原爆症認定は、なぜこんなにも困難を極めるのだろう。
放射能はきっかり何キロ以内にだけ降り注いだとでも言うのか!
(④の終わりに詳しく書いてあります)
●松谷さんの証言を引用させて頂きます。
1977年に原爆症認定を厚生大臣に申請したが却下され、異議申し立てを繰り返して
20年が過ぎた。国は最高裁に上告したが、多くの人たちの協力を得て
2000年に勝訴した。2㎞以上でも認められたのは彼女が初めてのケースとなり、
ナガサキ、ヒロシマに広がった。 (引用ここまで)
●岩永さんは自宅の縁側にいて被爆したそうです。証言を引用させて頂きます。
ピカーッとなり俯せになったが、背中と両腕、足、顔に大火傷を負い、
家の下敷きになって右足を挟まれた。皮膚が垂れ下がっていたがはぎ取って、
死体の山また山をまたいで逃げた。中2に時、歪曲した足の手術をしたが治らず、
今も痛む。原爆認定を何度も申請したが、却下された。 (引用ここまで)
●〈キリシタンの祈り〉より引用させて頂きます。
250年もの間、潜伏して自分たちだけで信仰を守り続けた「潜伏キリシタン」と
呼ばれる信者も少なからずいた。やがて30年間かけて1925年に東洋一を誇る
煉瓦造りの浦上天主堂を建てた。が、その後、原爆で崩壊した。
すでに被爆から2か月後には、遺構として残そうという声が挙がったが、8年後、
当時の市長、市議会らは街の発展が大事だといて否定した。
歴史の彼方に消えた浦上天主堂の惨禍は、敷地内に並ぶ聖人や天使の石像などから
うかがうばかりとなった。 (引用ここまで)
(浦上信徒は約1万2千人いたが、その約8500人が爆死した)
●高見三明さんは2003年に大司教になり、「長崎9条の会」が設立される時に
宗教界から呼びかけ人として加わった。高見さんの証言を引用させて頂きます。
日本には16のカトリック司教区があるが、ほぼ全員の司教が「9条」を守ることで
一致している。戦争になると宗教は意味がなくなる。利用されるか、迫害されるか。
戦争を起こす環境を作ってはならない。
「『9条』は政治だけの問題ではなく、人権、生活を守るために必要なものだ」。
(引用ここまで)
●伊江ご夫妻の証言を引用させて頂きます。
沖縄からは1000人位が長崎の軍需工場に徴用された。三菱造船の工業青年学校に
入学したが1年で終わって現場に行かされ、飽の浦(3・2km)で被爆。翌年末に
沖縄に戻ってから酷い下痢が続いたが、米軍によって収容所に囚われても
原爆とは言えなかった。
妻の弟(12歳)は学童疎開の対馬丸に乗船していて犠牲になった。(引用ここまで)
●三田さんの証言を引用させて頂きます。
1944年8月22日、沖縄から長崎港に向かった3隻の疎開船の1隻、対馬丸が
米潜水艦の魚雷攻撃を受け2隻の前で沈没、犠牲者1484名を出した。
対馬丸は、日本郵船のT型貨物船で、大勢の子どもたちが海に沈んだが、
箝口令が敷かれた。生き延びた2隻の人びとは長崎港に上陸した。
「ほとんどが女性で、みな俯いて悲しみの底にあって何かに耐えている哀れな姿
だった。まるで雨に濡れて電線に泊まるツバメのよう。その姿が目に焼き付いて、
今でも雨の日の小鳥たちを見ると、あの時の光景をありありと思い出す。
こういう格好で、ここにじっとしていた」とその姿を示した。 (引用ここまで)
●坂本さんの証言を引用させて頂きます。
心臓の手術2回、家の下敷きで腰を痛め入退院を繰り返している。今も恐い夢を見る。
「今の政権は戦前に戻そうとするようで心配だ。食事は美味しいけれど、
戦争が突然始まったらどうしようと不安になる」。 (引用ここまで) ③につづく
放射能はきっかり何キロ以内にだけ降り注いだとでも言うのか!
(④の終わりに詳しく書いてあります)
●松谷さんの証言を引用させて頂きます。
1977年に原爆症認定を厚生大臣に申請したが却下され、異議申し立てを繰り返して
20年が過ぎた。国は最高裁に上告したが、多くの人たちの協力を得て
2000年に勝訴した。2㎞以上でも認められたのは彼女が初めてのケースとなり、
ナガサキ、ヒロシマに広がった。 (引用ここまで)
●岩永さんは自宅の縁側にいて被爆したそうです。証言を引用させて頂きます。
ピカーッとなり俯せになったが、背中と両腕、足、顔に大火傷を負い、
家の下敷きになって右足を挟まれた。皮膚が垂れ下がっていたがはぎ取って、
死体の山また山をまたいで逃げた。中2に時、歪曲した足の手術をしたが治らず、
今も痛む。原爆認定を何度も申請したが、却下された。 (引用ここまで)
●〈キリシタンの祈り〉より引用させて頂きます。
250年もの間、潜伏して自分たちだけで信仰を守り続けた「潜伏キリシタン」と
呼ばれる信者も少なからずいた。やがて30年間かけて1925年に東洋一を誇る
煉瓦造りの浦上天主堂を建てた。が、その後、原爆で崩壊した。
すでに被爆から2か月後には、遺構として残そうという声が挙がったが、8年後、
当時の市長、市議会らは街の発展が大事だといて否定した。
歴史の彼方に消えた浦上天主堂の惨禍は、敷地内に並ぶ聖人や天使の石像などから
うかがうばかりとなった。 (引用ここまで)
(浦上信徒は約1万2千人いたが、その約8500人が爆死した)
●高見三明さんは2003年に大司教になり、「長崎9条の会」が設立される時に
宗教界から呼びかけ人として加わった。高見さんの証言を引用させて頂きます。
日本には16のカトリック司教区があるが、ほぼ全員の司教が「9条」を守ることで
一致している。戦争になると宗教は意味がなくなる。利用されるか、迫害されるか。
戦争を起こす環境を作ってはならない。
「『9条』は政治だけの問題ではなく、人権、生活を守るために必要なものだ」。
(引用ここまで)
●伊江ご夫妻の証言を引用させて頂きます。
沖縄からは1000人位が長崎の軍需工場に徴用された。三菱造船の工業青年学校に
入学したが1年で終わって現場に行かされ、飽の浦(3・2km)で被爆。翌年末に
沖縄に戻ってから酷い下痢が続いたが、米軍によって収容所に囚われても
原爆とは言えなかった。
妻の弟(12歳)は学童疎開の対馬丸に乗船していて犠牲になった。(引用ここまで)
●三田さんの証言を引用させて頂きます。
1944年8月22日、沖縄から長崎港に向かった3隻の疎開船の1隻、対馬丸が
米潜水艦の魚雷攻撃を受け2隻の前で沈没、犠牲者1484名を出した。
対馬丸は、日本郵船のT型貨物船で、大勢の子どもたちが海に沈んだが、
箝口令が敷かれた。生き延びた2隻の人びとは長崎港に上陸した。
「ほとんどが女性で、みな俯いて悲しみの底にあって何かに耐えている哀れな姿
だった。まるで雨に濡れて電線に泊まるツバメのよう。その姿が目に焼き付いて、
今でも雨の日の小鳥たちを見ると、あの時の光景をありありと思い出す。
こういう格好で、ここにじっとしていた」とその姿を示した。 (引用ここまで)
●坂本さんの証言を引用させて頂きます。
心臓の手術2回、家の下敷きで腰を痛め入退院を繰り返している。今も恐い夢を見る。
「今の政権は戦前に戻そうとするようで心配だ。食事は美味しいけれど、
戦争が突然始まったらどうしようと不安になる」。 (引用ここまで) ③につづく