25日朝に、日本がコロンビア戦に完敗してから、26日発売の新聞系の紙面は、代表バッシング一色だった。特に「日刊ゲンダイ」の舌鋒が鋭く、見出しは「日本サッカー絶滅」、実に6ページ以上をサッカー関連に割いている。驚きでもあり感謝もしている。
27日のスポーツ紙系は、次の代表世代に焦点をあてており、今朝28日のスポーツ紙系は、一面トップにサッカーを持ってきたところは一つもなく、土曜恒例とも言ってよい、競馬予想である。つまり潮はすっかり引き、平常に戻った。
私たちサッカーに高い関心を寄せている者たちは、一連のバッシングから何をすくい取って今後に生かさなければならないか、そこにエネルギーを費やすべきである。
さきにあげた「日刊ゲンダイ」が項目としてあげている、いくつかの点を中心に、キーワードで真摯に考えるべきことを指摘したい。
①「Jリーグは恐らく解体」
プロサッカーの世界は、毎日のように試合を行なうプロ野球の世界と異なり、1週間にせいぜい2試合が限度だ。
そのためチーム経営の源泉となる入場料収入は、1試合あたりの観客数を増やすことに力点が置かれる。地域密着の考え方でチーム数を増やし続け、J1は18チーム、J2は22チーム、J3は12チーム、合計52チームとなった。50以上のプロサッカーチームが存在する日本の状況が健全なのかどうか、賛否が分かれるところだ。
プロ野球は12チーム、独立リーグの2地域10チームを合わせても合計22チームだ。プロスポーツの楽しみに恵まれない地域にとって、サッカーも野球もプロチームの存在はかけがえのないものであり、Jリーグの基本的な考えもそこにある。
しかし、事業経営の観点からは、Jリーグ、特にJ2、J3の多くが危うい基盤のままで、それこそ1年毎に収支見通しに四苦八苦している「その日暮らし」では、とても長期的な経営安定は望めない。
膨らみ続けたチーム数が、経営悪化のため撤退続出となった時の社会的イメージダウンというリスクに、日本サッカー協会もJリーグも正面から向き合っていないと言われて久しい。その理由として、それらの組織に安住する「サッカー貴族」「サッカー官僚」といった、既得権益者たちが、自分たちの身を切ることに消極的だからという点も、批判の対象となっている。
バブルがはじけた時の怖さをうすうす感じていても、誰も早めに手を打とうとしなかった、日本のバブル崩壊前夜と同じことが、プロサッカーの世界にもヒタヒタと迫っている。
「Jリーグ解体」という見出しはおどろおどろしいが、自らが縮小均衡に向かってナタを振るわない限り、社会が衝撃を受けるチーム消滅というニュースが増える可能性があると覚悟すべきだ。
「子供たちはサッカーを捨て野球に」
この話は、ここ15年ぐらい前から話題になっている。
プロ野球が、日本は「野球」、アメリカは「ベースボール」と言われ、ある意味、別世界のプロスポーツとして進化してきた歴史が、ここにきて、日本のプロ野球がメジャーリーグへのステップという意味合いに変化してきたことで、新たなステージに入ったと言える。
それは、子供たちの眼からみると、先にサッカーの世界が、Jリーグをステップに欧州のビッククラブへの移籍、さらにはW杯での活躍という広がりを持っていたことと、野球も似たような環境になってきたという見え方になるかも知れない。
ダルビッシュ、田中将大、大谷翔平、藤浪晋太郎、いずれも身体能力が欧米人と遜色がないという点で、少年期に可能性に満ちた人材が野球に相当流れていることは確かだ。サッカーにおいては特にディフェンス陣の人材不足が深刻で、世界の舞台で欧米・アフリカの屈強な選手たちと渡り合える選手が育たなければ、将来に亘って世界で勝てない状態が続く可能性がある。
まぁ、それほど悲観したものではなく、サッカー好きになってくれた身体能力の高い少年たちを、いかにうまく育てるかということのほうを大事にすべきだと思う。
「百年やっても日本人はサッカーに向かない」
これはもう、自暴自棄的な言い方だが、実は「W杯で上位に行けなければ日本人はサッカーに向かない」ということならば、今大会4チームで1勝もできなかったアジア勢全体に言うべきだろう。
サッカーが日本人に向いているかどうかを、お行儀の良さとか、なりふり構わず相手をねじ伏せるメンタリティが足りない部分に求める向きもあるが、それをもってサッカーに向いていないとするには無理がある。
サッカーというスポーツについて、よく言われるのは、その国や民族の特性を反映するということだ。つまりその民族の歴史的・文化的な背景、特徴がサッカースタイルに現れるという。
欧米・アフリカ系の選手に比べて小柄だが俊敏で連携プレーが得意な日本人は、パスサッカー、つまりスペイン代表やバルセロナが志向しているパスサッカーこそが日本のスタイルだという意見が、今大会前までに大勢を占めるまでになってきた。
「百年たっても日本にふさわしいサッカースタイルは確立できない」という意見ならば、どういう内容なのか読んでみたくもなるが「百年やってもサッカーは向かない」という見方は違っていると思う。
「FWを発掘せよ」
これも、いわゆる「決定力不足」というキーワードとともに長らく語られる言葉である。ただ、これまでは「FWが育たない」とか「ストライカー不在」という言われ方が普通だった。そんな中で「FWを発掘せよ」という言い方は、異彩を放っている。眼からうろこ、という感がする。
サッカーがうまくなるために、子供たちはボールを止める、パスをする。ドリブルするといった技術を高めることにエネルギーを注ぐ。おのずと、そういう点に優れた子供が天才と呼ばれ、少年サッカーにおいては、その技術によって多く点も取れる。
しかし、世界のサッカーを見据えた場合、強引にシュートを打つ、その選手が足の振りが鋭くムチのような強さを持っているとか、あるいは足首から下が実に柔らかくシュートミスが少ない蹴り方ができるとか、そうでなければ、胸回りに近いぐらいの太ももを持っていて、ミドルレンジからなのに弾丸のようなシュートを正確にゴールの枠内に飛ばすことができるとか、まさに「生まれながらのFW」という選手が少ないのだ。
現在の日本代表が、試合の中でペナルティエリアのすぐ外からシュートを打っても、余りに弱弱しく、キーパーに処理されてしまうのを見るたびに、太ももが細いよなぁとか、足の振りが弱いよなぁとか、キーパーの正面にしか行かないよなぁ、と思ってしまう。
シュートレンジに入ったら、少々角度がなくとも、少々フリーなところに他の選手がいようとも「オレがストライカーだ」と言ってシュートを打つ選手が、ノーステップなのに鋭い振りで繰り出すかか、柔らかい足首で絶妙のコースに流し込むか、はたまた丸太棒のような太ももでズドンと行ってくれるか、いずれかの足を持っていてくれることが必要なのだ。
それは、ある意味「発掘作業」なのかも知れない。日本全体として、中学・高校・クラブのコーチたちが、中央トレセンの指導者と連携して発掘作業をしなければ、そもそも「FWらしいFW」は不在のままとなる。釜本選手のようなFWはもう現れないのか、ではなく、必ずいるはずの選手を見つけられないでいるといったほうが当たっているのではないか。
さきに、欧米・アフリカの屈強な選手たちと渡り合えるディフェンス陣は、サッカー好きになってくれた身体能力の高い少年たちを、いかにうまく育てるかということが大事と書いたが、それこそ、ディフェンダーは愚直に、責任を持ってリスクに対処することが資質、ということからすれば日本人が基礎的に優位性のあるポジションであり、あとは身体能力の高い選手を大切にDFとして育てることが課題になる。
ところがFWは、そうはいかない。まずは発掘が必要なのだ。固有の能力、固有のメンタリティを持った、ある意味、特殊な子を探さなければならない。
スーパーなFWが、いかに特殊な人間であるか、今大会、ウルグアイのルイス・スアレスが、余すところなく示してくれた。彼は、畏れ多くも13-14シーズン、プレミアリーグ得点王だ。その彼が「噛みつき癖発覚」のため大会を去った。世界最高峰のFWとは、実は狂気と隣り合わせなのだ。
別に、日本で、狂気な人間を探せと言っているのではない。絶対的なストライカーを求める時、それぐらいの目線を持たないと、とても発掘できないと言いたいのだ。
2022年ワールドカップに、世界に恐れられるストライカーが日本代表として出現し、彼が徹底マークを振り切って得点を重ねる夢を持とう。今大会のネイマール、メッシ、ミュラー、ロッペン、皆、徹底マークされても点を取り続けている。いずれ日本代表にも出現することを信じよう。