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見逃された幼児が血統を守ることになる

2023-02-28 21:15:52 | 歴史

【ゆっくり解説】日本一貧乏なのに勝ち組大名!喜連川藩の謎!!

 

等持院の歴代足利将軍の木像では子供将軍である7代 義勝が目を引きますが、私が注目したのは義勝の父6代義教ですね。歴代の将軍が狸顔なのに対して彼だけが眼光の鋭い狐顔の将軍です。実際に彼の治世は恐怖政治そのもので人々は怯えて暮らしていました。

そんな義教に盾突いたのが関東公方の足利持氏で、関東公方というのが2代目将軍義詮の弟基氏を開祖とする関東にもう一つの幕府があるような状態だったわけです。当然尊氏の血をひいていますので何かあれば将軍家にとって代わろうとするのは何ら不思議なことではありません。そして起こるべくして起きたドンパチが永享の乱だったわけです。この戦は持氏の敗北に終わり息子の義久ともども自害し、他の遺児たちは落ち延びることになるわけですが幕府に不満を持つ結城氏朝が遺児たちを報じてドンパチを仕掛けます。これを結城合戦という訳です。これも義教の勝利に終わり報じられた遺児である春王丸12歳、安王丸11歳は義教の命令で殺害されます。彼らの弟であった永寿王丸はとても幼いので見逃された、義教が殺そうとするがその前に義教が赤松満祐に殺害された(嘉吉の乱)、結城合戦に参加していなかったのどれかの理由で生き延びて元服して成氏と名乗り再興をしようとしますが関東管領家の上杉家や後の関東の覇者北条氏の前に鎌倉にいられず下総古河に逃れ古河公方と呼ばれることになるわけです。この一族の血統を引く喜連川家が15代将軍義昭の後に将軍家は途絶えたあとも尊氏の家を残すわけです。

が、動画を見ると江戸時代はどうもグダグダの領主だったみたいですね。ちなみに遺児を担いだ結城氏ですが合戦で一度滅亡の後、成氏によって再興を許されたみたいです。戦国末期には徳川家康の次男坊の秀康が養子に入って越前松平氏につながってくる。松平姓を名乗っても越前の分家が結城氏の菩提を祀り続けたようです。どうも家康ってのは家庭円満に縁のないおっさんだったみたいで母子ともに処分した信康はもとより秀康とも相性は良くなかったようです。やはり越前藩も財政はグダグダだったみたいで雄藩になるのは松平春嶽が家柄に関係なく有能な人材登用を行ってからで、腹心の橋本佐内や兌換紙幣である藩札の導入によって貨幣流通の総量を御することをやってのけた三岡八郎などの活躍の後の事です。三岡八郎のちに東京府知事(今でいう東京都知事)になる由利公正の財務能力は相当なもので暗殺されるほぼ直前の坂本龍馬が福井を訪れて「三岡ぁ、話したいことが山ほどあるぜよ!」と言ったのも新政府の財政のキーマンと踏んでいたからこそなのでしょう。

 

そんな結城氏の分家には関家があり、江戸時代の和算の大家 関孝和が養子に入っています。この人は鎖国で西洋の情報が閉ざされている中でニュートンやライプニッツとほぼ同時代に彼らに匹敵する理論を展開しています。線分の長さ、面積や体積などを細かい要素に分けて足し合わせる、積分法にたどり着いているわけです。ちなみに積分の使いこなしのセンスを問うときは「積分の定義って何?」と問えばいいでしょう。積分とは連続した要素を無限に細かく分けたときにどうなるかを考えて足し合わせるという作業の事を指します。「積分とは微分の逆である」としか答えられない人は往々にして微積分の使いこなしが弱い傾向がありますね。積分が微分の逆であることは後からライプニッツってって親父が発見したのであって算術としては微分の逆になりますが、定義と意味を知っていなければ使いこなしがどうしてもあやふやになり、物理量を計算するときに「これって微分するんだっけ?積分だったっけ?」などと迷ってしまって理工系のセンスがないことを見抜かれてしまいかねません。

ってことで、次は関孝和と江戸時代の日本の積分計算について述べてみましょう。

 


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