遅ればせながら…
今頃になって、小説「功名が辻」を読んでます。
大河ドラマで盛り上がっている時に読んでしまうこともできたのですが・・・
何となく気恥ずかしさ(あえては申しませんぞ
)と
全4巻という壮大さに躊躇してしまいまして、今まで読まずにいておりました。
司馬遼太郎さんの作品自体、馴染みがなかったのですが、
昨年の帰省の折だったか、京都駅の書店で短編モノを購入しまして、
読んでみたら、みるみる引き込まれていき、なんと面白いこと!
ブックオフで、全巻購入して、ただいま4巻目を読んでいる所なのです
内容については、基本的には、
戦国武将・山内一豊が、千代という賢い妻を迎えてからの、伝記もの的小説。
(言い切ってしまうと、注意を受けそうですが・・・)
おおむね3巻までは、妻・千代の視点から書かれており、
武将として凡庸な夫をいかに扱うか、というような内容が多いのですが、
4巻になり、関ヶ原前夜・一豊が徳川家康派に属してゆくあたりの内容からは、
山内一豊の心理描写が中心になっております。
これまで中心であった千代の描写をあえて省くことで、この物語の頂点の部分を強調しているのでしょうか?
心憎い演出です。
まあ、拙い私の評論もどきはさておいておいて・・・
ひときわ私の心に染みた部分を抜書きしてみたいと思います。
司馬遼太郎「功名が辻(四)」 文春文庫
「大戦」の章より
~ところが、味方の諸軍が追撃戦をやめた、ということをきいて、伊右衛門は、
(しめた)
とおもった。天はまだわしを見捨てぬ、と大げさに思った。戦場で運を期待する心理というの
は、やはり異常心理の一つといっていい。これ以上、他人のみが武功をたてほうだいに立てる、
という現状がつづくことは、自分の運がカンナに削られて減ってゆくというあせりと表裏をなし
ておなじ実感なのである。
伊右衛門というのは、いうまでもなく、主人公・山内一豊のこと。
おそらく最後の大戦となる、関ヶ原の戦いで、誰よりも武功を立てて、
千代との夢である一国一城の主になりたいと願っていた一豊であったが、
おとなしい律義者という表の顔があだとなり、犬山城の留守番を命じられてしまうという場面。
平素、陰口など言わぬ一豊が他人をそしってみたり、愚痴ってみたり、相当取り乱します。
んで、上記のような場面。
成功したい気持ちでいっぱい。自分が今ここで頑張ればやれる!
やりたい!やらせてください!
にもかかわらず、やってはいけない。動くことが許されない。
これほど、身を切るような苦しみはありませんよね。
辛いです。
おそらく、作者・司馬遼太郎も、どこかでそのような苦しみを味わったことがあるのでしょう。
でないと、このような描写はできないだろう、と私は思います。
(じゃなかったら、神様、だと思う)
読みながら、自身のそんな経験が蘇ってきました。
ほんとっアノ時の気持ちったら・・・
切なく思い出しますが、(が、今となっては過去形か・・・さわやかに思い出せてることに気付いたぞ)
こういう小説を読むときの調味料になるんだったら、
辛い経験も悪くはないなあと思います。
(まあ、ないに越したことはないけれど)