京都大原紫葉工房便り

京都洛北・大原の里のしば漬屋から、毎日!情報発信。

山口旅行 その6 萩城。

2013-11-09 22:16:09 | 中国・四国地方の石垣。

数日前の投稿「山口旅行 その5」の続きです

 

3月26日の午後・・・

松下村塾を出た私たちは、萩市内を東から西へと移動し、萩城へ出かけました。

 

駐車場に車をとめて、歩いて萩城の本丸へ向かいます。

こちらは二の丸の敷地になっています。

 ここは観光地っぽくて、りっぱな石垣づたいの道となっています

 (この辺が南門跡らしい)

どういう意味があるのか、わりあい等間隔に大きな石がはめ込んでありますね。

こちらは、松下村塾・維新系とは違って、江戸泰平期・長州藩エリートめぐり、とでもいうのか・・・

ゴージャスですね

 

松陰も、10代のころは兵学師範だったので、登城も出来る身分でしたが、

東北遊学脱藩騒ぎののちは、士籍を剥奪されたので、たぶん登城することはなかったと思います。

伊藤博文は武士の中では身分の低い足軽だったので、問答無用で来れなかったかと。

身分ていったいなんでしょ~ねもう

ま、庶民の年貢を吸い上げて、日本の美的センスを追求した建築物ですから、

怒らんと観に行きましょう

(というわけで、やっぱり城好き)

 二の丸と本丸をつなぐ極楽橋

(こぼればなし)

ここまでは、次男の機嫌もよく、楽しそうに写っているんですが・・・

この集合写真のあと、次男の身に災難が起こってしまいました

 

私がこういう↑↓写真を撮っている間に・・・

橋の端の手すり ↑ に座ろうと思って、手をかけたら、鳥のフンがべちゃと付いてしまったらしいです

 

別に大惨事ってほどのことじゃないんですけどね~

手を洗えば済むことじゃん、といっても、水道が見つからないし・・・

で、すっかり萎れてしまった次男

宿でお風呂に入るまで、立ち直ることはありませんでした

 

こいつは、旅行先ではしょっちゅうこういう感じになるので、

ああ、めんどくさい、と小腹も立ってくるし・・・

(それでも、怒ると、もっとメンドクサイことになるので 優しく励ますしかない・歯が浮きます

家族旅行は大変ですね

(今でも、思い出しては「あのときは最悪だった」と根に持っています)

 (極楽橋の向かって左側)

     ↑  天守閣跡(奥の出っ張り)

極楽橋から内堀をながめた第一印象は・・・

やっぱり広島城ともよく似ているな~ってことでした。

(極楽橋向かって右側)

それもそのはず

どちらのお城も、築城者は毛利輝元

明治まであった天守閣も、広島城によく似ています。

明治の廃城令で破却されてしまったそうで、ちょっともったいない気がします

おそらく、古い価値観を破壊する意味合いだったんでしょうけど・・・

 

さて、長州藩初代藩主・毛利輝元・・・

もとは、おじいさんの毛利元就の知略のたまもので、中国の覇者として君臨

一時は、中国地方全土と九州の一部を手中に収めました。

元就の死後は、山深い安芸吉田郡山城を離れ、交通の要衝である広島に本拠地を移し、広島城を築城しました。

豊臣政権では、多少領土が狭まったものの、112万石の所領を安堵され、

秀吉の死後は五大老に任じられて、秀吉の息子・秀頼の補佐役をつとめていました。

 

しかし、関ヶ原の戦いで西軍(石田三成派)の総大将に担ぎ上げられたことが災いし・・・

西軍敗北・江戸幕府の成立後は、大幅な所領の減封を命ぜられ、周防・長門2ヶ国37万石の大名として、

本拠地も、交通の便の悪い日本海側の萩へと移転させられたのでした。

以後数百年・・・維新回天・幕府を転覆させるまで続く、怨恨のはじまりでした。

幕府側から築城地として指定のあった場所は、萩市内を流れる阿武川にできた三角州の先っちょで・・・

島流しに見えないでもない場所なのでした。

↑ 極楽橋渡ってすぐの、大きな石垣

きれいです

おそらく本丸入口の門の一部で、石垣の上には櫓か白壁があったのでしょう。

階段状になっていて、上がるのに便利~

休憩にも最適です

向かいは梅だったか桜だったか、お花見してる人たちが結構いました。

賑やかな女子高校生グループもいて、楽しそうでした。

良い思い出になるでしょうね

さて、天守台跡に向かいます。

天守台は2段構えになっていて・・・

 

まずは1段目に上がり

(1段目)

(1段目から2段目の向かって右端の角)

(同じくこのエッジがたまりません

そして1段目から2段目の広い天守台に上がりました。

こういう構造も、広島城と似ていたような気がします。

 どこでも遊べて良いですね

(2段目から見た1段目)

天守台から見た眺めは、やっぱりきれいでした

(極楽橋方面)

 

極楽橋の反対側も良い眺めでした。

山は、指月山といい、標高143メートル

山頂にも詰丸という籠城機能を持った山城がありました。

内堀は、ひとつは本丸の南側に沿うように真っ直ぐに流れており、もう一つは、天守閣を覆うように流れ、山の麓の部分で終わりになっています。

(というか、もう山の裏が日本海です

この石垣が最高でした

最高なので、近くに行ってみることにしました。

   ↑ この桜の木の横を通って、向かって左に進みます。

(これは天守台横の庭園:花茶江亭)

本丸内堀の最終部分 ↓

 こういうのも好き

(内堀最終部分から振り返って、天守台方面を望みます)

で、お気に入り石垣のところ

 

やっぱり楽しい石垣でしたが、敷地はただの原っぱでしたので、写真省略

道は、石垣づたいで良い

(進行方向から振り返ったところ・遊歩道)

さて、この道、来てみて良かった

なんと、先には毛利元就菩提寺の洞春寺跡と、おそらく奥さんの妙玖さんの菩提寺?の妙玖寺跡があるみたい

うれしいです。

幕末に政庁が移された山口市に洞春寺があるのは知っていましたが、萩でこのお寺に出会えるとは思いませんでしたウレシイ

 洞春寺の石垣

 今は建物はなくて原っぱ

 

1863年に山口に移された後、残された建物は1869年に山崩れで破壊されたそうです。

ちなみに、洞春寺はもともと安芸・吉田郡山に建立されたのち、萩に移り、山口へは長男・隆元の菩提寺を洞春寺と改名して、移されたそうです。

 こちらは妙玖寺跡

そのさきは、もう日本海・・・

ここまで来ると、ほのかに波の音も聞こえて、天守閣周辺の賑やかさが嘘のように、静まり返っていました。

 

 

わ~萩、見どころいっぱいで

萩城だけでも回りきれませんね。

もう、すっかり夕方ですもん。

妙玖寺跡からは、もう急ぎ足で駐車場に戻り・・・

 

今宵のお宿・萩本陣にチェックインして

宿ライフを楽しみました

お部屋からは市街一望

真っ暗だけど、松陰神社もすぐそこ。

(私らにしては)ちょっと高かったけど、選んだ甲斐がありました。

 

さあさあ、本当のお目当ては、夜が明けてからです

次回投稿を楽しみにしてくださいね

(他のんは見なくていいから、次のだけは見て~)

 

~ ~ ~  つ づ く  ~ ~ ~

 


山口旅行 その2。

2013-04-08 13:18:48 | 中国・四国地方の石垣。

小忙しくて、なかなか投稿できなかったので

とりあえず、お気に入りの写真を投稿します

 

今回、特にお目当てではなかったのですが・・・

萩城

やっぱり良いですね

関ヶ原敗退後、安芸の国より転封された毛利家でした・・・

この屈辱が、明治維新への礎となっていったようですが、

いや~立派なお城でびっくりしました

 ← 一番好きな石垣

作った人が同じだから?

やっぱり広島城と似ています。

平山城でした。


今さらながら(^_^;)鞆の浦。

2013-02-01 15:32:10 | 中国・四国地方の石垣。

 昨日の投稿の続きです         前日分

 

お正月 1月3日・4日 里帰りついでの旅行

広島の・・・

休暇村大久野島に泊まって、翌日は、福山の鞆の浦に行きました

福山駅からバスで30分、海辺です。

 萌え~

良い風景です

 

鞆の浦・・・広島県人としては、今更すぎる観光地です。

まさに灯台もと暗しです

来てみて分かったんですけど、

鞆の浦だけで、1泊2日とるべきでした

とくに、歴史マニア?としては必見のポイントが多すぎて、まわりきれませんでした。

 

最近では、崖の上のポニョのモデル地になった、とかで人気を博してるんですが、

県人としては、「違うんだよ~、鞆の浦は鞆の浦!」みたいな変なコダワリがあったりして

(行ったこともないくせに)

保命酒とか寺とかが有名な風光明媚な名所、って感じが良いのです。

 ↑ まず、ここらへんにあるお寺に行ってみました。

 ちょっとだけ、高台

幕末、坂本龍馬のいろは丸事件の談判の場所となった・・・福禅寺です。

本堂の隣りには、海の眺めの良い対潮楼があります。

 ここが、事件の談判場になりました。

鞆の浦の代表的景色

弁天島(手前)と仙酔島      

仙人も酔っぱらうような美しい景色?て感じかな?

鞆の浦は、古くからの瀬戸内海航路の潮待ちの港

日本の東西を船で移動した著名人は、みなここを経由したといっても過言ではない、のかな?

対潮楼は、江戸時代には朝鮮通信使の迎賓館として利用されました。

1867年 

坂本龍馬の海援隊のいろは丸が、岡山の笠岡沖で、紀州藩の軍艦と衝突して沈没する事件が起こり・・・

ここ鞆の浦に上陸して、対潮楼で賠償交渉のための談判を行いました。

・・・つくづく、ドラマのような人生を送った龍馬です

福禅寺・対潮楼の対岸は、いろは丸展示館などの観光エリアが拡がっています。

ショップが立ち並んでます

私たちも昼ごはんに

ハンバーガー

こちらのコーヒーとても美味しかったです

いろは丸展示館は、近年海の底から引き揚げられたいろは丸の遺留品を展示しています。

グッズもたくさん売ってあって、衝動買いで龍馬の本を買ってしまった1800円

 ↑ 太田家住宅

幕末の京都で起こった八・一八の政変の後

(それまで勤皇第一党の長州藩が公武合体派の薩摩・会津藩に追っ払われ、政敵となりました)

勤皇派の公卿・三条実美が長州に逃れる際、滞在しました。

 見学の時間がなくて、写真だけです

 

他にも、平賀源内の生き祠や

山中鹿之助(毛利に滅ぼされた戦国大名尼子の生き残り)の首塚など

気になるポイントがありましたが、時間切れ

 残念すぎる

次回リベンジを誓って、後ろ髪ひかれつつ帰京したのでした~

新幹線コンコースから見る福山城

 

福山城も、じつは・・・行ったことないし

今度の里帰りでは、福山で途中下車しようと思います


岡山城に行ってきました。その3

2012-09-01 14:35:45 | 中国・四国地方の石垣。

岡山城の続きです   その1その2

前の投稿で絶賛しました本段南東側の高石垣から・・・

 オレンジ色のFから、4・E・3と歩いて来て・・・

(つまり、この地図では、時計回りに歩いています)

2の石垣が上の高石垣です。

 

そして、2と1の間の角が ↓

 

地図1の石垣

そして、1の石垣の向こうに、不明門が見えてきます。

       ↑ 櫓にも見えますが、不明門という大きな門があるのです。

なるほど、門の下の部分は、途中で色が変わっています。

 

不明門の先・・・

地図では、5の石垣角に大納戸櫓跡があります。

ここで、方向が約90度変わります。

 ↓ 地図では、6の石垣              ↓ 大納戸櫓跡                          ↓ この辺

           

 

小早川時代と池田時代を見比べられるポイントです。

   ↑ 成形された池田時代の石垣          ↑ 小早川時代の石垣

やっぱり石垣観察は面白いです。

一度詳しくガイドさんのお話を聞いてみたいと思います。

石垣専科の方はいらっしゃるでしょうか?

 

さて、次男お目当てのペーパークラフト

こちらは、岡山市デジタルミュージアムさんの出されたものでした。

500円で安い、持ち運び便利です。

 弐になってます

てことは、以前買ったのは、壱だったのかな?

 

注意書きに、「子供は大人に手伝ってもらってください」てなことが書いてあって、

次男は憤慨?していましたね

おばあちゃん家でさっそく作り出しました。

こちら、ファセットさんのペーパークラフトに比べると、紙が薄い目なので、難しいです。

そして、ファセットさん×1・5くらいの大きさなので、曲線部分の接合が難しそうです。

 

今のところ・・・

帰京後の合宿と宿題の仕納め・二学期の始まりで、

続きが出来ずにいますが、

この岡山城が完成したら、ファセットさんの新作ペーパークラフトを買ってあげようと思ってます。

 

アマゾンで注文が早いけど、次男の社会勉強のために、現金書留で注文させようかと思っております。

郵便局まで、初めてのおつかい?

楽しみです

 


岡山城に行ってきました。その2

2012-08-26 09:34:52 | 中国・四国地方の石垣。

一昨年から念願だった・・・

本丸石垣周りの観察をすることが出来ました

 しかし、時間カツカツ

速足で、本丸回り一周しました。

旭川に沿って、県庁方面に進みます。

 

まずは、天守閣真横の迫力ある石垣

(一昨年の写真です

天守閣が一緒に入ると、迫力加減が分かるんですけど、写真撮り損ねてました。

ファセットさんのペーパークラフトでは、良い具合に表現されている部分・・・

私!の一番好きなパーツです。

ごつごつと粗野な感じの・・・宇喜多時代の石垣です(たしか)

 

で、この石垣に沿って、南に行ったところに、六十一雁木門がありまして・・・

見ごたえのある石塁です。

板状の大石を立てて組み込んだ部分が特徴的なのだそうです。

所縁がないかもしれませんが、毛利の石垣に似ていると思いました。

                      ↓

(広島・吉川元春居館跡)  

 ↓ ここから元に戻って、岡山城

その横に、私の好きな朽ち石垣があります

(これは一昨年の写真)

 

 ↑ いまいち、この看板がどこの石垣のことを言ってるのか、分からなかったのですが・・・

たぶん、上の朽ち石垣から、ひし形に曲がって、続く

 ↓ この石垣の隅角のことだと思います

 

     ↓ 小早川時代に改修した直線部?(丸みの強い石材を粗雑に積んでいる?)

 ← 宇喜多時代の隅角?(安定性の強い、大形の石材を)

ならば、私の好きな朽ち石垣は、小早川時代のものなのかしら

悪名名高い、小早川秀秋公も、結構お仕事してたんですね。

真相はいかに?

 

ここから更に、南側・・・

結構な高石垣が続きますが、ここは何となくコンクリートで改修してある感じです。

まあ、旭川の横ですし、水害もあったでしょうしね。

で、この先が、先日投稿した、南側の高石垣です。

話が前後してしまいましたが、ぜひもう一度ご覧下さい。    岡山城本段南東の高石垣

 

~~~ つ づ く ~~~

 


岡山城に行ってきました。

2012-08-25 10:33:01 | 中国・四国地方の石垣。

広島帰省途中に立ち寄ることの多い岡山。

住んでもいいと思うくらい好きですね。

今回は、次男が・・・

前に買ったペーパークラフト(ファセットさんのではないの)をもう一度作りたいというので、

それを買いに、岡山城へ行きました。

 

二回目だから分かりやすい。

電車に乗って、城下駅で降りて行きます。

岡山城とセットの旭川。

子達の行くまま、降りてみます。

川遊びは出来なさそうですが、生き物は沢山いて、見るだけでも楽しいです。

手長エビ?

初めて見ました。

 水かさが増した後に、逃げ遅れたのでしょうか?

匂いを嗅ぐと、えびせんの匂いがしました。

で、もっと居たかったのですが、滞在時間は4時間ほどに限られていましたので、上に上がり・・・

 べたに、天守閣を見学。

この日は、写生大会があったようで、にぎやかでした。

 こういう風景が好き。

岡山城は、手入れがよく整っていて、社会見学にもちょうど良いような看板があちこちあります。

宇喜多時代・小早川時代・池田時代の違いが楽しめますよ。

ゆとりがあれば、ガイドさんから、詳しい話を聞いてみたいと思います。

 べたに記念撮影。

長男、家では写真撮らせてくれないんですよね~

なんで、記念写真はOKなんでしょうね。

 次男が気にしていた米蔵(収蔵庫だったかな?)

好きなパーツです。

岡山城の中は、お土産屋さんやお食事処があるので、ゆるゆる楽しめます

何もない古城も好きですが、地味さは否めませんわね。

ぶっかけ系の・・・濃いめの味付けのうどんセット。

ここら辺のうどんの味付けが好きなので、懐かしいです

アナゴご飯は子達に人気で、ほとんど盗られてしまいました

 長女のパフェは桃とマスカットが乗ってます。

こじんまりしたお店ですけど、創意工夫溢れたメニューもあったりで、なかなかグーです。

 撮れるところは撮っておこう。

 

昔遊びは、地味にハマります。

男二人があやとりに夢中になってましたよ。

 

最上階は、エアコンがないので、結構暑いんです。

嬉しいおもてなしですね

さて・・・

結構ここまでで時間を使ってしまったので

肝心の(母!お目当ての)本丸石垣の見学が遅くなってしまいました。

新幹線の時間まで1時間切ってて、やばい

 

でも、子供を急かすのって、気が引けますし・・・

 

こういうとこでも、しっかり遊んでいただき・・・

・・・・・・

  背景のクロネコさんが大変そう

 空中浮遊も披露

 

ひととおり楽しい遊びが終わってから、

下の石垣を見に行きました~

 

                       ~~~ つ づ く ~~~

 


岡山城本段南東の高石垣。

2012-08-23 10:36:03 | 中国・四国地方の石垣。

突然ですが・・・

岡山城の天守閣入口から、

旭川に沿って、南に歩いていくと・・・

← 南側                        北側 → 

本丸石垣の角があり、約90度方向転換します。

                              ↑ 石垣の角

方向転換しますと、南東側の高石垣が見渡せます。

関ヶ原合戦以前の石垣としては、屈指の高さだそうです。

 

良く残っていたもんです。

最高に美しい石垣です

 

この石垣の上に乗っかって見える天守閣は、さぞかし大迫力でしょうね。

南側には、岡山県庁があります。

県知事さんのお部屋からは、すばらしい景色が見えるのでしょうかね。

 

岡山城の南側は、ずっと旭川が流れています。

それに沿って、公共施設などがありますので、

きっとどこかでナイスビューが見られるはず。

 

オススメの場所があれば教えてくださいね

 

 

 


大三島。

2012-01-29 16:08:01 | 中国・四国地方の石垣。

前投稿「松山城 その1・その2」の続き。

二泊三日の旅行、最終日は、来た道(しまなみ海道)通って、帰りました。

 

帰りの大三島。

大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)に寄りました。

 立派

創建は594年

伊予国一宮

海の神・山の神・戦の神として、歴代の朝廷や武将たちの信仰を集めたそうです。

国宝8件、国の重要文化財75件

 あまり歴史は知らなかったけど、一目見て、すごいパワースポットであることは分かります。

天然記念物「大山祇神社のクスノキ群」

あまりの雄大さに感動しました。

 パワーみなぎってます

拝殿

 なかなか個性的な石垣

圧倒的なインパクト誇るクスノキでした。

ところで、四国、ことに伊予の国は、

大島石など、優良な石材を産出しています。

設備などにも、ふんだんに石が使われており、お~と目を見張ることも・・・

 

大山祇神社横の河川も、贅沢な感じに整備されていました。

美しい石積みです

産地ならではの芸術です

 


松山城 その2。(天守建造物群)

2012-01-29 16:03:45 | 中国・四国地方の石垣。

前投稿 「松山城 その1。」の続きです。

二の丸~本丸上部に上がるまでは、かなり複雑な造りになっていましたが、

上がってしまえば、だだっ広い広場。(ああ、言い切ってしまった)

茶店とか梅園があったかな。

  こちらから市街の景色は最高。戦時にも優位であることは言うまでもないでしょう。

 で、天守閣入口に到着。

天守と小天守、いくつかの櫓で構成される

天守建造物群となっています。

  

正面から見ると、分かりにくいですが、ロの字構造になってます。

 

↓小天守(復興)  ↓天守(1847年築)

  手前の建物で、入場料を払って入ります。

        ↑一ノ門南櫓(手前の石垣の建物)↑二ノ門南櫓

結構奥行きがあります→向かって右側の石垣部分 二ノ門南櫓~天神櫓南塀~天神櫓)

 

加藤嘉明の築城当初の天守は五重だったそうですが、

彼の転封後に入国した松平定行により、1639年、三重に改築されました。

 

*地盤の弱さに起因する天守の安全確保のため と

*江戸幕府に配慮したため

とのことです。たいへんですね

 

そのため、とても柔和で控えめな印象を受ける天守なのですが、

守りは万全        

出来るだけ、分かりやすく紹介したいですが、かなり複雑で、多少挫折した感が・・・

ご容赦ください                              

 うん、とっても複雑なのです。

 

うちの次男、お城のペーパークラフトの組み立てが好きなのですが、

松山城のもあったら良いのになあと思います。(今のところ未企画?)

図面上では空間把握が難しいですし・・・

絶対面白いし、売れると思います

い~や、自分で作っちゃおうかな、と思うくらいでした。

 

で、この地図の右側(南方面)から入場して、天守に向かいました。

料金所から入って、紫竹門のとこから、いきなり正面に天守がお目見えしますが・・・

 天守 で~ん

間を石垣、筋鉄門東塀にさえぎられており、直接入れません。

 →右折してから、一の門、二の門とくぐらなければなりません。

 

 ←一ノ門南櫓

        ↑ 三ノ門南櫓  ↑ 一の門

 

*一ノ門くぐって、振り返ると・・・

一ノ門南櫓 →    奥に小天守がみえます。

                                   ↑ 一ノ門

 

一ノ門、ニノ門くぐったら、ようやく天守の東側に来ることができます。

 これは、確か、天守の石垣

成形の行き届いた石垣で、比較的新しい石積みであろうと思われます。

 

実は、現在の天守は、3代目で・・・

松平定行の三重改築(1636年)の後、1784年落雷で天守焼失

その後、復興工事に着手するが、火災などの理由でとん挫

結局、12代藩主松平勝善により、1854年に天守を復興することができました。

 

 天守の前を通り抜け、北隅櫓の横の玄関から入場しました。

          ↓北隅櫓

 →こちらに天守

  ↓ 小天守     ロの字みたいな作りです。

 

建物の中は、(姫路城でもそうですが)シンプルな木造建築で、外側から受けるほどのインパクトはありません。

ただ、とても眺めが良い

 

小天守や櫓が見渡せます。

小天守→  ←多門櫓→ ←南隅櫓

 

 いつのまにか外に出ていた子供たち

  良い眺め           

  

 

先ほどの・・・

複雑な一ノ門・二ノ門・三ノ門の構造も、上から見るとよく分かります。

 

 ↓ 天守  ↓ 三ノ門               ↓ 二ノ門    ↓ 二ノ門南櫓

   

                     ↑  三ノ門南櫓       ↑ 一ノ門         ↑ 一ノ門南櫓

 

分かりやすいような、分かりにくいような写真ですが・・・

つまりは、侵入しにくい造りだったというわけです。

 

今回の写真撮影、すべてを網羅したつもりでしたが、

抜けている部分がちらほら・・・

 

いつものことですが、ちゃんと見てなかった場所がどうなっていたのか、気になって仕方ありません。

 

松山は、広島からは、フェリーで3時間(やったかな)

車がなくても行けるので、便利な観光地です。

またふらっと遊びに行きたいと思います。

 


松山城 その1。(山麓から本丸)

2012-01-25 09:40:08 | 中国・四国地方の石垣。

「先日、松山城に行ってきました」

 

と言いたいところですが、実のところ・・・

これが、おっそろしく古い投稿でございまして、

上記の程、ごまかしたくなるくらい、ええ、ずっとため込んでまして…

 

昨年3月の春休みに、しまなみ海道経由・松山城に行ってきました。

だいぶん前に、耕三寺の投稿しましたよね・・・

その続きです。

 

愛媛県は良かった

お宿の鯛・カンパチなど、鮮魚が本当に美味しかった

帰って来てから、スーパーなどで気付いたのですが、養殖物の鯛は、愛媛県が多いみたいですね。

また行きたいです。

 

で、宿は、休暇村東予に泊まったのですが、

旅行二日目に松山城に行きました。

四国に多く残っている、現存天守閣のひとつです。見逃すわけにはいかない。

 

しかしまあ、行ってみますと、

松山は、NHKドラマ「坂の上の雲」一色になってました。

松山城ロープウエイの登り口に、放送記念のミニ資料館みたいなとこがあって・・・

広島・呉のやまとミュージアムと似た感じの雰囲気の所でした。

海軍つながりだからでしょうか。

 

んで、本題の松山城。

行き方は、ロープウエイとリフト(たぶん歩いても登れる)が選べて、

お兄ちゃんたちは、迷わずリフトに乗ってました。(心配なんですけどね

お兄ちゃんたちを見守りながら、ロープウエーで、勝山山頂に上がり・・・

いきなり、本丸わきに到着します。

こういうので撮影は必須。(好きです)

 

で、こっからが本題の松山城なんですが、

なんで今まで投稿できなかったかというと・・・

 

ま~とにかく立派で広いお城で、写真もいっぱいとりまして

それは良いのですが、ブログ上で、それをどう表現すればよいかに困ってしまい・・・・

 

困った挙句、結局、その1・その2に分けて投稿することにしました

 *(←ここらへんがロープウエー駅)

こんな感じで、広く、かつ複雑な構造をしています。(本丸に上がるまでが迷路状です)

 

賤ヶ岳七本槍の一人、加藤嘉明のお城

海抜132メートルの勝山山頂に本丸、中腹に二の丸、山麓に三の丸を置く連郭式平山城

(資料は松山城パンフレット、一部、文も抜粋)

築城は1602年着工・1627年完成

(完成直前に、会津に転封されてますが

縄張りは、いまだ政情定まらない時期の着工のためか、相当に複雑

まだまだ戦を意識していたのでしょう。

「難攻不落」の文字が浮かんできました。

 

本丸に上がるまでの構造は、「すごい!」の一言に尽きます。

(逆に言うと、本丸・天守閣の建物自体は優しい印象で、守られている、て感じでした)

ま~さすがは現存天守閣

これだけの史跡が(ほぼ手つかずで?)残っているのですから、うれしい限りです。

*21棟の重要文化財をもつそうです。

 

というわけで、ロープウエー駅を出た所からお話しします。

(かなり分かりにくいので、場所をで示してみましたが、

 それでも分かりにくいです、すみません

 

 

ロープウエー駅を出たところ(二の丸なのだと思います)から、

見た所、「山」に向かって坂道がのびていまして・・・

どんくらい歩かなあかんの?て感じでしたが、

ほんの数歩歩くと、いきなり大きな壁が見えてきました

 で~ん

京から見ると、離れた地のお城だから、そんな大したことないだろうと思っていたのですが、(失礼

いきなり裏切られました!

これはすごい

壮観です

  頑丈な石造りです

( ↑ 揚木戸門跡) 上の黒い壁の建物は、筒井門東続櫓かな?

       揚木戸門跡

 すごい高石垣 これ、乗り越えられますか?

 

そして

この石垣の奥が大手門跡になっていて、本丸へと道が続くのですが、

右折すると・・・これまた壮観

 

      (↓ 太鼓櫓)

 道の突き当たりの緑のところが中ノ門跡

(↑ 左手前が大手門)

ここから本丸に向かって登城道が続きます。

緩やかな坂ですが、U次屈折になっていて、中ノ門跡のところで向きを変えます。

 

 同じ位置(大手門付近)から右方向を撮影

手前・右端にあるのが戸無門の屋根

中央の大きな屋根は筒井門西続櫓のもの

 

 

門扉がないので戸無門と呼ばれているそう。こちらも重要文化財です

中ノ門方向から、戸無門へ)

ジグザグ道です。

攻めてくる敵の勢いを抑えたり、

上から攻撃しやすい構造になっているのでしょう。

 

大手道の戸無門から見た太鼓櫓

 

先ほどの戸無門をくぐった先で、また左折、折り返して・・・

松山城最大の筒井門をくぐります。

(左端に戸無門→) 

いろんなお城めぐりをしてきましたが、

門や櫓など詳細部分は、破却されていることが多く、

なかなか現物にお目にかかることができません。

その意味でも、こういう形が見れるのは貴重です。

 

基本、石垣好きなので、石垣さえ残っていれば文句なし、なのですが、

遺構のイメージがしづらいので、やっぱり、建物が残ってる方が良いです。(ただし筒井門は復興建築)

石垣から、なるべく想像力を働かすようにしてますが、塀の色まではさすがに分かりませんしねえ。

あって良かった!

(西続櫓 ↑)(↑ 東続櫓)

筒井門は、両側に櫓を配していて、L字状になっています。

二の丸から本丸へ向かう、大手の固めを構成する重要な櫓門

城中で最も重要かつ堅固なところなのだそう。

 

その筒井門をくぐると、正面には、太鼓門西塀(向かって、左端に太鼓櫓)が見えます。

 石垣+石垣+石段の良い眺め

門をくぐって、向きを変えて、また門・・・

というのが、一筋縄では本丸に進めない仕組み。

しつこいです、本当に

天下の名城 姫路城を思い出しました。

それ以来です。

大阪城は、(破却部分も多いのかもしれませんが)もうちょっと素直な印象を受けますし・・・

平山城独特のしつこさかもしれません。

こちらの太鼓門(復興建築:横に西塀が長細く続き、延長上の端っこに太鼓櫓があります)をくぐると、

やっと右手に本丸天守建造物群が見えてきます。

 

ようやく到着しました。

ここまで、何回向きを変えてきたでしょうか?

 

 

     

 

(答え:6回)

本当に複雑な大手道でした。

本丸に上がってしまえば、だだっ広い広場と言う感じ。

ひたすら歩いて行くと・・・

その先に、天守閣群の建物があります。

 

次回、「松山城 その2。」の投稿でご紹介しますね。

あきれずに、お付き合いくださいませ

 

*すみませんね。漬物屋のブログですが、石垣愛好家のための?投稿でもあります。


わが故郷の広島城 パート2。

2012-01-08 17:11:59 | 中国・四国地方の石垣。

前投稿「わが故郷の広島城 パート1」からの続きです。

 

天守閣東側に連なる石垣群の上を散策した後、天守閣に上がってみました。

天守閣は、鉄筋コンクリート造りになっており、内部は資料館になってます。

お城や藩・郷土の歴史などが展示してあります。

子連れですので、飽きない程度にさらさらっと見学し、最上階へ・・・

 

落ちないように柵がしてあり、360度眼下を見渡すことが出来ます。

 

(通ってきた、本丸北東方面) 天守閣からは、東向きになります。

 縮景園や広島駅・東照宮のある二葉山があります。

 北側小天守跡の土台があり、北東角にかけて、石垣が続いています。

 

 

(本丸西側方面) 天守閣からは南向き

 南小天守台・護国神社・遠くに二の丸が見えます。

爆心地は、南西あたりになると思います。

遠くに広島湾・宮島の弥山が、見えます。

 

(天守閣から北方面)

 

お堀のすぐ北側に、県立基町高校

写真中央の後ろの、プリンみたいな山・・・武田山

安芸の守護・武田氏の本拠地であった銀山城がありました。

毛利元就・・・厳島の戦いの前哨戦として、銀山城を攻略し、支配下としたそうです。

 

ちなみに、写真には入りきりませんでしたが

写真のちょうど右中央あたりに、

毛利輝元御一行が築城地を選定するために登ったという見立山(牛田山)があります。

 

武田山では不便だったために、交通の便の良い、太田川の下流域を選んだそうです。

 

天守閣を出た後は、南側小天守に連なる石垣の観察をしました。

この、本丸西側部分においても、前投稿での東側部分のように、二重の砦が築かれていたようです。

内堀(西方向)  ←   こんな感じ(奥に天守閣)

 

その石垣群の途中・・・

元からそうだったのか、近年便宜的に作られたものなのか、分かりませんが、

お堀に下りていく階段があり、

その石垣の途切れた部分が、むき出しになっていました。

 これは、意図的? 

どうして、代表的観光地のメインルート部分が、こんなにむき出しなのか?

やっぱり意図的に見せているのでしょうか?

 

個人的には、石積みの構造が見て取れるので、残しておいてほしい部分であるが・・・

 

過去の水害か原爆の際に破壊された部分に、遊歩道(お堀沿いに歩くための)を設置した、

というのが、正しい解釈か?

勝手な想像にすぎませんが・・・こういう遊びのある部分が大好きですね~

時間があるので、天守閣の周りをぐるりと歩くことにしました。

ドングリが沢山落ちていたので、長女を誘導するのに便利でした。

そうでないと、お母さんのワガママ全開になってしまいますからね

  ↑                        ↑

北西角                   南西角

 

  ↑  北西角 ・・・石落としがあります。

 

          ↑

        北東角              奥に、本丸北側石垣群(勝手に命名)

 

         

        ↑                      ↑          ↑

東側小天守との接続部分            北東角     北西角

 

  ↑  小天守の北東角

 

本丸北側のお堀沿いをしばらく歩き、振り向くと・・・

ナイスビュー

                            ↑      ↑

                 小天守・北東角     天守閣の北東角

 

本丸北側石垣群のナイスビュ~      とくとご覧あれ 

毛利輝元築城当時の、野面積みだそうです。

近江穴太衆を連れ立っての築城だったそうですが、それほどコッテコテの穴太積みは見受けられません。

 

←東方面                  →西方面(天守閣)             ↓ 内堀(本丸北側)

 

そして、この石垣群・・・

東方面に歩いていくと、お堀の東側畔の手前で、石組みの状態が一変します。

 ↑  もひとつ前の石垣と比較してもらうと、よく分かりますが・・・

ひとつ前の写真の石垣が、あまり成形してなくて、優しくて素朴な印象なのに対し、

こちらは、かなり人工的でシャープな印象であるのが分かります。

「打ち込みハギ」・・・こちらは、福島正則治世時に改修された石垣だそうです。

 

そ~です

噂の、幕府の怒りを買って改易する羽目になったという、不吉?な石垣です。

幕府に無許可で石垣の改修をしたから…っていう、アレです。

 

ど~も、よくよく聞いてみると、ほんと言いがかりっぽい話で、

ある年の水害で、ここの石垣が崩れてしまったから、改修・・・

(ちゃんと改修届を出したんだけど、途中で握りつぶされてたとかいう説もあるらしい)

幕府に注意を受けて、石垣を元通り崩したら、許してやる、と言われたんだけど、

それをしなかったから、罰として改易になってしまったらしいです。

 

とっても不運だ。

広島は、住んでたらよくわかるんですが、(発達した現代でさえ)水害や高潮被害の多い土地。

それなのに、まともに改修が出来ないようでは、ほんま不便でたまりませんね。

よくよく江戸時代とは窮屈な時代だったんですね。

 石垣横の大きい木 ・・・あの辺から、野面積み~打ち込みハギに変わってます。

「ごめんなさい、私のせいで・・・」  てとこですかね。

 

ここも、説明書き何にもなし、ですが、かなり重要なポイントです。

不自然に崩れているので、すぐに分かります。.

本丸北東角です。

 

しかし、まあ、天守閣以外、ほとんど何の看板もないお城でしたね。

人様のブログで勉強するしかありませんね。

 

下記のPDFパンフレットは、石垣の貴重な資料となりました。

ぜひご覧ください。

www.rijo-castle.jp/rijo/pdf/sirouya26.pdf. 

 

中国地方石垣百選に選ばれてるのだそうです。

(石垣を讃える会という団体があるそうです

ぜひ制覇してみたい!

 

良い目標が出来ました

 

 

 


わが故郷の広島城 パート1。

2012-01-07 11:25:25 | 中国・四国地方の石垣。

年末帰省のおり、広島城に行ってきました。

↓ ご覧のとおり、アクセス抜群!市街地のそばにありますので、

何かと溜まっていた用事を済ましつつ…のお出かけになりました。

(広島城のパンフレットより)

わが母校からも程近い距離なのですが、

母校→商店街・デパート→お城 という位置関係ですので、

在広時代に行くことはありませんでしたね。見事に一度も

ただ、何かしらの用事で、近くを通って、眺める広島城は、とても美しいフォルムで・・・

広島城=ザ!お城 というイメージが強烈に染みついており、

他県でずんぐりむっくりした(失礼!)お城や、非対称の形のお城、天守閣のないお城、など見ると、

非常に違和感を感じたものでした。

 

まあ、そんな私が、今回は初めて・・・

天守閣目的ではなく、土台の石垣目当てで行く、という試み。

(一応、過去2,3回登城したことがあるのですが、あまり覚えていない)

そういえば、どんな石組みになっていたかも定かでないし、縄張りがどんな風になっているかも分からない・・・

(脳内イメージでは、本丸の片隅角に天守閣がある、といったイメージだけ)

それは、上記の案内図でも一緒のようですが

まあ、しょせん、世間の興味はそのくらいと言ったもので・・・

趣味・興味の分かれるマニアックな事柄に関しては、自分の足でもって調べてみるしかありませんね。

 

というわけで、通常の観光ルートとは異なるルートをたどりながら、広島城散策を楽しむことにしました。

 (ピンクの手書き線が、私達の歩いたルート)

 【通常の観光ルート】 下(南側)の茶色い四角部分の → 二の丸 → 本丸 → 天守閣 → 来た道を戻る のに対して・・・

私たちは、南東角のスタート地点から、お堀の東側の遊歩道を通って行きました。

 

(手前の東南角が太鼓櫓・その横に多門櫓が連なり、奥・西南角に平櫓があります)

通常のルートは、平櫓に隣接している表御門から大手道を通っていくことになります。

 

お堀の内側を通りますと、どうしても建物に目が奪われてしまうのですが(復元してあり、美しい建物なので余計に・・・)

外側から遠巻きに、二の丸・本丸を眺めてみますと、石垣やお城全体の構造がよく分かります。

     →      

(二の丸東南角の太鼓櫓・・・右奥に見えてるのが、本丸)            (二の丸の北側には、結構複雑な形をした本丸があります)

 ちょっと北に進むと、二の丸の全体が見渡せます。

     →      

 二の丸からは土橋を渡って、本丸に入ります。       とても美しい  日本の城なのか、西洋の城なのか分からないくらい、お洒落で渋い空間です。

 本丸の入り口の中御門跡・枡形

 (天守閣が見えています

私は、この石垣の凸凹 ↑ が気になってしょうがなかったです。

あとから、近くで観察してみたけど、ちょっと危ないんでないかい?というくらい朽ちてきてて、

これは、わざと放置してあるの?と思ってみたけど、そんな説明書きもない・・・

原爆の爆風の影響か、水害によるものか、単に老朽化のためなのか・・・

結局謎のままでした。

でも、補修しまくりでピカピカのお城より、ちょっと朽ちてきてて、こっちが大丈夫?と思うくらいのお城の方が、

私は好きです。

よく動く乳幼児をお連れの方は要注意かもしれませんがね

柵も、極力設置してないようなので、あまり端っこには近づかない方が良いでしょうね。

本丸の全貌。

要所要所、でっぱっている部分に櫓が設置してあったようです。

さすがは、天下の大大名・毛利120万石

守りの堅いお城ですね

こちらは、本丸の東御門跡・枡形虎口 ・・・ 三の丸からの入場口です。

て~ことは、いま立っている部分が三の丸だったわけですね~

余談ですが、他県の例にもれず、広島城の旧敷地には、県庁や合同庁舎・県警など公の施設が集中しています。

今も昔も、この地方の中枢なのですね。

東御門から、真っ直ぐ行った先に、広島の護国神社があります。

本丸内部は、旧日本軍の司令部が置かれていた場所。

あちこちに旧跡が残っています。

廃藩置県~第二次大戦後にかけて、どの程度、お城の建物が残されてきたかは分かりませんが、

おそらくは、徐々に軍の建物が広げられていき、ついには、原爆で吹き飛ばされてしまった、というところでしょうか。

戦前までは、各地で数少なくなってきていた現存天守閣のひとつでありましたが、原爆でやられてしまった・・・

無常というしかありませんね。

残ったがれき・建築材も、戦後の混乱の中、薪や資材として使われたという・・・

今の天守閣も好きですけど、昔の天守閣、見てみたかったですね。

少しでも、その姿を偲ぶためにも、比較的保存状態の良い石垣を観察します。

東御門から本丸に入場して、右折・・・

本丸北側を守るべく積み上げられたのか、土塀のように長い石垣

二重に守られている本丸です。

本丸北側・・・東から西にかけて、ずらり!天守閣まで続いています。

 

石垣の右側(お堀の横から見ると、↓ こんな感じになります。

 (← この石垣の上を歩いているわけです。)

落ちたら危険!ですけど、相変わらず、ここにも柵はないです。

あくまで自己責任ということでしょう。

(まあ、観光客はほとんど通らないと思います。)

今回、一番マニアックでお気に入りの場所となりました

お城の好きな方には、ぜひともお勧めしたいルートです。

 階段を上がったところが、今は無き東側小天守の天守台となります。

ナイスビュ~人っ子一人いないし・・・

天守閣の入場口となる位置にも、南側小天守があったそうで・・・

そうなると、姫路城ばりの、小天守付き超デラックスなお城であったと思われます。

見てみたかったですよね。

→東側小天守

南側小天守

 

このあと、南側小天守跡を通って、天守閣内に入りました。

 

 

投稿、とりあえずここまで

後半部分は、パート2として投稿します。

 

~~~   つ  づ  く   ~~~


三原名物。

2011-09-06 10:25:10 | 中国・四国地方の石垣。

広島

瀬戸内海大久野島キャンプの帰り

三原駅はたぶん二回目の利用でした。

ご当地

まさしく、三原駅そのものが三原城跡なのだから

これ以上の、ご当地弁当はないでしょう。

 

中身は、ごくごく普通でしたが、ローカル素材がふんだんに使われていて、うれしい弁当でした。

 

その他、お土産

尾道ラーメンやタコ飯の素など

使えるお土産が多くて、結構予算オーバーな買い物になりました。