●朝長万左男さんの証言を引用させて頂きます。
中町の自宅(2・7km)で被爆し、爆風で家は崩れ15分ほどで延焼したが、梁と梁の
間にの隙間で助かった。長崎大学医学部原子爆弾後障害医療研究所(原研)で
教鞭をとり、定年退官後も被爆者の白血病研究を続ける。
「原爆白血病は終わったと思ったがまだ消えず、第二の白血病(別名MDS)となった。
被爆者においては、発症は生涯持続する」 (引用ここまで)
●城臺(じょうだい)美禰子さんの証言を引用させて頂きます。
2014年8月9日の原爆犠牲者慰霊平和祈念式典で被爆者代表の 「平和宣言」をした。
「被爆の実相を語り継ぎながらフクシマとも繋がっていきたい」。 (引用ここまで)
●川野さんの証言を引用させて頂きます。
生まれは北朝鮮の中国国境の平安北道。父親の召集で、41年に母親と兄弟3人は
長崎に帰省した。父親は満州匪賊討伐決死隊に参加した。父は酔うと
「あのころは電信柱に首がぶら下がっていた」「若い男は網で捕まえた」などと
話していた。母親もその種の写真を持っていた。
「父が自ら手を下したか否かは分からないが、加害側にいたことになり、その息子で
あることは確かだ」。加害と被害を身をもって体験していることもあり、
平和運動に身を投じている。
2017年国連で採択された核兵器禁止条約への署名を政府に要求したが回答なし。
8月9日、長崎を訪れた安倍首相に要望書を手渡ししながら
「あなたはどこの国の総理ですか。
今こそあなたが世界の核兵器廃絶の先頭に立つべきです。」と直言した。
そして「被爆者の願いがようやく実り、核兵器禁止条約ができた。
私たちは心から喜んでいます。私たちをあなたは見捨てるのですか」と詰め寄った。
要望書には「長崎の被爆者は満腔(まんこう)の怒りを込め、
強く抗議する」と明記した。 (引用ここまで)
●山川さんは被爆遺構巡りの案内人を引き受けている。証言を引用させて頂きます。
浦上刑務支所の中国人原爆犠牲者追悼碑の前で、修学旅行生に説明をする。
「戦時中、日本は約4万人の中国人を強制連行し、炭鉱や鉱山、港湾、土木工事
などで過酷な労働を強いて、わずか1年余りの間に6830名もの死者を
出しました。・・・」と刻まれている。 (引用ここまで)
●山口さんは、お姉さん(9歳)の言葉が平和公園の噴水の石碑に刻まれている。
引用させて頂きます。
「のどが乾いてたまりませんでした
水にはあぶらのようなものが一面浮いていました
どうしても水が欲しくてとうとうあぶらの浮いたまま飲みました」。
(引用ここまで)
●横山さんの妹律子さんは44歳で亡くなるまでほとんど入院生活だった。
証言を引用させて頂きます。
「私の最初の記憶が戦争と原爆の恐ろしい出来事だった。律子は身体の心底から
熾(さか)るマグマのように湧き続ける憤りを、心の内に抱いていたでしょう。
妹のような人生を送る人がいないように、というのが私の役割」。
貧血に悩みながらも被爆者救済の活動に力を入れている。
「あの日に亡くなった人たちを無駄死にさせないために
『憲法9条』はあるのだと思い、私の道標にしている」。(引用ここまで)
④につづく
中町の自宅(2・7km)で被爆し、爆風で家は崩れ15分ほどで延焼したが、梁と梁の
間にの隙間で助かった。長崎大学医学部原子爆弾後障害医療研究所(原研)で
教鞭をとり、定年退官後も被爆者の白血病研究を続ける。
「原爆白血病は終わったと思ったがまだ消えず、第二の白血病(別名MDS)となった。
被爆者においては、発症は生涯持続する」 (引用ここまで)
●城臺(じょうだい)美禰子さんの証言を引用させて頂きます。
2014年8月9日の原爆犠牲者慰霊平和祈念式典で被爆者代表の 「平和宣言」をした。
「被爆の実相を語り継ぎながらフクシマとも繋がっていきたい」。 (引用ここまで)
●川野さんの証言を引用させて頂きます。
生まれは北朝鮮の中国国境の平安北道。父親の召集で、41年に母親と兄弟3人は
長崎に帰省した。父親は満州匪賊討伐決死隊に参加した。父は酔うと
「あのころは電信柱に首がぶら下がっていた」「若い男は網で捕まえた」などと
話していた。母親もその種の写真を持っていた。
「父が自ら手を下したか否かは分からないが、加害側にいたことになり、その息子で
あることは確かだ」。加害と被害を身をもって体験していることもあり、
平和運動に身を投じている。
2017年国連で採択された核兵器禁止条約への署名を政府に要求したが回答なし。
8月9日、長崎を訪れた安倍首相に要望書を手渡ししながら
「あなたはどこの国の総理ですか。
今こそあなたが世界の核兵器廃絶の先頭に立つべきです。」と直言した。
そして「被爆者の願いがようやく実り、核兵器禁止条約ができた。
私たちは心から喜んでいます。私たちをあなたは見捨てるのですか」と詰め寄った。
要望書には「長崎の被爆者は満腔(まんこう)の怒りを込め、
強く抗議する」と明記した。 (引用ここまで)
●山川さんは被爆遺構巡りの案内人を引き受けている。証言を引用させて頂きます。
浦上刑務支所の中国人原爆犠牲者追悼碑の前で、修学旅行生に説明をする。
「戦時中、日本は約4万人の中国人を強制連行し、炭鉱や鉱山、港湾、土木工事
などで過酷な労働を強いて、わずか1年余りの間に6830名もの死者を
出しました。・・・」と刻まれている。 (引用ここまで)
●山口さんは、お姉さん(9歳)の言葉が平和公園の噴水の石碑に刻まれている。
引用させて頂きます。
「のどが乾いてたまりませんでした
水にはあぶらのようなものが一面浮いていました
どうしても水が欲しくてとうとうあぶらの浮いたまま飲みました」。
(引用ここまで)
●横山さんの妹律子さんは44歳で亡くなるまでほとんど入院生活だった。
証言を引用させて頂きます。
「私の最初の記憶が戦争と原爆の恐ろしい出来事だった。律子は身体の心底から
熾(さか)るマグマのように湧き続ける憤りを、心の内に抱いていたでしょう。
妹のような人生を送る人がいないように、というのが私の役割」。
貧血に悩みながらも被爆者救済の活動に力を入れている。
「あの日に亡くなった人たちを無駄死にさせないために
『憲法9条』はあるのだと思い、私の道標にしている」。(引用ここまで)
④につづく