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パンとサーカスの終焉

2009-11-20 20:37:59 | 歴史
ユスティニアヌスの再征服によって国力を使い果たしたビザンツ帝国はこの後坂道を転げ落ちるように領土を縮小させる。彼の死後の混乱期に反乱軍を率いてカルタゴから来たヘラクレイオスは救世主と市民達に期待され難なくコンスタンティノープルに入った。
彼が皇帝となったとき帝国はボロボロであったといっていい。
穀倉地帯のエジプトをササン朝に奪われ、その脅威は刻一刻と首都コンスタンティノープルに近づいていた。ここで、ヘラクレイオスは折角手に入れた帝位を捨ててカルタゴに逃れようとしたが、その船が沈んだことを機に都にとどまる決意をしたのである。
まず、彼は戦費を手に入れるために、市民へのパンの配給を停止した。
そして体制を整えササン朝の包囲を撃退し、ペルシア本国に侵攻したビザンツ軍の前に全占領地からの撤退を含む和議をササン朝は余儀なくされる。
帝国は再び栄光を取り戻したかに見えた。
しかし、アラビア半島より興りササン朝を滅ぼしたイスラム帝国により穀倉地帯であるエジプトを再び奪われる。

穀倉地帯からの貢物がなくなった以上、もはや市民へのパンの配給は永遠に姿を消すことは当然の帰結であった。そして、帝国は自らの手で食料を調達できない市民の市外への退去を命じる。

かつてローマ帝国は首都の市民に闘技場や戦車競争などで娯楽を提供し、市民に食料を配っていた。いわゆる「パンとサーカス」である。

だが、この後は即位に伴いいくばくかの金品を配ることと、年に数回の儀式としての競馬を開催することにその残骸を見るのみとなった。この残骸は皇帝達が「ローマ皇帝」を名乗る上で必要なタテマエだったのである。

もはやローマ帝国の名残である第一市民・宗教的多様性に続き、ローマの象徴であった「パンとサーカス」も姿を消した。

帝国は内憂外患であった。

しかしである、国家にぶら下がって生きる寄生虫の如き市民を駆逐することで、ようやくビザンツ帝国らしい身の丈に合った発展への道が開かれたのも事実である。

現代にはサッチャリズムにその再現を見ることが出来る。多くの植民地が独立した後もイギリスは「ゆりかごから墓場まで」の福祉大国であった。その裏付けとなる大英帝国の植民地群をとっくに失っているのも関わらず。

しかし、福祉を切り、労働組合を切り崩すことで長きに渡り悩まされてきた「イギリス病」を克服しイギリス経済は再び浮上するのである。

同様にビザンツ帝国も寄生虫の如き国家からの支給のみを当てにする市民を駆除することで再び今度はユスティニアヌス帝が行った「ローマを夢見て国土に荒廃をもたらす再征服」ではないビザンツ帝国としての栄光の時代を迎えるのである。

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