実家の下段にある畑で撮りました。早朝だったので霜に覆われていました。
短期間であったが、女房の実家へ帰省した。いくつかこの機会を利用して行ったことがある。その一つに以前ブログで紹介した日豊線大神駅から車で10分ぐらいに位置する大神訓練基地である。現在は回天記念公園が整備され、そこに人間魚雷回天の実物大模型が展示されている。基地全体は牧ノ内、深江という海岸に面した地区にあり、100ヘクタール以上の広大な面積を有していた。昭和16年から17年にかけて建築予算が成立し、大型戦艦や空母の建造可能な大神海軍工廠の建設予定地であった。昭和18年9月1日山口県周南市の徳山湾に浮かぶ大津島に、大津島回天基地が開設され、以降、光回天基地、平生回天基地が開設された。
大神海軍工廠建築予定地の一部が、回天特攻の基地として転用され、17年秋から牧ノ内一体を中心に基地建設が着手された。昭和20年4月25日、突撃隊指令、山田盛重大佐以下、兵員2000名の構成による大神回天基地が開設された。基地内施設は舎屋51棟、本部、神社、魚雷調整場、変電所、浄水場施設、酸素圧縮ポンプ室、魚雷調整プール 燃料格納壕 回天格納壕等が整備された。また、トロッコ軌道もあったようである。
では、どうして人間が操縦する魚雷が誕生したかは正確の資料をみたわけではないが、真珠湾攻撃で米国との直接対戦に発展した太平洋大戦の劣勢を回復しようとした黒木中尉と仁科少尉の提案で、九三式魚雷を改造し、自らが操縦する肉弾戦は軍部により一度は却下されたようであるが、採用され、伊号型潜水艦の甲板に搭載される方式であった。トラブルも多く、帰還者も多い。終戦までに28回出撃し、回天作戦の戦没者は104名、回天整備員、搭載潜水艦の乗組員合計1073名であり、平均年齢は20.8歳であった。残念ながら回天作戦による成果の確認はできていない。
回天の性能は、全長14.75m、直径1m、全重量8,300kg、速力30ノット、航続距離23km、10ノットで70km、頭部炸薬1,550kg、燃料酸素・白灯油、搭乗員1名、エンジンの出力は550馬力である。
船体は頭部、胴体、九三式魚雷三型で構成。回天の安全潜航深度は80mで、搭載潜水艦が100mであったが、改良されていなかった。大神基地に配備された回天は下部ハッチがなく、陸上からの発進が想定されていた。大神基地での訓練は、別府湾で行われ、着底した海鷹(元あるぜんちな丸)という小型空母)をターゲットに使用していたといわれている。訓練用回天は16基あったようである。訓練時点の搭乗員は2名一組で行われていた。幸いなことに大神訓練基地からの戦没者は自殺者1名をのぞき、一人もいなかった状態で終戦を迎えたことである。