「サッカー文化フォーラム」夢追い人のブログ

1993年のJリーグ誕生で芽生えた日本の「サッカー文化」。映像・活字等で記録されている歴史を100年先まで繋ぎ伝えます。

「サッカー批評」誌と「フットボール批評」誌

2015年05月21日 17時12分11秒 | アート・文化
私は、これまで「サッカー批評」誌と「フットボール批評」誌は、国内版と海外版かと思っていたら、最近になって違うらしいことを知った。海外版にあたるのは「欧州フットボール批評」のようだ。少しややこしい。

「フットボール批評」誌が発刊されて、もう1年近く経つので、情報感度が意外に鈍感になっている自分を感じた。

「サッカー批評」は双葉社の出版だが、編集実務はカンゼンという会社がやっていたのを知らなかったので、それを呑み込むまで少し時間がかかった。

「フットボール批評」を昨年9月から発刊するにあたって森哲也編集長が、ネットで「刊行のお知らせ」というメッセージを出してくれていたので、読ませていただいた。読んでいない方はぜひ『「フットボール批評」刊行のお知らせ』で検索して一読されるといい。

私が知っている「サッカー批評」は、森編集長の言葉を借りれば「日本サッカーの長所と短所を冷静に見極めながら、タブーなく常に問題提起していく」「戦うメディアでありたい」そのものである。

それが昨年7月発売の69号をもって全面リニューアル、つまり70号からは内容一新ということになったらしく(私は、まだ70号以降をよく読んでいないので)、森編集長はじめ従来のコンセプトを大切にしたい編集陣が、カンゼン社出版による「フットボール批評」という誌名で、再出発することにしたという。

私などは類似誌名で、悶着が起きなかったのかしらと心配になったが、あまり、そういう声は聞こえてこないように見える。「サッカー批評」の双葉社も割り切っているのだろうか。

ネットで、最近の両誌の掲載内容を見たが、リニューアルされたという「サッカー批評」のほうにあまり変化は感じなかった。まずは、両誌が並立してから現在までの掲載内容をじっくり読み比べ、なにがどう変わったのかをつかんで、またの機会にレポートしてみたい。

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あらためてサッカーの世界の素晴らしさを

2015年05月09日 19時11分25秒 | サッカー文化
世界中の人びとが、一つのボールだけで心を通わせることができる魅惑のスポーツ。それが「サッカー」。英語ではフットボール、スペイン語ではフッボル、ドイツ語ではフースバル、イタリア語ではカルチョ・・・・。

ニッポンのサッカーが世界に目を向け始めた1980年代後半から、テレビ、雑誌、新聞などを通じて日本中に届けられ、次第に大きく育ってきた「サッカー文化」という名の実りを、さまざまな切り口から、とことん楽しんでいただきたく、web上のテーマパークをオープンしたい。

そもそも「サッカー」の何が素晴らしいか、わかっている人も、まだわからない人も聴いてください。

サッカーに戯れる。そのことだけで楽しい

まず、ボールを蹴ってチームで試合すること、そこが楽しい。男の子はもちろん、最近は女の子でも、大人がサッカーボールをコロコロと蹴り出してあげれば、ちいさな「あんよ」で蹴り返す。そこからサッカーとの出合いが始まる。

次第にボールで戯れる時間が増え、試合することを覚え、チームに入り夢中になり始める。少しづつスーパースターのテクニックをまね、自分なりの技術を身につける。自分もお気に入りの選手になりきってドリブルする。シュートを放つ。そしてサッカーのとりこになる。

スタジアムに足を運んで熱狂と興奮を体感すれば、それも楽しい

たまたまサッカーに縁のなかった人は、成長して、友人や恋人と連れ立って初めてサッカースタジアムに足を踏み入れる。

そこには熱烈に応援を繰り広げる熱いサポーターたちが陣取るスタンドがあり、緑の鮮やかなピッチという名の壮大な舞台が目の前に広がっている。

そして、ひとたび試合が始まり、躍動する選手たちに目を凝らすと息をもつかせぬ攻守の切り替えが展開され、どちらかのゴール前に緊迫の場面が訪れれば、サポーターたちが一斉に立ち上がり、その行方を固唾を飲んで見守る。

ボールがゴールマウスに吸い込まれれば、スタジアムの興奮は頂点に達し、耳をつんざくような大歓声に、縁のなかったはずのその人も鳥肌が立つ。そういう場に立ち会える幸福で、たちまち、その人はサッカーのとりこになる。

サッカーは皆んなの心を一つにするからスゴい

スタジアムでプレーする選手たちが、国を代表して戦うような大切な試合であれば、スタジアムに立ち会えたサポーターだけではなく、どこかのパブリックビューイングであれ、どこかのスポーツバーのプロジェクターであれ、それぞれの家庭のテレビの前であれ、心を一つにして、その試合の行方に一喜一憂する。それが魅惑のスポーツ「サッカー」なのだ。

もし、日本代表が偉業を成し遂げる試合を制すれば、多くの人たちが街に繰り出し、誰彼となく喜びを分かち合う。どこの国でも、同じように試合を制すれば同じように繰り出す。「サッカー」というスポーツの力が、いかに心を一つにさせてくれることか。

サッカーに実に多くの人たちが関わっていることを知ると、一層凄いと思う

そのサッカーの世界、いまや、多くの人々によって支えられている。そうしたサッカー関係の仕事に関心を持つ人たちも増え続けている。スタジアムの中であればレフェリー、ドクター・広報などのチームスタッフ、スポンサー関係者、さらには協会などの組織関係者、取材記者などメディア関係者。

欧州の人気サッカーリーグなどは巨大ビジネスの場になっている。そういうところでサツカーの世界は、もはや「魅惑のスポーツ」という枠をはみ出しかねない危うい世界になりつつあるかも知れない。

サッカーはいつも音楽、色彩、そして表現者とともに

でも「サッカー」の世界には、いつも「アンセム」という音楽が寄り添ってくれる。国際試合の選手入場時にはフェアプレーアンセム、ワールドカップサッカーなら大会毎のテーマアンセム、世界最高峰のクラブ対抗リーグと言われる欧州チャンピオンズリーグにも、そして私たちが1993年から愛し続けているJリーグにもテーマ音楽がある。冬の全国高校サッカー選手権のテーマ曲も続いて欲しい。

スペインのビッグクラブ・FCバルセロナや、イングランドのビッグクラブ・リバプールFCなどは、試合前に何万人ものサポーターが高らかにチームソングを歌いあげる。もはや音楽がサッカーチームを支え、サッカーチームと音楽が一体となっている。

「サッカー」の世界はカラフルな色彩に彩られている。ユニフォームの色彩、チームフラッグの色彩、スタンドを埋め尽くすサポーターが描き出す色彩、それが広いピッチの緑と常にコントラスト鮮やかに私たちをワクワクさせてくれる。

「サッカー」は、多くの有名人・芸能人が愛するスポーツでもある。有名ミュージシャンによって、有名タレントによって、そしてお笑いの世界に君臨する人たちの手によって、より楽しいエンターテイメントとなって、私たちの手元に届けられている。それらを

サッカージャーナリストやサッカーフォトカメラマンたちが切り取ってくれた一瞬の場面を見にいこう。そこには、驚くほど見事な内容が描写されている。それら表現者たちにとっても「サッカー」というジャンルがいかに魅力的な表現対象であるかが、ひしひしと伝わってくる。

サッカーの世界は壮大な文化と歴史の遺産を生みだしていく

こうしてみると「サッカー」そのものが文化の一つであると同時に、サッカーが他のさまざまな文化と融合した複合文化になっていることがよくわかる。

そして「サッカー」には、辿れば辿るほど奥が深い歴史がある。欧州や南米の伝統あるクラブなら100年以上の歴史を刻んでいる。この日本でさえ1980年代後半から起算しただけでも相応の歴史を積み重ねている。

日本のサッカーは、世界の舞台に本気になって挑戦するようになってから、さまざまな伝説的な経験を積んできた。それらの場面では、さまざまな要素が絡み合い、実に興味深い結果が積み上げられてきた。

そして、それらの結果は、テレビ、雑誌、新聞などのメディアに克明に記録されている。その時々のサッカー関係者が下してきた判断、決断、その結果として表れた出来事が、果たして適切だったのかどうか、歳月を経ることによって検証される必要がある。それが「サッカー文化」の歴史的遺産となっていく。

こんな風に、いろいろなパビリオンをお見せしたい。webサイト「サッカーの世界へようこそ」のリニューアルをお待ちください。
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久々の拍手喝采ニュース、FIFA理事当選

2015年05月01日 19時40分38秒 | FIFA、サッカー協会
日本サッカー協会からFIFA理事選に立候補していた田嶋幸三さんが、AFC総会選挙で当選したというニュースが入ってきました。

久々の拍手喝采だ。田嶋さんをはじめ協会関係者の皆さんに、心から「おめでとうございます。ここまで、ご苦労さまでした」

当ブログが、日本サッカー協会には少し辛口に構えていることは否定しませんが、要は、今回のような実績を積み上げて欲しいという願望からきています。

ザッケローニでブラジルW杯に惨敗して、アンダーカテゴリーでも次々と世界キップを逃し続けては、この先5年、10年に必ずW杯出場権獲得失敗といった事態を招きます。

23年前の1993年、日本で開催されたU-17世界選手権に、開催国として出場の機会を得たことから、中田英寿、宮本恒靖、松田直樹といった、のちの日本サッカーの中心選手となる素材を強化して大会に臨み、見事に決勝トーナメント出場を果たしたのを機に、1995年のU-19、1996年のU-23五輪代表と、アンダーカテゴリーの日本代表が次々と世界大会出場権を自力で勝ち取るようになりました。

その後も若手年代の育成の手を緩めずに世界大会への出場を重ね、それがフル代表への質の高い選手供給へとつながり、5大会連続のW杯出場を果たし続けていることは、サッカーを愛する者であれば、誰にでもわかることです。

それが、ここにきてアンダーカテゴリー年代が弱体化しているということは、当然、これから先のフル代表に影響が出ることになります。とりわけ問題なのは中東諸国や中国などが豊富な資金力にものを言わせて、15年前、20年前とは比べものにならない程、育成に力を入れているということです。

アジアから世界大会に出場できる枠というのは、この先も当分のあいだ、劇的に増えるなどということはありません。したがって、以前は韓国、サウジアラビア、イランぐらいが強力なライバルだったところに、UAE、クウェート、中国そしてオーストラリアなどが加わってくれば、当然、出場権獲得が難しくなります。

私が日本サッカー協会に対して、強くもの申したいのは、こうしたアジア全体の相対的なパワーバランスの変化を見切った強化策を講じないところです。そう言うと「われわれも当然それなりにパワーバランスの変化を把握している」とか「それに対応した強化策を講じている」などと反論があるに違いありませんが、それは反論ではなく言い訳にしかすぎません。

ACL・アジアチャンピオンズリーグに対するサポートにしてもそうですし、その他もろもろ、あまりにも日本サッカー協会は「お役所しごと」になり下がってしまっています。

私は、これは、ある意味、大企業病だと思っています。会社の成長・発展・停滞・衰退のサイクルと同じ道を歩んでいると思うのです。20年前、協会は社会的注目度もあがり、協会運営も責任感に満ちた活力ある組織だったと思います。

しかし、会長はじめ首脳陣と言われる人たちが、情実で選任されたのだろうと揶揄されるような形で引き継がれていくうち、日本サッカーの進歩発展、代表チームの世界におけるレベルアップといったことに対するギラギラとした情熱は失われ、首脳陣そのものの保身や官僚的運営のみが支配する組織に変質してしまったのです。

それが、アンダー世代でのアジア敗退を招いているのです。当事者たちは認めたくないでしょうが、逃れられない現実です。

おそらく、FIFA理事への役員送り込みといった布石を着々を打ち続けて、日本に必要な対応策を先手先手で打っていく必要性については、協会自身もよくよく承知していたと思います。問題は、それを実現させる戦略や行動力が足りなかったわけです。

今回、そのうちの一つに布石を打つことができました。これを機に戦略・行動力にさらに拍車をかけて欲しいのです。会社と同じで、現状に安住していたら競争社会で、それは退歩、敗北につながるのです。

どうか、協会幹部という居心地のいい組織で安住しないでください。日本の社会の中でも注目度が高い大切な組織を預かっているのです。周りの変化に対応して成果をあげ続けていくための、不断の努力、高い集中力、そして強い責任感といった資質と実行力が求められているのです。日本でも、どこでもトップ企業において情実人事などということは、もはや考えられない時代です。

グローバル競争に勝ち抜いていくために、決してかじ取りを誤らずに、組織を鼓舞しながら最大限の力を発揮できる能力を備えた人材は誰なのか、次を託すリーダーを誤りなく選び出す、それがトップの最重要課題の一つでもあるのです。ですから、時々、副社長や専務を飛ばして常務クラスから後継者に抜擢される人事が飛び出すのです。

日本サッカー協会の今はどうですか? 大仁さんの次は田嶋さん、その次は原さん、そこまではもう決まりでしょ。協会専従職員に人材が限られているというのも一つの理由だと思いますが、Jリーグの村井さんのように、誰もが認める人材なら外部から来られたって、何の問題もない。ところが協会には、外部から招いた犬飼さんを引きずり下ろしたという歴史があります。

私は、今回の田嶋さんのFIFA理事当選を、心の底からお祝い申しあげます。ですから、どうか協会の将来も、あくまで、日本サッカーの進歩発展、代表チームの世界におけるレベルアップという基本課題を達成できる人材として誰がふさわしいのか、協会内部だけという保身、官僚的思考から早く脱却して、決めていって欲しいと思います。

早いもので、もう名前が忘れ去られそうになっている前日本代表監督アギーレ氏の疑惑問題が世間を騒がせた時、協会幹部の責任追及も厳しかったが、その時「代表監督を更迭させるたびに協会幹部が責任をとっていたら、たまったものではない。協会幹部というのは何も代表監督選びばかりやっているわけではない」とのたまわった御仁がいました。

その論法には意義ありでした。アギーレ問題で責任をとる必要があるかどうかは議論のあるところですが、少なくとも「事と次第によっては協会幹部が責任をとって辞める必要があることもある」という部分を忘れて欲しくありませんでした。

アギーレ問題で協会幹部責任問題が議論されたのは、やはり現体制は能力的に問題あり、さきに企業を例にとってご紹介したように、この難しい時代に、凡庸な方々に舵取りをされては困るという危機意識から出ている議論だと思います。

幸い、後任のハリルホジッチが、協会幹部への疑念を忘れさせてくれています。でも、また、なんのキッカケで協会幹部への不満、疑念が再燃するかわかりません。どうか「任せておいて安心だな」と思わせるようなメッセージを出すことも含めて、お考え直しいただければと思います。

以上、FIFA理事ご当選のお祝いにかえて、申しあげました。
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