きの大物芸能人の系譜には少し不安が残ります。スパサカから巣立った加藤浩次さんが「スッキリ」の司会に抜擢され、大物への階段を上りつつありますが、彼はスッキリではサッカー好きという色をあまり出さないようにしている感じです。まだスパサカをやっているので控えているのかも知れませんが、もしスパサカを卒業したら、どうぞ遠慮なくサッカー好きを前面に出してください。

最初にあげたさんまさんの番組でもう一つ目を引くというか、耳に残るのがジョン・カビラさんのナレーションです。おそらく、これでサッカー番組のナレーションならジョン・カビラさんという評価も定着したのではないかと思います。

以来、ジョン・カビラさんは、いつの頃からか主な舞台をフジテレビに移し、20年にわたってサッカー番組を盛り上げる役割を果たしてこられました。まるで感謝状の文句みたいですが、まさにそうだと思います。サッカー文化において、ジョン・カビラさんを得たことは幸福だったと思います。いまや彼は、そのトークの歯切れのよさ、元気のよさで一般の情報番組の司会にも起用されています。

このジョン・カビラさんの弟、川平慈英さんの存在もサッカー界にとっては大きいです。このブログでも紹介しましたが、彼が1991年にWOWOWスーパーサッカー・イタリアリーグセリエAのナビゲーター&実況役として登場した時は、実況だけは、やはり、あまりに無謀なキャスティングで、わずか何回かで降りましたけれど、読売クラブユースでやっていたサッカー選手で、しかも役者さんもやっているという筋の良さがあって、久米宏さんのニュースステーションで使ってもらい、いい感じでサッカーを盛り上げてくれました。

結構、私たちは、この二人にサッカーを盛り上げてもらったな、という感じをもっています。

例えばプロ野球を考えてみてください。プロ野球放送がもっとも楽しかった頃、それは、みのもんたさんの「プロ野球好プレー珍プレー」番組でのナレーションを聞けた頃ではないかと思います。そういう意味では、川平兄弟がサッカー番組からいずれ離れていくことになった時、彼らに代わる名ナレーター、盛り上げ役が現われて欲しいものです。

(3)NHKの山本浩アナは、日本代表の大事な試合放送が多かっただけに、夢を逃した試合担当という印象も深かったです。

サッカー日本代表の試合放送は、1990年代前半までは、ほとんどがNHKでしたから、NHKの実況担当アナウンサーは多くの方がいらっしゃいました。その中で山本浩さんは、当時、中堅クラスのアナウンサーだったのでしょう。幾つかの日本代表の試合を担当されたわけですが、それがワールドカップ出場権がかかった、妙に大事な試合で、いずれも夢を逃した試合担当という印象が残っています。

1985年秋の国立、韓国戦、これはご自身も著書「メキシコの青い空ー実況席のサッカー20年」でも詳しく述べておられますが、メキシコワールドカップアジア最終予選、日本VS韓国の初戦、日本ノホーム、国立競技場で行われた試合がそうでした。

1989年6月、イタリアワールドカップアジア一次予選の最終戦、ピョンヤンで行なわれた北朝鮮との試合がそうでした。

そして、いわゆるドーハの悲劇、1993年10月のアメリカワールドカップアジア最終予選、最終戦のイラク戦、3大会続けて大事な試合の実況を担当すること自体、サッカー実況アナウンサーとして冥利に尽きるわけですが、それが全部、夢を叶えられない結果となった放送であった点、当サッカー文化フォーラムとしては、ぜひ山本浩さんにご登場いただき、ご本人の感想をお聞きしようと思います。

その逆、いわば、ことごとく勝ち戦を担当したとして名物になったアナウンサーもいます。1997年当時のフジテレビは、サッカー中継において不敗神話を自任しており、それを実況していたのが長坂哲夫アナということのようです。そして、いわゆるジョホールバルの歓喜を彼が担当して、いわば夢を叶えた実況が完結したわけです。

長坂アナは、残念なことに2009年、南アフリカワールドカップの前哨戦であるコンフェデレーションズカップ中継のため南アフリカ滞在中に起こした不祥事のため、アナウンサー職を追われてしまったようです。

まぁ、山本アナが担当する試合が多かった時代、日本代表がまだまだアジアの壁を破れない苦闘の時代であり、その苦闘の上に成長した時期に担当できたのがフジテレビであり長坂アナということでしょう。

これからも、妙に勝ち試合を担当するアナ、妙に負け試合を担当するアナが生まれるに違いありませんが、山本アナのように、史上最強のサッカー実況アナウンサー、サッカーアナウンサーの師匠と呼ばれることを目指して頑張って欲しいものです。

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昨日のブログで川淵さんの開会式挨拶のことを書いたら今日の新聞一面に川淵さんのコラムが

2012年08月12日 11時48分55秒 | インポート

昨日のブログで、93年のJリーグ開幕セレモニーの感動のことを書き、川淵チェアマンの簡潔かつ過不足ない挨拶のことを書きましたら、今朝の新聞一面に川淵さんのコラムが掲載されていました。

「スポーツ先進国へ」というテーマのコラムには「一握りの力より底辺広く」というサブタイトルがついていました。

ロンドン五輪での日本選手の活躍に絡めたコラムですが、川淵さんが長年力を尽くしてこられた地域の隅々までスポーツが根付いている姿、その裾野の広がりに支えられてトップアスリートを輩出していく姿、それこそがスポーツ先進国への道というわけです。

我が「サッカー文化フォーラム」も、サッカーという分野だけではありますが、サッカーが好きでしようがない多くの人々とともに底辺を広げていく活動に貢献していこうと思っています。

ますます盛り上げていきましょう。

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韓国から日本全体に、冷たい水をバサッとぶっかけられた心境です

2012年08月11日 19時42分16秒 | インポート

先のブログにも書きましたように、オリンピックで男女サッカーの快進撃が続き、合計12試合も楽しませてもらえるお祭り騒ぎに耽っていた日本中。その最後の試合で、韓国から日本全体にいかにも冷たい水をバサーッとぶっかけられた感じです。

これまでのお祭り騒ぎが一気に覚めてしまって、沈み込んでしまいました。私は三位決定戦の試合は見ていません。テレビ画面の時計表示が60何分かの時にチラッとみましたら0-2でしたから「こりゃダメだ」と、また寝ました。

しかし、このあとのことを考えれば、どのカテゴリーもそうですが、韓国は特異な国として試合に臨まなければ道は拓けないということになります。そうしないと、こんな具合に日本に立ちはだかる国が隣国なんです。連中は「日本よ、ざまぁ見ろ」と叫んでいるのです。

なでしこジャパンは前回五輪で「ベスト4に残りながら自分たちだけがメダルを持って帰れなかった」と悔しがりました。その悔しさの大きさ、深さが今回につながってします。男子の場合、次回五輪のチームは別のメンバーになってしまいますので、その悔しさの継承は難しいでしょうけれど、難しいで済ませていては、いつまでも進化できないでしょう。

日本も、これからは「韓国だけには絶対負けられない」という気持ちで臨まないと、これからも日本全体に冷や水をぶっかけられ続けるでしょう。なにせ、大統領が不法占拠している島に上陸して何ら恥じない国です。もはや、韓国が第二次世界大戦時のことを、今なお蒸し返して言いたい放題、やりたい放題なら、日本が何の遠慮がいるでしょう。そういう国が隣りにいるのですから、友好? 韓流ブーム? フン!くそくらえです。

サッカーは別にしましょうよとか、スポーツはスポーツでとか、能天気なことを言っている日本人が多いものですから、どんだけ韓国にやりたい放題やられる国になったか、です。

それは中国もロシアも同じですけれど。

まぁ、何はともあれ、日本全体に氷のように冷たい水をバサーッとぶっかけられ、オリンピックのお祭り気分はすっかり冷めてしまいました。なでしこの偉業は冷めませんが、男子のこれまでの5試合がすっかり、かき消されてしまいそうです。

相手が韓国でさえなければ立派な4位といってもらえるのに。これからも日本はそういう避けられない宿命と向き合っていく強い気持ちを持ちましょう。

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ビデオテープのHDD変換100本達成、93年開幕セレモニーの感動ふたたび

2012年08月11日 19時10分54秒 | インポート

いまHDDに変換しているのは、1993年Jリーグ開幕セレモニーが入ったビデオです。このブログでも何度か取り上げていると思いますが、チューブの春畑道哉さんの作による「Jのテーマ」が流れ続け、コーラス、ダンス、レーザーなどの光が国立競技場さらには神宮の森にこだましたセレモニー。

素晴らしい「Jのテーマ」によって、このセレモニーは永遠に色あせることのない感動的なものとなりました。何年かに一度は見ますが、そのたびに感動の涙が頬を伝います。

この音楽によって、私は日本でサッカー文化を愉しむ人生を送れることを、本当に嬉しく思いました。

一つ思いついたことがあります。わが「サッカー文化フォーラム」が公開スタジオで、トークをやれるようになりましたら、春畑さんを一度は招いて、このテーマ曲にまつわる話をお聞きしたいものです。

もう一つの感動的な仕掛けが、巨大なJリーグのロゴマークフラッグと、観客席を埋め尽くした10チームのチームフラッグの色彩が織りなす光景でした。まるで国立競技場という巨大なキャンバスに描かれたデザイン画でした。

特にシンプルなデザインなのに赤と黒という格調あるコントラストで仕上がったJリーグロゴは、日本におけるプロサッカーの成功を予感させるにふさわしいシンボルマークでした。

ここでまた一つアイディアが浮かびました。これは提案になりますが、来年迎えるJリーグ20周年の記念イベントの一つとして、ぜひ埼玉スタジアムあたりを使って、現在のJリーグ全チームが集った「ネクスト20(トゥエンティ)へのキックオフ」というようなセレモニーを、ほぼ同じ時刻にやって欲しいものです。また、あの「Jのテーマ」が流れた93年の感動と興奮をよみがえらせて欲しいと思います。

1993年5月15日、それまで、サッカーは、高校サッカーや元旦の天皇杯決勝、テレビならワールドカップやWOWOWが放送を始めてくれたイタリアリーグ・セリエA、あるいは年1回しかやってこないトヨタカップによってしか愉しめませんでしたが、この日を境に日本の中にサッカーという主役が生まれたのです。

川淵チェアマンは簡潔に「大きな夢の実現に向かって、その第一歩を踏み出します」とだけ挨拶しました。これだけ短い潔い挨拶は、そうお目にかかれるものではありませんが、しかし、その短いフレーズには、言わんとすることが過不足なく盛り込まれていることに気が付きます。あれから20年たったから気づくのかも知れません。

Jリーグがめざす大きな夢とは、例えば100年構想によって進めているスポーツが日常に根差した姿、あるいは日本がワールドカップの覇者になる夢、あるいはサッカー少年が数多く世界に雄飛して活躍する夢、そういった諸々の夢のことは、挨拶の中で言わなくとも、サッカーを愛する人々ひとりひとりの胸のうちで思い描けばいいことです。

このように、セレモニーを見直してみて、また新たな発見がありました。また、この時、実は前田亘輝クンが国歌斉唱していたんですね。あの、ほとんどソプラノに近い声で、しかも小節を効かせての国歌でしたから、おそらく当日は「おぃ、その歌い方はやめてくれぇ」と叫んだかもしれません。

ただ、この後、日本代表の試合などでアーティストが独唱するスタイルが定着しましたが、彼がさきがけとなったのでしょうか?

こんな具合に、楽しみながらHDD変換を続け、まもなく100本になります。6月14日がスタートでしたから、まもなく2ケ月、順調に三桁に到達です。やはり二桁と三桁とでは、少し違いますね。

また何かの時レポートします。

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オリンピックで自国のサッカーを12試合応援できる至福の喜び

2012年08月10日 16時17分01秒 | インポート

ロンドン五輪のサッカー、なでしこジャパンが今朝、アメリカとの決勝に敗れましたが、見事、銀メダルを獲得しました。選手たちは金メダルを目指していたので、悔しいに違いないと思いますが、少なくとも私たちが「銀メダルに終わった」などと傲岸不遜なことを言ってはなりません。そんなことを口走るメディアなどがあったら、当ブログは断固糾弾します。

男子は、明日早朝、三位決定戦に臨みます。相手は韓国、スポーツと政治は切り離して、と願う私たちの気持ちをズタズタにして、韓国大統領が竹島に行くわけですから、これはもう「戦争状態に入れり」です。

本当は、選手たちに、そのような背景を背負って戦って欲しいぐらいです。韓国チームは、少なくとも「なにがなんでも勝つ、絶対負けたくない」という気持ちです。その気持ちは、まさに戦争する気持ちそのものです。それを受ける日本チームには「いいですか、相手はそういうことなんですよ、三位決定戦の日に合わせて、政治的な挑発を持ち込むような国なんです。そういう国におめおめと、負けていいんですか? 日本に勝てば韓国は国中あげて『ざまぁ見ろ』なんですよ。そんなこと言わせていいんですか? あなたがたは、好むと好まざると、そういう状況に巻き込まれて試合を迎えることになったんです。日本男児としてスイッチが入りませんか?」

そう言って聞かせる人が欲しいところです。

その結果は、明朝、わかるでしょう。

ただ、その結果にかかわらず、日本という私たちの国は、サッカー競技において男女とも快進撃を続け、結果、男女合わせて12試合を応援できるという至福の喜びを味わえた世界で唯一の国です。男女ともサッカー競技に出場している国でさえ珍しいのに、その男女とも6試合できるところまで勝ち残っているのです。こういう例が過去に例があったのかどうか、わかりませんが、どれほど幸福なことか。

こうした功績は、本来でしたら男女合わせて「国民栄誉賞」とか「日本スポーツ賞」「日本プロスポーツ大賞」レベルの快挙ですが、おそらく、そこまで誰も顕彰しようと声をあげないでしょう。

少なくとも、我が「サッカー文化フォーラム」は、いつの日か顕彰できる体制が整いましたら、過去に遡ってでも功績を讃えるつもりです。ロンドンオリンピック開会前から、大会最終盤の明日朝まで、長い間勝ち残ってくれて、日本国中を歓喜させてくれた男女サッカー。サッカーを愛する私たちにとって、これほど贅沢なオリンピックが過去にあったでしょうか?

ありがとうございます、なでしこジャパン。そして、今一度、気持ちを奮い起し、国を背負って三位決定戦という戦場に立ってください、男子代表。

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最近、「ビバ!サッカー」な番組と記事に出会いました。

2012年08月01日 16時30分19秒 | インポート

私がサッカー大好きな理由の一つに、番組や記事に、とても楽しいものを見つける喜びがあります。

最近、立て続けに2つありました。

一つは、サッカーマガジン1413号、2012.8.7号、香川選手が表紙のものです。これに「月イチ連載」というのが載っています。これまで、ほとんど意識していなかったのですが、「お笑い芸人 土田晃之の やっぱ14番でしょう」というタイトルがついていますので、彼が月イチで持っているコーナーでしょうか。

今回、惹かれるように読んだのは、写真に名波選手(ポロシャツ姿でも何故か「選手」とつけてしまいます)があり、キャプションに「名波くんの解説は視点がスゴすぎる。ピッチサイドだけでなくスタジオでも是非」とあったので、本文に引き込まれたのです。

読んでいくうち、抱腹絶倒、面白かったのと、ある企画が浮かんだのです。

土田クンはホントに愛すべきサッカー小僧だと思います。今月のお題ということで「解説者」にまつわる彼・土田クンのいろいろな話が紹介されていて、解説者・名波さんを高く評価しているわけです。

フジから始まって、テレ朝、TBSと、解説者陣をなで切りにしていき、いつの間にかアナウンサーに飛んでいき、さらには番組づくりにも及んでいきます。このページの話は活字で読みながら番組を思い出し、想像しながら抱腹絶倒しているわけですが、思ったのは、こういうトークをぜひ、当サッカー文化フォーラムの公開スタジオでやりたいのです。話しに出てくる番組、解説者、アナウンサーの話しぶりをスクリーンに映して、観客に見ていただきながら土田クンに話してもらいたい、さぞ楽しいトークになるに違いありません。

連載しているマガジンさんも、そういう企画につなげれば二度おいしい事業になるのですが。いずれは、我が「サッカー文化フォーラム」が、その担い手になろうと思うのです。

もう一つ楽しかったもの、番組ですが、7月30日深夜放送のスパサカ、余談ですが、長寿番組ですねぇ、先週、1994年11~12月頃の「スーパーサッカー」を何本かHDD化しました。番組が始まったのが1993年秋だと思いますので、番組スタートから1年後ぐらいでしようか。

ナビゲーターは、ご存じ生島ヒロシさんと三井ゆりさん、それにTBSアナウンサーの清水大輔さんというメンバーでした。この頃「サッカー向上委員会」なる企画があって、越前屋俵太さんという珍妙ないでたちの人が、テーマに関連したあちこちに出向いて仕上げていく企画でした。

話が横道にそれましたが、現在のナビゲーターは加藤浩次(なぜか「さん付け」しないでしまいますね)、7月30日に呼んだ人が、ドラゴン久保こと、久保竜彦選手、この口数の少ないピュアなサッカーマンを、加藤浩次は楽しそうにいじくりまわして、ますます久保選手の素晴らしいキャラクターが浮き彫りになっていきます。

久保選手が、ただのいじられキャラだけで呼ばれたのではなく、本当に惜しまれて現役を離れる素晴らしいサッカー選手だったからです。そのギャップが何とも嬉しい「ビバ!サッカー」と叫びたくなる所以です。

久保選手を挟んで加藤さんともう一人、小倉隆史さんがいるわけですが、彼も元祖・モンスターと呼ばれたサッカー選手です。元モンスターと前モンスターが揃いましたが、「前」のピュアさに比べ「元」はなんと世間慣れしてしまったというか・・・。それにしても久保選手、当サッカー文化フォーラムでも、記録にこそ残らないかも知れないが「記憶に残る名選手」として間違いなく顕彰したい選手なので、いじくりたいという加藤の不純な動機ではないかと思いつつも、呼んでくれた「スパサカ」をあらためて称賛したいと思います。

ちなみに久保選手は、サッカーマガジン1412号 2012.7.31号にも「さらばJ」というコーナーに登場している。こちらはいたって真面目なページ作りになっています。さらにいえば、番組も記事も、久保選手の中学1年のお嬢さんが、なでしこを目指せる逸材だと紹介していました。楽しみです。

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五輪サッカー男女、いよいよ次が関門になりましたね。

2012年08月01日 15時29分44秒 | インポート

前回書き込みから半月も空けてしまいました。前回も申しあげましたが、神奈川県の倉庫撤収と、セカンドハウスの取得の関係に忙殺され、なかなか書き込み時間がとれませんでした。

しかし、ビデオテープからHDDへの変換作業だけは途切れさせないようにして、昨日まで73本です。8月13日が丸2ケ月ですので、そこまでに100本に到達したいと思います。

倉庫撤収作業やHDD変換作業していて思ったのですが、1986年以降、日本の社会でサッカーの意味合いが年々高まってきましたが、一つのピークを超えて、いまは高原状のなだらかな時期にあるのではないかということです。

日本代表を頂点にした日本サッカーのレベルは、いまなお進化を続け、右肩上がりで上昇を続けていることは間違いないのですが、社会全体におけるサッカーへの見方というのは、1996年に日韓ワールドカップ共催が決まり、1997年にワールドカップ初出場を成し遂げたあたりから2002年のワールドカップ終了まで続いた数年間の熱気と興奮が一つのピーク時期であり、その後は、その時期と同程度の盛り上がりはあっても、それ以上の熱気・興奮にはなっていないと感じるのです。

私はテレビ放送、スポーツ新聞、サッカー雑誌・スポーツ専門誌をつぶさに見続けてきた皮膚感というか、肌で感じるものがあるのですが、それらの情報量という物差しで測ってみても、あの5年間ぐらい、とりわけ2000年に入ってから2002年までの3年間は、膨大な情報が吐きだされていたことになります。

おそらく、これからデジタル処理によって、定量的に示すことができると思いますが、やはり2002年が一つのピークになっていると思います。

ただ、昨年から、なでしこジャパンの活躍によって新たな情報ファクターが加わりましたから、今回のロンドン五輪のように男女とも快進撃ということになれば、次のピークを作る可能性を感じています。

そのロンドン五輪サッカー、なでしこのほうは準々決勝の相手がマルタ率いるブラジルに決まり、男子は今夜、準々決勝の相手が決まる第3戦を迎えます。

なでしこはブラジルを撃破できればメダル獲得に自信が持てるでしょうし、男子も今夜のホンジュラス戦でグループリーグ1位通過できれば、準々決勝の対戦相手に自信が持てますので、共に次の試合が関門となります。

それにしても男子への評価は急上昇ですね。ここまででも立派です。なんといってもスペインを破り、それを次の試合で無駄にせず連勝してグループリーグ突破を決めたのですから、歴史的快挙です。彼らはまだまだ満足せず、上を目指していますので頼もしい限りです。

最初からメダルの期待を背負い、やや気の毒な立場にたった、なでしこジャパンもプレッシャーをはねのけ、ここまで来ています。なんとかブラジルに勝たせてあげたい、皆んなで「気」をイギリスまで届けたいものです。

五輪が始まってから少し情報が薄くなってしまいましたが、香川真司選手のマンチェスター・Uでのスタートもビッグニュースですね。

10日ほど前は、香川真司選手のことを書きたかったのですが、落ち着きましたら、あらためて詳しく書こうと思います。視点は、やはり、中学生に入った段階で単身親元を離れて武者修行に出ようとする、その自立心、向上心の強さですね。

これまでのサッカー選手で、香川選手と似たようなチャレンジをして成功した選手に、高校1年の時にブラジルにわたったカズ選手がいます。

もちろん、同様のチャレンジを試みたサッカー少年も多いと思うのですが、いろいろな要因で香川選手、カズ選手のようにはなれなかったわけです。

そこを掘り下げてみたいと思っているのです。皆さんのご意見もお聞かせいただければと思います。お待ちしています。

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