鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

古日向論(1)天孫降臨神話と古日向②

2019-04-19 11:19:25 | 古日向論

660年から668年に至る唐・新羅対百済・高句麗の戦いに加担した倭人水軍の大敗(白村江の戦役)によって古日向も水軍を失ったり半島の利権を失うという痛手をこうむった。そしてその後の列島支配は大陸王朝の唐の律令制と仏教政策を大幅に取り入れた強力な中央集権化であった。

大和王権側は列島の隅々までの支配を敢行しようと、地方の大国(大勢力)を細分化するという政策に出たので勢い各地で叛乱がおきた。そのうちの大規模なものが古日向におけるいわゆる数次の「隼人の叛乱」であった(東北でも大きな蝦夷の叛乱が起こっている)。

記紀神話はこうした地方の抵抗を「王化に属せぬ蛮族による叛逆」として「熊襲」「蝦夷」「隼人」などの「蔑視的な種族名」で記し、あたかも中央の王権側に属する側の倭人(日本人)とは別人種かのような書き方で終始したため、古日向(東北も)に住んでいた倭人は「蛮族」視されるようになってしまった。

(※ただし、720年の隼人の叛乱が終息してから、中央王府に「隼人の司」という役職が設置され、「隼人」は王府を守る兵士の一員となったため、「熊襲」「蝦夷」ほどの蔑称視からは免れることになった。)

大和王権は朝鮮半島の倭人が列島に移って来たり、逆に向こうに住み着いたりしても、もう半島における利権は回復の余地が無く、自由任せであった。つまり半島とは完全に一線を画し、王権は列島だけに限られることになった。

そこで国史である記紀をまとめるにあたって、大和王権の支配の領域は大昔から列島のみに限られ、それゆえずっと列島内だけで天皇家は王朝を継続してきたという、私見で言う所の「大和王権列島内自生史観」が据えられた。

その結果、上述のように南の果てである南九州の大国・古日向は「熊襲」や「隼人」という王化に逆らう蛮族の故地ではあっても、天皇家の発祥の地であるなどとんでもない(あるいは戦時中に神話が史実であったとして教えられたことへの知的アレルギー)として、記紀神話は学者からは造作(おとぎ話)と一蹴されたわけである。

しかし、これは邪馬台国研究の泰斗・安本美典氏が述べているのだが、

「(神話学者や日本史学者が)記紀神話を大和王権の成立過程と支配の正当性を強調するための造作に過ぎないとするのならば、天孫ニニギをあんな遠い九州の果ての山に降ろさずとも、大和地方のしかるべき山に降ろしたらよかったのではないか。その方がずっと大和の「聖地性」が強調されて大和王権にとって都合がよかったのではないだろうか」

との問いかけには、答えに窮してしまうだろう。

私は史実として古日向における天皇家発祥に至るまでの長い歴史があったと考えているが、天孫降臨神話そのものが史実であったと考えるものではない。

神話はあくまで「史実の象徴的表現」なのである。

③以降で、その「象徴」が何を象徴したものかを考察し、記していくことになる。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿