珈琲一杯分の話

2018年2月26日スタートのただのボヤキカフェです。
毒とユーモアを楽しんで頂ければ幸いでございます。

ネットにまつわるあれこれ11

2018-07-29 | ネットにまつわるあれこれ
以前
一度もコメントしたことのないブログにアクセスしたらアク禁にされていたという人がいます、という記事を書いた。

「IPアドレスが制限の条件のマッチしています」と表示された。
つまり、そのブロガーは知るはずのないその人IPアドレスを、どこからか入手して、自分のブログの管理画面に入力してその人をブロックしたということである。

しかし2週間ほどして、それは解除されたそうである。
そこの管理人が意図的に入力したものを、意図的に解除したということである。
自然現象でないのは確かである(笑)

一体どこから、他人のIP番号など入手してそんなことをしたのやら?
ちなみに、私もそのブログにアクセスできない。
私の場合はうっかりコメントを送ったことがあったからなので、不思議ではないけど。
決して、酷い言葉や嫌がらせのコメントなど送った覚えはないんだけど、そして「海さんどうぞ」とわざわざ言われたからコメントしただけなんだけど、「気にくわなくなった」という理由と思われる。

ともかく件のそれは、何の言葉もなく一方的にそういうことをされ、何の説明も謝罪もなく元に戻された、という怪事件だったということを、顛末として書いておきます。
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真っ向から書きます

2018-07-29 | S教団関係
意見や考え方というのは、いろいろある。
例えばAという意見に対して、Bという真っ向反対の意見があるとする。

私が仮にAではなく、Bを主張したとして、でもAの意見を撲滅させたいわけじゃない。
Aの意見の人を、嫌いなわけでも憎いわけでもない。
そんなことあるわけない。

Aという考えもありますね。
ただ私はBを選びます、ということだけである。

※以下はどうか上記を重々ご理解の上、Sアンチについて真っ向から私の意見を書きますので一読ください(__)


「執行部は、あれもこれもなかったことにする。それが嫌やねーーーーん!!」
 多くの人がそれを言いながら、自分のことは
なかったことにする。
私はこれが不思議でたまらない。
なかったことって何を?というと、他でもない教団にいた頃の自分を、である。

そういうと、
いやいや、なかったことになんかしていない!!
自分はバカだった、騙されていた、鵜呑みにしていた、思考停止だった、ロボットだった!!
と素直にちゃんと言ってるやないかーーーーーい!!

と返される。

いーえ。
それは今思うことで、当時は誰に何と言われようと、
これは信仰です、救いになるんです、力になるんです、大切なんです、感謝してるんです!!
と舌を噛んでも譲らない勢いだった。
そして実際、個人差はあれど心の支えになった。
それは事実である。
事実であるのに、意地でもそれは認めない。
そんな人は一人もいない!!という。
まさに旧人間革命の如く
あんなに断言していて、コロッとなかったことにするのである。

あくまでも
「それは騙されて、催眠にかけられたようにコントロールされていたからだ」
みたいに言う。
Sは「最初から詐欺だった」という根拠とやらの文献を見せて、
「故に自分は信仰していたのではなく、詐欺集団に騙されていたからに他ならない」
と譲らない。

なぜ、今だけでなく過去もすべてひっくり返して全否定したいのか?

断ち切れない憎しみから、自分の過去を否定する苦しさを引き換えにしても、教団を血の一滴までワルモノにしたいのかな、と思う。
そしてこの考えが、一瞬は納得しても、人をずっと良い方にしていくとは私には思えないのである。
思えなくなったというべきか。

トップの思惑がどうあれ、その時は自分は純粋に信じていた。
人の心を他人は動かせない。
心を動かしたのは、誰でもない自分自身である。
会員は騙されて貢いでいたのではなく、お金は真心で寄付していたのである。
私はこの事実は動かせないと思う。

それでもいや違うというなら、我々は過去は人ではなくロボットであったという御伽話を受け入れさせる宗教か?と思う。
苦しいかもしれないけどこれをまず受け入れ、乗り越えることでまともな人間になります、みたいな印象である。

繰り返すけれど、私はこの「詐欺集団に騙されていただけ」という意見を、撲滅させたいのでも訂正させたいのでもなく、それを主張する人が嫌いなわけでも憎いわけでもない。

「私は詐欺団体に騙されていた」は選択しないだけ、という個人的意見である。(でも極アンチだよ)

同じく、私にはその信仰は必要なくなっただけで、まだ信仰している人には必要なんだなあと思っている。
だからそういう人も否定はしたくない。
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そんな空気

2018-07-29 | 日記
ママ友も挨拶程度でなく、少し踏み込んで話し会ったら、人の考え方なんて十人十色と思う。
一見仲良し風なママ同士も、子どもが同士が揉めたり問題を起こすと、手の平を返すように態度を変えたりするもんである。
「この人はこういう人」なんて簡単に言えない。
状況によって、事案によって、人にはいろんな受け取り方や、顔があり、それで当たり前、違って当たり前と思う。
共感だの激同なんて、たまにあったらびっくりするもの、くらいでちょうどいい。

先日、不登校の一人の少女をめぐってママたちと相談し合った結果、私は「いいな」と思った。
本人にしろ、親にしろ、医者にしろ、その他にしろ、あまりに好き勝手な(いや、多様な)意見のまとまらなさに思わず笑ってしまった。
中には、自分には真っ向反対な意見もあるのに、なぜ気持ちよく笑えたのか。

これは言ってはいけないとか、タブーとか、遠慮がなかったのである。
言いにくい空気もないし、自分には首をかしげる意見があっても、誰も否定しないし、嫌な顔もしないからである。

たまたま、そんなメンバーだったのかもしれない。

ややこしくデリケートな問題を、ママ友なんていう「その場きりじゃない」気を使い合う関係で話し合って、反目する意見がとびかっても、荒れず和やか…
こんなこともやろうと思えばできるし、実際、成されるということが発見だった。

何事も経験である。
世の中、まだまだ捨てたもんじゃない。
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