京都大原紫葉工房便り

京都洛北・大原の里のしば漬屋から、毎日!情報発信。

大宮御土居。

2009-02-28 21:46:13 | 太閤御土居めぐり。
今日も、子達をダマくらかして
御土居めぐりに行きました。



住宅地図をコピーして
北区の御土居を網羅することにしました。

この「御土居」
主に
普通の住宅街の中に残っており
(もしくは、御土居が消失した上に家が建っている)

あまりにも生活に馴染んでいるから?
そこに「御土居」という史跡があることにも
気付いてもらえてないようでした。


(後ろの分譲住宅?は、明らかに御土居跡の上ですよね)

ただの住宅街で
写真をパシャパシャと撮っている私は
挙動不審者
以外の何者にも見えないでしょうね。

とっても怪しい・・・



しかしね
地図で見ていると
御土居の名残がしっかりと残っているので
路地のひとつひとつが面白いんですよ。



主に一方通行になっている道を
西に東にと車を走らせて
ひとり、感動に浸っていた妻!なのでした。

(後ほど、詳しく投稿します)

毎日投稿できないワケ?

2009-02-26 21:51:06 | 妻!日記
言い訳というほどでもありませんが

11月~1月まで、ほとんどバレーの練習に行けなかったのと
正月太りでずいぶん贅肉が付いてしまったので

ここ一週間
お風呂上りに筋トレしてます。

正直キツイので、いつまで続くのか分かりません。

とにかく
昨年以上に増えてしまった
体重と贅肉はそぎ落としてしまいたいので
続く限り、と思って
自分を励ましながら頑張ってます。

軽い目の腹筋と
軽い目の腕立て伏せ
(軽い目というのが、続けるコツです)
それから
カカトを上げたままするスクワット
(これがキツイ!)
それぞれ30回ずつ、3セット
プラス、あと10回で
計100回ずつ

正直キツイです。

だから、基本的には続かないだろうと思っているので
とりあえず、三日坊主にならないのを目標に
4日間続けてみて・・・
今日で7日目です。

トレーニングを始めてから
初めての練習が
昨日だったのですが

「この毎日の筋トレが、功を奏しました!」

いつもやってる
コーチ対二人のレシーブ練習
(いわゆる、アタック№1みたいな練習です)
これが、むっちゃ楽!
足元がふらつかず
手元もぶれず
息が上がらないから、気持ちにも余裕が出る!

正直、初めてマトモにパスが出来るようになったので
コーチにも、やっと相手にしてもらえるように?なりました。



しんどいトレーニングも
結果が出てくると
がぜんヤル気が出てきますね。

一石二鳥で
体も引き締まる。

体重は・・・
というと
マイナス贅肉、プラス筋肉という感じで
劇的に減量するわけではないのですが
じわじわながら、減ってきている。
まあ
お風呂上りに
明らかに引き締まった自分の体を見るのは楽しいですね。

という感じで
毎日、えっちらほっちら筋トレしてます。

だので
なかなか、ブログ投稿する時間がないのですが
暇を見つけて、投稿
コメントお返事も書いていきますので
今後ともよろしくお願いいたします。


北野の御土居。

2009-02-22 14:33:58 | 太閤御土居めぐり。
先日もお伝えしたとおり
新カテゴリー「太閤御土居めぐり」を追加しました。

その意図とは?

まず
「太閤」「御土居」というキーワードについて説明しますと

ここでいう御土居とは
天正19年(1591)
豊臣秀吉が京都改造の総仕上げとして築造した
御土居堀のこと。

北は鷹峰(しょうざんの建物の辺り)
東は鴨川
西は紙屋川
南は九条(京都駅の南)まで
総延長約22.5キロにおよぶ
土塁と堀が築かれました。

ほぼ中央に秀吉の聚楽第(お城)を置き
その周囲に築いた広大な堀

つまり
アジアや西洋のような都市城壁が
かつて京都にも存在していた
というわけです。



秀吉は
自らの築いた京の町を
御土居堀で囲い
その内側を「洛中」
外側を「洛外」とに分けました。

洛中と洛外の往来は
要所に設けた「口」と呼ばれる関所に限定し
外的からの防衛、洛中の治安維持をはかりました。
(資料:新創社・京都時代MAP安土桃山編より)



とまあ
私のちっちゃな頭でう~~んと想像するところ
太閤殿の居た昔には
京の都がぐる~っと御土居(土壁?)で囲まれていたと・・・

それは何とも
すごいことです。

現在の
東西南北、平らで、これといった障害もない
京の交通事情からしますと
それは
すごくうっとうしかったものかも?
いやいや、それとも、太閤様の守護を受けて
頼もしい限りのものだったか?
当時の住民事情は計り知れませんが

周囲22キロにもわたって
巨大な土塁
土のかたまりが、ずらーっと伸びていた姿を想像しますと
それはもう究極の
歴史ロマンの世界

残されたものが、あまりにも少なく
あまりにも地味で
人々に見向きされないものであるがゆえに
無限に広がる想像の世界

残された史跡の
その場所に立ち
自分の持ち得る最大限の想像力を駆使して
当時の姿を思い偲ぶ

手間もお金もかからず
しかし
脳の活性化には最適という
とても良い趣味を見つけました

すべての御土居史跡を網羅するまで
子達をだまし付き合わせて行きたいと思います
で釣るわけです)



というわけで
御土居シリーズの第一回目。

普段は拝観不可
梅の季節だけ限定で入場することのできる
北野天満宮横の御土居史跡に行ってきました。

一週間前の日曜日のことです。



この日は素晴らしい晴天で
梅苑を見に来た人でいっぱい



天神さんの駐車場・周囲のコインパークも満車で
駐車するのに苦労しました。
(西側・コインパークは比較的空いてるかも)

コインパーク600円(2時間ほど?)
梅苑(御土居の拝観とセットです)の入場料
大人600円 子供300円
これだけで1500円の出費
そこまでして
あくまで御土居目当てで来ているのは
きっと私だけだろうな・・・
(優越感か?)

しかも、帰りの機械精算の時
一万円札しかないことに気づいて
近所の傘屋で
次男と長女の傘を買って
お金をくずし
とっても高くついてしまった御土居拝観でした。

ですから
興味のない方(ほとんど?)には苦痛かも知れませんが
ちょっと大きな画像でアップしていきます。



実は
北野の御土居に来るのは
今年二回目。
前回は、手前でカメラがバッテリー切れになってしまい
残念ながら撮影できませんでした。
それに、梅苑公開前だったので
柵の外から眺めるだけでした。

今回は
梅苑の中を通り抜けて行き
西方向へ・・・

ちょっと高台に上がったところが
すでに御土居史跡の頂上部分となっており
柵がしてあるところ(前回・立ち入り禁止の部分)から
下の紙屋川に向かって
御土居の斜面を降りていきました。


(この竹の柵の手前延長部分が
 前回、通せんぼしてありました)

御土居
河原の土手、と表現した方が分かりやすいでしょうか。

たぶん
太古の昔は
この紙屋川と
東側の北野天満宮の敷地
ほぼ平らかであったと思われますが
太閤殿の命令で
御土居という大きな土手を作ったために

こうして、えっちらおっちら坂を上り下りして
移動しなければいけないわけです。
良い意味では
この土手が出来たおかげで
北野天満宮は
紙屋川の氾濫・水害を心配しなくてもすむようになりました。

そう考えると
いかに、この御土居史跡が重要
すごいものであるか、分かっていただけるでしょうか。


(紙屋川東側から)

画像にある、ささやかな流れの川が
紙屋川
氾濫を気にするほどの規模であったかは分かりませんが
お堀の役割を果たす程度の水量はあったのかな?

川の流れをはさんで
左側が洛外
右側が洛中
この何でもなさそうな地味な土手が
かの太閤殿の御土居史跡でございます。



御土居であらせらるる~


(紙屋川西側から①)

赤い橋も
往時を再現したもののようでした。
観光の良きアクセントになってます。
春は梅、秋は紅葉の名所です。

洛外からの御土居連続写真
①②③(左から右)です。


(紙屋川西側から②)

川沿いの柵と
御土居の竹の柵の位置を
比較して頂くと
御土居の大きさを実感していただけるでしょうか。


(紙屋川西側から③)

画像中央上の
赤い柵のある舞台のようなものは
御土居の上から、全体を眺める展望台になってます。
(ここは、通年拝観できます)



急に画像が小さくなって何ですが
樹齢400年以上のカエデ?です。
御土居の周りでは
木々の伐採も制限されていたようで
このような大木も残っています。



北野の御土居には梅が植えられ
市民も梅を楽しんでいたそうです。
今も昔もの風景ですね。



上から見たところ



白・赤・ピンク
複雑に色が競い合っていて
賑やかな御土居史跡でした。


呉銘菓。

2009-02-19 09:47:09 | いろんな最中。
すっかり忘れかけていましたが
お正月に広島に帰省したときのネタ。

年末に
我が家からは比較的行き安い
呉に遊びに行きました。

年末ということで
お目当ての「てつのくじら館」は休館

開いている所と言えば
スーパーと
後どこだろう、といった感じ

ちょっと困ってしまいましたが
有名どころ
今、呉でイチオシの観光地
「大和ミュージアム」は
年末も開館中!
ということで

こちらを見学してから
隣の大型スーパーで遊んで帰りました。

その帰り
呉駅のキオスク?で買ったお土産です。



海軍ゆかりの地
今は海上自衛隊・保安大学校をかかえる
呉だけあって
相当インパクトの強いお土産です。



たしか
同じ最中で
戦艦ヤマトバージョンもあったような・・・


(「セイヨ」と書いてあります)

中は
せと貝
せと貝とは、ムール貝のことでしたか?
黒い貝で

調べてみると
せと貝(瀬戸貝?)は
呉と向かいの島の間にある海の難所
「音戸の瀬戸」で
よく採れていたそうです。

中身の写真
あいにく綺麗な写真が取れなかったので
掲載しませんでしたが
ネッチリとよく練り上げられた系の餡子です。
干し柿風だそうですよ。

長期保存タイプの商品なので
ムチャクチャ美味いか?と聞かれたら
微妙な感じなのですが
素朴でなかなかのお味です。




横須賀・舞鶴と並んで
肉じゃが発祥の地を競う?
カレーライスでしたっけ?
古くからの海上の要衝だけあって
ハイカラなもの(古くて懐かしくて、でもやっぱり新しい?)
が多いです。

他にも
「呉」だけでカテゴリーが作れるくらい
個性的なものが多いところです。

新カテゴリー登場!

2009-02-17 09:25:23 | 太閤御土居めぐり。
久々にカテゴリー追加しました。
名付けて「太閤御土居めぐり」



名前の通り
その昔
太閤さんの作った御土居を
めぐりめぐっていこうと思います。

久々に
心奪われるテーマが出来ました。

御土居は
ほんの数十年前までは
ほとんど史跡的価値を見出されてこなかった為
むき出し
無料で拝観することができます。



上の御土居は
高くついたな~

てことで
詳しいことは
次の投稿でお伝えしたいと思います。

梨酒。

2009-02-13 11:23:53 | 妻!の料理
昨年の秋には
おじいちゃんが植えた梨の木に
たくさんの実がなりました。

見た目は売ってある幸水梨みたいな
おいしそうな梨
香りも良いのですが
とても硬い・・・

そんな梨がたくさん採れましたので
どのようなものかと
果実酒にしてみることにしました。

きちんと記録はつけていないのですが
本に載ってある、一般的な果実酒の配合で
氷砂糖・ホワイトリカーと一緒に
スライスした梨の果実を漬け込みました。

9月3日のことです。

その果実酒の
(たぶん)一ヵ月後の写真



うっすら茶色くなっているのが分かります。
糖分とアルコールの比重によるものか
上と下では色が違いますね。


しばらくホッタラカシ
忙しい間は触ることなく
先日、久しぶりに開けて見ました。



5ヵ月後

微妙ですが色が濃くなってます。
味はどうでしょう。
ちょっと怖いような・・・
とりあえずカビも浮いてないし
成功のようではあります。

フタを開けてしまったら
ついでに網で越して、果実は捨てて
使いやすい小瓶に移そうと思います。

美味しくできてたら
ジュレなど作ってみたいのですが
果たしてどうなってることでしょう。

怠けグセが・・・

2009-02-13 11:01:53 | 妻!日記
大して忙しくない忙しさにかまけて
ブログ投稿をサボっていて
すみません。
(ネタはデジカメに溜まっています)

取り急ぎ、皆様から頂いたコメントに
お返事を書かせていただきました。
「まだないぞ」と覚えていらっしゃる方
ご照覧くださいませ。



この前の祝日
滋賀県の希望が丘公園に行ってきました。
子達の希望で、自転車を積んで
ボールも持っていきました。
大規模なアスレチックに入場したのですが
山の中腹にも行かないうちに
雨がぽつぽつと・・・

急いで駐車場まで移動したのですが
雨が次第にきつくなってきて
前も見えないほどの土砂降り

(雷はないけど、イメージ的にはこんな感じ)

2月の雨は
冷たくて痛い・・・
子達、生まれて初めての大冒険になってしまいました

家に着いたら、お風呂に直行
すぐご飯。
おかげで、夜はゆっくりと過ごすことが出来ましたが
熱でも出したら・・・
と肝を冷やしましたね。

昨日は園の音楽会

次男の同級生は
風邪引かないようにと
休日は家にこもっていたと・・・

賢い親
そうでない親

何事もなく、良かったです。

シキミの実。

2009-02-09 20:37:07 | 妻!日記
しばらくご無沙汰しておりました。

とあるお宅へ行った時のお話です。
そこには、広大な畑と田んぼが広がっていたのですが・・・

田んぼの一角に
仏前に供えるシキミという植物がたくさん植えてありました。

シキミご存知ですか?
神前花のサカキはよく知っていたのですけど
シキミのことは、京都に来てから知りました。
サカキと似たような植物ですが
(一見、椿の葉っぱに似ています)
ちょっと違いますよね。
(一節?から出てくる葉っぱの数がもっと多い)
ウィキペディアで調べてみたんですけど
シキミは広島で盛んな浄土真宗の儀式でも多用されるみたいです。
(実家近所のお寺によく行ってましたが、気が付きませんでした)

まあ、ともかく
普段は、仏壇に供えるため
花屋さんで、一くくり300円くらいで買ってきたり
近所のお宅で自生しているのを分けてもらったりしている
シキミ

お世話して、花瓶に挿したりしていると
何ともいえない芳香が漂います。
なるほど、仏前に供えるだけのことはあります。
どうも、お線香の原料にもなっているそうですから
それはもう素晴らしい香りです。
白檀とかの香りに通じています。

そのシキミが
先日訪れたお宅には、たくさん植えられていました。
「あっこにシキミがあるで」
と言われて
どれどれ、と近づいて行ってみたのですが
風に揺られて
シキミの芳香がほわ~と漂ってきます。
「良い香り~」と思って
シキミの木の群れに近づいてみました。

シキミ
買ってくるものにもツボミが付いていることがあるのですが
ここのお宅のシキミにも
花の咲いた跡
実も付いているようでした。

欲どおしい私のことですから
ジロジロと見ておりましたが

あっと驚く発見!
ナントね
シキミの実
中華料理の香料の
八角(肉料理の臭み消しに使われる)にソックリだったんです!

ええっ
もしかして、八角はシキミの実なの?
と、ウレシイ発見?

近づいて、その八角に似たシキミの実を触ってみます。
実の表面に爪を立てて削ってみますと
まさしく、中華料理のアノ香り!
「ええ~そうなん
て感じでしたよ。
こんなにたくさんあるし、どうしよう~
て感じです。
まあ、あの八角の強烈な香りで
家庭料理を作るのはなかなかですけども
もしもの時には使わせてもらおうっと
と勝手に思いながら
その畑を後にしました。



そして今日
この、シキミ畑の一件のことを思い出して
さっそく、パソコンで調べてみることにしました。
「八角」で検索してみるわけです。
つまり、「八角がシキミの実である」
ということを証明したかったわけです。

で、検索してみました。

八角とは・・・
「トウシキミの実」
お、ビンゴじゃん
と思いましたが
「シキミ」の前に「トウ」が付くのが、なんか引っかかる・・・
よく読んでみました

八角とは、トウシキミの実を乾燥したもの
トウシキミは、シキミ科の植物
日本に自生しているシキミとは違うものである

トウシキミの「トウ」とは
おそらく「唐」のこと
つまり中国で採れる、ということでしょうね。
中国シキミとでもいいましょうか。

さらに
シキミの実
八角によく似ているので、よく間違われるが
猛毒成分があり
植物で唯一劇薬指定されている

とのことです


食べなくて良かったです
パソコン検索しなかったら
9割がた
何も疑うことなく
試し食いしているところでした

まあ
私だけじゃなく
皆さん、シキミの実は八角だと思ってしまうようで
中毒事件も起こっているみたいです。
シキミの記事
(けっこう危険な植物です

実だけじゃなく
葉っぱや茎にも毒成分が含まれています。

若葉は、黄緑色で柔らかそうで
とても美味しそう
(お茶の葉に似ている)
香りが良いから
何度か、お浸しの姿が思い浮かんだことがあったのですが
食べなくて良かったです。


(追伸)
シキミは関西ではよく用いられていますが
関東では、あまり使われないのですか。
我が家では、仏壇の花壇に
常に、シキミが供えられています。







幽霊子育飴の続きです。

2009-02-05 04:25:26 | 京都観光に役立つ?話
リクエストにお答えして?
幽霊子育飴について、詳しく書こうと思います。



まあ
封を開けて食べてみた
というわけなんですけど

開けてみると
飴が入った透明の袋に
薄い緑の上紙、赤いネーム入りの紙が
巻いてあるだけの
簡易包装でした。

紙を取ってみると
中に飴の由来の紙が入っていました。

「今は昔、慶長四年(1599)京都の江村氏妻を葬りし後、
 数日を経て土中に幼児の泣き声あるをもって掘り返してみれば
 亡くなりし妻の産みたる児にてありき、
 然るに其の当時夜な夜な飴を買いに来る婦人ありて
 幼児掘り出されたる後は、来らざるなりと。

 此の児八才にて僧となり修行怠らず
 成長の後遂に、高名な僧になる。
 寛文六年(1666)三月十五日六十五才にて遷化し給う。」
 (幽霊子育飴・由来より)

(製造者)みなとや幽霊子育飴本舗
京都市東山区松原通大和大路東入2丁目轆轤町80番地の1

と、あえて住所入りで詳しく紹介しましたが
この松原通
京都の東西を貫く通りで
東のどんつきは清水寺や大谷さんの霊園になるのですが
この辺の丘?は、昔は鳥辺野と呼ばれ
京の都の人々が亡くなったら葬られる場所でした。
(今も、昔もですね)

松原通が、その鳥辺野へ死者を葬りに行く通りであったんだそうです。

私の松原通の認識は・・・
配達の道(轆轤町の某店に卸してます)
川端通りから東大路の抜け道
なんか昔懐かしい店の多い店
と言うくらいだったのですが
それが野辺送りの道であったとは驚きです。

でついでにいうと
轆轤(ろくろ)町という名前も
昔、ここらあたりからドクロがたくさん出土して
髑髏(どくろ)原と呼ばれていた時期があって
髑髏では、ちょっと具合が悪いから?
轆轤に変えた、とか

まあ、こんな話を聞いても
一つもおどろおどろしくならないのは
やはり京都だからでしょうか。
あ~~~なるほどな、という感じです。

よく考えてみると
私たち、いっつも鳥辺野でバレーしてるのね。
(東山体育館)
時代も変わったもんです。

それに
この幽霊飴が電気屋さんで売られているんですからね。
(これからも、電気屋さんでしか買わないゾ、という
 へんなポリシーを持ってしまいそうです。)

そうそう

上記の由来書に書かれている
江村氏妻の産んだ赤子
「高名な僧になる」とありますが
いろいろ見ている限り
飴屋さんからすぐ近くの
六道珍皇寺の僧であったようです。

なお
落語でも、この飴買い幽霊の話がネタとなっており
赤子が僧になったお寺は
高台寺(子を大事)
というオチになっているそうです。



さて

さらに詳しく
原材料は、麦芽水飴、砂糖となっております。
配合量は定かではないが
さるブログ情報では、8:2としてあって
麦芽水飴が基本
でも、それだけでは固まらないので
砂糖を加えて固めてある、というような説明でした。
だので
味は、麦芽水飴の味がします。
(て、麦芽水飴の味が分かる人はどのくらいいるでしょう。
 昔、麦芽水飴食べた記憶があるので、分かったのですが
 確か、健康食品コーナーで買ったんだと思います)
麦芽水飴の味は、白糖の味とは違いますよね。
無味無臭で甘いだけ、と言うのではなくて
麦芽水飴独特の風味があります。
人によっては、カンロ飴に似ていると評されているので
そういう、醤油だとか、まろやかな旨味系の味なのだと思います。

麦芽水飴の風味が昔っぽくて嫌だと思わない限り
(今時の味ではありません)
クセがなくて、食べやすい飴です。
白糖ほど甘みもきつくないので
のどが渇くこともありません。
由来書きの最後のほうに
「薬飴とまでいわるる」とありますが
なるほど、体調不良時の滋養にしたら良さそうです。
さらに
「教育の上に、衛生の上に此の家の飴ほど良き料は外になし」
との記述がありますが
確かにネグレスト(養育放棄)の母親に舐めさせたい
私が舐めなあかんか?
と思ってしまう
現代人の戒めにもなりそうです。



 

節分ですね。

2009-02-03 20:19:17 | 妻!日記
長女も幼稚園に行って、豆まきしてきました。



鬼に負けないよう?
真っ赤なアンパンマンスーツで出かけました。

長女の鬼の面と
長男の赤鬼
次男の青鬼



気に入ってるのは
長男の赤鬼

書いた本人の心が表れているのか
穏やかで優しそうな鬼です。

じゃ~次男は?
と言う感じなのですが・・・



我が家の鬼

長男が学校の節分でもらってきた
飴玉3個

その包み紙をみて
「私もほしい!」と駄々をこね始めた
長女・・・

「フワフワ(ソーダ)の飴がほしい!」
「ばあばあ、お店で買ってきて!」
(20時の出来事です、まあファミマがあるけど・・・)
「フワフワの飴買ってきて!」
と言って、譲りません。

母、あまりにものワガママに腹が立ち
寝室に退散
後処理は、ばあばあのオンブで・・・

ものの数分でオヤスミしました




我が家の鬼?
寝ると天使ですね・・・

幽霊子育て飴。

2009-02-02 22:09:04 | 京都観光に役立つ?話
毎月、月初めには
体育館使用の抽選が行われるので
今日、東山体育館に行ってきました。

同行の長女が退屈してしまったので
外をお散歩ついでに
前々から気になっていたものを買いました。



ストレートにおどろおどろしい名前の飴ですね。
といっても
その名前の元となったお話は、あまりにも有名なので
内容を知っている人には
むしろ、心がじんわりとくる飴であるかと思われます。
(知らない方は、検索して調べてみましょう)

少なくとも
昨今の子供虐待のニュースを見ていると
幽霊よりも、生きてる人間のほうが恐いですし



まだ味見をしていないのですが
原料は、きわめてシンプルなもので
味も優しいものであろうと想像できました。

買ったのは
飴屋さんではなく
普通の電気屋さん
東山通り・松原通の交差点の角のお店です。

一つ500円

買いに行くと
「えっ、それ買わはんの?」という雰囲気でなく
全く普通にレジを済ませてもらえたので
結構、ここで買わはるお客さんも多いと思われます。

最初に見かけてから
すでに半年以上たちますが
やっと買いにこれました。
(だって、電気屋さんで幽霊飴買うのは、やっぱり気恥ずかしい)

飴を買いに来た
幽霊母の気分にちょっと近づけました。

坂本・旧竹林院。

2009-02-02 21:06:14 | 近江の石垣。
おとといの・・・土曜日
おじいちゃん達と一緒に
近江坂本の
旧竹林院に行ってきました。



旧竹林院は
坂本の里坊のひとつ

里坊とは
延暦寺の僧侶の隠居所だそうです。



その旧竹林院で
盆梅展が開かれています。



提灯が飾ってあって
わりと親しみやすい雰囲気です。

入ってすぐの場所には
坂本城の絵がありました。



有名な大津絵もいくつかあり
近江らしさを醸し出しています。



それほど大きくはない敷地ですが
背景の庭園が盆梅を引き立てていて
素晴らしい!



見ごろは、もう一週間ほど先かな。
いやいや
花は咲いてなくとも
素晴らしい老木・古木のオンパレードです。

その中の
見ごろの梅



咲き分けの梅も
淡い色でなんとも可愛らしい





それにしても
鉢植えのカメラ撮影は難しいですね。

花だけでなく
幹・枝つきの素晴らしい盆栽は
アップよりも全体像を撮りたいのですが
そうすると花自体の美しさが分かりにくい・・・
どうやったら綺麗に撮れるのか悩んでしまいました。



う~ん微妙です。
本物の美しさは
是非!現地で実感してくださいね。



盆梅展だけでなく
外のお庭も拝観できますが
雨が降っていたし
この日は省略しました。

天気のいいときに
また訪れたいと思います。



雨にぬれる 石垣の うつくしさかな



梅雨時期
雨で艶めく石垣の見学ツアーも
なかなか良いかもしれません。


長浜鉄道スクエア。

2009-02-01 21:48:38 | 妻!日記
この前の日曜日
家族で長浜までドライブしました。
前投稿「長浜城跡」の続きです。

豊公園・長浜城を見学した私たちは
数百メートル離れた
長浜鉄道スクエアにも
行ってみることにしました。

鉄道スクエアまでの道中
こんなものを発見しました。
(というか、通りがかっただけですが)



なんと築90年の西洋風あずまやです。
関連記事

説明版を読んでみると
かなり文化財的存在なのですが
普通にあるので
(柵とかも無い、普通の東屋の役割を果たしています)
レプリカ?とも思いましたが
どうも、本物の築90年みたいです。

上の関連記事を見てみますと
ペンキで色を塗りなおしたようで・・・
だから、新しげなんですね。



さて
豊公園から数百メートルほど
湖岸道路を横切って
JRの線路・踏み切りの手前に
鉄道スクエアの建物がありました。



明治当時の旧長浜駅舎
そのまま残っています。

現存最古の駅舎だそうです。

1880年(明治13)に着工
1882年(明治15)3月の鉄道開通と同時に開業しました。
(パンフレットより)

駅舎の前庭にも、いろいろな記念物?が保管されていました。


(旧長浜駅29号分岐器ポイント部)

なにやら仰々しい名前のものですが
長浜駅開通時から
およそ80年現役として働き続けたそうです。



中に入ってみると
昔の雰囲気そのままでした。



ケーブル坂本駅を思い出しました。

隣の建物は
長浜鉄道文化館

ここは新設された場所で
全長66メートルの鉄道模型レールがありました。

常設か企画展示か分かりませんが
風刺漫画で有名なビゴーの風刺画(コピー)がたくさんあり
面白かったです。

お隣の北陸線電化記念館には
子達お目当て?の機関車などがありました。



動いているわけじゃないから
子供はそんなに喜ばないか・・・
(小さいけど動いてる鉄道模型のほうを気に入ってましたね)



こういうのは
大人のほうが喜んでるのかも



まあ
思いっきりノスタルジーに浸って・・・
いましたが

「なんで、長浜に、鉄道スクエアなるものがあるのだろう?」
という、当初の素朴な疑問・・・

そう
なぜ、現存最古の駅だとか
あとは、季節運転されるSL北びわこ号だとか
なんで、長浜に、そういうノスタルジー漂わす施設・企画がなされるのか・・・

もやもやと考えていたことなのですが
鉄道スクエアを見学して
疑問が晴れました。



東京~大阪間を結ぶということは
今も昔も変わらず
国の重要課題であったようで

明治維新後の不安定な政治情勢の中
外国に「追いつけ追い越せ」との
国家の命運をかけた鉄道計画

京浜~京阪神の太平洋ベルト
その分岐点を「長浜」に置き
日本海水運の窓口「敦賀(福井)」へと結ぶ計画

敦賀からは舞鶴・新潟・小樽航路
ひいては大陸への水路と飛躍します。

一見
平凡な琵琶湖の1集落に過ぎない場所だったでしょうが
(これは言い過ぎかな)
国家の鉄道計画の中心軸としての
役割を担う事となりました。

1872年、横浜~新橋間の開通
1874年、神戸~大阪間
1877年、大阪~京都間
1880年、京都~大津間、札幌~手宮間の開通

1882年
釜石製鉄所専用鉄道の開通に続いて
長浜~柳ヶ瀬間、柳ヶ瀬トンネル西口~金ヶ崎(敦賀)間
が開通しました。
(1884年、柳ヶ瀬トンネルの開通で
 長浜~敦賀間が開通)

ちなみに
この時点では
東京~神戸間のうち
横浜~関が原間、大津~長浜間は開通していません。

1889年に
大津~長浜間が鉄道で結ばれるまでの7年間
琵琶湖水路
鉄道連絡船が活躍しました。
(民間の連絡船を就航させて、鉄道が出来るまで代用)


ちょっと説明足らずで、すみません
鉄道スクエアの展示は、なかなか見ごたえがありました。
鉄道建設計画の情熱が伝わってきます。
是非、皆さんも行ってみてくださいね!



ドライブ帰り
彦根港近くで夕暮れ
結構、アベックの車が見物に来ていました。
良い雰囲気でしたよ