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古日向論(1)天孫降臨神話と古日向①

2019-04-14 10:34:15 | 古日向論

天孫降臨神話は別名「日向神話」とも呼ばれている。舞台が古日向だからである。

神話学者はこの「日向」を正しく「600年代以前の日向」(私論で使う古日向)と捉え、現在の宮崎県と鹿児島県を含む広大な領域と考えているから問題ないにしても、一般的な記紀の学習者は「宮崎県の神話だ」と短絡してしまうので大いに注意が必要である。

この短絡を避けるためには「日向神話」ではなく「古日向神話」に代えてもらいたいと私などは思うのだが、今のところ神話学者の間でもそう改める動きはないようである。

私論では600年代以前の日向を「古日向」とするので、「日向神話」という部分はすべて「古日向神話」と言い換えることにする(もっとも必要な場合以外は天孫降臨神話と表記するつもりなのでさして面倒ではないが)。

さて、天孫降臨神話とは何かと言えば、皇室が斎(いつき)まつる天照大神(現実に祭るのは御魂代としての八咫鏡)の孫にあたるニニギノミコトが高天原から古日向に天下り、ホオリノミコト、ウガヤフキアエズノミコトという直系を経てトヨミケヌノミコト(神武天皇)が誕生するまでの説話のことである。

(※古事記はこの天孫直系4代に一代一名のみのニニギーホオリーウガヤフキアエズートヨミケヌを挙げるが、日本書紀は各世代に多様な名を挙げており、漢字で書くと大変なことになるので、最も省略的な名をカタカナで表記するので了解されたい。ただ、解釈上必要な場合はもちろん漢字の表記を取り上げて論じる。)

天孫が古日向に降臨したこの記紀ともに認める説話に対して、戦前、史学会にに大きな影響力を持った津田左右吉は、「日向国、つまり日に向かう国という吉祥な地名なので、そこ(南九州)を説話の舞台にしたに過ぎず、天孫降臨神話は皇室の出自を飾るための造作(作り話)である」とおおむねこう述べて天孫降臨神話をおとぎ話の類にしてしまった。

また、鹿児島国際大学教授であった隼人論の大家・中村明蔵氏はこの津田説を支持し、かつホオリノミコト(山幸彦)の兄であるホデリノミコト(海幸彦=隼人の祖)について、「隼人の出自は皇室の祖先ホオリノミコトの兄であるとして、南九州で大和王権に叛逆する隼人を我が身内に囲い込み、反抗を和らげようとした」と天孫降臨神話は南九州の風土や風俗を巧みに取り入れたとする大和王権側の造作説を唱えている。

さらにまた、神話学の泰斗である大林太良(東大教授)は、「ニニギが火を、山幸彦(陸の支配者)であるホオリが海幸彦のホデリを破ることで海をも支配し、大和王権の完全性を強調した説話である」という見方をしている。

いずれにしても、天孫降臨神話は当時(600年代末期=天武・持統・文武天皇時代)の大和王権側の「国策」によって作られた話であるという点では一致している。

津田説は、そもそも文化度の低い南九州が皇室の祖先であるわけがない、という南九州無視論であって取着く島がないが、中村説および大林説は造作論とは言っても、まだ南九州(古日向)の風土や歴史を観察し考慮しているのでうなづける点は多い。

中村説では、天武・持統王朝のもとで国策(戸籍作成・令制普及・仏教化)を推し進めるために南島へも特使を派遣して王化を急いでいたことで、現地隼人の非常に強い抵抗にあったことを神話の記述に反映させ、「隼人の祖先と皇室の祖先は天孫二代目の時に兄弟であった」とすることで隼人を懐柔しようとしたーーとするのだが、この隼人懐柔論は無理があろう。あまりに共時的に過ぎるのである。

それより、山幸彦たるホオリノミコトと海幸彦たる隼人の祖のホデリノミコトの争いで山幸彦のホオリノミコトが勝利したのは、660年から663年にかけて行われた白村江の戦に出陣した海洋系の隼人(そのころはまだ隼人とは呼ばれていないので正確には古日向の航海が生業の海人)が壊滅的な打撃を受けて没落し(その没落海人の統率者は天智天皇であった可能性が高い)、天武天皇を中心とする陸上の農業を中心に据えた令制国家への求心的な指向がおのずと高まったことを反映しているのだと思う。


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