京都大原紫葉工房便り

京都洛北・大原の里のしば漬屋から、毎日!情報発信。

草木染め、初挑戦。青しそ&びわ

2014-08-28 10:18:21 | 妻!日記

8月24日の地蔵盆で草木染めをすることになったので、ためしにやってみました。

まずは・・・

前準備。

シルクが一番染色の定着が良いのだけど、高いので、綿100パーセントのさらしでします。

染色を定着させるためのタンパク処理です。

バケツ一杯に牛乳パック1本の豆乳。

さらしは、30センチ四方のハンカチが25枚ほど作れる量でした。

豆乳はいい匂い

でも、陰干ししたら、若干カメムシっぽい匂いに

でも、安いので、がまんします。

 

で、翌日。

ちょうど、外で青しその仕事をしてはったので、落ち葉を拝借。

枯葉でも金の卵、というのが、草木染めの醍醐味でしょうか

量は適当。

たぶん多いほど濃い色が出ます。

最初はためしに、鍋いっぱいの葉っぱに、1.5リットルほどの水。

結論、水は半分でも良い位。(濃い色を出すためには)

     ↑ 一回目の煮出し汁(30分ぐつぐつ炊きます)

一回色だしした葉っぱも、まだ使えるそうなので、どうなるかやってみました。

   30分煮込みました。

 

二回目の煮出しを経て、三回目…

         ↑  三回目。

 一回目が茶色い汁だったのに対して、三回目はかなり黄色に近くなりました。 

 

そして・・・

いよいよ染色の準備。

ビー玉、おはじき、スーパーボール、箸置きで模様づくり。

 

そして、お鍋に染め汁と布を入れて、80度保温します。

染め汁には、金属由来のものをいれて、色を逃がさないようにします。

今回は、漬物でも使うミョウバン。

量は適当。

ちなみに、ミョウバン風呂はダイエット効果があるようで、中学生の時、浴槽に一袋入れて入ってました。

効果のほどは微妙ですが、結構良かったと思います。

浴槽を傷めるかどうかは分かりませんけど。

別府の明礬温泉は良いらしいですよ。

ひたひた。

スーパーボールのところまで、染めようと思ったら、染め液を足さないといけないので、

もったいないし ↓ こうしました。

湯せん。

萩焼の一輪挿し、ごめんなさい

こちらの作業も、お鍋でぐつぐつなので、待ってる間に、次の作業。

店先にあるビワの葉っぱ。

こちら、子供が種植えしたものの、育てる場所ないし、実はならないし、きれいでないし、場所とるし、

黙って捨て子に出そうかと思ってましたが、金の卵であることが発覚

上品にハサミで切ってみましたが、

結論、これは手でちぎるべし。

茎もボキボキ折って、放り込むべし。

まったく子供向きの作業であります。

 

そして、数時間後。

たのしい、陰干し作業

 ↑ 左端だけビワ染め              ↑青しそ1回目煮汁

 ←右端(1回目煮汁)

           ↑ 青しそ3回目煮汁  ↑一回目煮汁で、再び染色したもの。

   

 

ぬいぐるみ用の布団を作りました

ビワ染めは、パッチワーク三色の真ん中の色です。

上手くいけばピンクが出るそうですが、今回はベージュです。

ぬいぐるみを寝かせてみました

これは、見ているだけで、相当な癒し系ですね

 

初挑戦、草木染めは、ビギナーズラックか、大成功でした

 


久々の遠出♪

2014-02-27 11:57:22 | 妻!日記

年末から、これといった遠出をしませんでしたが、

今週からの4週間連続催事に備えて、久々に気合の入ったドライブをしてきました

 

といっても、当日の出かける時間になっても、目的地が決まらなくて

出発しながら考えてたのですが・・・

思い切って、名神高速に入って、大阪ナンバまで行きました

 

節約ムードだし、体力もないし、迷ってたんですけど、

やっぱり、行きたいとこ行こうと思って、

もっとも大阪らしい?場所に行って、後悔しないように、ってことで

 

だいたいナンバみたいな街のまん真ん中は、電車で行くべきだし、

車だと、駐車代だけでバカにならないのでは、と思ってましたが・・・

 

京橋~御堂筋から、心斎橋西側エリアで駐車場を探してみたけど、やっぱり高い

だいたい20分で200円前後でしょうか・・・

まあ、いいんですけどね、たまには。

それでも、もうちょっと探してみようと思って

道頓堀の堀の横の一方通行を東向きに移動・・・

繁華街からちょっと外れた、いかがわしい雰囲気?のエリアに入ると、

期待通り、駐車代が暴落

なんと1時間100円の信じられない良心的価格のパーキングに駐車しました

それでも、道頓堀のお堀沿いですよ

 

近くの大通りの角には、かなり老朽化した石碑があって、

「安井道頓碑」とある・・・

帰宅後に調べたら、江戸時代に道頓堀のお堀を掘削した偉人なのでした。

ほんとうに今にも壊れそうな碑(くさりでぐるぐる巻きにしてありました)なので、撤去も近いかもしれません。

資金が大変かもしれませんが、立て直してもらいたいものです。

 

さて、これといった行きたい場所もなかったので、けっきょく食道楽に走ろう、ということになった私たち。

道頓堀をうろうろしていたのですが、なんともなしにうろついていたら、

超有名なこの場所に行きつきました。

ガイドブックには、必ずのっている古典的観光地・・・法善寺横丁。

そう、織田作之助の「夫婦善哉」の舞台になった場所です。

ちょっと前、NHKでドラマ化されましたね。見てないけど

わたくしが初めて大阪を訪れた際(25年以上前)、ガイドブックで見て、大阪らしいなあ~と思った場所。

でも、今まで、行ったことがなかった

 

小料理屋さんが並ぶ通り、みたいなイメージがあったけど。

通りの真ん中あたりで出会ったのが・・・

 

マイナスイオンいっぱいで、運気もあがりそうな、お不動さま

法善寺の水掛け不動さんです。

願いを唱えながら水をかけたらご利益がある、とのことで、全身苔むしていらっしゃいます。

 

でもね、けっこう大きなお不動さんで、手前の水場からは、足元くらいしか届かないんですよ。

で、何も知らずにお参りしたもので、作法(どの辺にかけるか、とか)が分からないので、困りました

よく分からんので、お不動さんの足元の丸く水がたまる部分に水を入れたら・・・

後ろの人がそれを見て、同じことを

それでいいのか~そんなもんかな

お不動さんの横には井戸があって、こちらでくみ出した水をお不動さんにかけるようです。

若!は、思いがけず、お不動さんに行けたのが良かったみたいでした。

私は、と言えば、駐車代金が200円で済んだのが嬉しくてうれしくて

(1時間1000円の見間違いかと思って、心配してました)

帰り、道頓堀~玉造までの懐かしい感じの街を走れたのも嬉しかったです。

(運転は若!ですが、ナビはわたし)


恒例!伏見・酒蔵開きのご案内。

2014-01-09 16:06:59 | 妻!日記

 

伏見酒蔵開き   

於:伏見銘酒協同組合(京阪伏見桃山駅下車・鳥せい本店横)

1月19日(日)と 2月23日(日) 11時~3時 入場無料

 

搾りたて新酒と限定大吟醸酒 小カップ 2種類(各1杯)300円

鳥せい特製粕汁販売 1杯 200円

酒粕〈お一人様5袋まで) 800g 500円

各蔵清酒試飲販売(山本本家・豊澤本店・鶴正酒造・平和酒造)

 

*蔵前の広場で、京都伏見の名産品と一緒に、辻しばの漬物も販売します

  和洋菓子・京野菜・京するめ・陶器・酒袋小物・塩昆布・生花・ガイド本などなど

お近くにお越しの際は、ぜひお立ち寄りくださいませ

よろしくお願い申し上げます

           


国道マニアの旅 ~303号線~

2013-12-17 10:18:13 | 妻!日記

前投稿からの話。

12月3日の休暇日に、前々から行きたかった国道303号線のドライブをしました。

 

国道303号線は、岐阜市(下の地図の右側)から始まり、

揖斐川町(右の黄色〇)~滋賀県木之本町~余呉湖(真ん中の〇)~今津市(左の〇)を経由して、

福井県の上中町が終点です。

(上部真ん中のYは、3つの県の境目・三国ヶ岳があります)

距離はそれほどでもないですが、3県にまたがる国道なので、ちょっとした旅気分が味わえます

ま、時間的に全踏破は無理だったので、揖斐川の道の駅まで行って、引き返すことにしました。

我が家からは、国道367号線から今津市に入り・・・

303号線へは、一番左の黄色〇から進入して、303号線の旅をしました。

 

目的地の揖斐川町は、木曽三川のひとつ揖斐川の源流地です。

琵琶湖の湖北側から揖斐川町へは、ちょうど井吹山の裏側(新幹線が通ってる方を表とすれば)

岐阜県・滋賀県の県境は、八草峠という昔の悪路(通称:酷道)

おそらく、ここら辺は分水嶺になっていて、大阪湾側と伊勢湾側に分かれるのではないかと思いますが・・・

この↓地図で見るとゾクゾクするような峠に、八草トンネルという長いトンネルが出来て、

ずいぶん走りやすい道になったようです。

(注:これは古い地図)

八草峠で検索すると、けっこう酷道マニアの方のページが出てくるので、有名だったようです。

 

こちらは、滋賀県今津市マキノ町、

琵琶湖の北端を過ぎて、もうすぐ福井県に入ろう、という地点です。

雨も降ってないのに、道路がびしょぬれで

なんでだろ~と思ったら、道路の端から融雪用のお湯?が出ていたのでした北国や~

しかし、いつもこんなに勢いが強いのか

バイクの人はすっかりびしょぬれになりそうですが・・・

 

琵琶湖の最北の余呉湖の横を通って、木之本町

旧街道に入り(走りやすい新道もありますがね)

お地蔵さんから右折

雰囲気が良いです

古い街並みを過ぎると、離合も難しい住宅地

ここから右折すると、八草峠・揖斐川町へ向かう山道に入ります。

山道・・・

でも道は広いので、走りやすい道

山間の集落がいくつかあり、すごく良い雰囲気です。

滋賀県といえば、琵琶湖ですが、

この辺は、琵琶湖周辺の集落とは違った趣があります。

ザ・山間部という感じです。

 

下の写真・もう八草トンネルの寸前ですが・・・

こちらの橋は、はるか下に川が流れているのかもしれませんが、

どちらかというと、山の中腹と中腹と結んでいる橋。

以前は、一山一山・・・峠道をグネグネ越えていたのでしょうが、

「ワープ」出来るようになって、ずいぶんと交通が便利になったことでしょう。

(旧地図・冬季閉鎖の文字がまぶしい)

で、八草トンネル・全長3025メートルです。

こういう長いトンネルは、中間地点とかに抜け道はあるのでしょうか?

トンネルを抜けると、そこはもう岐阜県です。(ほんとは、トンネルの中間部でしょうけど)

何の変哲もない山の景色が続くのですが…

すこし走ったところに、前投稿の感動の景色がありました

 (やっぱり日本は良い)

一度降りて、遊んでみたいです。

しかし、この辺の集落には・・・

どこの家にも、板が貼り付けられている

積雪への備えと見ましたが・・・

そんなに雪が降るのでしょうか?

京都大原もたいがい降るけど、どうも様子が違うらしい・・・

なんだか、こういう景色を見るのは、新潟以来です

 

で、目的地の道の駅「夜叉池の里 さかうち」に到着

ここら辺は山登りが楽しめるらしいです。

やはり雪はよく降るみたい

 

昼ごはんはダチョウ

 

若!はダチョウコロッケ丼・そばのセット

わたしは、ダチョウハンバーグ定食を食べました。

(1050円、安くはないけど、ボリュームたっぷりで

ダチョウとは、オーストリッチのダチョウです。

動物園に居るデッカイ鳥のダチョウです。

坂内地区では、村おこしの一環として、ダチョウを飼い始めたらしいです。

牧場もあるのですが、冬季は見学終了となってました。やっぱ寒いのね。

 

このハンバーグは、しっとり柔らかくて美味しかったです。

鶏肉の味でもないし、牛でも豚でもない味。

つなぎの工夫で美味しく食べれるのか分からないけど、普通に美味しいので、びっくりしました。

 

(こぼればなし)

持ち帰り用ハンバーグは150円でお手頃

少し不気味な見かけのサイコロステーキ用生肉も売ってありました。

まあ、いいか、と思って買わなかったけど、次男にこの話をしたら、残念がってました。

だから、年末にお取り寄せしようかなと思ってます。

もう、雪降ってそうで、行くのは大変なので

 

オーストリッチ(ダチョウ)の財布とか、皮製品もありましたよ。

東京の業者さんに加工してもらってるそうです。

財布は、2万~だけど、百貨店に売ってあるのより安いと思うし、なんといっても揖斐川産というのが素晴らしいですね。

仕事で頑張って、買いに行きたいと思います。

(実は、オーストリッチは私の憧れ  意外と成金趣味

 

道の駅から引き返して、帰り道~

山がきれいです

積雪・凍結・雪崩のため通行止めだそうです。

もしもの備えのため、でしょうが、雪崩があるの?

鉱山跡もあるのか・・・

行ってみたいです。

 

で、山道を下りて、滋賀県の木之本を散策しました。

市街地中心部の木之本地蔵院

かえるがトレードマークらしくて・・・

でっかいお地蔵さんの足元にも、小さなかえるの陶器が並んでいます。

お地蔵さんの鼻には・・・

鳥の巣が

くすっと笑えるけど、心温まります

お堂の横から・・・

御戒壇巡りをしました。

たぶん、お堂の地下部分がトンネルのようになっていて、

真っ暗な中をたどりながら歩いて行きます。

途中に、ご本尊の納めてあるところ?の扉のカギに触れることができ・・・

ご利益をもとめつつ、出口に進むようです。

 

御戒壇めぐりは、信州の善光寺でもしたことがありますが、

そこよりも、ずいぶん真っ暗で、長かったように思いました。

かなり手ごたえのある御戒壇巡りでした。(お化け屋敷じゃないけど

写真左手の書院風の建物にも入らせてもらいました。

お堂の裏手につながっていて・・・

ご本尊の後ろ側を拝むことが出来ました。

書院風の建物には、玉座の部屋がありました。

案内をちゃんと読みませんでしたが、明治天皇が行幸された時のものであると思います。

 地蔵院の入り口に明治天皇行幸の石碑がありました。

こじんまりと素敵な庭園がありました。

 

さて、地蔵院の外。

地蔵院入り口の向かい側・・・

 

ネーミングの素敵な店舗

かどにあるから、かどやさんかな

表のガラスの「がらたて」の文字が気になり、買い求めることにしました。

 

サルトリイバラの葉を使ったお菓子

長浜では、ポピュラーなお菓子だそうです。

サルトリイバラのことをがらたてと言うそうで。

柏餅で使われてるのも、この葉っぱですよね。(西日本だけ?)

私は、柏の葉より、こちらのほが馴染み深いです

歩いていたら、若!がトイレに行きたいと言い出しました

 

地蔵院のトイレが壊れていたし、他にどこにあるのか分からないし・・・

歩いていたら、「きのもと交遊館」という観光向けの建物があったので、とりあえず入ってみました。

ここでは、賤ヶ岳の合戦を中心とした展示がしてあって、ガイドさんにいろいろ教えてもらいました。

 

賤ヶ岳の合戦については、大谷吉継の小説で読んだことがありますが、賤ヶ岳周辺の地理や距離感が分からなかったので、いまいち臨場感が楽しめませんでした。

今回は、その疑問をガイドさんにぶつけて、ジオラマを見ながら、いろいろ教えてもらったので、もう一度読み直したくなりました。

砦があちこちにあったそうなんですよ。

現在放映中の映画「清州会議」の話題も出て…

(「賤ヶ岳の戦い」の前哨戦・・・織田信長没後の跡継ぎ決定のための会議⇒柴田勝家が羽柴秀吉にやり込められ、対立が決定的になった)

 

結局、このドライブ(12月3日)の翌週に、ふたりで「清州会議」を見に行きました

面白かったですよ。

三谷幸喜監督で、構成がわかりやすく、声を出して笑える場面も多く、退屈しませんでした。

子供でも分かりやすいと思うし、子達も連れてまた見に行きたいです。

 

さて、帰りに、つるやパンに寄り・・・

チョコレート風味のパンにハムカツがはさんであります

美味しいのか?ちょっと怖い

が、食べてみると、これが美味しかった

というか、名物のサラダパンとかノーマルタイプのサンドイッチより美味しい

これって美味しいので、これ目当てに買いに来るかも

ちなみに、パン生地には、つぶ胡椒が入っていて、けっこうピリピリします。

賤ヶ岳のほうの山を見ながら、パン食べて・・・

帰りは眠かったけど、頑張って帰京しました

 

 


観光シーズン明けの休み。

2013-12-04 00:22:13 | 妻!日記

おかげさまで、まだまだ忙しい辻しばですが

リフレッシュのため、今日は朝から若!とドライブしてきました。

 

珍しく、若!と意見が一致して、湖北の木之本方面に行くことに即決

おかげで、こんな感動の景色に出会えました

土管があるくらい

別に観光名所でもない場所。

那智の滝以来、見たことない長さの滝

 

ふっつーにありました。

びっくりしたので、車から降りて写真撮りました。

 

滋賀県から岐阜県に入ったところ。

たぶん、県境のトンネルの上に分水嶺があって、境からこっち(岐阜側)は揖斐川の源流になるのかな。

これは良い場所見つけました

 

 


クルシミマスがやってきた。

2013-12-02 22:37:18 | 妻!日記

ご無沙汰しております。

紅葉シーズン駆けぬけると・・・

一気に冬らしくなってきました。

 

仕事で忙しいのと同時に、我が家は毎年忙しい季節です

怒涛の誕生日ラッシュです

若!の誕生日から始まって、4日飛ばしに誕生日が続きました。

長女のケーキに・・・

次男のケーキ

すっかり財布がスッカラカンです

 

でも、今回初めてケーキ屋さんにわがまま言ってみました

うちには、イチゴの嫌いなやつが一人居ますので、

「どうか中のイチゴを抜いてもらえませんか?」と・・・

 

余計なことを言うのは苦手ですが、言ってみると、ケーキ屋さんもいろいろ心配してくださって、

今までになかったコミュニケーションが取れて

こういうのって良いかも

10年来通っている(誕生日の時だけ)ケーキ屋のおじさんですが、会話らしい会話は初めてだったかも・・・

勇気を出してみるのも良いことですね。

 

で、いつもはイチゴが食べれないから、別口のケーキを食べて過ごしていた長男も一緒に食べることができて

こっちも「イチゴの匂いぐらい我慢せんかい!」とか強要しなくてすんだし・・・

おかげさまでハッピーなひと時が過ごせました。

 

誕生日ケーキ&プレゼント

クリアーした 

次はクリスマスだ

そして、長男誕生日、お正月・・・

クルシミマスがしばらく続きます。

(と言いながら、奉公?続けるのも、しょせんは親バカでしょうか

 

 


山口旅行 その7 萩本陣と朝のお散歩。

2013-11-10 21:13:34 | 妻!日記

「山口旅行 その6」の続きです。

3月27日朝の出来事・・・

 

萩でのお宿は、萩本陣という温泉宿でした。

他にも安くて良い宿はたくさんあったけど、

私の妄想・・・どうしても朝のお散歩で松本村を歩きたい、という

つまらん夢のために、結構高いお宿に泊まりました。

 

旅行に行くと、枕が違うためか、朝はや~くに目が覚めました。いつものこと

船旅で疲れていたけど、やっぱり5時台に目が覚めてしまって・・・

朝風呂に行きました。

風邪が治りきってなかったために、体がのぼせたようになっていたけど、

風呂に入ったら、さっぱり元気になったので、やはりお散歩にいきたくなりました。

 

松本村は、吉田松陰公の生まれ育った場所です。

もちろん、松下村塾・松陰神社も松本村です。

萩本陣の場所も、おそらく松本村(川をはさんでいるから微妙だけど)

ほんのすぐねきです。

  お宿からの景色

 ↑ 松陰神社はこの辺        ↑ 萩城のある指月山

家族4人は起きそうにもなかったし・・・

6時半、こそっと部屋を抜け出し、松本村のお散歩へと出かけました。

 

しっかし

もう、6時過ぎたら、宿は始動しているもの、と思っていましたが、

(お風呂は入れた)(冬時間というのもあるかもしれない)

フロントはまだなのですね。

かろうじて警備員さんらしき方がいたので、お散歩の旨を伝えて、出かけました。

 

外に出ると、雨

けっこう降っている

 

部屋に戻りたかったけど、かなり面倒くさかったので、

フロントで傘を借りて行きました。

 

てくてくてくてく

宿は高台にあるから、とりあえず、下の道まで坂道をくだり・・・

一般道に出てからは、まったく距離感がないから不安なんですが、

とりあえず、地図を見て、こっちかな、という方向に歩いて行きました。

人の歩いていない時間に、知らない土地でうろうろしていたら、不審がられそうで嫌なんですが、

そういう人通りもなくて寂しい・・・

 

5分ほど歩くと、萩藩主の菩提寺の東光寺前に到着

 もちろん閉まってます

ちょっと隙間からのぞいてみると・・・どきどきしますね。

東光寺の向かいの畑でおばさんが草引きをしてはって、会話

寂しいときの、こういう挨拶は心に残ります

ちょっと松本村に馴染んだ気になり、元気が出ました。

東光寺の横から松陰神社方面に向かい道には、民家が並んでいます。

こういう一般ゾーン?を早朝にうろうろするのも、不審者っぽくてドキドキします。

レキジョっぽいかな

 

少し行ったところに・・・

松陰公のスパルタ叔父さん・玉木文之進の家がありました。

スパルタで有名、というのも気の毒な感じですが

幼少時の松陰公が・・・

叔父さんの講義中に、汗をかいて、ハエがブンブン飛んできて、かゆかったから、顔をかいたら・・・

「公私を混同するんじゃない」と無茶苦茶にぶん殴られて、どつかれたという。

母親がその姿を見て、「いっそお死に」といったくらいだったから、よほどの凄さだったのでしょう。

松陰には、二人の叔父がいて・・・

ひとりが玉木文之進さんで、もう一人が吉田大助さん

この方は、代々兵学師範を務めていた(だったかな)吉田家に養子に入るものの、早世してしまったので・・・

亡くなる前に、幼少ながら出来のいい松陰に目をつけて、吉田家の跡を継がせた、そうです。

吉田叔父から直接指導を受けることは少なかったと思いますが、

その意を受けた玉木叔父から熱い指導を受けることになったという・・・

 

で、玉木文之進旧宅から左折して(T字路になってます)

山のほうにまっすぐ上がって行くと・・・

民家もなくなって、ミカン畑とか、霊園とか、寂しい

でも、体は快調なので、頑張って歩いて行きますと・・・

何かありげなところに到着

吉田松陰の実家の杉家や吉田家・玉木家、

そして、デラックスなことに、高杉晋作や久坂玄瑞のお墓まで

 向かって右側

一族のお墓が集まっており、

左側に吉田松陰公のお墓が・・・

階段を上がって行くと、ほぼ正面に松陰公のお墓があります。

 「すみません、失礼します、写真撮らせてください」と言いながら、お参り

 

御賽銭入れのところには、線香入れもあり、缶の中に、お線香とマッチがありました。

ありがたいです萩市の観光?はサービスが良い

積もる思いを晴らすのに、線香につける火がなかったら辛いですね

 

相変わらず、雨がしとしと降る中、早朝に墓場にいるのは怪しげですが、

こちらから市街の眺めは最高でした

 桜がいっぱい

松陰公の死後、何の思いか、高杉晋作が ↑ この地に庵を結び、生活している時期がありまして・・・

                   東行庵の石碑が立っていました。

 

お墓の横は、松陰の実家・杉家の跡地があり、銅像が建っていました。         

松陰の横に座っているのは、一緒に海外渡航を図った金子重之輔だったかと思うけど、違うかな。

金子は、身分が低かったので、投獄中にひどい扱いを受け、江戸から萩に護送される際にこじらせた風邪がもとで亡くなってしまいました。

松陰は嘆き悲しみ、野山獄での食費を削ってためたお金で、金子の墓を建てました。

あなたは一体どこを見ているのか・・・

 やっぱりきれいです。

静かな、杉家実家跡地

地図で見ますと、緑の十字路の左側が松陰神社の敷地です。

  赤いマーク ↑ が現在地です。  ↑ 見えにくいけど、矢印の上のほうの温泉マークが萩本陣です。

 (敷石?がしてあるところが杉家跡)

うわさに聞いてましたけど、杉家の建物は、想像以上に狭かったです。

昔の人は小柄だったのかな。

それにしても、ここに父母妹たちと一緒に住んでいたなんて、半信半疑です

 奥から見たところ

 松陰の産湯の井戸もありました。

ここは、松陰の人柄のように穏やかな場所で良かったです

桜もきれい

この景色をひとり占めなんて、贅沢ですね~

 

帰路

松陰神社に向かう途中に、吉田稔麿の誕生地がありました。

ちなみにお墓は、京都岩倉の三縁寺にあります。

どんな人か分からないけど、奇縁ですね。

 

そして、朝の松陰神社。

神社の人しかいないので、ひときわ静かです。

あやしい観光客です

誰もいない・・・

居るのは、怪しい私だけ。

 

萩本陣に帰ったら、みんな起きていて、さっそく朝食バイキングに行きました

運動後の食事は旨いっ

料理は普通だったけど、バターロールがムチャクチャ美味しくて、食べ過ぎだけど、おかわりいっぱいしました

 部屋の眺望指定はしなかったけど、

心の中で希望していた・・・市街地側のお部屋に泊まれて、うれしかったです

 

松本村のお散歩が素晴らしかったので、

「おすすめ~」と行って、家族を連れて、もう一度、松陰一族の墓地にお参りに行きました。

子達よ、松陰公にあやかれ

って、期待しすぎかな

 

お墓の次は、市街地方面に向かい・・・

 金子重之輔が投獄されました

岩倉獄と野山獄の散策

色気ないなあ~ でも、どうしても行きたかったの 付き合ってくれた家族よ、ありがとう~ 

 岩倉獄は、武家身分でない人が投獄されました。

その向かいに、野山獄

 こちらは、武家身分の獄

松陰らが投獄されました。

野山獄では、松陰が他の囚人たちと互いに知識を教え合い、松下村塾の下地が作られました。

野山獄から実家に戻った後、出会った囚人の一人・富永有隣をヘッドハンティング(出獄願い)し、松下村塾の講師として迎えました。

(嫌われ者で扱いに困ったため、投獄されていたそうですが、松陰は嫌いじゃなかったようです。そういう話もほのぼのします。)

 

こちらも、杉家旧宅と一緒で、どう見ても小さいです

 

~ ~ ~  つ づ く  ~ ~ ~

一応、次回で最終回だけど、長引いたら、延長します

 

 


山口旅行 その5 ついに松下村塾に来てしまった!

2013-11-03 21:45:53 | 妻!日記

ああ恐ろしや!

山口旅行 その4」(5月27日投稿)の続きです

春休みの旅行の話をいつまでやるのか…

その7か8で終わらせるつもり、です。

年内には終わらせたい⇒仕事が忙しくなる前に、投稿済まさなければ・・・

いい加減、途中放棄したいところですが、次回投稿からが、ようやくこの山口旅行の目玉なので、ぜったいに書き上げます

 

え~と、復習しますと・・・

3月25日のお昼に大原を出発して、夕刻 大阪南港でフェリーに乗船

3月26日の早朝に新門司港着 門司~下関~長門

青海島遊覧船観光ののち、念願の萩市内へ

 

萩にて一発目は確か岩川旗店さんという名前のお店でお買いもの

昔の大漁旗のアレンジの・・・

おしゃれな柄のハンカチと斜め掛けカバン カードで一万円也

京都で一澤帆布に行くのと同じ感覚

 

そして、松陰神社

やっと来た来た来た

尊敬する吉田松陰公の祀ってある神社

 (以下、敬称略)

「親思ふ こころにまさる 親ごころ けふの音づれ 何と聞くらん」 松陰の遺作 

 

そして、明治維新の原動力となった松下村塾あと

胸がつまって、うまいこと言えませんが、

今まで私がいろいろと勉強してきた中で、一番衝撃と感動を受けた事象・・・

全世界的な流れの近代化・近代革命という出来事でした。

世界史で勉強したピューリタン革命とか、フランス革命とか、いろいろありますけど・・・

 

人々が、自然や科学的事象について、宗教や神と切り離して考えるようになった時、

それが、すなわち近代への目覚め、かと思いますが、

(たとえば、地震とか雷などが、神の怒りではなく、あくまで自然現象であることに気が付くこと)

科学的・産業革命的発展を経て、人々は、封建社会の・・・人が人を支配するということに疑問を抱くようになります。

(宗教や身分制度での特権⇒あくまで実力主義 つまりOO身分の誰々さん、ではなく、誰々さん個人として評価する動き)

封建制度の中で自由に動きのとれない鬱屈がストレスとなり、怒りとなり、爆発的変動へのエネルギーへと変化し、各地で政治的な近代革命がおこりました。

(こんな説明で良いのかな)

 

そういうことが、ごく一部の優れた人の間でのみ行われたのではなく、おおかた普遍的に世界各地で起こった・・・

ということに、私は、非常に感銘を受けたのです。

単に外国の優れた部分を簡易的に導入した、という無機質な出来事なのではなく、

人間の体の中・感情の中で、様々な葛藤や拒絶反応も経ながらも、痛いとか・かゆいとかいう感覚と同じように、

「何かを変えなければ」という革命的エネルギーが湧いてくる・・・

そういうことに、わたしは感動したのです。

 

でも・・・

日本の中では、そういうことはあまりなかったのかな・・・

明治維新も、単なる外国文化の移入なのかな・・・と、日本史勉強不足の私は思っていたのですが、

幕末や明治維新について、いろいろ読み込んでいくと(ほとんどが司馬遼太郎ですが)、

日本にも、やっぱり「近代革命」があったんだ、ということが分かってきたのです。

 

日本の場合、江戸時代、鎖国しながらも、オランダや中国から科学的・先進的な知識の移入がされ、近代革命の下地も出来つつあったのですが、

爆発的変動のきっかけとなり、その変動のエネルギーに火をつけたのは、「ペリーの黒船」でした。

「外国がやってきたら、日本は大変なことになる。

 日本も、中国のアヘン戦争の二の舞になってしまう。」

(中国は、戦争に負けて、不条理な降伏条件の下ですっかり骨抜きの状態にされていたのでした)

鎖国をして二百年、太平の世となり、国防に関して、すっかり無防備な状態のこの国が、請われるまま開国してしまっては、どういうことになるのか・・・

そういう危機感が、江戸幕府の締め付けに対する鬱屈・堕落した権力への疑問をも露呈し、

もはや止めようのない爆発的なエネルギーを生み出すことになったのでした。

 

吉田松陰も、隣国のアヘン戦争のことや昨今の外国船襲来騒ぎのことを伝聞し、非常に危機感を持った一人でした。

彼は、長州藩の兵学師範となるべく、幼少時から叔父の玉木文之進から超スパルタ教育を受けてきました。

公人としての自分を律する姿は、ストイックなまでに厳しく、30歳で亡くなるまで、色恋に目を向けることもなく、ひたすら日本の将来について案じて過ごしたのでした。

 「婦人のよう」と形容されたように穏やかな人柄の松陰でしたが、その生涯は波乱に満ちたものでした。

 

とにかく、投獄歴がすごい

 

一回目は、東北遊学のための脱藩騒ぎ。

これは、もう少し待ってれば、藩主のお墨付きで堂々と遊学できたものを、許可を待っていては同行する友達との待ち合わせに間に合わないから、という理由で、脱藩して東北へ・・・(藩主への忠義に背く行為ですから、当然重罪です)

このときは、投獄までは行かなかったかな。自宅謹慎みたいな形で帰郷します。

 

二回目は、海外渡航騒ぎ。(鎖国なので、海外渡航はご法度です)

再度到来したペリーの黒船に頼んで、アメリカに連れて行ってもらうように頼みました。

(これは、敵国のことを詳しく知って、今後の対策を練るため、との理由で。ペリー暗殺計画があったとも言われてますが)

下田から、小船をこいで、黒船に近づいていったのですが、日本との関係悪化を懸念したアメリカ側に断られました。

んで、仕方がないので、下田の役所に「海外渡航するつもりでした」と自首して(この辺がちょっと変わった人)、

江戸の伝馬町獄(生きては出られないとの悪名高い)に送られました。

長州に戻された後も、野山獄という武家専用の牢獄に収容され、一年以上獄中で過ごしました。

 

松陰は、旅先だろうと、獄だろうと、話せる人があれば、憂国の思いを説き、集っていました。

野山獄の中でも、同じ囚人たちや藩の番人までも巻き込んで、勉強会を開いていたといいます。

上下関係を持たず、横並びでお互いに知識を教えあい、ともに高めあう、という、松下村塾の下地ができた時期でもありました。

 

松陰は、生まれながらにして陽気な性格で、周りの人を和やかにする魅力があったようです。

当初はすさんでいた野山獄の雰囲気も、次第に明るく前向きなものになりました。

 

そして野山獄を出て自宅に帰ることを許された彼は、近所の子供たちのための塾を開きました。

藩の重罪人がひそかに開いた小塾でありながらも、ひと伝えに評判が広がり、敷地を増設するほどの人気振りでした。

松下村塾の建物には、松陰の教え子たちの肖像が飾られています。

弟子第一号を誇る?木戸孝允や、高杉晋作・久坂玄瑞、伊藤博文・・・

「至誠にして動かざる者は 未だ之れ有らざるなり」 という中国の古書「孟子」の中の言葉・・・生涯をかけて弟子に説き続けました。

松下村塾では、外国の脅威から、いかにして日本を守るべきか、という議論が重ねられていました。

尊皇攘夷主義といえば、型にはまってしまいそうですが、国の未来を築くための誠実なる議論かと思うと、今の時代でも共感できる部分がたくさんあります。

外国の言いなりにならない、自立した国であるために・・・

この長州の小さな塾から、日本の近代革命のムーブメントが沸き起こったのでした。

しかし、井伊直弼の強権政治の情報を聞き、次第に松陰はヒステリックな行動をとるようになりました。

弟子たちの諌めも聞かず、松陰はひたすらに幕府への政治批判を行い、その過激な姿を見て、人々が避けるようになりました。

「皆僕と所見違ふなり。其の分れる所は僕は忠義をするつもり。諸友は功業をなすつもり」

松陰は孤独とも戦い続けました。

 

松陰を可愛がっており、甘い態度でいた長州藩も、次第に扱いに困るようになり、再び野山獄へ投獄しました。

(幕府に検挙される前に、先手を打っておいた)

野山獄では知人も多く、それほど不自由することなく過ごしておりましたが・・・

時は、安政の大獄。

小浜藩の梅田雲浜の供述から、幕政批判の容疑がかかった松陰は、江戸の伝馬町獄へと送られることになりました。

幕府の評定所での裁きでは、大老・井伊直弼の魔の手があったにも関わらず、ほぼ無罪の判決ですむ方向となったのですが・・・

根っからのお人よしで楽天家の松陰は、せっかくの機会だからと、幕臣たちの前で憂国の思いを説き、ついには、幕政批判・・・

誘導尋問によって、老中・間部暗殺計画についても自白することになってしまったのでした。

(暗殺計画といっても、机上の妄想、というか、仲間を募ってもあまり相手にされなかったんですけどね)

この自白により、松陰は重罪人として、ついには処刑されてしまいました。

 

愚に愚を重ねた幕府の弾圧・・・

シーボルト事件や蛮社の獄に安政の大獄

松陰のほかにも、数々の日本の知識人が亡くなりました。

(鎖国下でも、細々と外国から移入され、培われてきた近代化の源は、大部分失われてしまいました

 

その後の反動としての動き・・・桜田門外の変での井伊直弼の暗殺を契機に、どんどんと近代革命が進んでいきます。

京での天誅事件の多発、開国後の外国人殺傷事件とその報復としての薩英戦争や下関砲撃、蛤御門の変や長州征伐・・・

 

多くの血が流れ、それらの犠牲の上に、現在の日本が築かれました。

彼らの理想に掲げたような日本になるためには、あまりに犠牲が多すぎたのか、明治維新後も紆余曲折がありましたし、後には愚かな軍国主義の台頭も生みました。

(吉田松陰の勤皇主義も誤った形で扱われたようです

 

いまの日本・・・

松陰たちの思ったような日本にはならなかったかもしれません。

しかし、今の私たちは、たいした不自由もなく、幸せに暮らしていける・・・

それは、やっぱり、この時代の人たちのおかげだなと思います。

 吉田松陰の遺書である「留魂録」には、人の一生を四季(春夏秋冬)に例えて、彼の人生観を表した一節があります。

 

「何となれば人寿は定りなし、禾稼の必ず四時を経る如きに非ず。十歳にして死する者は十歳中自ら四時あり。・・・五十、百は自ら五十、百の四時あり。」

人の寿命には定まりがない。農事が必ず四季をめぐって営まれるようなものではないのだ。しかしながら、たとえ10歳で死のうと100歳まで生きようと、各々にふさわしい四季が備わっている。(早く亡くなるということが、惜しむことではない。やはり花が咲き実りを迎える時には変わりがないのだ。)

「義卿三十、四時己に備はる、亦秀で亦実る、其の秕たると其の粟たると吾が知る所に非ず。」

私の三十歳の人生においても、四季はすでに備わっている。

種をまき、芽が出て、花を咲かせて、実が実る。

その実の中身は、豊かな実りであるか、さてはもみがらだけであるか、分からないけれど・・・

「若し同志の士其の微衷を憐み継紹の人あらば、乃ち後来の種子未だ絶えず、自ら禾稼の有年に恥ざるなり。」

若し私の志を受け継いでいこうという人がいるならば、それは、まかれた種が絶えずに、年々実り続けて行くことと同じで、収穫があった年に恥じないことになるだろう。

                                    古川薫 全訳注 「吉田松陰 留魂録」 より

松陰神社の横には、塾生・門下生を祀った松門神社がありました。

こちらが松門神社の鳥居。

ああ、春休みの話…桜が咲いてるわ

 

山口旅行の話は嫌でもまだまだ続きます

~ ~ ~  つ づ く  ~ ~ ~


近江湖北・国友村と木之本。

2013-11-02 22:03:24 | 妻!日記

9月24日のこと。

休暇日に、滋賀県に行きました。

どこに行こうか、いろいろ考えたけど、湖北に行ってみることにしました。

 

実は下調べしてて、どの段階で若!を誘おうかと思ったけど、

とりあえず、近江八幡方面に車を走らせ・・・

湖周道路、彦根を過ぎたころだったか、長浜まで来た時だったか、やっと口に出して・・・

「国友の鉄砲資料館に行きたい」と言いました。

地味ですね・・・

「あ~またそっち系か」と思われるのもシャクだし、なんか気をつかうんですよね

 

でも、ずっと行ってみたかったんですよ。

国友。

そう(といっても、どのくらい周知されてるのか)

国友といえば、鉄砲。

ざっくり言えば、大阪の堺や紀伊の根来と並んで、鉄砲鍛冶で栄えた村。

大河ドラマとか歴史小説には、出てきますよね~、結構・・・

「結構出てくる」ていうのが微妙なところで、なかなか「さあ行ってみよう」くらいテンションが上がらないのですが・・・

久々に、長浜以北の琵琶湖岸にやってきましたので、一足伸ばして、国友村にやって来ました。

(現在は長浜市国友町)

 

湖周道路、長浜城過ぎたあたりから、国道8号線方面に向かい、

8号線を横切ってからは、中のこまごまとした通りを地図に従って進みます。

国友町の中は、こういう感じの古式豊かな雰囲気の集落になっており・・・

 メインストリートに現在も国友姓の方々が軒を連ねています。

資料館は、集落の中心らへんにありました。

国友鉄砲の里資料館

こじんまりだけど、きれいで、駐車場があって、最高です

国友には、その歴史ン百年、有名無名の鉄砲鍛冶が沢山いたようですけど、

私が会ってみたかったのは、国友一貫斎

そう(といっても、どのくらい周知か?)昨年の新聞朝刊の連載小説の「夢をまことに」(山本兼一著)の主人公です。

幕末に活躍した鉄砲鍛冶ですが、世界の近代化の刺激を受けて、様々な発明をし、東洋のエジソンと呼ばれた人物です。

今の筆ペンの原型と言えるのか、懐中筆を発明したり、外国の風砲を模して作った空気銃「気砲」や魔境・・・

そして、最大の発明と言えるのが、グレゴリー式反射望遠鏡の製作です。

外国から伝わった望遠鏡を解体して、見よう見まねで、自分の持った鍛冶技術などをフル活用し、何年もかけ作り上げたそうです。

一番難しかったのが、磨かなくても曇らない鏡を作ること。

(今では、当たり前ですが、昔の鏡は、磨かないとすぐに曇ってしまうそうです)

鉄とか錫とかの配合を変えてみたり、気の遠くなるような失敗の繰り返しを経て、やっとのこと、作り当てたそうです。

それからは、小さなものを大きく見せる(望遠の)ためのレンズの屈折・・・

あ~これもまったく知識ゼロから探し当てるんですから、気が遠くなりますね~

つまりは、国友一貫斎という人物は、優れた鍛冶技術・知識の持ち主であると同時に、すごく気が長くて、忍耐強くて、きっと気分転換も上手で、モチベーションのコントロールの上手かった人ではないかと思います。

大人物ですね。つまりは。

(小説は、一読の価値あり!単行本化を待ち望んでいます!)

というわけで、会ってみたい人物の一人、国友一貫斎さんのお屋敷に行ってみました。

現存しており、現在も子孫の方かな?住んでおられます。

お屋敷には、素晴らしい一本松があり、すごくパワーを感じました。

私の携帯の待ち受け画面にさせていただきました

立派です。

一貫斎屋敷跡の向かいは、辻宗範生家跡

メインストリートのほとんどのお宅に、「国友〇〇屋敷跡」とか書いてありました。

今も、形が残っている、というのが、すごいですね。

 

メインストリートを北向きに行くと、じきに姉川に出ます。

この先が、きっと姉川古戦場の跡。

大河ドラマ「功名が辻」でやってたけど、主人公・山内一豊が生き残ったのが信じられないくらい、すごい戦い。

織田信長対浅井長政、でしたっけ?どうだっけ?

夜は通りたくないな、という印象。

まあ知らなかったら、普通の清々しい川です

 

で、国友と姉川を後にし・・・

せっかくなので、頑張って、最湖北・木之本までやって来ました。

ここまで来ると、近江・北陸・美濃の分岐点、という雰囲気です。

何もない町かと思っていましたが、国道は大型トラックの往来が激しいし、商店街は宿場町のような趣があります。

来年の大河ドラマ主役の黒田官兵衛の黒田家ゆかりの地であったり、近くが賤ヶ岳古戦場ということで、にぎやかしく旗が揺らめいています。

そして、もひとつ、全国的知名度で有名なのが、こちら・・・

つるやパンのサラダパン

懐かし系パン屋さんです。

この日の朝刊折込の情報誌にも、サラダパンのことが載っていて、湖北に出かけるきっかけになりましたね。

たまらない懐かし系です。

 サラダパンは、普通に美味しかったですよ

ノーマルな味の沢庵がマヨネーズであえてありました。

くさい沢庵だとびっくりするけどね。

 

それよりびっくりしたのは、上の写真のサンドイッチシリーズで、

チョコ味のパンにハムがはさんであるの・・・

これは勇気がなくて買えなかったわ。

次は買ってみよう。

 

私的には、木之本から揖斐川に抜ける国道が気になったので・・・

(以前にも、無性に踏破したい時期があった)

今度は、できたら泊りがけで行きたいなと思いました。

 

(もうひとこと)

地図を見るのって、好きなんですよね。

JR時刻表と一緒で、見てると時間を忘れます

 


大久野島 ~広島 その2~

2013-09-11 15:09:47 | 妻!日記

お盆の広島帰省

2回目の遠出は、瀬戸内海の大久野島

前回・お正月は、休暇村に泊まったけど、今回は節約

 

日帰りで行ってきました

うちからは、最寄駅から鈍行列車で約2時間かかります。

下車してからは、港に移動して、フェリーに乗ります。

今回は、大久野経由で愛媛県の大三島(隣島)まで行くフェリーだったので、大きかったです。

 

着いて、休暇村でお昼ご飯を食べた後に、自転車を借りてサイクリング・・・

見た目爽やかですが、かなり暑いです

         ↑ この人はすごく機嫌が良い

なぜなら、お目当てがあるから

 うさぎちゃん

たぶん、春に生まれたところかな。

かなり自転車にひかれそうになって、近づいてきました。

島のはずれにいたから、お腹が空いてるのかな。

とりあえず、島一周し・・・(約40分ほどかな)

休暇村に戻って、うさぎの餌を買って、もう一周しました。

暑いので、あまりうさぎの姿を見かけないのですが、

島ハズレに行くと、エサが少ないためか、もらえるのを待って?表に出てきています。

島の展望台にも登りました。

数百メートル上り坂を行きます。

判断間違ってたかという位辛かったのですが、頂上の景色は素晴らしいです

きれいだけど、バテテます

さすがに、展望台はかんかん照りで、ウサギはいませんでしたが、

展望台下の影には居ましたよ

だんごになってます

可愛い

うさぎの餌は、一人分紙コップ一杯分だったのですが、

5人分もらうと、小さなレジ袋いっぱいで、大変でした

 

二時間のレンタサイクル返却後、海水浴をして・・・

帰りは、残りのエサを、海水浴場の横の神社にたむろしていたウサギに全部あげました

こっきり17時頃まで遊んで、帰途につきました。

 

帰りのJR・・・

行きと同じ行程で帰ろうと思ったら、すっかり乗り遅れてしまって

(本数が少ないんです)

結局、反対方向の三原まで出て、新幹線に乗って、帰りました

贅沢な日帰り旅行になってしまいましたね~

楽しかったけど

怒りン坊の次男の癇癪が起こらなかったから、ハッピーかな~

 


わたし的・鞆の浦。

2013-09-07 16:36:56 | 妻!日記

広島県福山市にある鞆の浦・・・

わたし的には、歴史あふれる街、というイメージですが、

近頃はすっかりポニョの街?

そして、今回(8月12日)の福山駅発・鞆の浦行きのバスは、夏休みということで、観光客に混ざって、海水浴客みたいな若者グループも多かったです。

雑多!(良い意味で)

 

今回は、終点のひとつ前のパス停「鞆の浦」で下車して、山中鹿之助首塚に一番近いコースをとることにしました。

表のバス通りから、手前に戻り、味のあるスーパーのところから路地に入って、沼名前神社にまっすぐ向かうコース・・・

 

道は基本的に真っ直ぐなのですが、

中間地点あたりで・・・

 

教習所であるようなS字クランク。

なんで真っ直ぐでないのでしょう。

軽自動車でも、結構曲がりにくそうでした。

神社の参道と思われますが、基本的には住宅街。

でも、ずっと石畳が敷かれていますから、すごい!(すぐにソロバンはじいてしまう悪い癖

やはり名の通った名勝地だなと思います。

 

で、沼名前神社→首塚、と向かう前に、昼食。

暑い季節、子供のストライキを予測した保険のようなものです。

かなりこじんまりした食堂でしたが、アットホームな雰囲気で良かった。

ご飯も丁寧で美味しかったです。

 

そして、神社に向かいます。

どういう由緒のある神社か知りませんでしたが、ガイドブックには必ず出ているし、とても有名な神社らしいです。

すごく広いです。

登った先には・・・

良い景色

 

階段下にある、こちらの鳥居は少し変わっています。

 

さて、神社の門前から港側(メインの観光地)に向かう道は寺町のようになっていました。

そこここに古そうなお寺が建っています。

ここも、クランク。

クランクの先に、お目当ての山中鹿之助首塚がありました。

山中鹿之助さん、すごい人です。

戦国時代、毛利に滅ぼされた尼子氏の家臣でしたが、再興を願って、挙兵しました。

捕まっても、すさまじい手段で脱走し、また兵を募りました。このへんの話はすごいです。

(亡くなるまで、3回のお家再興を図りました)

赤痢を装い、トイレに百回以上通って、敵を油断させたところで、肥溜めから脱走したそうです。

「願わくば我に七難八苦を与えたまえ」と月に祈った人、といえば、ご存じの方もいるでしょうか?

最後は、毛利攻めをする織田信長の先方となって戦かっていましたが、ついには落城の憂き目に・・・

捕えられ、鞆の浦の毛利輝元の陣中まで護送される途中、だまし討ちの目にあい、殺されました。

(通常、位の高い大将の命は保障されていましたが。)

山中鹿之助の子孫は、鴻池財閥だそうです。

息子か孫が、偶然どぶろくから清酒を発明し、財を成したとか、小説に書いてあったけど、実話ですかね。

歴史って面白い。

 

そうそう、↑ 上の看板見て、思い出しました

織田信長から疎まれ、京都から追い出された形の足利義昭は、毛利氏をたよって、ここ鞆の浦に滞在していたのでした。

なにげに鞆の浦って本当にすごい!

陸路をとらない、時間短縮をねらった移動手段をとった人は、ほぼ鞆の浦を経由していたと思われますから、

ここに来たら、そういう意味で、いろんな歴史的著名人に出会えます。

(太平洋経由だと、ジョン万次郎のように嵐に遭って漂流の危険も多分にありました

 ちなみに、鹿之助さんはかなりのイケメンだったそうです

ウイキペディアを調べたら、こんなことも分かりました

直系の子孫の方には、広島市出身の女性で、昭和初期に、アメリカから日本にパーマを伝えた美容師さんがいらっしゃるそうです。

そのようなご縁もあって、鞆の浦の他にも、広島にはあと2か所、山中鹿之助の供養所があります。

 

ここは地味なスポットでしたが、力が入りました。

ここも、総石畳

石垣も素晴らしかったです。

この辺は、観光地的には地味ですけど、ゆっくり散策するには良いですね。

写真・絵画の題材には事欠かないと思います。

ひとつ難を言えば?電線がむき出しなので、どうやっても写真に入り込んでしまいますが、

それもご愛嬌でないかなと思います。

昭和的風景には欠かせませんものね。

 

さて、とにかく暑い中、地図を見い見い、次のお目当て、平賀源内生祠を探してましたが、見つかりません。

行きすぎて、戻ると、ようやく入り口の路地を発見しました。

      ↑ これが道しるべ

道しるべがなかったら、入るのを躊躇しますね

でも、わくわくする道。

ここを50~100メートルほど上がったところに、ありました。

向かって、上の部分が入口で、手前が生祠の敷地です。

民家の畑の横にあります。

 なんと地味なスポット

平賀源内が鞆の浦滞在中に、源内焼という陶器の製法を伝えた、

その業績をたたえて作られた祠のようです。

生きながらにして、神としてまつられました。

 良い景色のご褒美付き

この辺は、昔ながらの港町情緒がそのまんま残っていました。

あちこちに、小魚をさばくお店があります。

小さい道なのに、結構交通量多いし。

私が見た限りでは一番旧式の設備のパン屋さんとか、

道から海に向かって、通り抜けの出来る(軒下利用というのか)昔ながらの商店があって、感動しました

 

生祠の辺の集落から、海辺に沿って進むと、次第に賑やかになってきます。

 

鞆の浦名物保命酒の建物。

このへんから、観光地スポットです。

ここがメインストリートの常夜灯からの景色です。

前回行った、龍馬のいろは丸記念館の横。

先ほどまでとは、うって変わって人が多いです

 

幕末の八・一八の政変後の七卿落ち

京都から追放され、九州方面に向かった、尊王攘夷派の公卿たち・・・

三条実美らの滞在した商家です。

 大田家住宅、行きたかったけど、お盆のため、休館してました。残念。

鞆の浦も、時代の変わり目には、様々な論議・謀略でひしめき合っていたことでしょう。

瀬戸内海の真ん中に位置して、潮待ちの港として知られた鞆の浦。

まだまだ掘り出し物がありそうです。

次回にも期待(いつ行くのだろう)


お盆休みは・・・(といっても、辻しばは営業してましたが^^;)

2013-08-19 10:57:26 | 妻!日記

しっかり遊びました

バリ島ライステラス・・・( ↑ ガードレール、トリミングすべきだった

と言いたいところですが、とある場所の棚田

この夏の仕事は、ひたすらパソコン、デスクワークでしたが、

体は疲れてませんでしたので、ひたすら遊びまくりました。

 

初日の福山・鞆の浦

今回は、暑いけど、お目当ての場所はすべて見れました

山中鹿之助首塚と平賀源内生祠です

ポニョじゃないです。

でも、宮崎駿監督は、鞆の浦の懐かし系の街並みが気に入られて、長期滞在されたそうで・・・

すごく気持ち分かります。

私にオモチャのカメラ(一眼レフ持ってないけど)持たせたら、無言で一週間は暮らせるでしょうね。

 

ぼちぼち投稿→では、いつのことになるか分かりませんので、暇なうちに、すぐに投稿します~


お盆休みは・・・(といっても、辻しばは営業してましたが^^;)

2013-08-19 10:57:26 | 妻!日記

しっかり遊びました

バリ島ライステラス・・・( ↑ ガードレール、トリミングすべきだった

と言いたいところですが、とある場所の棚田

この夏の仕事は、ひたすらパソコン、デスクワークでしたが、

体は疲れてませんでしたので、ひたすら遊びまくりました。

 

初日の福山・鞆の浦

今回は、暑いけど、お目当ての場所はすべて見れました

山中鹿之助首塚と平賀源内生祠です

ポニョじゃないです。

でも、宮崎駿監督は、鞆の浦の懐かし系の街並みが気に入られて、長期滞在されたそうで・・・

すごく気持ち分かります。

私にオモチャのカメラ(一眼レフ持ってないけど)持たせたら、無言で一週間は暮らせるでしょうね。

 

ぼちぼち投稿→では、いつのことになるか分かりませんので、暇なうちに、すぐに投稿します~


一言だけお願い。

2013-06-16 17:35:06 | 妻!日記

洛北岩倉・実相院奥にある石座神社の境内・・・

一言神社の小さな社があります。

 (左側奥に見えてるのが石座神社の本殿)

隠棲中の岩倉具視公がしばしば参拝していたそうです。

たぶん両側の灯籠が岩倉家から奉納されたものでしょう。

私も一言だけお願い。

こういう時は、可愛らしい(笑)お願いをします。

「今年も紫蘇がちゃんと育ちますように。」

 

空梅雨。

きのうおととい、ようやく解放されました。

もうちょっと降ってくれても良かったけど、しとしと良い雨でした

 

 


ガイドブックを見て、小浜に行く。

2013-06-08 15:19:31 | 妻!日記

前回、福井県に行ったのは、半年以上前・・・

帰りに寄ったレストランに置いてあったガイドブックが、ローカル色強くて、

帰ってすぐに、ネットで中古品購入

 

「サーベイ福井」っていう本

聞きなれない名前だけど、旺文社発行で、全国でシリーズ発売されてるらしい?口コミ情報ガイドだそうです。

 

福井って、よく行くんですけど、

考えてみると、ガイドブックを見ていくことはなかった・・・

だから、どんな名物・名勝があって、どこのレストランが有名とか、全然分からないんですよね~

いつも、なんとなく行くので・・・

 

でも、ガイドブック見てますと、結構いろいろあって(そりゃありますがな)

とくに、グルメの海鮮丼の写真が頭に焼き付いてしまって

久々の休暇日に連れて行ってもらうことになりました。

 

食べログにも美味しそうな写真が出ていた

お食事処かねまつさん  食べログ

海鮮丼目当てだったけど、やっぱり食べやすい刺身定食にしました

特上 1800円です。

もっと安いのと、舟盛り ゴージャス版もありましたよ。

アラ汁おかわり自由・コメは福井米だそうで・・・

アラ汁のネギが美味しかったな~

 

普段は、家族7人盛で、子達がすごい勢いでさらってしまうので、

ひとりで、この量ゆっくり食べられるのはうれしいです

最後の方は、猫になった気分でウニャウニャ食べましたけど、

お魚満喫できて、幸せでした

 

さて、食後は、この店から1キロも離れていない(と思う)場所にある・・・

梅田雲浜生誕地に行きました。

小さな道しるべだけかと思ったら、一軒家がたつくらいの敷地に石碑が建てられていました。

公園ふう。

雑草ひとつない所を見ても、現在進行形で地元の名士であることが分かります。

 はっきりいってイケメンです

 小浜藩士、幕末の朱子学者で尊王攘夷派。

開国派で幕府第一主義の井伊直弼の逆燐に触れ、

安政の大獄で獄死。

 

私は、日本史の時間には聞いたことのない人物名でしたが(それは授業中寝ていたから?)

京都の霊山護国神社にも石碑があったり、維新ミュージアムにも常設展示があったり、

幕末の志士として有名です。

 

吉田松陰公とも因縁の強い人物で・・・

それほどの接触はなかったようですが、松陰の遺書「留魂録」にありありと綴られることとなりました。

 

「 一 七月九日、初めて評諚所より呼出しあり。三奉行出座尋鞠の件両條あり 

 (松陰も、安政の大獄で捕まり、尋問を受けた時のことです。)

 一に曰く、梅田源次郎(雲浜のこと)長門下向の節、面會したる由何の密議をなせしや。

 (雲浜は萩を訪れた際、松陰宅に数日滞在しました。松下村塾の看板の字を書いてもらってます)

 二に曰く、御所内に落文あり。その手跡汝に似たりと源次郎その外申立てる者あり、覚えありや。

 (松陰の字は右肩上がりの癖の強い筆跡でした。御所で見つかった幕府批判の落とし文の字に似ているという)

 この二條のみ。

 それ梅田は素より奸骨あれば、余、興に志を語ることを欲せざる所なり。何の密議をなさんや。

 (この辺は、雲浜に対する批判というか、怒っているというか・・・とにかく、性が合わないから、大した話はしていないと答えました。

 吾が性光明正大なることを好む。豈に落文なんどの隠昧の事をなさんや。

 余、是に於て六年間幽囚中の苦心する所を陳し、終に大原公の西下を請い、鯖江侯(老中)を要する等の事を自首す。

 鯖江侯の事に因りて終に下獄とはなれり。

 (で、梅田雲浜のせいではないけれど、勢いで老中暗殺計画を暴露してしまう松陰・・・・

  ほぼ釈放の見込みだったはずが、暗殺計画暴露で死罪になってしまった)

 

二十一回猛士と自ら名乗り、狂人たる勢いで奔走していた吉田松陰

 

この評定を、幕府の上役に、自らの憂国の思いを伝えるチャンスと捉えた松陰は、

奉行に尋ねられるまま、しゃべる、しゃべる・・・

その結果、巧みな誘導にかかり、幕府が求めていた過激行動を暴露してしまったのでした。

これが、ほんまの棚からぼた餅です

(松陰は、松下村塾の塾生たちとともに、京都に出陣しようと考えました。

幕府と朝廷が開国問題でもめている中、京都に滞在して圧力を加えていた・・・老中・間部詮勝を襲撃しようとしました。

 →長州藩に蜂起のための武器を求めたが、あっけなく却下され、藩内投獄されました)

 

雲浜も、連日の厳しい拷問に耐えかねて、松陰の名を出してしまったものの、

せいぜい微罪に過ぎず、すぐに釈放されるものと(おそらく)考えました。

それが、これほどの大事件に発展するとは、夢にも思わなかったことでしょう。

 

その雲浜も、松陰の処刑に前後して、獄中で亡くなりました。

 

井伊直弼の安政の大獄は、幕府の権威を守るという大義名分のもとで行われましたが、

現在の刑法はもとより、当時の訴訟慣例をも逸脱した、とんでもない裁きが横行しました。

 

それが、たった150年ほど前の出来事なのですから、

私たちも、のんびり平和ボケしている場合ではないのかもしれませんね。

                 ↑ ボケているのは、私だけかもしれませんが・・・

 

ところで、梅田雲浜公の・・・

お誕生日は、6月7日でした

偶然にも、訪れた日も6月7日

だから何?って感じですが、もう少し、彼について詳しく勉強してみようと思います。

まあ、旧暦の6月7日生まれですので、本当は7月13日ごろのお生まれだそうで…

新旧暦の違いはあるのですが、偶然の一致をうれしく思った私!なのでした

 

さて、梅田雲浜生誕地を後にして、帰路・・・

小浜駅前で気になっていた場所に寄りました。

 杉田玄白記念 公立小浜病院 だそうです。

 杉田玄白の像。

なぜ、この場所に?

杉田玄白が蘭学医、「解体新書」を出版したのは、よ~く知ってますが、

小浜藩医であったことは気付きませんでした。

小浜に住んでいた時期もあったのですね。

 

山脇東洋による日本最初の解剖にも、小浜藩が大きく関わっていたのですね。

知りませんでした。

 

古来、小浜のある若狭国は、朝廷の日本海側入り口として、海産物の調達をする御食国(みつけくに)とされてきました。

近世には、北前船の港として、海運の本拠地となりました。

日本海銀座とでも言って良いでしょうか。賑やかな街であったと思われます。

 

江戸幕府下の小浜藩では、初代藩主が京極高次(奥さんは秀吉側室淀殿の妹)であったことからして、小浜の優勢振りが分かります。

二代目忠高ののちは、家康の家臣であった酒井忠勝(のち大老職)が入封して、譜代大名下の統治が行われてました。

この地を重要な拠点としてとらえていたのでしょう。

 

太平洋側に賑わいを譲った現在でも、北海道~若狭の流通は盛んなようで、

敦賀からは、北海道への定期航路が出ていますし、

昆布飴とか、昆布〆の小鯛のささ漬けなど、昆布製品が特産となっています。

 

さて・・・小浜病院の向かいにある公園には、石碑がありました。

↑ 上の石碑は、明治期の新川柳運動の中心となった西田當百のものです。

「天下泰平 晩酌の 量が増し」

意味深い・・・

 

この石碑の向かい側・中央に・・・

杉田玄白顕彰碑と銅像

 

よく見ると、この銅像は、玄白ではなくて、梅田雲浜公。

どこでも、銅像は似ているけれど、どれもカッコいいな

 後ろに何か書いてアリマス。

  梅田雲浜の一番有名な詩だそうです。

妻は病床に臥し 児は飢に泣く
身を挺して 直(ただ)ちに戎夷(じゅうい)を払わんと欲す
今朝死別と生別と
唯 皇天后土(こうてんこうど)の知る有り

 

維新ミュージアムに行くと、志士の壮絶なパワーを感じる詩が並んでいますが、

公な事象や自然について書いてあることが多いと思いますし、やや無機質な印象を受けます。

それに対して、こちらは、いきなり「妻と児」と来ますから、(公私で言ったら、私の部分)

真に迫る、というのか、いきなりむき出しの情をぶつけられて、胸がキューンと来ますね。

 

その「妻と児」を犠牲にしてでも、国のために奔走してきた雲浜公なのでしょうが、

きっととても家族思いであったのだろうと思います。

それでこそ、小浜の人々に愛されてきたのでしょうね。

 

向かいは、小浜病院。

とても大きな病院です。

 

現在では、さらっと幕末風情を流す風の小浜ですが、

その奥底のオバマ魂をのぞいてみたいと思った私!でした。