「サッカー文化フォーラム」夢追い人のブログ

1993年のJリーグ誕生で芽生えた日本の「サッカー文化」。映像・活字等で記録されている歴史を100年先まで繋ぎ伝えます。

日本サッカー協会75年史と百年史を読み比べてみました。

2024年12月26日 13時16分17秒 | FIFA、サッカー協会
現在進めている、当「サッカー文化フォーラム」のサイト「ようこそ サッカーの世界へ」⇒「ヒストリーパビリオン」⇒「伝説のあの年」シリーズは、「伝説のあの年1986年」から始まり「次の伝説までのあいだに何が1987~1991年」そして「伝説のあの年1992年」「伝説のあの年1993年」「伝説のあの年1994年」「次の伝説までのあいだに何が1995年」と書き進めてきました。

ちょうど10年分を書き込んだことになりますので、そこそこの分量になります。ぜひ、通してお読みいただければと思います。
このあと、少なくとも2002年までは書き進めるつもりです。ただ、ここから先、1996年から先は1年分だけでも1993年の時と同じぐらいの分量になるはずですし、それを、あと7年分書き進めなければならず、そう簡単なことではありません。

ここまでの作業で一つ新しいことを加えたくなりました。それは、どうしても簡単な動画でお伝えしたいということです。
一例をあげると、こういう記述部分がありました。1994年の中で「ストイコビッチ選手、雨中の試合でエンターティナーとスーパープレーを同時に披露」という小見出しをつけたところです。これは、ストイコビッチ選手が水たまりで水泳ぎのようなポーズをしたプレーと、リフティングしながら30mぐらいを全力疾走したプレーが同じ試合であったという記録です。

それを、文字でいろいろと表現していますが、こんなものは動画を見てもらえば一目瞭然です。動画にすると水泳ぎの部分は5秒ぐらい、リフティングの部分もせいぜい10秒ぐらいです。それぐらいの動画ですと、あまり重くなりませんので、動画をつけることにしました。

動画を作成するのも手間がかかりますので、ある程度まとまった作業が必要になりますが、これが出来れば格段に楽しい「ヒストリーパビリオン」になると、いまからワクワクしています。

話が脇道にそれましたが、いろいろな事柄の書き込み作業の中で、「ところで、この部分は「日本サッカー協会百年史」ではどう記録されているのか」と確認したくなりました。
「日本サッカー協会百年史」は25000円もする高価な書物ですから、当「サッカー文化フォーラム」のような、収益基盤のないところでは備え付けられません。

日本サッカー協会には閲覧可能な資料室のようなところがなさそうですので(もし閲覧可能な仕組みになっているようでしたら、どなたか、ぜひお知らせいただければと思います)、国立国会図書館に出向いて閲覧しました。

日本サッカー協会のホームページによると752ページにもなる大著ですので、読み応えがあります。今回の閲覧では、とりあえず1986年前後から1995年前後まで約10年分を読んでみましたら、それなりに新しいことがわかり、やはり読んでみないとわからないものだと、つくづく感じました。

その「百年史」には、1996年がちょうど創立75周年で盛大に記念式典も行ない「75年史」も刊行したとありましたので、今度は75年史も読みたくなりました。国立国会図書館では見当たりませんでしたので、帰宅してからネットで調べましたら中古品が販売に出ていましたので、購入しました。

こちらも430ページの大著です。読み比べてみてわかったのは、内容構成が微妙に違う点でした。どうしてだろうと考えてみたら、編集メンバー、販売元とも違っていて、おそらく、それが影響しているためだと感じました。

「75年史」は販売元がベースボール・マガジン社、執筆メンバーにはサッカーマガジン、サッカーダイジェストの編集メンバー、あるいは新聞記者さんが多く名を連ねています。
一方「百年史」のほうは、販売元が出版文化社という会社で、執筆陣も多様な方々で構成されています。やはり「Jリーグ」スタートによって、日本サッカー協会が関わるべき内容が飛躍的に広がったことがよくわかります。

「75年史」の刊行直前には、2002年W杯の日韓共催が決まったばかりですので、まずそのテーマから入っています。内容構成の違う点をここでは細かくご紹介しませんが、一つ感じたのは、やはり日本サッカー協会の公式記録ですから、なかなかネガディブなこと、例えば当サイトの「伝説のあの年」でたびたび指摘している「あの時の協会の判断はそれでよかったのか」といったスタンスの記述がまったくといっていいほどありません。

そういう意味では「75年史」「百年史」は、あくまで歴史の表側だけを見る書物で、歴史の裏側までは見えません。「サッカー文化フォーラム」が目指しているのは、歴史の表も裏も全部見せます、ということです。そうでなければ意味がありません。

ただ、その期間を1986年から2002年程度までに限定せざるを得ません。1986年より以前は「75年史」「百年史」の内容で十分であり、2003年以降はネット等の普及で、当方にしかない資料・記録という希少性がなくなっているためです。

引き続き1996年から先の書き込みを進め、合間合間にショート動画を差し込んでいきますので、ぜひ楽しみにしていただければと思います。
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賀川浩さんのご逝去、その業績の大きさをあらためて偲びつつ、微力ながら継承をお誓い申しあげます。

2024年12月08日 11時54分49秒 | サッカー文化
2024年12月5日、賀川浩さんが99歳でご逝去されたとの報に接しました。1924年12月29日のお生まれだそうですから、それこそ、もう少しで100歳になられるところだったのに・・、です。

6日付の産経新聞によると「老衰のため」とありました。同紙には1979年に若き日のマラドーナ選手(ワイシャツ、ネクタイ姿)と握手していらっしゃる写真と、2019年3月、神戸で開催された日本代表vsボリビア戦のあと森保監督と握手していらっしゃる写真が掲載されていました。

2019年3月といいますと94歳の時のようです。ずいぶんお年を召されたようにお見受けする写真ですが、まだスタジアムに足を運ぶお気持ちをもっていらっしゃったということになります。

当「サッカー文化フォーラム」夢追い人は、賀川さんがFIFA(国際サッカー連盟)から日本人として初めて「FIFA会長賞」を贈られる前年の2014年8月に、神戸市立図書館内に開設されている「神戸賀川サッカー文庫」を見せていただくために訪問した際、賀川さんご自身も来てくださり面会させていただいたことがあります。

「神戸賀川サッカー文庫」を開設された神戸市立図書館の方、その文庫を支えていらっしゃる賀川さんのお仲間という感じのサッカー仲間の皆さん、「日本サッカー発祥の地」にふさわしい神戸に根づく分厚い「サッカー文化」の土壌、そこで90歳になろうかという高齢の方が、若々しく現役のサッカージャーナリストとして活躍されているご様子に接して、その時のことを2014年8月25日に、次のように書き込んでいます。

「この神戸市立中央図書館「神戸賀川サッカー文庫」の訪問でわたしが痛感したのは、サッカー資料の保存と広く利用していただく、一つのカタチが、すでに、ここにはあるんだなぁ、ということだ。
私が描いていたカタチがすでに現実にある。これは衝撃だったし、今後に光が見えた感じで、希望が湧いてくる訪問だった。
とにかく、辛抱強く保存・整理作業を続けていれば、きっと可能性が開けてくる。決意をあらたにさせていただいた。」

また翌2015年4月に東京・文京区の日本サッカーミュージアム(当時はJFAハウスという日本サッカー協会社屋内にあった)で開催されたトークショー「サッカー本事始め」に、賀川浩さんが、大住良之さんの進行で、牛木素吉郎さん、小倉純二さんとともに登壇されたのを拝聴したことがあります。

この時のことは2015年4月6日に、次のように書き込んでいます。
「登壇者4人の平均年齢が75歳以上、通常ならトークショーが成立しそうにない感じだが、なにせ、皆さん現役のサッカージャーナリスト。頭脳明晰、博覧強記、弁舌さわやかなトークに時間の経つのも忘れるほどでした。」

そして2015年10月には、日本サッカー協会の会議室で開催された「サッカー史研究会」に参加させていただいた。月例で行われているこの勉強会は、日本のサッカージャーナリストの大御所の一人、牛木素吉郎さんが主宰されているもので、私には敷居が高く入れない勉強会ですが、この日は、神戸から賀川浩さんをお招きして講演していただくということで、ふだんのメンバー以外にも門戸を開放してくださったことから参加できた会でした。

当「夢追い人」が、賀川浩さんの何に感銘を受けたのかといいますと、それは、賀川浩さんが70歳を過ぎても80歳を過ぎても90歳を過ぎても倦むことなく、ご自分ができることを続けられたという、その生き方です。

それまでの私は「そもそも自分は40歳代半ばにして、初めてサッカーの世界に関心を持ち、次第に魅せられ、最後には自分の生涯のライフワークにしようと始めた『サッカー文化フォーラム』の取り組みではあるものの、いつまで続くのか、いつまで続けられるのか、終わりの見えない暗い道を歩いているような60歳代半ばの年寄り」という気分でした。

けれども賀川浩さんは、初めてお会いした時にすでに90歳を目前にしたお歳、賀川浩さんから見れば息子の年代にあたる人間が「自分は年寄り」などと考えていることを、さぞおかしく思われたことでしょう。

当「夢追い人」も、目が覚めた思いでした。すでに当時、サミュエル・ウルマン作の「青春」という詩があるのは知ってしました。
「青春とは人生のある期間ではなく、心の持ち方を云う。(中略)ときには20歳の青年よりも60歳の人に青春がある。年を重ねただけで人は老いない 理想を失うとき初めて老いる。(中略) 頭を高く上げ希望の波をとらえる限り、80歳であろうと人は青春にして已む(やむ)。」

この詩を言葉ではわかっていても、なかなか自分のこととして考えるところまではいきませんでしたが、この詩をまさに体現されているのが賀川浩さんであり、私も賀川さんを範として、この詩を事あるごとに口ずさみ頑張っていきたいと考えたものです。

また賀川浩さんからは当「夢追い人」の取り組みに対する大きな示唆もいただきました。それは、
「これから先、デジタル社会になり、ほとんどの記録はネット上を通じて手に入るが、紙媒体やビデオテープ媒体といったアナログ記録でしか残っていない記録は、保存・継承の作業をしないとデジタル社会になっても手に入らない。保存・継承されないまま失われては永遠に残らない。そのことを考えればビデオテープ媒体のものをデジタル変換して残す作業には大きな意味があるので、頑張って欲しい」という言葉です。

すでに当時はデジタル社会、ネット社会に入っていましたから、当「夢追い人」も、自分のやっている作業に対する意味、価値を、ともすれば見失いがちになっていた時期でした。
その時に賀川浩さんが指し示してくださった明確な道筋「アナログでしか残っていない記録はデジタルに変える作業をしないことには記録として残せない」。

この教えが、いま、こうして「サッカー文化フォーラム」を続けられているエネルギーになっています。

こう書き込んでいる中、テレビでは2024年シーズンJ1最終節、首位神戸vs湘南戦が始まりました。なんとありがたいことに試合会場の神戸・ノエビアスタジアム場内に「ここで賀川浩さんの功績を讃え1分間黙祷をささげたいと思います。ご来場の皆様、ご起立の上、ご協力願います」というアナウンスが流れました。

当「夢追い人」も、それに合わせてご冥福をお祈りして黙祷を捧げさせていただきました。ささやかなことですが、この巡り合わせに、あらためてご縁を感じます。

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