京都大原紫葉工房便り

京都洛北・大原の里のしば漬屋から、毎日!情報発信。

京都大原学院にソフィアがやってきた

2011-02-20 14:34:21 | 若の日記
京都新聞の連載記事 ソフィアがやってきた。

先日、京都大原学院の4,5年生を対象に開催されました。

「ソフィアがやってきた」は、京都新聞文化会議メンバーを中心にした講師陣が小学校で特別講義を行うものです。







講師は、京都市植物園の名誉園長。

単なる見分け方にとどまらず、学術研究から植物も一生懸命生きてるんだよってことを子供たちに伝えようとしてくれたように思います。

京都新聞サイトに動画もありました。
5教科や運動だけでなく、より学術的や文化的な教養を深めるのも今の子供たちとって大事なことなんでしょうね。


うちの長男も出ています。


辻しば漬本舗

岩村城下~岐阜旅行のその後。

2011-02-17 16:07:14 | 妻!日記
約半年前に行った岐阜旅行・・・
やっとのことで、最終章です


岩村城を散策した後は
その足で、宿泊地・岩村山荘に行きました。



太鼓櫓・資料館のすぐ横にあるので
まるで、お城の付属のような建物です

岩村城主の気分でおくつろぎください・・・
みたいな誘い文句で、即!ネット予約しました

晩御飯は、戦国料理・・・



要するに、バーベキューみたいな感じの囲炉裏の食事なのですが
素朴な味を好む子達には、大好評でした



お店の人が、焼いてくれたり、火の番をしてくれるところも
今まで経験したことがなくて、面白かったです



ジャガイモを練ったお餅

焼しいたけが食べれるのも、私の宿決め手のひとつでした
子達は、普段はしいたけ食べませんが
岩村山荘で食べたヤツなら食べれると言います。

味付けは、タレもあったけど
基本はお塩!

思い切り振ってもらったのを頂くのですが
これが美味しかった

普段は、体を思って控えめにしてますが
濃いめにかけた方が美味しいですね。
(時代に逆行した意見ですが)



お店で泳いでいたアユ



焼きおにぎりと五平餅

食べきれなかったので
早朝食&昼食にしました。

お持ち帰りにしてもらえる、お心遣いもうれしいですね

車の中では、取り合いになってしまいました
とても良い味付けでした



朝ご飯は、控えめで、美味しいものをちょっとずつ頂く趣向

自家製の甘味噌は美味しかったので、買って帰りました。
たまご焼きも関西のと違って、すごく甘くて、おいしかったです。



お宿自体は、高級観光旅館というより
何か目的を持った人たちのための(ずばり岩村城でしょうか)お宿という感じです。

お風呂・トイレ・洗面所とお部屋は完全に分かれてるので
多少不便の感は否めませんが
私は、それも一興と思います。

完全なプライベート空間としての宿を追求するのも良いですが、
大なり小なり、お隣さんに気遣いながら滞在する
というのも、日本・日本人の旅の良さではないかと思います。

お宿では、翌日にお月見の会を開かれるとかで
主催者さん(岩村出身の方)も宿泊されてました。

ロビーでなんかしてはるな~という感じだったのですが
朝風呂の帰りにも通りがかったら、
一服勧めていただいて
子達と一緒にお茶を頂きました。

名古屋でお茶コンサルタントをしておられるとか・・・
穏やかで上品なご夫婦でした。

(たぶんビックリするような値段の)歴史があって立派な茶碗で頂きました

とても嬉しい旅の一幕
素敵な一期一会でした



さて
宿を出てからは、岩村城下をぶらぶら・・・

ゆっくりしたいけど、天候が怪しくて
急ぎ足の散策



グルメに走るのも品がないけど
岩村カステラ3店舗制覇に走ってしまった私

3店舗のカステラ写真を陳列する予定でしたが
秋のドタバタのうちに、撮影を忘れてました

上の松浦軒本店さんのカステラ写真なし・・・

下は、かめやさんのカステラ



焼印が入っているので
スタンプラリーみたいに集めたくなるんですよね・・・



お次は、松浦軒本舗さんのカステラ



一軒が元祖、後がのれん分けのお店だそうです。
どれが一番、とか言うより
値段も手ごろなので、ぜひ3店とも言ってほしいです

歩いて移動できる距離なのでグ~です



なぜ、岩村でカステラなのか、という疑問

・・・

文教藩岩村の歴史と関係があります。

江戸時代の岩村藩士で蘭方医だった神谷雲沢という人
長崎留学の折に、学問と一緒に
カステラの作り方も教わってきたのだそうです。

あくまで、病人の滋養食としてですけどね

関係ないかもしれないけど
お隣の明知藩の・・・遠山の金さんのお父さんは
長崎奉行勤めだったし、その辺のコネクションもあったのかもしれませんね。

一見地味な山村のようですけど
奥深くてミステリアスな岩村です


洋食の王道ハヤシライスを一般に広めたのも、岩村ゆかりの「はやし」さんだという説もあります。



「女城主」というお酒を造っている酒屋さん
松浦軒本店の向かい



若!がどうしても見たい、と言った、明知鉄道岩村駅

途中で夕立みたいな雨が降ってきたので
最後は急いで退散~しましたが
天気の良い時にゆっくり散策したいなと思いました。

何度も何度も通いたい岩村ですね




さてさて

帰りは、国道19号線を名古屋方面に移動

多治見の織部ストリートにて
陶器のお買いもの



半額フェアのお店で
憧れの志野焼の花瓶を買いました。

初めての、陶器・大人買い
立派な陶器で飾るところがない
いまだ押し入れの中に隠してあります。

そして

名神高速で帰路・・・
関ヶ原で降りて

資料館と石田三成陣の散策



愛しの大谷吉継陣の方も・・・


(見えてる中央の山は、宇喜多秀家陣だと思う、その奥が大谷陣)


(馬防柵)

三成陣に行くのは、3回目なんじゃないかと思います。
最初に来たときは、こんなに整備されてなかったような・・・




今では「風雲児たち」大好きの次男
戦国マニアを自称しています。

関ヶ原の武将では、島津義弘のファンなんだそうです。
敵陣中央突破が心打ったのでしょうか・・・

ちなみに、漫画で一番かっこいいのは
大黒屋光太夫、だそうです


すっかりマニア化してます。

いつもかなり(妻!の)自分勝手な旅行セレクトをしていますが
戦国マニアに染まってくれた次男、うれしいです。

新記録。

2011-02-16 09:26:57 | 大原の風景
今朝は、マイナス6℃でした



昨日の晩、学校に行って
帰るときには、すでに霜が降りていて
マイナス4℃になっていたので
「これはいける」と思っていました。

激寒写真・自己最高記録を更新できて、うれしいです



私が、朝忙しくて、ウオーキングできなかった日
マイナス8℃だったそうなので
次はそれを目指そうと思います

こういうのが、ひそかな楽しみですね。
お金もかからないし、何より冬が楽しめます

子どもの専売特許ではいけません。



こういう日には、あらゆる水たまりに氷が張っていて
子達は、それをつぶして周る

ちょうど、梱包材のプチプチをつぶすのに似ていますね。

私もしたいけど
子達の分が減る、と怒られるかな


今日は晴れ
お日さんの当たるところから湯気があがっています。

こりゃベトベトにとけるね

夕方の洗濯が大変そうです。

たまった泥靴をいい加減洗わないといけません

岩村城・本丸

2011-02-15 15:29:49 | 石垣のある風景(大原以外の!)
今まで、数回にわたって投稿してきた
岐阜県・恵那の岩村城の石垣・・・

前回までの投稿   ①復元太鼓櫓~登城口
(努力の結晶です) ②登城口~一の門~土岐門
              ③土岐門~畳橋・大手門
              ④大手門~二の丸

なぜ、こんなに、しつこくしつこく?投稿するかと言いますと
それは、一言では言い尽くせないほどの石垣の量だからです。

↓というわけで
段々ややこしくなってきましたので
イラストマップを見ながら、説明していきます



本日の投稿は、
マップの右上部分の道から始めます。

マップとは、若干方向が違うので、見にくいのですが
二の丸の菱櫓(右側)



その奥に、本丸の雄姿が見えてまいります。

岩村城を象徴する風景のひとつ
本丸・六段の石垣


(本丸北東面)

段々畑のようになっているので
ひな壇状であるとも、犬走りとも表現されています。

ご覧のとおり、成形された石が整然と積まれている姿からして
それほど、歴史は深くない・・・

「実は、先行して築かれた最上段の石垣が一気に立ち上げられ
 その後前面に低い石垣を五段にわたって積み上げていた」
のだそうです。
 (↑ 恵那市発行のパンフレット参照 ↓)

つまり、最初に作られた高石垣に崩落の恐れが出てきたため
それを補強するために、ひな壇状の石垣が築かれた、わけなのだそうです。

「ひな壇状に築かれた石垣は長方形の石材を交互に組み合わせた落し積み技法で、
 江戸時代後半に築かれたもの」と考えられています。




本丸には、六段の石垣の横の階段を上がって行きますが
ジグザグのつづら折、さらには、直角に曲がる虎口を越えたり・・・
だんだん、方向感覚がおかしくなってきて
本丸内の配置の把握に苦労しました。
(後から写真を見ても、あれと思う点が多く
 だから余計に投稿に時間がかかったんですよ



階段の反対側には、東曲輪という広い敷地もありました。


(東曲輪から見た、本丸への登城道)



ちょっと分かりにくいけど
↑ 写真の中央に、埋め門の土台の石垣2本が見えています。

本丸東側の長局(一段下の帯曲輪)に入るための埋め門でした。

そして
その埋め門を過ぎたら
長局から本丸に入る虎口になっていました。



しつこいほどのジグザグ
安土桃山時代の城郭建築の特徴であったようです。

さて
この虎口を過ぎたら
本丸の敷地が広がっているのですが
だだ広い広場になっているだけでしたので
これといった写真がありません
(一応載せといたら良かったんですがね・・・)

もともと
本丸には、周りの石垣部分に櫓が構えてあるだけで
内部には、これといった施設は置かれていなかったようです。

(山麓の、大手門3重櫓が天守的な役割を果たしていたようです。)

↓ 本丸南西部に突き出す形の出丸



本丸を守るための重要な曲輪だったそうです。



マップを眺めても
出丸が重要な役割を果たしたことが
なんとなくわかります。

さて
先ほどの ↑ 出丸の写真は、本丸の西端から撮ったもの

写真の足元部分・・・
この右側延長部分(本丸の西側)には、圧巻の高石垣があったのですが
知識不足で見逃してしまって・・・(たぶん見たけど、覚えてない)
不覚でした

*いつもそうなのですが
 お城の石垣って、登城道表口よりも、反対側の石垣の方が立派です。
 (直に狙われる部分だから、当たり前と言えば当たり前ですが)
 ただ、人もあまり行かないから、寂しい感じのする場所だし
 つい見逃してしまいます

本丸の大きな見どころの一つですから
見逃したのは、かな~りショックでしたが

もう一つの大きな見どころ
石垣ファンにはたまらない所がこちらでした


本丸裏口の埋門



搦手門と言うそうですが
なるほど手が絡まりそうなほど?(そういう意味違う?
複雑な構造の門になっていました。



手前右側の石垣には二重の納戸櫓が建っていて
そこから、左側の石垣にまたがって、埋め門が建てられていたようです。

さらには、奥にまたがる長い多門があって、2重3重の監視になっていました。


(右側・納戸櫓が建っていました)



岩村城で一、二を争う、美しい扇の勾配

切り込みハギという石積み法
享保3年(1718年)の地震の後に補修されたものと言われています。



そして
埋め門、左側の石垣・・・



こちらは、粗野な印象ですが

野面積みという、比較的初期の石積み法・・・
土岐坂の石垣に次いで古い遺構だそうです。


(埋め門左側の延長部分・二の丸に接していました)



なんとなく気が付いたんですが
この左側の石垣、手前の角に比べて
右側奥の角は、整った積み方がされていて
補修の後がうかがえます。


(中央・埋め門奥の多門の土台?)

こちらが、打ち込みハギ(自然石を石垣の外側だけ平らにする)の石積み法なのかな?
(切り込みハギとの区別がよく分からないのですが)

この埋め門は、一度に三つの石積み法を見ることのできる
貴重な建築物で
時代の変遷を如実に見ることができます。


(埋め門・後ろから見たところ)



緩やかな階段が続いています。

階段を上がったところは、まだ本丸の一段低い部分で
そこから、さらに階段を上って、本丸に上がります。


(写真を撮ってる場所が、埋め門を上がった部分:本丸の一段下)

この石垣の上が本丸です。



岩村城本丸の石垣は、複雑・巧妙・多量極まっており
たくさん写真を撮ったつもりでしたが
撮りきれない部分も多く
後から、内部構造の把握をしようと思っても
確認作業に難攻極まり
大変でした~~~
(だから、投稿に半年もかかってしまったのです

岩村城の堅固さは、天下に名だたるもので
武田軍・織田軍が攻め込んできた際も、
完璧な防御機能を果たしていたと言います。

では、何故、信長の叔母である女城主が戦いに敗れてしまったかと言えば・・・

籠城戦における基本的戦力の弱さ
同盟国からの援助が受けられなかったこと

結局は、遠山氏が
巨大勢力の狭間のなかで翻弄されてしまった・・・

中国地方で同じような状況におかれていた毛利氏が
毛利元就の台頭で大大名にのし上がったように、
遠山氏のなかで、有力な武将が出現するチャンスに恵まれなかったことが
何よりの敗因であったのかもしれません。



戦国時代、周囲の新旧勢力のめまぐるしい動きに
対応を迫られた遠山氏
武田氏とも旧来からの関係を保ちつつも、
遠山景任のもとに、
経済的つながりのあった織田信長の叔母である女性(おつやの方)が嫁ぎました。
景任は病弱であり、当主としては微力、
織田との姻戚関係を保つことが、対外的に重要なことでした。

そんな中、武田信玄と織田氏との同盟が破られ、
(武田と結んだ比叡山・足利義昭・浅井など、織田に攻め込まれましたね)
岩村城も、秋山虎繁を総大将とする武田勢に攻め込まれました。
当主景任が早世したのちは、おつやの方が女城主として、籠城戦にもつれ込みました。

兵糧・矢玉がじわじわ減っていく中で、頼みにしていた織田軍は
西日本での反乱をかかえていた為、援助が得られませんでした。

頑丈な岩村城も、武田勢の粘り強いゲリラ戦?に手を焼き、徐々に兵力を失っていきます。

どういった経緯であったかはわかりませんが
結局は、おつやの方を敵陣総大将の秋山氏の室とすることを条件に
無血開城したと伝えられています。

その後、ことの経緯を聞いた信長は激怒
(景任の養子に送り込んだ、信長の五男御坊丸を武田の人質に取られたため)
長篠の合戦で武田が大敗した後
ただちに、嫡男信忠を総大将とした大軍を送って、岩村城を包囲しました。

半年の籠城戦ののち、圧倒的戦力の差に岩村城は倒れてしまいました。
城主の秋山虎繁と夫人(おつやの方)は処刑
信長の憎しみは深く、最も過酷な刑である逆さ磔で処されたと言います。



何とも言えない叙情感ただよう岩村城ですが
江戸以降は、知藩としての存在感をアピールしていきました。

昌平坂学問所の佐藤一斎や、大学頭の林述斎(父は岩村藩主)
悪名名高いところでいえば
蛮社の獄の遠因を作った鳥居耀蔵(述斎の息子)
鳥居と敵対した、遠山の金さん(景元)は明知遠山氏の出身です。

日本の近代化に、少なからず関わってきた岩村藩
大人しめだけど、なんかやってそうな感じが
結構好きです。

岩村藩には、知新館という勉学所があり、学問が奨励されていましたが
これまでの歴史と関わりが少なからずあったのか否か・・・

御禁制の世の中では語られることはなかっただろうけど
謎めいていて、もっと知りたいような
奥深さがあります。

岩村には、何回も通いたいなと思っています。

岩村城の続き!(大手門~菱櫓まで)

2011-02-08 13:28:20 | 石垣のある風景(大原以外の!)
超!久しぶりの岩村城の石垣レポートの続きです
  その1 その2 

この9月の岩村登城ののち
安土や姫路に行きました。
そのレポートもありますので、急がなければ!

すっかり、半年前になってしまいそうですが・・・
その間に、小説や新書・マンガなどで
岩村藩や戦国・東日本の動きを勉強しました。



一見、片田舎の岩村ですが(失礼!)
どうして、その山の中に、こんな壮大な山城が築かれたのか・・・
(岩村は、岐阜県の恵那峡から愛知県方面に入ったところ)
織田信長が叔母を嫁がせたり、息子を養子に入れたりする必要があったのか?

地図だけ見ると、不思議でなりませんが

戦国時代の覇権争い
織田信長VS武田信玄 
その境界にあり、二つの勢力に翻弄されたのが
ここ、岩村

それ以前の古き時代にも
伊豆に本拠を置いていた、加藤景廉
…源頼朝の寵臣
平氏滅亡後に、遠山荘(岩村周辺)を与えられ
嫡男の景朝から遠山の姓を名乗ることになりました。
(桜吹雪で有名な遠山の金さんも、その子孫です)

何の変哲もない山村に移動させられたら、左遷と思ってしまいそうですが
実は、この遠山荘
大変な利権をはらんでいたのです。

キーワードは、木 曽 川

木曽川上流の豊富な山林
それを下流に運び、遠く京阪神などにさばかれます。

上流域の木材 → 木曽川で運ぶ → 下流域から各地へ → 寺社仏閣・城などの建築資材へ・・・

木曽川は、天然かつ巨大な流通システムであったのです。

加藤景廉は、本拠としていた伊豆地方で
山林経営のノウハウを培っていたようですし

織田氏においては、信長の父の代に、木曽川下流域で勢力を伸ばしてきた経緯もあって
木曽川上流域は、どうしても手に入れたい土地であったようです。

(秀吉の墨俣一夜城なんて、まさに、木曽川が味方したようなもんですよね)



そんなわけで(あまり説明になってませんが)
岩村には、難攻不落といわれるような、頑丈な山城が築かれたようです。

ほんと、ここに来てみると
一見、戦国の勢力分布図からはぐれたような、こののどかな場所に
どうして、こんな立派なお城があったんだろうと、不思議な気持ちになるのですがねえ。

前投稿の、立派な構造の大手門を過ぎると、
先ほどまでの「山道」から、一気に、お城の大手道らしくなります。



道の両側に、立派な石垣が並んでいます。



地図を見ると、ここは屋敷跡となっています。
手前の大手門の所にある、三重櫓が
外部の使者と接触する場所になっていたようですから

ここら辺は、岩村城のプライベート空間になっていたのでしょうか。





岩村城には、井戸が沢山あったようで
こちらは、竜神の井





向かって左側の敷地が、
八幡曲輪





写真の真ん中の坂道が
八幡さんへの参道で
階段の先に、八幡宮と二重櫓がありました。

八幡宮には、八幡神と
遠山氏の始祖の加藤景廉が祀られていたそうです。



大手道はさんで、八幡曲輪の反対側には
霧が井という井戸があります。



城主専用の霊泉で
敵が攻めてきたときに、城内秘蔵の蛇骨をこの井戸に投じると
たちまち霧に覆われて城を守ったと言われています。

この井戸の裏手が、二の丸になっていて
(つまり、大手道から見て、八幡曲輪の反対側の奥)
さらに、その向こうに、包み込むような形で本丸があります。



二の丸は、現在は私有地になっており
鬱蒼とした山林と化していました。



唯一、二の丸のランドマーク的存在
菱櫓



見ての通り、ひし形
鈍角になっていて、優しい印象だけど個性の光る石垣です

そして
菱櫓越えたら、いよいよ
お待ちかねの、本丸

石垣ファン待望の壮大な風景が待っています




~~~ つ づ く ~~~

早春 菜の花漬

2011-02-07 10:25:43 | お漬物の話


早春の香り。

菜の花漬です。

ただし、四国産です(すみません)
大原で菜の花摘みができるのは、春休み頃でないでしょうか。

今週になり、少し寒さは和らぎましたが、春はまだまだ。
霜が降りて、地面がカチカチになってます。
クワもききません。

先日の京都新聞では、北区、広沢の池周辺で菜の花が咲いている記事が掲載されていました。
確かに、嵯峨の入り口、あの辺りは暖かいような気がします。陽当たりが良いのかな。




さて、閑散期と言ってもよい、この時期。

むしろ、書類や企画を進められる大事な時期です。

ただいま、大原での協同のお仕事として、観光マップの刷新をしています。

私も主要担当者の一人。

人間なので、お休みになればお出かけするけど・・・

社会や環境、価値観の変化によって、旅行の形、出歩きの目的も変化します。

大原を訪れる方の、客層、アクセス方法、楽しみ方も変わってきたように思いますので、

大原に長く滞在していただいて、自然や里山に親しんでもらえるマップにしたいと考えています。


当初のこんな私の乱雑なメモからどんな風に仕上がるのか楽しみにしています。






立春ですが、寒い!

2011-02-04 15:22:25 | 大原の風景
こういうのを、放射冷却、というのでしょうか?

昨日は、久しぶりの陽気で
万年雪状態だった、日陰の雪も解けてきたのですが・・・

朝起きると、真っ白!
霜が降りて、キンキンに冷えてました。



昨日は、雪解けで
田んぼ状態のグランド・・・

長男は、サッカーで転んで
超ドロッドロで帰ってきましたが

今日は、スケートリンクに戻っている・・・



何を隠そう
マイナス4度!

惜しいなあ・・・
去る月曜日は、今季最高の冷え込みで
新記録達成間違いなし、だったのですが

あいにく、用事があって、朝のウオーキングが出来ませんでした。
(写真撮りたかったです)

引っ越してきて、初めて、水道が凍りました。
(暖冬のせいか、今までなかったのですが)



昨日の雪解けで
溶けかかっていた、水路の雪が
再凍結



いったいどういうシチュエーションだったのか
氷の芸術が出来ていました。



毎日の散歩

一日として同じ風景がないので、面白いです。

節分会 大原三千院

2011-02-03 13:47:23 | 若の日記
2月3日

大原三千院では節分会の行事が行われています。





午前中に子供たちの豆撒きがありました。
一仕事終えて、それを目的に足を運んだのですが、終わってしまっていた…


仕方ないので、ぜんざいの振る舞いをしている「志野」さんと保勝会の方にねぎらいがてら御挨拶にいきましたら、
ぜんざいをいただいてしまいました。御馳走様です。








餅とドレッシングのお店「志野」さんのご接待です。
ご苦労様です。

その場で餅つき。つきたてのおもちはおいしいです。
本日閉門までやってはります。

辻しば漬本舗ホームページ

来週は初午大根炊き
三千院ホームページ

業界の新年会、少年サッカー

2011-02-02 13:39:51 | 若の日記
先週土日の出来事です。

まず、京都の漬物業者の集まり。新年会がありました。

年に数回集まる機会があるのですが、良き情報交換の場です。

また、同業者なので、競合者でありながらも、同じ境遇の者同士として、話の分かりあえる人間関係でもあり、いつも楽しませていただいてます。







場所は祇園花見小路を下がった、歌舞練場前、「花郷」さんでした。

御挨拶に来られてわかったのですが、ここは円山公園のいもぼうさんの経営です。

会長、来賓の親会理事の有難いお話、そして美味しい料理とお酒に満足の一夜です。

ところで、全国の漬物組合の青年部員が集まる大会を、ここ京都は祇園歌舞練場で行います。
私ども京都が主幹団体となります。日ごろの仕事はもちろんのこと、そこでまた新しい経験を積ませていただくことができると思ってます。



さて、話は変わり、日曜日は少年サッカーの応援へ。
2週間、催事出張で家を空けていたので、久々に家族でのお出かけです。
この日は、近所の子供たちも連れ立ってましたので、5男1女の大所帯を、引率です。

向かうは宇治市の太陽が丘球技場。
息子たちは出ないのですが、6年生が最後の大会でベスト4まで勝ち上がりましたので、全員で応援に駆け付けたわけです。
大人サイズの競技場で、Jリーグみたいに入場行進まである。選手の名前もアナウンスされました。
こんなところでプレーできるなんてうらやましいです。

京都府下100数チームのベスト4です。監督が「たとえまぐれやとしても」と言って笑いをとりましたけど、最後に「まぐれではここまでこれへん、やっぱそれに見合う何かを子供たちがしてきたんだ」と付け加えました。

試合には残念ながら、負けてしまったけど、やっぱりここまで来れたのは、日ごろの練習と努力の結果やと思います。
4年生以下のうちの子たちにも、また頑張ってほしいと思いました。



京都・大原 辻しば漬本舗のホームページ