エチオピア南部高原の一部族の主食であるパルショータというモロコシ製の発酵酒からの連想で、「乳の出ない叔母に養育されたウガヤフキアエズノミコトは飴を与えられて育った」という鹿屋市吾平町飴屋敷に伝承されたその「飴」とは、パルショータのような穀物(当地では当然コメ)を原料とする栄養豊富な発酵飲料だったのだろう、というところまでこぎつけたのだが、その発酵飲料を「飴」(あめ)というのはなぜかが疑問になって来た。
飴は今日的には固いキャンデー状のものを指すのが一般だが、元の漢字の「飴」は「イー」と発音し、中国語では「イー」は水っぽかったり軟らかかったりする麦芽の糖化作用によってできる飴で、キャンデーのような糖分を溶かして固めただけのものは文字通り「糖」という名で「タン」と発音するそうである。
となるとウガヤフキアエズノミコトを育てた発酵飲料は「イー」の方の飴に該当する。その「イー」の方の飴という字を漢字から借りながら、和音では「あめ」と言っている。
その「あめ」とは何に由来するのだろうか?
そこで記紀を参照してみると、日本書紀の神武紀に「飴」が登場するのである。
日向から東征してきた神武天皇一行が大和入りするのは、河内の日下で土豪のナガスネヒコ軍に敗れ、大きく南へ迂回し紀伊半島の熊野に上陸し、そこからヤタガラスの導きで険しい山々を越えて大和南東部の宇陀地方であったが、そこからは八十猛や兄磯城などというゆく手を阻む強力な勢力が立ちはだかっていた。
神武天皇は何とか「血塗らずして」事向けやわ(平定)したい。そこで天つ神に祈ると「天の香具山の頂上の土を採取して平皿と小壺を作り、そこにお供え物をして神々に祈ればよい」との教示があり、敵の間をくぐってどうにか採取した土で平皿と小壺を作ることができた。
そして丹生川の川上に行って天神地祇を祭り、さらに祈ると別の教示があり、天皇はこう詔した。
「平皿に水無くして飴を作ろう。飴ができたら刃の勢いを借りずに天下を平らげるようになろう。」
そこで飴を作ったところ、飴は自ずから出来上がった。
(※このように神慮の恩恵を蒙った神武天皇はその後、「刃に血塗らず」とはいかなかったが、数々の難敵を平らげ、橿原に王朝を開いたーーと神武紀は記している。)
以上が飴という食品の描かれた部分で、古典(記紀)ではこれが初見である。
この時の飴は「あめ」と言わずに「たがね」としてあるが、「水無くして」作られた「飴」は「たがね」と呼び、水を加えて発酵させたのを「あめ」と呼んでいて区別がなされている。
水を加えないで作るというのはコメの粉状の物が大気中の水分(湿気)を吸収し、米そのものに含まれている糖化酵素の働きにより、主成分であるでんぷんが糖化して固まることを指しているはずである。
これを「たがね」と称するのはおそらく「固かあめ」(かたかあめ)からの転訛だろう。つまり「あめ」こそが本来の和製パルショータに付けられた名称だと思うのである。
神武天皇が神に祈って生まれたのは「水無しの飴」(たがね)で、目に見えない糖化酵素の働きによるもの、また飴屋敷の「飴」(あめ)は水を加えるが同じく目には見えない天然の麹菌の働きによるもので、どちらも目には見えない霊妙な働きによるもので、当時の人から見れば「神(天=あめ)による産物」であったがゆえに「あめ」という名称になったに違いない。
逆に言うと「飴屋敷」の「飴」を今日風の砂糖分を固めただけの飴、すなわちキャンディーと連想する方が「あめ」本来の名称の由来からすると間違っているということになる。あくまでも本来の飴(あめ)は霊妙な発酵作用を伴って作られるがゆえに「あめ」なのである。
天から降ってくる雨も「あめ」だが、本来の飴が眼には見えない糖化・発酵作用という天の恩寵によって生まれることから「あめ」というのと根本は一緒だろう。
天から降ってくる適度な雨は慈雨であり、田畑に多大な恩寵をもたらすからである。
――以上、かっての古日向の領域に含まれる鹿屋市吾平町の飴屋敷に伝承される「飴の謎」が、ようやく解けたように思う。
飴は今日的には固いキャンデー状のものを指すのが一般だが、元の漢字の「飴」は「イー」と発音し、中国語では「イー」は水っぽかったり軟らかかったりする麦芽の糖化作用によってできる飴で、キャンデーのような糖分を溶かして固めただけのものは文字通り「糖」という名で「タン」と発音するそうである。
となるとウガヤフキアエズノミコトを育てた発酵飲料は「イー」の方の飴に該当する。その「イー」の方の飴という字を漢字から借りながら、和音では「あめ」と言っている。
その「あめ」とは何に由来するのだろうか?
そこで記紀を参照してみると、日本書紀の神武紀に「飴」が登場するのである。
日向から東征してきた神武天皇一行が大和入りするのは、河内の日下で土豪のナガスネヒコ軍に敗れ、大きく南へ迂回し紀伊半島の熊野に上陸し、そこからヤタガラスの導きで険しい山々を越えて大和南東部の宇陀地方であったが、そこからは八十猛や兄磯城などというゆく手を阻む強力な勢力が立ちはだかっていた。
神武天皇は何とか「血塗らずして」事向けやわ(平定)したい。そこで天つ神に祈ると「天の香具山の頂上の土を採取して平皿と小壺を作り、そこにお供え物をして神々に祈ればよい」との教示があり、敵の間をくぐってどうにか採取した土で平皿と小壺を作ることができた。
そして丹生川の川上に行って天神地祇を祭り、さらに祈ると別の教示があり、天皇はこう詔した。
「平皿に水無くして飴を作ろう。飴ができたら刃の勢いを借りずに天下を平らげるようになろう。」
そこで飴を作ったところ、飴は自ずから出来上がった。
(※このように神慮の恩恵を蒙った神武天皇はその後、「刃に血塗らず」とはいかなかったが、数々の難敵を平らげ、橿原に王朝を開いたーーと神武紀は記している。)
以上が飴という食品の描かれた部分で、古典(記紀)ではこれが初見である。
この時の飴は「あめ」と言わずに「たがね」としてあるが、「水無くして」作られた「飴」は「たがね」と呼び、水を加えて発酵させたのを「あめ」と呼んでいて区別がなされている。
水を加えないで作るというのはコメの粉状の物が大気中の水分(湿気)を吸収し、米そのものに含まれている糖化酵素の働きにより、主成分であるでんぷんが糖化して固まることを指しているはずである。
これを「たがね」と称するのはおそらく「固かあめ」(かたかあめ)からの転訛だろう。つまり「あめ」こそが本来の和製パルショータに付けられた名称だと思うのである。
神武天皇が神に祈って生まれたのは「水無しの飴」(たがね)で、目に見えない糖化酵素の働きによるもの、また飴屋敷の「飴」(あめ)は水を加えるが同じく目には見えない天然の麹菌の働きによるもので、どちらも目には見えない霊妙な働きによるもので、当時の人から見れば「神(天=あめ)による産物」であったがゆえに「あめ」という名称になったに違いない。
逆に言うと「飴屋敷」の「飴」を今日風の砂糖分を固めただけの飴、すなわちキャンディーと連想する方が「あめ」本来の名称の由来からすると間違っているということになる。あくまでも本来の飴(あめ)は霊妙な発酵作用を伴って作られるがゆえに「あめ」なのである。
天から降ってくる雨も「あめ」だが、本来の飴が眼には見えない糖化・発酵作用という天の恩寵によって生まれることから「あめ」というのと根本は一緒だろう。
天から降ってくる適度な雨は慈雨であり、田畑に多大な恩寵をもたらすからである。
――以上、かっての古日向の領域に含まれる鹿屋市吾平町の飴屋敷に伝承される「飴の謎」が、ようやく解けたように思う。