京都大原紫葉工房便り

京都洛北・大原の里のしば漬屋から、毎日!情報発信。

今朝は濃霧でした。

2013-11-17 17:22:01 | 大原の風景

今期最高といっても良い位の撮影日和でした

8時30分ごろの大原です。

ここまでの濃霧は、一冬でも2,3回くらいです。

霧が晴れたら・・・

お天気

寂光院に向かう道の途中には、展望台があります

素敵なレースの芸術も見れます

この景色、逆光でなかなか写りませんが、ネギがいっぱい生えています。

 

さて、場所はかわって、うちのすぐき畑です。

ガードレールのない農道を命がけで行ってきました

命がけの甲斐あって、最高の景色です

                                        ↑ 記念写真

どうです?

ちなみに、ここは崖?になっていて、けっこう怖いです。

 

ここも、振り返ると・・・

逆光で不思議な景色が広がっています。

 


山口旅行 その7 萩本陣と朝のお散歩。

2013-11-10 21:13:34 | 妻!日記

「山口旅行 その6」の続きです。

3月27日朝の出来事・・・

 

萩でのお宿は、萩本陣という温泉宿でした。

他にも安くて良い宿はたくさんあったけど、

私の妄想・・・どうしても朝のお散歩で松本村を歩きたい、という

つまらん夢のために、結構高いお宿に泊まりました。

 

旅行に行くと、枕が違うためか、朝はや~くに目が覚めました。いつものこと

船旅で疲れていたけど、やっぱり5時台に目が覚めてしまって・・・

朝風呂に行きました。

風邪が治りきってなかったために、体がのぼせたようになっていたけど、

風呂に入ったら、さっぱり元気になったので、やはりお散歩にいきたくなりました。

 

松本村は、吉田松陰公の生まれ育った場所です。

もちろん、松下村塾・松陰神社も松本村です。

萩本陣の場所も、おそらく松本村(川をはさんでいるから微妙だけど)

ほんのすぐねきです。

  お宿からの景色

 ↑ 松陰神社はこの辺        ↑ 萩城のある指月山

家族4人は起きそうにもなかったし・・・

6時半、こそっと部屋を抜け出し、松本村のお散歩へと出かけました。

 

しっかし

もう、6時過ぎたら、宿は始動しているもの、と思っていましたが、

(お風呂は入れた)(冬時間というのもあるかもしれない)

フロントはまだなのですね。

かろうじて警備員さんらしき方がいたので、お散歩の旨を伝えて、出かけました。

 

外に出ると、雨

けっこう降っている

 

部屋に戻りたかったけど、かなり面倒くさかったので、

フロントで傘を借りて行きました。

 

てくてくてくてく

宿は高台にあるから、とりあえず、下の道まで坂道をくだり・・・

一般道に出てからは、まったく距離感がないから不安なんですが、

とりあえず、地図を見て、こっちかな、という方向に歩いて行きました。

人の歩いていない時間に、知らない土地でうろうろしていたら、不審がられそうで嫌なんですが、

そういう人通りもなくて寂しい・・・

 

5分ほど歩くと、萩藩主の菩提寺の東光寺前に到着

 もちろん閉まってます

ちょっと隙間からのぞいてみると・・・どきどきしますね。

東光寺の向かいの畑でおばさんが草引きをしてはって、会話

寂しいときの、こういう挨拶は心に残ります

ちょっと松本村に馴染んだ気になり、元気が出ました。

東光寺の横から松陰神社方面に向かい道には、民家が並んでいます。

こういう一般ゾーン?を早朝にうろうろするのも、不審者っぽくてドキドキします。

レキジョっぽいかな

 

少し行ったところに・・・

松陰公のスパルタ叔父さん・玉木文之進の家がありました。

スパルタで有名、というのも気の毒な感じですが

幼少時の松陰公が・・・

叔父さんの講義中に、汗をかいて、ハエがブンブン飛んできて、かゆかったから、顔をかいたら・・・

「公私を混同するんじゃない」と無茶苦茶にぶん殴られて、どつかれたという。

母親がその姿を見て、「いっそお死に」といったくらいだったから、よほどの凄さだったのでしょう。

松陰には、二人の叔父がいて・・・

ひとりが玉木文之進さんで、もう一人が吉田大助さん

この方は、代々兵学師範を務めていた(だったかな)吉田家に養子に入るものの、早世してしまったので・・・

亡くなる前に、幼少ながら出来のいい松陰に目をつけて、吉田家の跡を継がせた、そうです。

吉田叔父から直接指導を受けることは少なかったと思いますが、

その意を受けた玉木叔父から熱い指導を受けることになったという・・・

 

で、玉木文之進旧宅から左折して(T字路になってます)

山のほうにまっすぐ上がって行くと・・・

民家もなくなって、ミカン畑とか、霊園とか、寂しい

でも、体は快調なので、頑張って歩いて行きますと・・・

何かありげなところに到着

吉田松陰の実家の杉家や吉田家・玉木家、

そして、デラックスなことに、高杉晋作や久坂玄瑞のお墓まで

 向かって右側

一族のお墓が集まっており、

左側に吉田松陰公のお墓が・・・

階段を上がって行くと、ほぼ正面に松陰公のお墓があります。

 「すみません、失礼します、写真撮らせてください」と言いながら、お参り

 

御賽銭入れのところには、線香入れもあり、缶の中に、お線香とマッチがありました。

ありがたいです萩市の観光?はサービスが良い

積もる思いを晴らすのに、線香につける火がなかったら辛いですね

 

相変わらず、雨がしとしと降る中、早朝に墓場にいるのは怪しげですが、

こちらから市街の眺めは最高でした

 桜がいっぱい

松陰公の死後、何の思いか、高杉晋作が ↑ この地に庵を結び、生活している時期がありまして・・・

                   東行庵の石碑が立っていました。

 

お墓の横は、松陰の実家・杉家の跡地があり、銅像が建っていました。         

松陰の横に座っているのは、一緒に海外渡航を図った金子重之輔だったかと思うけど、違うかな。

金子は、身分が低かったので、投獄中にひどい扱いを受け、江戸から萩に護送される際にこじらせた風邪がもとで亡くなってしまいました。

松陰は嘆き悲しみ、野山獄での食費を削ってためたお金で、金子の墓を建てました。

あなたは一体どこを見ているのか・・・

 やっぱりきれいです。

静かな、杉家実家跡地

地図で見ますと、緑の十字路の左側が松陰神社の敷地です。

  赤いマーク ↑ が現在地です。  ↑ 見えにくいけど、矢印の上のほうの温泉マークが萩本陣です。

 (敷石?がしてあるところが杉家跡)

うわさに聞いてましたけど、杉家の建物は、想像以上に狭かったです。

昔の人は小柄だったのかな。

それにしても、ここに父母妹たちと一緒に住んでいたなんて、半信半疑です

 奥から見たところ

 松陰の産湯の井戸もありました。

ここは、松陰の人柄のように穏やかな場所で良かったです

桜もきれい

この景色をひとり占めなんて、贅沢ですね~

 

帰路

松陰神社に向かう途中に、吉田稔麿の誕生地がありました。

ちなみにお墓は、京都岩倉の三縁寺にあります。

どんな人か分からないけど、奇縁ですね。

 

そして、朝の松陰神社。

神社の人しかいないので、ひときわ静かです。

あやしい観光客です

誰もいない・・・

居るのは、怪しい私だけ。

 

萩本陣に帰ったら、みんな起きていて、さっそく朝食バイキングに行きました

運動後の食事は旨いっ

料理は普通だったけど、バターロールがムチャクチャ美味しくて、食べ過ぎだけど、おかわりいっぱいしました

 部屋の眺望指定はしなかったけど、

心の中で希望していた・・・市街地側のお部屋に泊まれて、うれしかったです

 

松本村のお散歩が素晴らしかったので、

「おすすめ~」と行って、家族を連れて、もう一度、松陰一族の墓地にお参りに行きました。

子達よ、松陰公にあやかれ

って、期待しすぎかな

 

お墓の次は、市街地方面に向かい・・・

 金子重之輔が投獄されました

岩倉獄と野山獄の散策

色気ないなあ~ でも、どうしても行きたかったの 付き合ってくれた家族よ、ありがとう~ 

 岩倉獄は、武家身分でない人が投獄されました。

その向かいに、野山獄

 こちらは、武家身分の獄

松陰らが投獄されました。

野山獄では、松陰が他の囚人たちと互いに知識を教え合い、松下村塾の下地が作られました。

野山獄から実家に戻った後、出会った囚人の一人・富永有隣をヘッドハンティング(出獄願い)し、松下村塾の講師として迎えました。

(嫌われ者で扱いに困ったため、投獄されていたそうですが、松陰は嫌いじゃなかったようです。そういう話もほのぼのします。)

 

こちらも、杉家旧宅と一緒で、どう見ても小さいです

 

~ ~ ~  つ づ く  ~ ~ ~

一応、次回で最終回だけど、長引いたら、延長します

 

 


山口旅行 その6 萩城。

2013-11-09 22:16:09 | 中国・四国地方の石垣。

数日前の投稿「山口旅行 その5」の続きです

 

3月26日の午後・・・

松下村塾を出た私たちは、萩市内を東から西へと移動し、萩城へ出かけました。

 

駐車場に車をとめて、歩いて萩城の本丸へ向かいます。

こちらは二の丸の敷地になっています。

 ここは観光地っぽくて、りっぱな石垣づたいの道となっています

 (この辺が南門跡らしい)

どういう意味があるのか、わりあい等間隔に大きな石がはめ込んでありますね。

こちらは、松下村塾・維新系とは違って、江戸泰平期・長州藩エリートめぐり、とでもいうのか・・・

ゴージャスですね

 

松陰も、10代のころは兵学師範だったので、登城も出来る身分でしたが、

東北遊学脱藩騒ぎののちは、士籍を剥奪されたので、たぶん登城することはなかったと思います。

伊藤博文は武士の中では身分の低い足軽だったので、問答無用で来れなかったかと。

身分ていったいなんでしょ~ねもう

ま、庶民の年貢を吸い上げて、日本の美的センスを追求した建築物ですから、

怒らんと観に行きましょう

(というわけで、やっぱり城好き)

 二の丸と本丸をつなぐ極楽橋

(こぼればなし)

ここまでは、次男の機嫌もよく、楽しそうに写っているんですが・・・

この集合写真のあと、次男の身に災難が起こってしまいました

 

私がこういう↑↓写真を撮っている間に・・・

橋の端の手すり ↑ に座ろうと思って、手をかけたら、鳥のフンがべちゃと付いてしまったらしいです

 

別に大惨事ってほどのことじゃないんですけどね~

手を洗えば済むことじゃん、といっても、水道が見つからないし・・・

で、すっかり萎れてしまった次男

宿でお風呂に入るまで、立ち直ることはありませんでした

 

こいつは、旅行先ではしょっちゅうこういう感じになるので、

ああ、めんどくさい、と小腹も立ってくるし・・・

(それでも、怒ると、もっとメンドクサイことになるので 優しく励ますしかない・歯が浮きます

家族旅行は大変ですね

(今でも、思い出しては「あのときは最悪だった」と根に持っています)

 (極楽橋の向かって左側)

     ↑  天守閣跡(奥の出っ張り)

極楽橋から内堀をながめた第一印象は・・・

やっぱり広島城ともよく似ているな~ってことでした。

(極楽橋向かって右側)

それもそのはず

どちらのお城も、築城者は毛利輝元

明治まであった天守閣も、広島城によく似ています。

明治の廃城令で破却されてしまったそうで、ちょっともったいない気がします

おそらく、古い価値観を破壊する意味合いだったんでしょうけど・・・

 

さて、長州藩初代藩主・毛利輝元・・・

もとは、おじいさんの毛利元就の知略のたまもので、中国の覇者として君臨

一時は、中国地方全土と九州の一部を手中に収めました。

元就の死後は、山深い安芸吉田郡山城を離れ、交通の要衝である広島に本拠地を移し、広島城を築城しました。

豊臣政権では、多少領土が狭まったものの、112万石の所領を安堵され、

秀吉の死後は五大老に任じられて、秀吉の息子・秀頼の補佐役をつとめていました。

 

しかし、関ヶ原の戦いで西軍(石田三成派)の総大将に担ぎ上げられたことが災いし・・・

西軍敗北・江戸幕府の成立後は、大幅な所領の減封を命ぜられ、周防・長門2ヶ国37万石の大名として、

本拠地も、交通の便の悪い日本海側の萩へと移転させられたのでした。

以後数百年・・・維新回天・幕府を転覆させるまで続く、怨恨のはじまりでした。

幕府側から築城地として指定のあった場所は、萩市内を流れる阿武川にできた三角州の先っちょで・・・

島流しに見えないでもない場所なのでした。

↑ 極楽橋渡ってすぐの、大きな石垣

きれいです

おそらく本丸入口の門の一部で、石垣の上には櫓か白壁があったのでしょう。

階段状になっていて、上がるのに便利~

休憩にも最適です

向かいは梅だったか桜だったか、お花見してる人たちが結構いました。

賑やかな女子高校生グループもいて、楽しそうでした。

良い思い出になるでしょうね

さて、天守台跡に向かいます。

天守台は2段構えになっていて・・・

 

まずは1段目に上がり

(1段目)

(1段目から2段目の向かって右端の角)

(同じくこのエッジがたまりません

そして1段目から2段目の広い天守台に上がりました。

こういう構造も、広島城と似ていたような気がします。

 どこでも遊べて良いですね

(2段目から見た1段目)

天守台から見た眺めは、やっぱりきれいでした

(極楽橋方面)

 

極楽橋の反対側も良い眺めでした。

山は、指月山といい、標高143メートル

山頂にも詰丸という籠城機能を持った山城がありました。

内堀は、ひとつは本丸の南側に沿うように真っ直ぐに流れており、もう一つは、天守閣を覆うように流れ、山の麓の部分で終わりになっています。

(というか、もう山の裏が日本海です

この石垣が最高でした

最高なので、近くに行ってみることにしました。

   ↑ この桜の木の横を通って、向かって左に進みます。

(これは天守台横の庭園:花茶江亭)

本丸内堀の最終部分 ↓

 こういうのも好き

(内堀最終部分から振り返って、天守台方面を望みます)

で、お気に入り石垣のところ

 

やっぱり楽しい石垣でしたが、敷地はただの原っぱでしたので、写真省略

道は、石垣づたいで良い

(進行方向から振り返ったところ・遊歩道)

さて、この道、来てみて良かった

なんと、先には毛利元就菩提寺の洞春寺跡と、おそらく奥さんの妙玖さんの菩提寺?の妙玖寺跡があるみたい

うれしいです。

幕末に政庁が移された山口市に洞春寺があるのは知っていましたが、萩でこのお寺に出会えるとは思いませんでしたウレシイ

 洞春寺の石垣

 今は建物はなくて原っぱ

 

1863年に山口に移された後、残された建物は1869年に山崩れで破壊されたそうです。

ちなみに、洞春寺はもともと安芸・吉田郡山に建立されたのち、萩に移り、山口へは長男・隆元の菩提寺を洞春寺と改名して、移されたそうです。

 こちらは妙玖寺跡

そのさきは、もう日本海・・・

ここまで来ると、ほのかに波の音も聞こえて、天守閣周辺の賑やかさが嘘のように、静まり返っていました。

 

 

わ~萩、見どころいっぱいで

萩城だけでも回りきれませんね。

もう、すっかり夕方ですもん。

妙玖寺跡からは、もう急ぎ足で駐車場に戻り・・・

 

今宵のお宿・萩本陣にチェックインして

宿ライフを楽しみました

お部屋からは市街一望

真っ暗だけど、松陰神社もすぐそこ。

(私らにしては)ちょっと高かったけど、選んだ甲斐がありました。

 

さあさあ、本当のお目当ては、夜が明けてからです

次回投稿を楽しみにしてくださいね

(他のんは見なくていいから、次のだけは見て~)

 

~ ~ ~  つ づ く  ~ ~ ~

 


ひさびさ、朝のウオーキング。

2013-11-05 16:27:01 | 大原の風景

半月ぶりのウオーキングです。

すっかり季節は秋になり、農道も渋~い色合いになってきました。

今日は雲が多くて、太陽が出たり入ったりしています。

曇っていると、薄暗く感じるけど、写真を撮る分には、野菜のみずみずしさがよく映えて良いですね。

よそさんの畑をのぞくのは楽しいですね。

いろんな野菜が植えてあります。

群生化してきたアザミ。

去年までは、そんなに生えてなかったけど、種が飛んで増えてきたんですね。

今日は、うれしいことに、サギの巣を発見しました

3羽だけですけど、きっともっと居るはず

 

高野川では・・・

カモの群れ

数えると、全部で16羽いました。

地味で保護色のカモですが・・・

逆側から見ると、光の具合で、けっこう目立ちます


山口旅行 その5 ついに松下村塾に来てしまった!

2013-11-03 21:45:53 | 妻!日記

ああ恐ろしや!

山口旅行 その4」(5月27日投稿)の続きです

春休みの旅行の話をいつまでやるのか…

その7か8で終わらせるつもり、です。

年内には終わらせたい⇒仕事が忙しくなる前に、投稿済まさなければ・・・

いい加減、途中放棄したいところですが、次回投稿からが、ようやくこの山口旅行の目玉なので、ぜったいに書き上げます

 

え~と、復習しますと・・・

3月25日のお昼に大原を出発して、夕刻 大阪南港でフェリーに乗船

3月26日の早朝に新門司港着 門司~下関~長門

青海島遊覧船観光ののち、念願の萩市内へ

 

萩にて一発目は確か岩川旗店さんという名前のお店でお買いもの

昔の大漁旗のアレンジの・・・

おしゃれな柄のハンカチと斜め掛けカバン カードで一万円也

京都で一澤帆布に行くのと同じ感覚

 

そして、松陰神社

やっと来た来た来た

尊敬する吉田松陰公の祀ってある神社

 (以下、敬称略)

「親思ふ こころにまさる 親ごころ けふの音づれ 何と聞くらん」 松陰の遺作 

 

そして、明治維新の原動力となった松下村塾あと

胸がつまって、うまいこと言えませんが、

今まで私がいろいろと勉強してきた中で、一番衝撃と感動を受けた事象・・・

全世界的な流れの近代化・近代革命という出来事でした。

世界史で勉強したピューリタン革命とか、フランス革命とか、いろいろありますけど・・・

 

人々が、自然や科学的事象について、宗教や神と切り離して考えるようになった時、

それが、すなわち近代への目覚め、かと思いますが、

(たとえば、地震とか雷などが、神の怒りではなく、あくまで自然現象であることに気が付くこと)

科学的・産業革命的発展を経て、人々は、封建社会の・・・人が人を支配するということに疑問を抱くようになります。

(宗教や身分制度での特権⇒あくまで実力主義 つまりOO身分の誰々さん、ではなく、誰々さん個人として評価する動き)

封建制度の中で自由に動きのとれない鬱屈がストレスとなり、怒りとなり、爆発的変動へのエネルギーへと変化し、各地で政治的な近代革命がおこりました。

(こんな説明で良いのかな)

 

そういうことが、ごく一部の優れた人の間でのみ行われたのではなく、おおかた普遍的に世界各地で起こった・・・

ということに、私は、非常に感銘を受けたのです。

単に外国の優れた部分を簡易的に導入した、という無機質な出来事なのではなく、

人間の体の中・感情の中で、様々な葛藤や拒絶反応も経ながらも、痛いとか・かゆいとかいう感覚と同じように、

「何かを変えなければ」という革命的エネルギーが湧いてくる・・・

そういうことに、わたしは感動したのです。

 

でも・・・

日本の中では、そういうことはあまりなかったのかな・・・

明治維新も、単なる外国文化の移入なのかな・・・と、日本史勉強不足の私は思っていたのですが、

幕末や明治維新について、いろいろ読み込んでいくと(ほとんどが司馬遼太郎ですが)、

日本にも、やっぱり「近代革命」があったんだ、ということが分かってきたのです。

 

日本の場合、江戸時代、鎖国しながらも、オランダや中国から科学的・先進的な知識の移入がされ、近代革命の下地も出来つつあったのですが、

爆発的変動のきっかけとなり、その変動のエネルギーに火をつけたのは、「ペリーの黒船」でした。

「外国がやってきたら、日本は大変なことになる。

 日本も、中国のアヘン戦争の二の舞になってしまう。」

(中国は、戦争に負けて、不条理な降伏条件の下ですっかり骨抜きの状態にされていたのでした)

鎖国をして二百年、太平の世となり、国防に関して、すっかり無防備な状態のこの国が、請われるまま開国してしまっては、どういうことになるのか・・・

そういう危機感が、江戸幕府の締め付けに対する鬱屈・堕落した権力への疑問をも露呈し、

もはや止めようのない爆発的なエネルギーを生み出すことになったのでした。

 

吉田松陰も、隣国のアヘン戦争のことや昨今の外国船襲来騒ぎのことを伝聞し、非常に危機感を持った一人でした。

彼は、長州藩の兵学師範となるべく、幼少時から叔父の玉木文之進から超スパルタ教育を受けてきました。

公人としての自分を律する姿は、ストイックなまでに厳しく、30歳で亡くなるまで、色恋に目を向けることもなく、ひたすら日本の将来について案じて過ごしたのでした。

 「婦人のよう」と形容されたように穏やかな人柄の松陰でしたが、その生涯は波乱に満ちたものでした。

 

とにかく、投獄歴がすごい

 

一回目は、東北遊学のための脱藩騒ぎ。

これは、もう少し待ってれば、藩主のお墨付きで堂々と遊学できたものを、許可を待っていては同行する友達との待ち合わせに間に合わないから、という理由で、脱藩して東北へ・・・(藩主への忠義に背く行為ですから、当然重罪です)

このときは、投獄までは行かなかったかな。自宅謹慎みたいな形で帰郷します。

 

二回目は、海外渡航騒ぎ。(鎖国なので、海外渡航はご法度です)

再度到来したペリーの黒船に頼んで、アメリカに連れて行ってもらうように頼みました。

(これは、敵国のことを詳しく知って、今後の対策を練るため、との理由で。ペリー暗殺計画があったとも言われてますが)

下田から、小船をこいで、黒船に近づいていったのですが、日本との関係悪化を懸念したアメリカ側に断られました。

んで、仕方がないので、下田の役所に「海外渡航するつもりでした」と自首して(この辺がちょっと変わった人)、

江戸の伝馬町獄(生きては出られないとの悪名高い)に送られました。

長州に戻された後も、野山獄という武家専用の牢獄に収容され、一年以上獄中で過ごしました。

 

松陰は、旅先だろうと、獄だろうと、話せる人があれば、憂国の思いを説き、集っていました。

野山獄の中でも、同じ囚人たちや藩の番人までも巻き込んで、勉強会を開いていたといいます。

上下関係を持たず、横並びでお互いに知識を教えあい、ともに高めあう、という、松下村塾の下地ができた時期でもありました。

 

松陰は、生まれながらにして陽気な性格で、周りの人を和やかにする魅力があったようです。

当初はすさんでいた野山獄の雰囲気も、次第に明るく前向きなものになりました。

 

そして野山獄を出て自宅に帰ることを許された彼は、近所の子供たちのための塾を開きました。

藩の重罪人がひそかに開いた小塾でありながらも、ひと伝えに評判が広がり、敷地を増設するほどの人気振りでした。

松下村塾の建物には、松陰の教え子たちの肖像が飾られています。

弟子第一号を誇る?木戸孝允や、高杉晋作・久坂玄瑞、伊藤博文・・・

「至誠にして動かざる者は 未だ之れ有らざるなり」 という中国の古書「孟子」の中の言葉・・・生涯をかけて弟子に説き続けました。

松下村塾では、外国の脅威から、いかにして日本を守るべきか、という議論が重ねられていました。

尊皇攘夷主義といえば、型にはまってしまいそうですが、国の未来を築くための誠実なる議論かと思うと、今の時代でも共感できる部分がたくさんあります。

外国の言いなりにならない、自立した国であるために・・・

この長州の小さな塾から、日本の近代革命のムーブメントが沸き起こったのでした。

しかし、井伊直弼の強権政治の情報を聞き、次第に松陰はヒステリックな行動をとるようになりました。

弟子たちの諌めも聞かず、松陰はひたすらに幕府への政治批判を行い、その過激な姿を見て、人々が避けるようになりました。

「皆僕と所見違ふなり。其の分れる所は僕は忠義をするつもり。諸友は功業をなすつもり」

松陰は孤独とも戦い続けました。

 

松陰を可愛がっており、甘い態度でいた長州藩も、次第に扱いに困るようになり、再び野山獄へ投獄しました。

(幕府に検挙される前に、先手を打っておいた)

野山獄では知人も多く、それほど不自由することなく過ごしておりましたが・・・

時は、安政の大獄。

小浜藩の梅田雲浜の供述から、幕政批判の容疑がかかった松陰は、江戸の伝馬町獄へと送られることになりました。

幕府の評定所での裁きでは、大老・井伊直弼の魔の手があったにも関わらず、ほぼ無罪の判決ですむ方向となったのですが・・・

根っからのお人よしで楽天家の松陰は、せっかくの機会だからと、幕臣たちの前で憂国の思いを説き、ついには、幕政批判・・・

誘導尋問によって、老中・間部暗殺計画についても自白することになってしまったのでした。

(暗殺計画といっても、机上の妄想、というか、仲間を募ってもあまり相手にされなかったんですけどね)

この自白により、松陰は重罪人として、ついには処刑されてしまいました。

 

愚に愚を重ねた幕府の弾圧・・・

シーボルト事件や蛮社の獄に安政の大獄

松陰のほかにも、数々の日本の知識人が亡くなりました。

(鎖国下でも、細々と外国から移入され、培われてきた近代化の源は、大部分失われてしまいました

 

その後の反動としての動き・・・桜田門外の変での井伊直弼の暗殺を契機に、どんどんと近代革命が進んでいきます。

京での天誅事件の多発、開国後の外国人殺傷事件とその報復としての薩英戦争や下関砲撃、蛤御門の変や長州征伐・・・

 

多くの血が流れ、それらの犠牲の上に、現在の日本が築かれました。

彼らの理想に掲げたような日本になるためには、あまりに犠牲が多すぎたのか、明治維新後も紆余曲折がありましたし、後には愚かな軍国主義の台頭も生みました。

(吉田松陰の勤皇主義も誤った形で扱われたようです

 

いまの日本・・・

松陰たちの思ったような日本にはならなかったかもしれません。

しかし、今の私たちは、たいした不自由もなく、幸せに暮らしていける・・・

それは、やっぱり、この時代の人たちのおかげだなと思います。

 吉田松陰の遺書である「留魂録」には、人の一生を四季(春夏秋冬)に例えて、彼の人生観を表した一節があります。

 

「何となれば人寿は定りなし、禾稼の必ず四時を経る如きに非ず。十歳にして死する者は十歳中自ら四時あり。・・・五十、百は自ら五十、百の四時あり。」

人の寿命には定まりがない。農事が必ず四季をめぐって営まれるようなものではないのだ。しかしながら、たとえ10歳で死のうと100歳まで生きようと、各々にふさわしい四季が備わっている。(早く亡くなるということが、惜しむことではない。やはり花が咲き実りを迎える時には変わりがないのだ。)

「義卿三十、四時己に備はる、亦秀で亦実る、其の秕たると其の粟たると吾が知る所に非ず。」

私の三十歳の人生においても、四季はすでに備わっている。

種をまき、芽が出て、花を咲かせて、実が実る。

その実の中身は、豊かな実りであるか、さてはもみがらだけであるか、分からないけれど・・・

「若し同志の士其の微衷を憐み継紹の人あらば、乃ち後来の種子未だ絶えず、自ら禾稼の有年に恥ざるなり。」

若し私の志を受け継いでいこうという人がいるならば、それは、まかれた種が絶えずに、年々実り続けて行くことと同じで、収穫があった年に恥じないことになるだろう。

                                    古川薫 全訳注 「吉田松陰 留魂録」 より

松陰神社の横には、塾生・門下生を祀った松門神社がありました。

こちらが松門神社の鳥居。

ああ、春休みの話…桜が咲いてるわ

 

山口旅行の話は嫌でもまだまだ続きます

~ ~ ~  つ づ く  ~ ~ ~


近江湖北・国友村と木之本。

2013-11-02 22:03:24 | 妻!日記

9月24日のこと。

休暇日に、滋賀県に行きました。

どこに行こうか、いろいろ考えたけど、湖北に行ってみることにしました。

 

実は下調べしてて、どの段階で若!を誘おうかと思ったけど、

とりあえず、近江八幡方面に車を走らせ・・・

湖周道路、彦根を過ぎたころだったか、長浜まで来た時だったか、やっと口に出して・・・

「国友の鉄砲資料館に行きたい」と言いました。

地味ですね・・・

「あ~またそっち系か」と思われるのもシャクだし、なんか気をつかうんですよね

 

でも、ずっと行ってみたかったんですよ。

国友。

そう(といっても、どのくらい周知されてるのか)

国友といえば、鉄砲。

ざっくり言えば、大阪の堺や紀伊の根来と並んで、鉄砲鍛冶で栄えた村。

大河ドラマとか歴史小説には、出てきますよね~、結構・・・

「結構出てくる」ていうのが微妙なところで、なかなか「さあ行ってみよう」くらいテンションが上がらないのですが・・・

久々に、長浜以北の琵琶湖岸にやってきましたので、一足伸ばして、国友村にやって来ました。

(現在は長浜市国友町)

 

湖周道路、長浜城過ぎたあたりから、国道8号線方面に向かい、

8号線を横切ってからは、中のこまごまとした通りを地図に従って進みます。

国友町の中は、こういう感じの古式豊かな雰囲気の集落になっており・・・

 メインストリートに現在も国友姓の方々が軒を連ねています。

資料館は、集落の中心らへんにありました。

国友鉄砲の里資料館

こじんまりだけど、きれいで、駐車場があって、最高です

国友には、その歴史ン百年、有名無名の鉄砲鍛冶が沢山いたようですけど、

私が会ってみたかったのは、国友一貫斎

そう(といっても、どのくらい周知か?)昨年の新聞朝刊の連載小説の「夢をまことに」(山本兼一著)の主人公です。

幕末に活躍した鉄砲鍛冶ですが、世界の近代化の刺激を受けて、様々な発明をし、東洋のエジソンと呼ばれた人物です。

今の筆ペンの原型と言えるのか、懐中筆を発明したり、外国の風砲を模して作った空気銃「気砲」や魔境・・・

そして、最大の発明と言えるのが、グレゴリー式反射望遠鏡の製作です。

外国から伝わった望遠鏡を解体して、見よう見まねで、自分の持った鍛冶技術などをフル活用し、何年もかけ作り上げたそうです。

一番難しかったのが、磨かなくても曇らない鏡を作ること。

(今では、当たり前ですが、昔の鏡は、磨かないとすぐに曇ってしまうそうです)

鉄とか錫とかの配合を変えてみたり、気の遠くなるような失敗の繰り返しを経て、やっとのこと、作り当てたそうです。

それからは、小さなものを大きく見せる(望遠の)ためのレンズの屈折・・・

あ~これもまったく知識ゼロから探し当てるんですから、気が遠くなりますね~

つまりは、国友一貫斎という人物は、優れた鍛冶技術・知識の持ち主であると同時に、すごく気が長くて、忍耐強くて、きっと気分転換も上手で、モチベーションのコントロールの上手かった人ではないかと思います。

大人物ですね。つまりは。

(小説は、一読の価値あり!単行本化を待ち望んでいます!)

というわけで、会ってみたい人物の一人、国友一貫斎さんのお屋敷に行ってみました。

現存しており、現在も子孫の方かな?住んでおられます。

お屋敷には、素晴らしい一本松があり、すごくパワーを感じました。

私の携帯の待ち受け画面にさせていただきました

立派です。

一貫斎屋敷跡の向かいは、辻宗範生家跡

メインストリートのほとんどのお宅に、「国友〇〇屋敷跡」とか書いてありました。

今も、形が残っている、というのが、すごいですね。

 

メインストリートを北向きに行くと、じきに姉川に出ます。

この先が、きっと姉川古戦場の跡。

大河ドラマ「功名が辻」でやってたけど、主人公・山内一豊が生き残ったのが信じられないくらい、すごい戦い。

織田信長対浅井長政、でしたっけ?どうだっけ?

夜は通りたくないな、という印象。

まあ知らなかったら、普通の清々しい川です

 

で、国友と姉川を後にし・・・

せっかくなので、頑張って、最湖北・木之本までやって来ました。

ここまで来ると、近江・北陸・美濃の分岐点、という雰囲気です。

何もない町かと思っていましたが、国道は大型トラックの往来が激しいし、商店街は宿場町のような趣があります。

来年の大河ドラマ主役の黒田官兵衛の黒田家ゆかりの地であったり、近くが賤ヶ岳古戦場ということで、にぎやかしく旗が揺らめいています。

そして、もひとつ、全国的知名度で有名なのが、こちら・・・

つるやパンのサラダパン

懐かし系パン屋さんです。

この日の朝刊折込の情報誌にも、サラダパンのことが載っていて、湖北に出かけるきっかけになりましたね。

たまらない懐かし系です。

 サラダパンは、普通に美味しかったですよ

ノーマルな味の沢庵がマヨネーズであえてありました。

くさい沢庵だとびっくりするけどね。

 

それよりびっくりしたのは、上の写真のサンドイッチシリーズで、

チョコ味のパンにハムがはさんであるの・・・

これは勇気がなくて買えなかったわ。

次は買ってみよう。

 

私的には、木之本から揖斐川に抜ける国道が気になったので・・・

(以前にも、無性に踏破したい時期があった)

今度は、できたら泊りがけで行きたいなと思いました。

 

(もうひとこと)

地図を見るのって、好きなんですよね。

JR時刻表と一緒で、見てると時間を忘れます