このところ夜の寒さが身に応えます。足は冷えるし、背中はゾクゾクするし、もう炬燵がほしいような…でも、ガマン、ガマンです。
今日は何もない日なので、午後からリハビリへ。やっぱり疲れが溜まっていたのでしょうか。筋トレやストレッチをして、最後にマッサージチェアに掛かっていると、気持ちがいいのでついウトウトとしてしまいました。歳を取ると疲れは何日か遅れてやって来るということなので、当り前かも。
それでは、〝明日香の風〟もいよいよ最後です。
最終日の19日(土)の朝食後、8時30分に解散でした。その後はそれぞれで、すぐ家に帰る人や何処かへ廻って帰る人など、など…。なんせ南は熊本、福岡から、北は東京、横浜、千葉、茨木と、全国とまではいきませんが、広範囲に亘って集まっていますからね。一年に一回顔を合わせるのを楽しみに続いてきたOB会ですもの。また、来年お会いしましょうねと言って別れるのです。同じテントで同じ釜の飯を食った仲間というのは本当にいいものです。
私は先輩たちと「キトラ古墳」と「高松塚古墳」を見て帰ることにしました。ところが、今まで何とか持ちこたえていた天気がとうとう崩れて雨になってしまいました。でも、まあ仕方がありません。ワンデリングの時に降らなかったんですから感謝しなくっちゃ。
国宝キトラ古墳壁画の第13回一般公開が9月21日(土)~10月20日(日)までだったんです。これは事前の申し込みが必要だったのですが、まとめて申込んでおられた先輩に便乗させて貰って観ることができました。感謝です。
今回の公開は西壁(白虎)と天井(天文図)でした。テレビや新聞などでさんざん報道されましたので、四神の映像は目に焼き付いていますが、本物を観るのは初めて。エエッ、こんなに小さいの!というのが第一印象。何故か分からないのですが、私は結構大きなものを想像していたんですね。石室も一人の柩がやっと収められるぐらいのスペースしかないんですから、当然壁画も小さいものなんですよ。とにかくそれが一番意外でした。やっぱり〝百聞は一見にしかず〟ですね。その保存のための修復作業の様子などをビデオや写真で見ると大変な作業だということがよく分かりました。しかし、ここまで微細に描かれているのを目の当たりに見ると、古代人の能力に測り知れないものを感じて信じられないような気がしました。だって、今時のような機械的なものや情報などが何にもない時代なんですよ。オソロシイ!
写真は四神を撮ったつもりなのに、なぜか青龍だけ写っていませんでした。ゴメンナサイ!
外へ出ると雨脚が強くなっていましたので、タクシーで次の高松塚古墳へ。ここには以前来たことがありましたので余りビックリはしませんでした。特に女子群像の鮮やかな衣装が今でも目に焼き付いています。きっといろいろなものがないような時代だと思うのに、なぜか私たちより豊かな暮しをしていたような…
さあ、本当に最後です。一番近い飛鳥駅から電車に乗って新大阪まで行き、北九州の先輩と広島の後輩との3人で、新幹線に乗って帰りました。夕方まだ明るいうちに宇部へ帰り着き、雨もすっかり上がっていて、無事終了…読んで下さった方もお疲れ様でした。オシマイ!
小さい墓、大きな墓、色々あるな
ある意味、貌かも知れない
死者を弔う証か、生存者の威厳を示すものかは分からない
戦国の世には、城とは防衛もあったろうが、臣民に対する威厳を象徴したのであろう
当然、仏像もその類もあるな
キリスト教会におけるヤジロベイ
秤にかけるんだな
天国にいけるか
戒律を守らないと、地獄に追い落とすか
脅し、脅迫なんだな
性善説とか性悪説は倫理とか教育だな
まあ、小生には分からないな
西洋における、哲学あるいは芸術そのものが、宗教、キリスト教抜きには考えられなかったな
ジャンポ-ル・サルトルなどは、神がいるか、いないかは考えない
人はこの世に投企されたと
神から放たれたんだな
仏教も多かれ少なかれ、地獄の世界がある
閻魔さんがいるんだと
高橋たか子が、高橋和巳は生前インドの宗教を考えていたと
邪宗門では、宗教とは邪宗と言われている時が宗教だと
綾部に大本教があるが、それを題材にしたのだろうな
高橋和巳の母親は熱心な天理教徒だったと
日本の原始宗教
大本教も天理教も金光教にしても、大抵霊感を備えた婆さんが創設した
そして、組織化したのは男なんだな
しかも、原始宗教は南が多い
北は童話かな
ガリ版
聖職者もガリ版を使うか
あれは、版画のように浮世絵のように何枚も刷れるんだな
ペンダコか
昔はあった
学生では新聞部か文芸部だな
早熟な少年、少女の面影であった
いや、早熟の一団だな、抜きん出た一角だったな
小生のような遅塾少年は眺めているだけであった
人生の中の善悪行為の比重から測るんでしょうか。
そういえば、裁判所に天秤を持った女神の像が…これも見たことはありませんが、ドラマとかで…人間の罪を公平に量るという意味なんでしょうか。でも。それをするのは人間…どこまで公明正大にできるのでしょう。コワイ世界だと思います。〝罪を憎んで人を憎まず〟ですか…
〝邪宗門〟といったら…すぐに北原白秋の詩集を思い出します。でも、そちらの方には疎いのでよくはわかりませんが、何となく禁じじられた昔のキリシタンのイメージ、所謂邪教という異国的な臭いがします。多感な青年時代の白秋の傑作でしょうから、明治という時代の文壇へは大きな波紋を起こしたことでしょう。
生き物で脳の容量は決まっていますか?猿でも…我が家の猫でも、知恵が発達しています。人間の脳は無限?私の脳はもう入りきらずにパンクしそうですが…