別府湾で着底した小型空母海鷹については前回のブログで紹介したが、若干訂正があり、追加の投稿です
大日本帝国海軍所属艦艇である海鷹(かいよう)は、元は大阪商船の客船「あるぜんちな丸」が帝国海軍に徴用された船舶で、神戸から南米を結ぶ航路で使用されていた豪華客船であった。起工は1938年、南米と神戸間はわずか1年3か月で、戦況悪化によって、大連と神戸間の航路へ変更された。その後、特設輸送艦を名乗った後、空母へと改装された。丁度、ミッドウエー海戦に負けた後である。
排水量は13,600トン、全長166.55m、全幅21.90m、速度は23ノット、馬力52,000馬力であった。機関はディーゼルタービンから陽炎型駆逐艦で使用されていたボイラータービンに換装されたが、速度が遅く、空母としても小さく、輸送任務が主であったようである。輸送任務もすぐに解除となり、輸送船の護衛に回る。
1945年には燃料不足から航行が困難となり、訓練標的艦となってしまった。それも長くは続かず、米軍が設置した機雷に触雷し、航行不能となり、別府湾へ曳航されたが、4日後の空襲によって浸水が増大し、使い物にならなかったため、船体は放棄され、そのまま3週間後には終戦となった。戦後、1948年1月31日に解体された。
人間魚雷回天の訓練の標的艦となったのは、沈没していたわけではないようで、自分の調査不足であった点を訂正したい。それにしても訓練標的艦としては極めて短期間といえる。大神訓練基地での終戦前のあわただしい時期であったことは間違いないであろう。回天基地は山口県周南市大津島、光市、平生町などに点在し、瀬戸内海と豊後水道とがつながっている関係もあり、この地に点在している。機会があれば英霊の供養に訪ねたい場所である。