昨日の朝6時台のニュースを見た時はショックだった。沖縄の近代以前の歴史を語る「首里城」が燃え盛っていた。
緊迫したアナウンスによれば、夜中の2時頃に出火したらしい。その1時間ほど前まで城内の中庭では「首里城祭り」の11月3日の本番に向けて準備作業が行われていたので、出火原因をそれに結び付ける見方も浮かんだが、作業関係者は出火元とみられる「正殿」には立ち入っていないという。
鎮火して一日たった今日の午後、調査関係者が入城しているので、原因についてはおいおい判明してくるだろう。
それにしてもあの焼け落ち方はすさまじいと言うに尽きる。多くの報道で言われているように、74年前の太平洋戦争時に米軍の艦砲射撃で焼け落ちた様とよく似ている。
戦時に破壊された首里城の跡地には琉球大学のキャンパスが置かれたというのは全くの初耳だった。当時は総合大学としての琉球大学ではなく、専門学校か師範学校のタイプの前身だったと思うが、よくぞそこで学んだものである。
その後県民の悲願でもあり、1980年代から再建(復元)が開始され、あの独特の朱塗りの正殿はじめ北殿、南殿など400年以上前の創建当時に近い姿に復元された。
ちょうど10年前、私の姪が沖縄人と結婚した際には家族4人と沖縄に行き、披露宴後に一泊して南部戦跡を見て回り、首里城にも立ち寄ったのだったが、そこで演じられていた沖縄舞踊を興味深く観覧したのを思い出した。
手元にある伊地知貞馨(いじちさだか)という沖縄置県前の薩摩藩に所属していた「琉球王国」時代に琉球詰めを経験した人が著した『沖縄志』の中の「首里城図」を見ると、報道で全焼したとされる「正殿・北殿・南殿」のうち、正殿という名称は当時のままだが、北殿は当時は「評定所」で、南殿は「藩王居所」となっている。
森首相時代の沖縄サミットの時に参加国の代表たちをもてなしたという北殿は当時の評定所だったので、確かに政治向きの会合にはうってつけだったわけだ。
その一方で南殿は藩王(琉球国王)の居所で、書院なども付属しており、まあ仮に琉球国王の子孫が存続していて現地を管理していたとしたら、各国首脳をお茶でもてなすくらいなことをしたかもしれないが、こうなってしまっては夢のまた夢。
上掲の『沖縄志』によれば「(首里城の)結構すべて明制に擬す」とあるから、中国王朝の明との往来があり明の皇帝の居城に模した城構えだったようだ。また「書院・燕室のごときは我が制を用ふ」ともあので、国王の居所は和風の書院造だったのだろう。和洋折衷ならぬ和明折衷である。
県民のだれもが我がシンボルと捉えていた首里城の再建を願っているが、政府もその意向を示しているので再建については心配はいらないと思う。
あれだけ台風による雨風にもまれながらも400年以上の時を経た首里城が、74年前の「戦火」で焼失し、今度また「失火」で焼失するという度重なる不幸は何としても今回で終わりにしたいものである
緊迫したアナウンスによれば、夜中の2時頃に出火したらしい。その1時間ほど前まで城内の中庭では「首里城祭り」の11月3日の本番に向けて準備作業が行われていたので、出火原因をそれに結び付ける見方も浮かんだが、作業関係者は出火元とみられる「正殿」には立ち入っていないという。
鎮火して一日たった今日の午後、調査関係者が入城しているので、原因についてはおいおい判明してくるだろう。
それにしてもあの焼け落ち方はすさまじいと言うに尽きる。多くの報道で言われているように、74年前の太平洋戦争時に米軍の艦砲射撃で焼け落ちた様とよく似ている。
戦時に破壊された首里城の跡地には琉球大学のキャンパスが置かれたというのは全くの初耳だった。当時は総合大学としての琉球大学ではなく、専門学校か師範学校のタイプの前身だったと思うが、よくぞそこで学んだものである。
その後県民の悲願でもあり、1980年代から再建(復元)が開始され、あの独特の朱塗りの正殿はじめ北殿、南殿など400年以上前の創建当時に近い姿に復元された。
ちょうど10年前、私の姪が沖縄人と結婚した際には家族4人と沖縄に行き、披露宴後に一泊して南部戦跡を見て回り、首里城にも立ち寄ったのだったが、そこで演じられていた沖縄舞踊を興味深く観覧したのを思い出した。
手元にある伊地知貞馨(いじちさだか)という沖縄置県前の薩摩藩に所属していた「琉球王国」時代に琉球詰めを経験した人が著した『沖縄志』の中の「首里城図」を見ると、報道で全焼したとされる「正殿・北殿・南殿」のうち、正殿という名称は当時のままだが、北殿は当時は「評定所」で、南殿は「藩王居所」となっている。
森首相時代の沖縄サミットの時に参加国の代表たちをもてなしたという北殿は当時の評定所だったので、確かに政治向きの会合にはうってつけだったわけだ。
その一方で南殿は藩王(琉球国王)の居所で、書院なども付属しており、まあ仮に琉球国王の子孫が存続していて現地を管理していたとしたら、各国首脳をお茶でもてなすくらいなことをしたかもしれないが、こうなってしまっては夢のまた夢。
上掲の『沖縄志』によれば「(首里城の)結構すべて明制に擬す」とあるから、中国王朝の明との往来があり明の皇帝の居城に模した城構えだったようだ。また「書院・燕室のごときは我が制を用ふ」ともあので、国王の居所は和風の書院造だったのだろう。和洋折衷ならぬ和明折衷である。
県民のだれもが我がシンボルと捉えていた首里城の再建を願っているが、政府もその意向を示しているので再建については心配はいらないと思う。
あれだけ台風による雨風にもまれながらも400年以上の時を経た首里城が、74年前の「戦火」で焼失し、今度また「失火」で焼失するという度重なる不幸は何としても今回で終わりにしたいものである
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます