「サッカー文化フォーラム」夢追い人のブログ

1993年のJリーグ誕生で芽生えた日本の「サッカー文化」。映像・活字等で記録されている歴史を100年先まで繋ぎ伝えます。

「広島・森保監督論」書物を読んだようなNHK2番組

2016年08月30日 09時35分35秒 | Jリーグ・三大タイトル
昨夜(29日)NHK総合で放送された「プロフェッショナル~仕事の流儀」は、サンフレッチェ広島・森保監督が主人公でした。この番組、あらゆる分野の人を取り上げていますから、スポーツ関係の人は年に数回、サッカー関係の人となれば2~3年に1回ではないでしょうか。

そういう珍しい放送だと思いましたからライブで見たかったのですが、いかんせん夜遅すぎました。22時からだと思って頑張って起きていたのに、チャンネルを回したら始まらず、番組表を確認したら22時25分からでした。あきらめて寝て、今朝録画を見た次第です。

番組を見終わって感じたことを今回のタイトルにしたのですが「2番組」というのは、今回のと、さる3月21日に放送された朝の番組「ここから」の二つです。

「ここから」については3月21日に書き込みしておきました。今回の番組は、ちょうど3月に見た内容の延長線上にあるような感じでした。あたかも、2つの番組が前編・後編のような仕立てになっており「森保監督論」といった書物を読んだ気分でした。

したがって3月に感じたことの答えが今回出ていたり、3月には漠然としていた事について具体的なことがわかったので、それを書いてみたいと思います。

まず、3月の番組を見て、選手とのコミュニケーションについてこう書きました。
『監督の立場となれば、選手とは一定の距離を置くことも必要な中、いかに自分の方針を理解してもらい選手に最大限の力を発揮してもらうか、森保さんは「自分が伝えたいことが選手の中にスッと入っていくタイミングを見ることに心がけている」と話していた。』

この「自分が伝えたいことが選手の中にスッと入っていくタイミングを見ることに心がけている」というタイミングの見計らい方、そこが知りたいところですが、今回の番組で、その答えが出ていました。

練習場での森保監督、どの選手についても「やりとりしておきたいネタ」は持っており、あとは、その選手の心にスッと入っていけるタイミングだけを見ているようです。ですから、そのタイミングだと見たら、通路であれ駐車場であれ、どこでも、そしてどしゃぶりでも日が暮れて暗くても、気軽に声をかけるそうです。

しかも、その時は必ず選手に問いかけて話しを引き出すことから始めるといいます。そしてコミュニケーションの最後は必ず笑顔で終わる、選手がいいイメージで「やりとり」を終えたと感じられるようにするための重要な仕上げだといいます。

次に、3月の番組を見て、森保監督が学び取った二人の恩師からの教えについて、こう書きました。
『人間誰しも、学び取ることすら難しい、せっかく素晴らしい指導者から薫陶を受けても、なかなか自分のものにできない。

仮に自分のものにできても、それを今度は自分の仕事の中で、どう発揮していくか、次の難関だ。自分という人格が他者との関係性で、どう折り合いをつけながら自分の方針を貫いていくのか、言うは易し行うは難しだ。

そして、最終的に「結果を出す」というところまで持っていけるのは、大変な力量と言わざるを得ない。森保監督の人となりが結果を出せる指導者にふさわしい器量と資質を備えているのであり、凡人の域をはるかに超えたものなのだ。』

この「自分という人格が他者との関係性で、どう折り合いをつけながら自分の方針を貫いていくのか」という点について、今回、森保監督はぶれない考え方を示していました。

「監督として忘れてはならないこと、それは『選手の心を預かる仕事』だということです。采配においては選手を一つのコマとして扱わなければならない仕事ですが、選手はロボットではないので、試合に出るために日々努力を続けてくれていて、不安や葛藤を抱きながら頑張っている、そういう心を忘れないようにしなければならないと思っています」

そういう考え方があるから、コミュニケーションを大切にして、常に選手の心にスッと入っていけるタイミングを重視するという行動につながっているわけです。そこが森保監督の「人となり」ということだと思います。

選手が「監督はいつも自分を見てくれている、自分がいい状態になれば使ってくれる」と信じてくれる状況にしているということになります。

コミュニケーションの具体的な中身について監督はこうも語っています。
「パフォーマンスが落ちてしまった選手、なかなか結果が出ない選手とコミュニケーションをとる時は『逆境の時こそ自分の基本に立ち返れ』という考え方を伝えます。

選手は、なかなかうまくいかず試合にも出れない状況が続き、心が折れそうになります。けれども、やり続けなければ先がないサッカー人生だとしたら、自分の原点・基本に立ち返ることだと伝えるのです。自分の長所はなんなのだ、もう一度自分の特徴を生かすことに集中して、それを貫くしかないのだと・・・」

それで選手は自信をとり戻してくれるようです。

それは監督自身があの「ドーハの悲劇」を経験して、ポッキリと心が折れてしまった中で「それでも自分がサッカーを続けるとしたら、自分なりの基本に立ち返るしか道はない」と感じた経験からきています。

もう一つ森保監督が自分の経験から学んでいるサッカー哲学があります。それは「ミスは皆んなで修正する」という哲学です。「サッカーはスポーツの中で一番ミスの多い競技だと思います。ミスするのは当たり前、だから皆んなでカバーするんだという共通認識を大切にしています」

前回の書き込みの最後のほうで、私はこう書きました。

『最終的に「結果を出す」というところまで持っていけるのは、大変な力量と言わざるを得ない。森保監督の人となりが結果を出せる指導者にふさわしい器量と資質を備えているのであり、凡人の域をはるかに超えたものなのだ。

Jリーグ監督として3回優勝した初めての監督になった森保監督、私はもっと優勝して欲しいと思っているし、その実績をひっさげて日本代表監督に文句なしで推挙されて欲しいと思う。』

この、結果を出せる指導者にふさわしい器量と資質、凡人の域をはるかに超えた力量なるもの、実は森保監督の「自然体でやっていく」ところがキモになっているのかも知れません。

選手の心にスッと入っていけるタイミングを重視したコミュニケーション、心が折れそうになっている選手に語りかける「やり続けなければ先がないサッカー人生だとしたら、自分の原点・基本に立ち返ることだ」という話の内容、それらを自然体でやっていることが森保監督たるゆえんなのでしょう。

はためから見たら、細心の目配り、心配りをしているようには見えない自然体の行動、それこそが森保監督の器量と資質だと思います。

冒頭にも書きましたが2つの番組を見て「森保監督論」前編・後編を読み終えた感じです。それでも、実際の書物に出会えば、また新たな発見があるに違いありません。

今シーズンの広島、森保監督、ケガや移籍、リオ五輪等による選手の離脱で、なかなかチームとして形が作れず、どうやら優勝争いには絡めそうにありません。チャンピオンシップの出場権である年間3位以内が残された目標ですが、厳しそうです。

まぁ、なかなかうまくはいかないものです。6月にこのブログで「第三期黄金時代の到来か」と書き込んだ鹿島アントラーズがガタガタになっています。
まさに一寸先は闇という勝負の世界です。森保監督にはぶれずに続けて欲しいものです。

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ハリルホジッチ監督のキーワード「デュエル」、そして歴代監督のキーワードは?

2016年08月29日 14時22分45秒 | サッカー日本代表
いよいよロシアW杯アジア最終予選が始まります。なにしろ来年9月まで1年間も続く長丁場ですが、日程表を見ますと8戦目、来年6月にアウェーで戦うイラク戦あたりで2位以上を決めたい感じですね。

そのあとの9戦目がホームとはいえオーストラリア戦、最終戦はアウェーのサウジ戦しかも真夏の試合ですから。

その日本代表、ハリルホジッチ監督は先日のメンバー発表の席で「厳しい戦いが始まる。強い決意と勇気を持って勝ちにいく」「勝利を探す。言い訳は探さない」と述べたそうです。

「勝利を探す。言い訳は探さない」とはシンプルな決意です。このようなキーワード的な言葉を見ると、ハリルホジッチ監督が常々言っているキーワードを確認したくなります。どうやらハリルホジッチ監督は、よく「デュエルが足りない」とか「縦への速さ」といったことを話しているようです。

「デュエル」、ネット辞書をめくってみると「二人の戦い」といった意味のようで、すなわち1対1の戦いということです。つまり攻めにしても守りにして1対1で勝ち切る場面が足りないということでしょうか。

外国人監督ですからキーワード的な言葉も、当然横文字になります。これまでも外国人の新監督になるたびに新しい横文字が登場して、その都度サッカーメディアが全国のサッカーファンに広めてくれました。そこで歴代代表監督が「キーワード」としてあげた言葉を振り返ります。

サッカー日本代表が日本全国の注目を集めたのは、やはり「ドーハの悲劇」があったオフト監督時代でしょう。そのオフト監督、キーワードでも日本のサッカーファンの心をつかむ名人でした。「トライアングル」「アイコンタクト」。

横文字でしたが、それまでの日本人代表監督にはなかった、わかりやすいフレーズで日本代表監督の「キーワード」第1号といってもいいでしょう。

これ以降、代表監督の就任会見ではメディアが「キャッチフレーズは」とか「キーワードは」と求めることが恒例になりましたが、多くの場合、それぞれの監督が在任期間中のどこかで示した「キーワード」がその監督の代表的な語録となりました。

オフト監督の後、印象に残るキーワードを残したのが加茂周監督の「ゾーンプレス」です。加茂監督は志半ばで更迭されましたが、次の岡田監督は目立ったキーワードがなかったように思います。

そして、その次のトルシエ監督は鮮烈でした。「フラットスリー」「オートマティズム」、理詰めで厳しく選手に求めたトルシエ監督の代名詞ともなった言葉です。

トルシエ監督の後を引き継いだジーコ監督は「信頼と自由」といった言葉を使った程度で、特に横文字のキーワードはなかったようです。

さらに次のオシム監督、「オシム語録」という書物があるぐらい独特の言葉で自身のサッカー哲学を表現した監督です。その代表的な言葉が「日本サッカーの日本化」という難解な用語です。

日本人は、海外の選手たちに比べて体格やパワーなどのフィジカル面で劣っていると嘆くが、逆に優れているフィジカルもあるではないか、アジリティ(敏捷性・俊敏な能力)や、いろいろなことを器用にこなせる能力もある、それを生かしたサッカーをしようというわけです。

その延長線上で「ポリバレント」(複数のポジションをこなすことのできる選手)という言葉や「水を運ぶ人」(「水を飲む人」という言葉で表現する攻撃陣にボールを供給する主として守備的ボランチの選手)という言葉もよく使われました。

急病に倒れたオシム監督の後を引き継いだ岡田監督、この第二期監督時代には独自のキーワードを打ち出しました。日本人監督らしく「接近・展開・連続」という日本語でした。

岡田監督の後任はザッケローニ監督です。あまり印象に残るキーワードはありませんが、強いてあげるなら「インテンシティ」という言葉でしょうか。当時私は「また横文字を持ち出して」と眉をひそめたことがあります。外国人監督ですから当然と言えば当然なのですが「メディアがキチンと日本語に直してくれよ」と感じたものです。

「インテンシティ」という言葉は直訳すると「強烈さ」「激しさ」といった意味らしいのですが、ザッケローニ監督は「オンのときも、オフのときも活動的になるということ。それは相手のボールのときはすぐにアプローチして、後ろの選手も連動して動く。活動的な準備をしていくということだ。そして自分たちのボールになったら、スペースにボールを運ぶ、活動的になること」と説明したといいます。

要は「常に激しくプレーし続けること」といった意味で使ったのでしょうか。

このように歴代監督が掲げたキーワードを振り返ってみると、皆さんも「そう言えばそうだったなぁ」と思い出されたのではないでしょうか。

ハリルホジッチ監督の「デュエル」、このあとハリル監督が歴史に名を刻めば長らく語り継がれることになるでしょう。

ちなみに、今回あげたオフト監督以降の歴代代表監督のうち、取り上げなかった監督が2人います。皆さんおわかりだと思いますが、一応クイズ形式にしておきます。その2人とは誰でしょう。
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リオ五輪の10年後、潜在能力の高い少年少女たちはどの種目を選ぶでしょう?

2016年08月22日 18時49分43秒 | サッカー選手応援
リオ五輪が閉幕しましたね。このブログでも、ここ何回かの枕詞は「リオ五輪でのニッポンの活躍」でした。

これだけの感動を日本中に届けてくれた日本選手団、それを目の当たりにした少年少女たち。現在7歳ぐらいから12歳ぐらいの少年少女たち。

まだ自分の身体能力の潜在的なポテンシャルに気づいていない将来有望な少年少女たちが、どんな競技、どんな種目を選んで青春を賭けるのでしょうか。

今回、卓球、バドミントンなどのラケット競技で獲得したメダルが印象的でした。技術、俊敏性、戦術といった点でパワーや体格差をカバーしたことが、いかにも日本人の特徴を生かしたといわれている種目です。

また陸上の男子400mリレー、個人の走力では他の多くの国に及ばない実力なのに、研ぎ澄まされたバトンパスの技術で銀メダルをもぎとったことが世界を驚かせています。

もしかしたら、現在7歳ぐらいから12歳ぐらいの少年少女の中に、これらの競技・種目に魅せられて青春を賭けたいと思う人たちが大勢生まれるのではないでしょうか?

その分、サッカー、野球など、これまでの少年少女たちの憧れのスポーツに、身体能力の高い将来有望な選手が参加してくれる割合が少し減るのかも知れないと考えたりします。

その答えは、これから先10年後ぐらいに、じわじわと出てくるのではないでしょうか。
そして、いまから18年後の2034年、ワールドカップサッカーが開催される年に、現在10歳の少年は28歳に、そして22年後の2038年に、現在7歳の少年は29歳になっています。

そのあたりの大会は、日本が単独開催をめざしたい時期です。この時期のサッカー日本代表選手に「自分のサッカー人生の原点はリオ五輪でした」と言ってもらうには、ネイマール選手が見事ブラジルに金メダルをもたらした感動の助けを借りなければなりません。

今回のリオ五輪におけるサッカーの金メダルは、リオ五輪そのものが大成功だったと言わせるだけの重みのある出来事だったと思います。

日本では、オリンピックにおけるサッカーは「ワンノブゼム(多くの種目のうちの一つ)」でしかありませんが、ブラジルでは全く違います。それはサッカーを愛する人たちの誰もが知っている違いです。

とにかく、今回のブラジルは何がなんでもサッカーで金メダルが必要だったと思います。理由はいくつもあります。

一つ目は、サッカー王国ブラジルが、ただ一つオリンピックの金メダルだけ獲ったことがなかったこと。

二つ目は、2年前のブラジルワールドカップ大会、優勝どころか準決勝でドイツに1-7という屈辱的大会を喫してしまい、それ以降のセレソンが低迷していることです。

そして三つ目は、決勝の舞台マラカナンにまつわる忌まわしい記憶です。66年前、第一回ワールドカップサッカーにおいて、勝つか引き分けでも栄えある第一回大会優勝国になれるはずだった試合に、20万人という大観衆の前でウルグアイに敗北してしまい、ショックのあまり観客の中に死亡者が出てしまうという悲劇の記憶です。

これらのことを全て忘れさせてくれるのが今回の金メダルでしたから、キャプテン・ネイマールが背負わされたものの大きさたるや、想像を絶するものがあります。

PK戦の5人目のキッカーとしてネイマールが登場したことは運命の差配としかいいようがありません。それをネイマールは決めて見せました。その直後に彼の胸に去来したものは、PKを成功させた喜びとか、金メダルを取れた勝利の喜びといった程度のものではなかったでしょう。

若干24歳の若者が背負わされた、これほどに重い重い重圧。とにかく、そこから解放されたという安堵感だけだったに違いありません。PKを決めたあと走り出して、何歩もしないうちに彼はひざまずいて目を覆ってしまいます。

伝わってきます。「もうこれ以上自分を重圧で苦しめないでくれ、オレは成し遂げたんだ、もういいだろう。」そんな彼の心情が痛いほど伝わってきた場面でした。

ブラジルにおけるサッカーの重み、それをまざまざと感じさせられた場面でした。
日本でこれを見ていた少年少女たち、何人でもいいですから、この魂を震わされるような場面をキッカケにサッカーの世界に足を踏み入れてくれたらと思います。

こんな重圧のかかる競技はゴメンだ、という思いもあるかも知れません。けれども真のアスリート、真の勝利者というものが、これほどまでの重圧を背負いながらもミッションを果たす強いメンタルを持った人だけが得られる商号だということに、思いを馳せて欲しいのです。

ネイマール選手が背負ったものの重さを考えれば、アスリートとして目指す高みは、はるかに高いものです。目指すに値する高みではないでしょうか。それを少年たちに感じて欲しいと思ったのです。

最後に一つ、今日のテーマとは直接関係ないのですが、やはりサッカーの話題でしめくくりたいと思います。今回ブラジル五輪代表を率いたロジェリオ・ミカーレ監督、日本でなじみのドゥンガ監督の解任によってU-20代表監督から昇格した方とのこと。評価が急上昇することは間違いないでしょう。
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通訳・ダバディ氏のトルシエジャパンにまつわる発言から

2016年08月20日 19時15分08秒 | サッカー選手応援
相変わらず、リオ五輪でのニッポンの活躍は目覚ましいものがあります。欧州サッカーシーンはスタートしており、ロシアW杯アジア最終予選の足音も少しづつ高まっていても、やはりサッカーワールドはオリンピックに押されっぱなしです。まぁ、いいことですけどね。

そういう状況ですから、前回の書き込みのように、録りだめしていたサッカー番組を見たり、ネットのサツカー情報をいつもより細かく読み込んでいます。

今回の話題は、そんなネットのサッカー情報から取り上げてみます。

先日、ネット情報のタイトルに『「俊輔を外したのは間違いだった」。ダバディ氏が語る日韓W杯の真相』という項目を見つけましたのでアクセスしました。

2015年04月16日(木)17時55分配信の記事とあります。もう1年半も前のものを、今頃読むのも間抜けかも知れませんが、ネットのいいところは、そういう古い記事でも目に留まることです。

このタイトル、2002年日韓W杯の代表からトルシエ監督が中村俊輔を外したのは間違いだった、トルシエ監督もそう認めており、それが真相だ、みたいに読めます。

この話を、時の通訳、フローラン・ダバディ氏が語ったのは「フットボールチャンネル 」というWeb動画サイトのようです。月刊誌の「サッカー批評」や不定期刊「フットボールサミット」の編集部が運営しているサイトだそうです。

その「フットボールチャンネル」の一つにJリーグ応援番組「J.Chan」があって、そこに出演したフローラン・ダバディ氏が、2002年日韓W杯にまつわる話をいろいろ披露したようです。その様子を動画で見ることができました。

まず、ネットのタイトルにあった『「俊輔を外したのは間違いだった」。ダバディ氏が語る日韓W杯の真相』なるものが、どういう話だったのかを確かめてみました。

どうやら、ダバディ氏の個人的見解であって、トルシエが示している見解ではなさそうです。ダバディ氏曰く「中村俊輔選手については、単に2002年だけのことを考えて選考するのではなく、その後の2006年も見据えてメンバーに加えておくべきだったのではないかと残念に思っている」そうです。

でも、その話って、それこそ通訳の人の見解ですね。2002年W杯で決勝トーナメント進出を果たすために雇われたトルシエ監督には、2006年も将来を見据えた選考なんて眼中にないはずです。2002年のノルマを果たすために、トルシエのフィロソフィーに沿って選考するだけの話だと思います。

トルシエ監督自身は、とにかく中村俊輔選手をスタメンで使うつもりはさらさらなかったようですし、今も彼を外したことについて間違いだったとは思っていないでしょう。

将来を見据えて選考できる監督は日本人監督だけでしょう。現に1998年フランスW杯で岡田監督は将来を見据えて小野伸二選手を選出しています。外国人監督にそういうことは期待はできません。

長らく日本で活動しているダバディ氏、「将来を見据えれば中村選手を選んでおくべきだった」と感じるのは、彼にも日本人的なメンタルが醸成されているためかも知れません。

まぁ、2002年W杯での中村俊輔選手落選にまつわる話については、一件落着ですが、ダバディ氏の話には他にも示唆に富んだ話がありました。

その一つは、当時、守備のスタイルで流行語になった「フラット3」のキーマンです。当時、スリーバックの守備ラインを一糸乱れずコントロールして相手の攻撃をオフサイドトラップにかけながら安定した守備を保つのが日本代表のスタイルでした。

その守備ラインをコントロールするキーマンに指名されたのが森岡隆三選手です。その森岡選手、日本中が熱狂したW杯初戦のベルギー戦でケガをしてしまい交代を余儀なくされてしまったのです。

フローラン・ダバディ氏は、2002年W杯に関して残念だった2つの出来事の一つに中村俊輔選手落選をあげましたが、もう一つは、この森岡選手の負傷交代だったといいます。

このあと日本は、もう一人のラインコントロールマン・宮本恒靖選手を投入してベルギー戦を引き分けで凌ぎます。その後、ロシア戦、チュニジア戦に勝利して、守備陣の要は宮本恒靖選手という評価が定着していきます。

ところがダバディ氏によれば、トルシエ監督の評価は全く別で、森岡隆三選手に対する絶大な信頼は、とても宮本選手が遠く及ばないものだったといいます。それは何故か、その理由を聞いて私は唸りました。

森岡隆三選手のラインコントロールには、マニュアルどおり高い位置でラインを保つことだけでなく、相手FWにラインを押し上げると見せかけて切り替えて3mライン下げて混乱させるという遊び心が生かされていたというのです。

トルシエ監督は、こうした、ピッチ上で臨機応変にやんちゃな遊び心を発揮できる森岡選手こそがフットボーラーであると高く評価していたわけです。これまでトルシエ監督といえば、自らの枠にがんじがらめにはめこむ融通の利かない監督というイメージが先行していたように思います。

その基準にあてはめれば、宮本選手はまさに優等生、トルシエ監督の求めるラインコントロール術を忠実に実行できる選手でしたが、トルシエ監督が求めていたのは、それだけの選手ではなく、自分のアイディアや遊び心を駆使して相手の裏をかく自在な選手だったのです。

このエピソードは日本人の気質、日本人のサッカースタイル全体に共通するものだと言えるのではないでしょうか。よく言われるのは「日本人は真面目で教えたことを忠実にやれる。しかし、それが日本人の限界にもなっている。日本サッカーがもっと強くなるためには、場面、場面で機転を利かせてサッカーする必要がある」

私は、森岡隆三選手が日本のサッカージャーナリズにおいて、思いのほか評価が高くないことも、日本のサッカージャーナリズム自体が日本人の気質から抜け出していないためではないかと感じました。その意味で、今回のダバディ氏の話は意義深いと思います。

もう一つ、ダバディ氏の話で意義ある発言は2002年W杯だけの成績で日本サッカーの是非を考えるのではなく、1993年から現在に至るまでの流れの中で2002年の大会を見る必要があるという点です。

ダバディ氏はこう言っています。「2002年で日本はベスト16で終わったのに韓国はベスト4まで行った、という話がよく出ます。ではその後、韓国と日本は大きく差がついてしまったかと言えば、そんなことはありません。その後も似たような歩みを続けています。」

つまり、日本は1993年にJリーグがスタートして1998年にW杯初出場、そして2002年W杯以降も連続してW杯出場を続けているのであり、2002年はその大きな流れの中で確実にプロセスを果たした大会だと、彼は言うのです。

確かに韓国がベスト4に入ったからと言って、その後、見るべき変化があったのかと言われれば、そのとおりです。ダバディ氏のように物事を見るべきなのかもしれません。

森岡隆三選手の遊び心の件、2002年W杯の日韓両国とその後の件、いずれも、ネイティブ日本人には思い至らない考えかも知れません。長く日本で活動しながらもやはりフランス人はフランス人ですね。

(8月21日、タイトルを変更しました。)



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いまも変わらぬ「スパサカ」と「やべっち」の楽しさ

2016年08月16日 21時33分02秒 | テレビ番組
リオ五輪が始まってからは、テレビ各局も五輪放送が多く、ふだん見ている番組が流れてしまうことがあります。

1週間の中で定期的に見ている番組が4つとか5つしかないのに、それが流れると見る番組がなくなってしまいます。

そうした時、録りだめしていたサッカー関係の番組を見たくなります。TBS系列「スーパーサッカー」とテレ朝系列「やべっちFC」は、サッカー大好き人間にとって聖域のような番組です。

私はもう完全な「じいさん」なので、夜9時を過ぎると「寝なくちゃ」という意識が強くなり、2番組とも、もう何年も放送時間に起きていたことがありません。録画は続けているのですが、先ほど話したようにテレビを見る時間も減ってしまい、録画すらも見ないことが多くなっています。

そんなわけで、今回2番組をしばらくぶりで見ました。

番組内容もさることながら、何が嬉しいかといって、MCが加藤浩次さん、矢部浩之さん、どちらも大変な人気タレントだということです。加藤さんも矢部さんも年々仕事が多忙になっているはずです。普通、だんだんビックになっていけば、サッカー番組は卒業と言われてもやむを得ないかなと思うのですが、いまも続けておられる。それが嬉しいです。

「スーパーサッカー」は丸23年です。時間帯や曜日をいろいろ引っ越ししながらも、辞めないで続けてくれるTBSさん、もう、ありがたいとしかいいようがありません。ネットを見てみると2013年あたりには放送打ち切りの可能性があったとかで、加藤浩次さんの尽力で番組が守られたなどの話もみられます。

やはり加藤さん、矢部さんの「サッカー愛」は表彰ものですね。もっとも「Jリーグ・アウォーズ」などで表彰しますと言っても、お二人のことです。お笑いネタにしてしまって、マジメな表彰式にはならないでしょう。

「やべっち」のほうは、海外組の選手たちが、われもわれも「矢部さんと絡みたい」という雰囲気が伝わってきて、それだけで面白いです。

「スーパーサッカー」のほうも海外組中心にはなっているのでしょうが、Jリーグもキチンとフォローするなど伝統を守っている感じです。そのおかげでしょうか、カズ選手が実は8月7日のJ2第27節にゴールを決めていた事を知ることができました。

それこそオリンピック報道のあおりかもしれません。もう10日前のことなのに私は情報を知らずにいました。「スーパーサッカー」のおかげで得られた情報です。

10日も過ぎてしまいましたからスカパーの試合放送も終わってしまいました。あとは全試合リピート放送を待って、なんとか録画を残すしかありません。カズ選手のゴールは、もはやどれをとっても伝説的なゴールです。1試合たりとも録り逃したくない心境です。

久しぶりに2つのサッカー番組、変わらぬ楽しさを味わいました。このあと、いつかまた番組打ち切りの危機を迎えることがあるかもしれません。

それでも長く続いて欲しいと願わずにはいられません。当「サッカー文化フォーラム」も、いまはホームページ制作を中断していますが、いずれサッカー文化の進化・成長に欠かせないサッカー関連テレビの変遷を、詳細にわたり紹介することが大きな目標です。

今に続いている番組、NHK-BS「Jリーグタイム」、TBS「スーパーサッカー」、テレ朝「やべっちFC」、テレ東「FOOT×BRAIN」、日テレ「サッカーアース」、それぞれ番組名が変わったりキャスターもいろいろな人に変わったり20年以上の中で変化してきました。

それらを辿る中で「サッカー愛」に溢れたタレント、有名人のことにも触れていきます。サッカー愛に溢れた大物タレントの双璧といえば、明石家さんまさんと木梨憲武さんでしょう。加藤さんと矢部さんを加えると四天王といったところでしょうか。他にも大勢のタレント・有名人がいます。

各番組を盛り上げた女性陣も、いろいろな方々がいました。

それらの変遷をご紹介したいのです。いつ作業に取りかかれるか、まだ見当がつきませんが楽しみにしていてください。すごいお宝ページになりますので・・・。
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昨夜のフジテレビ「栄光なき天才たち」はいい番組でしたね。

2016年08月14日 19時04分22秒 | テレビ番組

現在テレビでは、リオ五輪サッカー男子準々決勝ブラジルvsコロンビア戦の再放送らしき試合をやっています。

これまでゴールのなかったネイマールがFKを叩き込み、スタジアムが盛り上がっています。放送の途中で他会場の結果をアナウンサーが伝えて、ホンジュラスが韓国に勝ったという情報も知りました。

これで準決勝はブラジルvsホンジュラスになるのかなと思いながら書いています。

昨夜21時からフジテレビ系列で放送された「栄光なき天才たち~名も無きヒーローに学ぶ幸せの見つけ方~」を見ました。2時間10分もの時間枠で、3組の「光のあたった成功者」と「その成功者の陰に隠れてしまった名も無きヒーロー」を対比させた番組でした。

「光のあたった成功者」として中田英寿氏、故・スティープ・ジョブズ氏、羽生善治氏を取り上げ、彼ら以上の天才と言われたにもかかわらず、彼らのような成功者になれなかった「栄光なき天才たち」にスポットをあてているわけです。

番組の中で最初に取り上げられたのが中田英寿氏で、その陰に隠れてしまった「栄光なき天才」とは財前宣之氏だったのです。

中田英寿氏と財前宣之氏、2人の歩んだ道のりについて45分ぐらいにわたって描いていましたので、かなり濃密な内容でした。

番組のサブタイトルに「名も無きヒーローに学ぶ幸せの見つけ方」とあるように、栄光なき天才・財前宣之氏の歩みが挫折と屈辱に満ちたサッカー人生だったのではなく、彼なりの幸せな今につながっているという締め方になっています。

最初のほうで、1993年に日本で開催されたU-17世界選手権での日本代表が紹介されました。この大会で10番を背負って、見事チームを決勝トーナメントに導いたエースが財前宣之選手でした。

この大会に中田英寿選手も出場していましたので、彼のヒストリーが紹介される時は必ずこの大会のことも触れられますが、この時はまだチームへの貢献度が高い攻撃陣の1選手という程度で、圧倒的な主役は財前宣之選手だったのです。(8月15日追記)

私は、1976年生まれのこの世代に、なぜこうも日本代表の中核となるような逸材がキラ星のように多かったのか、これまで特に理由のようなものを考えたことはなかったのですが、今回番組を見て、一つの仮説のようなものに思い至りました。

中田英寿氏を筆頭に、宮本恒靖氏、故・松田直樹氏、戸田和幸氏ら、のちの2002年日韓W杯日本代表の前線から最後尾まで並んだ人材が、U-15代表チームから、ずっと切磋琢磨して、しかもほとんどがU-17、U-19、五輪代表として世界大会を経験しているわけですが、なぜ彼らは、育ったのかということです。

それは、若い時期、チームメイトに飛び抜けた天才をもっていた場合、周りが引っ張られるようにレベルをあげていくという仮説です。

この世代の「飛びぬけた天才」こそが財前宣之氏でした。番組で中田英寿氏も宮本恒靖氏も口を揃えて当時の財前について「彼は別格、彼が日本サッカーを引っ張っていく」と言っています。

この仮説は1979年組にも当てはまると思います。稲本潤一選手、高原直泰選手、遠藤保仁選手、中田浩二氏、小笠原満男選手、本山雅志氏・・・、まさにキラ星とはこの世代のことを呼ぶかのような逸材揃いです。(8月16日,「選手」「氏」を追記)

1999年ワールドユース選手権決勝に駒を進めるという金字塔を打ち立てた世代ですが、彼らの世代の「飛びぬけた天才」とは小野伸二選手です。彼らもまた小野伸二選手に引っ張られるようにレベルをあげていった例です。

番組の話しに戻りますが、財前宣之氏のサッカー人生も、中田英寿氏の近況も、あまり情報がなかったので、とても関心をもって見ました。

彼ら二人は、いみじくも同じイタリアの地で、その後のサッカー人生の分岐点となる体験をします。

1995年、ヴェルディ川崎のトップチームに昇格した財前選手は、イタリアセリエA・ラツィオに1年間サッカー留学という形で所属しますが、イタリア語をしゃべれないまま参加したことでコーチ陣とうまくコミュニケーションがとれず、ケガをしていてもムリを重ねてしまうという経験をしてしまうのです。

その結果招いたのが、選手生命にかかわるような大ケガでした。

一方の中田英寿選手、1995年にベルマーレ平塚に入団してから着々と実力をつけ、1997年に日本代表に招集されると、すぐチームの中核的存在になります。そして同年のフランスW杯アジア最終予選、いわゆる「ジョホールバルの歓喜」をもたらした試合ではピッチの絶対的王様として君臨し、文字通り日本のエースの座を不動のものにします。

明けて1998年、それこそ満を持してイタリアセリエA・ペルージャに移籍したわけです。財前宣之氏は、振り返りました。「自分は何の準備もせずにイタリアに渡ってしまった。ヒデは万全の準備をしてイタリアに渡った。ああいう人が成功するのかなと思った。ヒデは『準備の天才』だ」と。

もう一つ財前氏が悔やんだこと、それは長い時間をかけて治療とリハビリをすべき大ケガへの対応でした。完治しないままピッチに戻ってしまったのです。治療とリハビリのため1年以上にも及ぶブランクを作ることへの焦燥感は大変なものだと思います。

そこをどう乗り切るかで、その後の人生がかわってしまうのです。そういう場合、選手一人だけで乗り切れるものではありません。ドクターとの連携をもとに「安心して治療しろ」と言ってくれるチーム関係者からの支えなくして、とても完治までの期間を安心して過ごすことなどできません。

その意味で、財前選手は当時、所属していたチームに恵まれなかったと言わざるをえません。選手がケガをしたら、それは自己責任、チーム内には「誰かレギュラーがケガをしたら自分に出番が回ってくる」と常にチャンスをうかがっている選手が大勢います。ケガをした選手は顧みられないのです。(8月15日記述修正)

しかし全てのチームがそうかというと、決してそうではありません。むしろ「選手のケガはチームの損失であり、全力をあげてサポートしケアをする」そう考えているチームのほうが多数派ではなでしょうか。

現に彼は、後年、3度目の大ケガをした際に所属していたベガルタ仙台で、当時監督をしていた清水秀彦氏に「背番号10をあけていつまでも待つから」と言ってもらったおかげで、十分なリハビリと復帰へのプログラムをこなして見事復活しているのです。

財前選手にとって仙台が、かけがけのない地となったことは、現在の彼が物語っています。いま彼は、仙台の地に住み、自分の名前をスクール名にしたサッカー教室を主宰しているのです。(8月15日追記)

番組の最後のほうで、中田英寿氏が事あるごとに開催しているチャリティマッチを、2011年にタイで開いた時のことが紹介されています。この時、財前選手はタイのリーグでプレーしていたのです。すでに35歳近くになっていた財前をチャリティマッチに呼び、再会を果たしたわけです。

3度の大ケガに見舞われながらも35歳まで現役サッカー選手を続けられた財前選手、誰もが日本代表の絶対的エースとして今後も君臨し続けるだろうと思っていたのに29歳の若さであっさりとサッカー選手から身を引いてしまった中田英寿選手、番組のサブタイトルにある「名も無きヒーローに学ぶ幸せの見つけ方」の一つの答えでもあろうと思います。

中田英寿氏は引退を決めた動機について言いました。「誰かを目標に、うまくなろうとして自分を追い込んでいるうちは楽しかったが、自分がエースとして、チームを引っ張らなければならない立場になってしまったので、ちょっと狂ってしまったなぁ」と。

つまり、中田英寿選手の思いは「エースではあっても、チームを引っ張ったり、まとめたりすることまでは勘弁してほしいなぁ」ということではないかと思います。

中田英寿選手は、選手生活の中で過去一度だけ同じ立場にたったことがあります。それは山梨県・韮崎高校3年の時です。すでに1993年のU-17世界選手権代表であり、前年の高校選手権でも2年生ながら全国大会にその名を響かせていた中田選手です。

3年時はキャプテンとして山梨県予選に臨みましたが、韮崎高校は全国大会出場権を逃しています。

私は、これらのことを繋ぎ合わせて考えると、中田英寿選手はやはり「孤高の人」だと感じます。チームの輪の中心にいてリーダーシップを発揮して、周りの力も高めてしまう効果をもたらすタイプではないということです。

だからといって中田英寿選手の選手としての評価が、いささかも貶め(おとしめ)られるものではありません。人間には誰しもタイプというものがあり、得手不得手があるからです。

どういう集団でも、およそ集団というものは、その構成員によって、さまざまな様相を見せます。それがスポーツチームのような競技集団、勝負を決するための集団の場合は、指導者とチームリーダーによって、いかようにでも性格が変わってきます。

孤高のリーダーと、文字通りチームリーダーとではチームの性格がまるで違ってしまいます。孤高のリーダーを抱いたチームは、冷めた雰囲気のチームになり、文字通りチームリーダーを抱いたチームは、力のベクトルが同じ方向を向き、時として実力以上の力を発揮できることがあります。

したがって、チーム作りをする時は、エースが孤高の人である場合、その見極めなしにチームリーダーにしてしまうことは危険です。エースはエースなのですが、ほかに、チームの輪の中心にいるべき人物は誰なのか、誰をリーダーに据えればベクトルが同じ方向を向くのか、そうした洞察が求められると思います。

2006年ドイツW杯の日本代表では、キャプテンは宮本恒靖選手であり、彼は2004年のアジアカップでもキャプテンとしてレフェリーに掛け合いPK戦のエンドを変更させるなどの力を発揮していましたが、チームの輪の中心にいて鼓舞したり、実力以上のものを出させてしまうタイプではなかったと思います。

そういう意味では、つまるところ中田英寿選手の肩にチームの浮沈がかかってしまうという不幸な状況にしてしまった、チーム作りの失敗とみるべきだと思います。

私は中田英寿選手を、どこから見ても紛れもない成功者として見てきましたが、サッカー人生の集大成近くの段階で、大きな挫折に見舞われたのではないかと、ふっと感じました。

そういったことまで気づかせてくれたという意味でも、この番組はいい番組だったと思いますが、二つほど物足りない点を感じました。

一つは財前選手の生い立ちです。彼はお世辞にもサッカー先進地域とはいえない北海道室蘭の出身ですが、彼を彼たらしめたのは兄・恵一氏の存在だったろうと思います。財前恵一氏は室蘭大谷高校の選手としてチームを全国高校サッカー選手権でベスト4に導き、将来を嘱望されて日産自動車(のちの横浜マリノス)に入団しています。

弟・宣之少年にとっては、まさに憧れの兄であり、兄の背中を追ってサッカーボールに戯れ、テクニックに優れた選手になっていったことは想像に難くありません。その点にも触れて欲しかったと思います。

もう一つは、番組コメンテーターとして出演していた前園真聖氏に、もう少し中田選手のことを話すチャンスを与えて欲しかったことです。

放送では司会の「爆笑問題」田中さんが、「前園さんは財前選手のことはご存知ですよね」と振っていましたが「中田英寿選手とはどうだっんですか?」とは聞いてくれませんでした。

実は中田選手がまだJリーガーになりたての頃、前園氏がアトランタ五輪代表のキャプテンとして、まさにエースの座にあり、五輪代表に招集された中田選手にとっては、前園キャプテンのあとをついて歩く兄貴分と弟分という関係だったからです。

「日清ラ王」のCMに共演していた映像などを織り交ぜて紹介してくれればサイコーだったと思います。

番組は、冒頭でもご紹介しましたが、アップルコンピュータのスティーブ・ジョブズ氏、将棋の羽生善治氏にまつわる方の物語もあり、結局23時10分まで見てしまいました。それほど、いい番組でした。

いろいろな事を感じながら見たこともあり、書き込みもずいぶん長くなってしまいました。

 

 

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湯郷ベルに何があったのか誰か教えてください。

2016年08月12日 19時19分26秒 | サッカー・ユース年代、女子

世間は、連日リオ五輪のメダル獲得ニュースで一色です。すごい活躍ですね。我れらがサッカー五輪代表は終戦となりました。なでしこジャパンも出ていませんので、ことサッカーに関してはホントに終わった感じです。

思い起こせば4年前、ロンドン五輪サッカーでは、男女とも最大試合数6試合まで勝ち残り、合計12試合を応援できる幸せを味わいました。当時、その幸福感をこの欄に書き込んだことを思い出します。

こればかりは、いつもいつも同じ経験ができるわけではありません。W杯優勝、ロンドン五輪銀メダルという金字塔を打ち立てた「なでしこジャパン」でさえもリオ五輪出場権を逃すことがある世界ですから。

今日は、その「なでしこジャパン」キャプテンを澤穂希選手から引き継いでリオ五輪アジア予選を戦った宮間あや選手の所属チーム「湯郷ベル」について書きたいと思います。

というのは、標題にも書きましたように「湯郷ベル」に一体何があったのか、真相を誰か教えて欲しい気持ちだからです。

最新のニュースによれば、宮間、福元という「なでしこジャパン」経験者をはじめ主力4選手が退団意向を示していた件については、宮間選手が残留、他の3選手が退団という形で収束したといいます。

地元では、2001年のチーム立ち上げ以来、チームの顔として人気があった宮間、福元の両選手が別々の道を歩むことになったことを惜しむ声が大きいといいます。さもありなんです。

しかし、現在「なでしこリーグBグループ」でダントツの最下位に沈むチームは、監督が不在状態、まさにチーム崩壊といっても過言ではない危機に瀕しています。

どうも、チームとしておかしくなったのは今年からではないようです。2014年シーズン当初にも大量の選手退団がありました。このシーズンは、10チーム総当たりによる1次リーグ「レギュラーシリーズ」を優勝し初のタイトルを獲得したこともあり、チームの不協和音が表面化しなかったようですが、昨シーズンの成績不振から一挙におかしくなったようです。

今シーズン、9月からの後半戦でよほどの巻き返しを図らないと2部落ちになるでしょう。2005年になでしこリーグ1部に復帰して以来、10シーズンにわたってリーグ上位をキープしてきた小さなクラブ。

私は、2013年4月9日付けの当欄で、宮間選手と湯郷ベルについて取り上げたことがあります。

その中で私は「湯郷ベルというチームが鹿島アントラーズと同じ道を歩むべきチームではないかと感じたのです。少なくとも宮間あや選手は、あと20年後には「湯郷ベル」にジーコイズムならぬ「あやイズム」を根付かせた選手として湯郷ベルの歴史にその名を刻む選手だと直感しているのです。」と書きました。

ただ、こうも書きました。「ただ、湯郷ベルが鹿島アントラーズになれる素地は、今のところありません。けれども湯郷ベルには、鹿島アントラーズをめざして欲しいのです。なぜなら、湯郷ベルに宮間あや選手がいるからです。」

そして、読者の皆さんにお知恵をお借りしたいとこう呼びかけました。「そこで全国の皆さんに相談です。湯郷ベルが鹿島アントラーズをめざすために何が必要か、一緒に考えていただき、一つのムーヴメントにできないかと思うのです。」

いま私は後悔しています。そのあとも、絶えず湯郷ベルをウォッチし続け、クラブ経営、フロント、現場といったチーム状況をよく追いかけておくべきだったと。

事ここに至っては、2部落ちぐらいは覚悟しなければならないでしょう。けれども、それで世の中が終わるわけではありません。Jリーグスタート時からのメンバーでも浦和、広島、G大阪といったチームがJ2陥落を経験しながら、立て直してJ1の優勝争いにからむチームによみがえっています。

大事なことは、それらJ1チームが1年で返り咲いていることです。ズルズルと2部が定位置にならないよう、1シーズンで復帰するミッションを達成するということが何より重要です。そのためにはクラブ経営、フロント、現場、このいずれもが同じベクトルを向けるかどうかです。

それがどうなのか知りたいのです。どうか読者の皆さん、「湯郷ベルに何があったのか」誰か教えてください。クラブ経営陣はどうだったのか、フロント(よく言われるゼネラルマネジャーなどのチーム編成陣)はどうだったのか、そして監督・コーチ陣と選手たちといった現場はどうだったのか、

ネットで情報を検索すると、岡山地域の新聞「山陽新聞」あたりが、結構詳しく把握していそうな感じですが、細かい記事までは入手できていません。サッカー専門誌の中には追跡取材している誌があるのかも知れません。

それらの手がかりでも結構ですから、何か教えていただければと思います。

日本のサッカー風土の中で、鹿島のように決して大都会とはいえない地域のクラブがリーグを代表するクラブになっていることと同じように、岡山・美作という小さな街の「湯郷ベル」というクラブが「なでしこ」を代表するクラブになって欲しいのです。

なぜなら、長い歴史を通じてリーグを代表するクラブになるためには、必ず、そのチームに息づくフィソロフィー(哲学とか理念といったもの)が不可欠だからです。

2013年4月9日にも書き込みましたように、鹿島にジーコイズムというフィソロフィーが根付いているように、湯郷ベルにも「あやイズム」といったものが根付く可能性を信じたいのです。

おそらく、いまの湯郷ベルに足りないのは、ジーコイズムをクラブ全体として年月を超えて浸透させようとした、鹿島のような一貫したクラブ経営であり、その経営方針にそってチーム編成を続けてきた鹿島のようなフロントの姿勢でしょう。

今年後半から来年一杯がクラブとしての正念場だと思います。どうか、その後20年、30年につながるクラブにしていけるよう立て直してください。

全国の読者の皆さんから、いろいろな手がかりを教えていただき、この欄からも、応援の気持ちと何らかの提案を発信していきたいと思います。

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おかえり ! 「サッカーマガジン」

2016年08月09日 20時47分06秒 | サッカー選手応援

書店に「サッカーマガジン」という書名で、「五輪20年目の現実」という特集の雑誌が並んでいたことは7月下旬に気づいていました。

その時は表紙を見ただけでしたので、いわば特番発行だと思っていました。本日たまたま書店をのぞいた時、時間がありましたので、それを手にとってわかりました。

3年近く前に書名をいったん「ZONE」に変更したため、消滅していた「サッカーマガジン」誌が戻ってきたのです。

月刊「サッカーマガジン」として再スタートした今回の巻頭には「1966年6月1日に創刊したサッカーマガジンを(ちょうど)50年目に復活させます」という主旨の告知が掲載されています。

つまり、ちょうど50年の節目に復活させたというわけです。

巻頭告知を読んでわかったのですが、創刊当時は隔週刊だったようです。これは驚きでした。私が読み始めた1985年以降は月刊だったからです。でもわかります。1970年台半ばから日本サッカーは長い間低迷しましたから、当然発行ペースを落として月刊になったのでしょう。

その後月刊から隔週刊発行になったのは1991年台だったと記憶しています。1991年2月にJリーグ参加の10チームが発表され、いよいよJリーグ時代が近づいた時期でしたから。

「サッカーマガジン」は当分月刊誌でいくのでしょう。巻頭告知にもありますように「紙メディアの衰退が叫ばれて久しい」中での復活です。それでいいと思います。1991年当時なら、サッカーの詳細を知るすべはサッカー専門誌が中心でしたが、いまはネット、CSテレビなどがあり速報性の情報やコラム的な情報はそれで事足りています。

今回手にとった月刊「サッカーマガジン」誌、ページの後半には「告知『サッカーの素』が帰ってくる!」とか、「アマチュア情報局」とか「高校支局」といった、なつかしい定番企画が載っています。

もう一つ、再スタート版らしく、日本サッカー協会・田嶋会長インタビューも特集されていますが、そういえば昔も、サッカー誌御三家といわれていた「サッカーマガジン」「サッカーダイジェスト」「ストライカー」あたりは、JFAをはじめとした、いわゆる体制側の広報的な役割を感じさせる記事を載せていました。

JFAなどを指弾するといった反骨ジャーナリズム的な姿勢は極力避けていたのを思い出します。しかし「田嶋会長インタビュー」という記事は、私の中で「寝ていた子を起こす」ことになりました。

日本サッカー協会会長であり、FIFA理事でもある田嶋氏は、いわば功成り名遂げたわけで、声望を集める立場におられます。私も、田嶋会長の識見・力量に異をとなえる気持ちは毛頭ありません。そもそも氏の人品骨柄を知っているわけでもありませんから。

けれども一つの「わだかまり」は残っています。それは2009~2010年当時、ときの犬飼会長が、わずか1期2年で会長職を去らなければならなかった経緯のことです。

当時、犬飼会長に対して、いわば「引きずり下ろし」の力が働いたのではないか、そう指弾する気骨あるサッカージャーナリズムがありました。そのメディアは、その指弾によって「JFA出入り禁止」となりました。

それでもあえて追及していました。そのカギを握っていたのは誰なのかと・・・。

私はそのメディアを、そのジャーナリズムを、いまに至るまで称賛しています。そして、この先いくら時間がかかっても、その時の真実が明らかになるまで「わだかまり」を持ち続けようと思っています。

「サッカーマガジン」誌の復活というお祝いの書き込みが、いつの間にか脱線して、キナ臭い話になりました。手にとった今回の記事の中に、ちょうど「寝ていた子を起こす」記事があったためです。

サッカー界にある表向きの話と裏側の話のうち、ある意味、「サッカーマガジン」誌は表向きの話を聞かせてくれる雑誌として大切にしていきたいと思います。

へたに裏側を突くと「出入り禁止」になって、商売あがったりになる怖い世界ですから同誌にはそこまで求めないよう割り切りましょう。

幸か不幸か、私は徒手空拳、出入り禁止にもなりようがない身です。表向きの話もしますが、裏側の話題も避けずに取り上げていきますのでお許しください。書店には、裏側の話を恐れずに書いている気骨ある雑誌も並んでいますので、時間がある時、手にとってみてください。

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五輪代表戦、細い一筋の希望を捨てずに木曜朝を待ちましょう。

2016年08月08日 15時33分37秒 | サッカー選手応援

リオ五輪サッカー代表、第2戦・コロンビア戦が終わりました。この試合をもって終戦ということだけは避けました。

日本が、最終戦、木曜日のスウェーデン戦に勝って、なおかつコロンビアがナイジェリアに勝たない結果(引き分けか負け)になれば、勝ち点で第2位となりグループリーグ突破できるわけです。

日本がスウェーデンに勝てず引き分けた場合は、コロンビアがナイジェリアと引き分けに終わればコロンビアが上にいってしまいます。

一方、コロンビアがナイジェリアに負けた場合は、日本はスウェーデンと引き分ければ、日本、コロンビア、スウェーデンの3ケ国が勝ち点2で並びますから、得失点差勝負となります。日本とスウェーデンは0-0であろうが1-1であろうが、何対何でも得失点差は-1となります。

コロンビアはナイジェリアに対して1点差で負けた場合、得失点差-1となります。得失点差が並んだ場合は総得点数の多いチームが上位となります。日本とスウェーデンとの比較では第1、第2戦の得点数が日本6、スウェーデン3ですから日本が上位になります。

すると、日本がスウェーデン戦で何点とって引き分けて、コロンビアがナイジェリア戦で何点とった上での1点差負けになるかが気になります。日本は2戦計で6、コロンビアは2戦計で4ですから、日本vsスウェーデン戦が0-0なら、コロンビアが3-4の負けになると、コロンビアが上に行きます。コロンビアが2-3の負けになると日本と総得点が6で並びます。

総得点も並んだ場合は抽選になるのでしょうか・・・・。

日本vsスウェーデン戦が1-1ならコロンビアが4-5にならない限り日本が上に行くことになるわけです。

話がこんがらかりましたので、もう一度最初からおさらいです。

日本がスウェーデンに勝って、コロンビアがナイジェリアに勝てないでくれればグループリーグ突破ですが、コロンビアに勝たれるとアウトです。日本の希望は細い一筋にしかありません。

日本がスウェーデンに勝てず引き分けても、コロンビアもナイジェリアに負けてくれることを期待しなければならないという、虫のいいことは考えないほうがいいでしょう。

さて、ここからはスウェーデン戦を少しシュミレーションしてみましょうか。日本とスウェーデン、コロンビア戦は仲良く2-2の引き分けです。ナイジェリア戦は先に戦った日本が4-5、それを見たスウェーデンは徹底した守りが功を奏してナイジェリアの攻撃を1失点に抑えましたが得点を奪えず0-1でした。

日本との試合、スウェーデンも勝たなければグループリーグ突破が厳しいのは日本と同じですから攻撃的にくることは間違いありません。しかし失点リスクを抑えるマネジメントにもウエイトを置くでしょう。

日本代表は、過去2戦の自分たちの戦いのイメージをもとにスウェーデンと対した時、相当楽な感触を抱くに違いありません。そうなると早い時間に先制できるかどうかが大きなポイントになります。

コロンビア戦でも、試合開始から日本が押し込んでいた時間が長かったのに、点がとれないうちに後半になり先制を許してしまいました。

仮に先制を許しても、今回の五輪代表の反発力は結構本物なので、応援している私たちも落ち込む必要はないのですが、何より選手たちが、追いついてひっくり返すような試合ではなく終始リードして快勝する試合をやりたいでしょう。

そうした選手の意気を後押しできるよう応援したいと思います。コロンビアの試合結果も含めて、勝利の女神が我らに微笑みますよう祈りましょう。

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気が早いと思うよ「手倉森、東京も」報道

2016年08月03日 16時42分39秒 | サッカー日本代表

今朝、コンビニで新聞ラックに目をやったら「手倉」の文字が目に入りました。新聞を折り曲げて差し込んでありますから、そこまでしか見えないのですがサッカー関係であることは間違いありません。

見出しを打ったのは「日刊スポーツ」でした。何かと思って手にとると「手倉森、東京も」とあります。にわかには理解できなかったのですが、五輪代表・手倉森監督に2020年東京オリンピックに向けた指揮を任せるのでは、という記事でした。

いくらなんでも気が早いとしか言いようがありません。いよいよリオ五輪のナイジェリア戦が迫ってきましたから、景気づけの記事と片付けてしまえばそれまでですが・・・。

本文を読むと「東京五輪でのメダル獲得に向け、協会が既に動いていた。」とあります。「このほど田嶋会長と西野技術委員長が会談し、手倉森監督を東京五輪監督の第一候補として交渉を進めることで一致した。」というのです。

そこには「リオ五輪の成績如何によるが」という但し書きがついていない感じですが、私の見立てではグループリーグ突破なら当確というところでしょうか。グループリーグ敗退では続投させにくいでしょう。長谷川健太監督、森保一監督、風間八宏監督など魅力あふれる候補が目白押しですから。

ところで、西野朗技術委員長は、リオ五輪男子サッカーチームの「リームリーダー」という肩書で帯同しているそうです。昨日の産経新聞朝刊によると「1968年メキシコ五輪以来のメダルを目指す代表を裏方として支える」役割だそうです。

この記事を読んで西野さんが五輪代表監督を務めたアトランタ五輪大会のことが思い出されました。まだ代表チームの役割分担や裏方さんなどのことが知られていなかった時代です。

西野さんが「全員が代表に熱い思いがあった。協会がもういいよというくらい支えてくれた」と振り返ったように、裏方スタッフの人知れぬ情報収集活動が大きな力になったことを、私たちも知った大会でした。

そうした経験を持つ西野さんが加わっていることが、どれほど力になることでしょう。厳しい3試合であることは間違いないのですが、日本中を驚かせるような試合を見せて首尾よくグループリーグを突破して欲しいものです。

私たちが送るパワーが、少しでもチームの力になればと祈りたいと思います。

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