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耳川合戦図屏風


1577(天正5)年薩摩を本拠とする島津氏は、日向の国の支配者であった伊東氏を豊後に追い落とした。いわゆる「伊東一族豊後落ち」だ。翌1578(天正6)年、伊東氏が頼った豊後大友軍は、大友宗麟のキリスト教国建設の夢も内包しながら日向の国に南下。高城川(現・小丸川)を主舞台に両軍の戦いが繰り広げられた。結果は大友軍の大敗、耳川方面への敗走となった。島津軍はそれを追走、多くの首をとった。

その時の高城川での戦いの様子を描いた絵が「耳川合戦図屏風」だ。実物は相国寺(京都府)にあるようだ。屏風図を書物の写真で何度か見ているうち、ある時ふと気にとまったのが左上のお城。ひょっとするとこれは佐土原城ではないのかと思うようになった。博物館に行けば大きな図があるかもしれないと思い、過日出かけた。屏風図はすぐに見つかったが、実寸よりかなり小さいもので、内側から照らされていた。それでも書物の写真よりはずっとよかった。右側3分の1の所に高城川が大きく描かれている。その川を右から左に渡るのが大友軍。画面中央では両軍が激突している。左下には島津軍の鉄砲隊、その上方は陣から駆け出る島津軍だ。
この合戦図では3つの城が描かれている。高城川左岸(絵では一番右上)の城は、幟から島津軍が守り固めた高城と思われる。大友軍の執拗な攻めにも落ちなかった城だ。そして一番左上が佐土原城、その右奥が都於郡城のようだ。佐土原城とみたのは、三層の天守が描かれているためだ。この天守、「天正年中佐土原城図」(日南市教委蔵)に描かれている天守と瓜二つなのだ。左上の城が佐土原城なら、その右奥は島津軍の出撃の舞台ともなった都於郡城に間違いない。この屏風絵、いつか実物と対面し細かな所も確認してみたい。

尚、なぜ「耳川合戦」と呼ばれるかと言えば、大友記に高城川を耳川と誤記したためか。主戦場はあくまで高城川である。

※「天正年中佐土原城図」の描かれた時期は、天正年間の佐土原城を江戸時代に描いたというのが定説。また、天守台が二層か三層かは不明で、古文書では二層との記述もあるが、現在進行中の発掘が進む中で明らかになりそうだ。
※耳川合戦図屏風に描かれているお城は、どれも天守台を持っているように描かれているが、この頃のお城はどれも山城。佐土原城天守台ができたのは、佐土原島津藩第2代藩主島津忠興の時なので、耳川合戦図屏風に描かれているような天守は、実際はないようだ。


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だんじり喧嘩(宮崎市佐土原町)


ここはかつての日向の国の中心地・佐土原(さどわら)。城下町だったが明治のはじめにお城を他所に移す転城を決行。そのため城下町の痕跡はほとんどなくなっているが、武士達がいなくなった分、商人町へと大変貌。たいそうにぎわう町になったが、それも昭和の初めまで。今はどこでもある田舎町だ。だが、伝わる祭りはどこより多い。
一番の祭りは佐土原夏祭りだろうか。毎年7月末に行われる。その中で約120年前から続いているのが、岸和田から伝わったというだんじり喧嘩。若い男衆が青団・赤団に別れ、みこし風の大太鼓が乗っただんじりをかついで、ひっくり返そうとぶつけ合う行事だ。だんじりの重さは約1トン。「サッサーイ」のかけ声の中、“ドデドン、ドデドン”とたたき続けられる大太鼓が勇ましい。

今年はてっきり青団が勝つものと思っていた。ぶつけあう前に並んだ姿は、青団の先頭に並ぶ者たちは、まるでどこかの国のラグビーチームのごとし。やってみなければ分からない。互角に組み合い、押し合いぶつけ合うこと約10分余り。観客席からも、「赤イケー、青頑張れー」と絶叫の応援が飛ぶ中、最後は赤団が青団のだんじりをひっくり返してしまった。たった10分ほどだったが、力の入ったぶつけ合いは長い長い10分でもあった。
あっという間に終る時もあるし、延々と続く時もあるが、今年のだんじり喧嘩は今までで最高におもしろかった。観客は老若男女、子どもからお年寄りまで多数。バスでの観戦もあった。来年は青団が雪辱を果たすべく、新たな作戦をねってくるだろう。青団も赤団も頑張れー!













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さどわら「鬼子母神大祭」


3月4日、近くの「鬼子母神大祭」に出かけた。「鬼子母神大祭」と便宜上書くが、ここの鬼子母神の鬼という字には、上の点はない。家から約2kmのところだ。賑わいを写真におさめておきたくて午後4時頃に車で出かけた。スーパー駐車場の向い側空き地が大祭の臨時駐車場だ。そこに車を止めるとほぼ同時に消防自動車のサイレン。気になりながら車のドアを開けると、大祭から帰り際のおばさま2人が、遠くを指差す。見れば、自宅方向に黒い煙。
ということで、すぐに煙を目指して引き返す事となった。道は少し“くの字”の一本道。途中の集落を過ぎると、煙のたちのぼる先は堤防の向こう側、つまり河川敷。ちょっと安心。堤防にはたくさんの消防自動車と救急車。現場に近づくにつれ、顔見知りの人達が集まり心配顔。消火に邪魔にならないところに車を止め堤防に上がった。見れば、たくさんの消防団が駆け付け、もう鎮火間際。田んぼの畔を焼いていた火が、河畔の竹林に燃え移ったらしかった。しかし、運のいいことに、ちょうどそばの水路に水が流れはじめたばかり。そのため消火活動もスムーズで、竹林の下を焼くボヤ程度で事なきを得た。乾燥時には芝生程度の草でも燃え広がる。一人での野焼きは要注意だ。

ボヤ程度だったのを確認して、改めて鬼子母神大祭へ。臨時駐車場は車でもういっぱい。ちょうど1台ほどの空きスペースが見つかった。隣りは大きな車に家族連れ。すぐそばの出店の前では、もう子どもが何かを欲しがっていた。道路脇には、藍地に「鬼子母尊神」と白く染め抜かれた幟がはためく。そして歩行者天国の参道へ。色とりどりの賑やかな出店が並ぶ。やはり祭りの風景だ。焼きリンゴ、焼きトウモロコシ、焼きそば、金魚すくい、おもちゃ屋さんなどなど。いつもの風景だ。
出店を抜けると鳥居と階段。この付近に、ずっと昔は「見世物小屋」があった。むしろ掛けの小屋には、おどろおどろしいろくろ首やとぐろを巻いた大蛇の大きな看板がかけられていた。ろくろ首も大蛇も、頭は日本髪の女の人。たしかのっぺらぼうもあった。怖いもの見たさに入ってみれば、何のことはない、普通の女の人が扮しているだけだった。それでも恐く、楽しかった。今はその類いがないのがちょっと寂しい。「佐土原」は、かつて歌舞伎芝居が盛んだったところだ。佐土原歌舞伎一座は、県内はもとより、県外へも公演に出かけたほどだ。それを背景に、全国でも指折りの「歌舞伎人形」を生んだ。加えて、あるはずと思っていた佐土原人形や神代ゴマ、うずら車の出店も見かけなかった。佐土原が次代に受け継ぐべき代表的工芸品だが、これらの出店も無かったのはやはり寂しかった。作り手の寄る年波か、はたまたデジタル時代のせいか。かつての賑わいというまでにはいかないが、こどもを連れた若夫婦やおじいちゃんおばあちゃんの姿は、いつもと変わりなかった。子どもは宝。いつまでも変わらないその思いを大祭に感じた。

さどわら鬼子母神








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島津啓次郎墓石


それは眼下に市街地、錦江湾を隔てて桜島を大きく望む台地の上にあった。西南戦争で戦死した西郷隆盛をはじめ2023名が眠るという墓地の一角だ。台地の上の鳥居をくぐると正面に西郷隆盛のどっしりとした墓碑が見える。本当にどっしりしている。それを囲むように、西郷軍の幹部だった桐野利秋、篠原国幹、村田新八、辺見十郎太、別府晋介、桂久武などの墓石が並んでいる。どれも大きく、ぎっしりと並んだ墓石からは、西郷軍の無念さが伝わるほどの威圧感を覚える。
目指したのは島津啓次郎の墓碑。一度は訪ねてみたいと思っていた。1mほどの自然石の上に3m近くはあるかと思える石柱に「島津啓次郎之墓」と刻まれている。他の墓石と場所も形状も違うのは、佐土原藩主の三男だったせいか。こちらには威圧感は無く、空に向けてすっくと立つっている姿は、未来を目指す青年のようでもある。脇の説明板には次のようにあった。

島津啓次郎
佐土原藩主島津忠寛の三男。明治9年、7年間の米国留学を終え帰国早々、佐土原隊500名を率いて従軍。自由民権を唱えた。従者の三島貢之(38才)、中村道晴(26才)、有村武英(20才)とともに明治10年9月24日城山で戦死。21才。


関心をもっているのは、啓次郎がアメリカ留学で身につけたという「自由民主」だ。佐土原の地元では若くして散った俊才として語られることが多いが、「自由民主」の内容にまで踏み込んで語られることはまずない。そのことに分け入り語ることになれば、より普遍性を持つことになるのだろう。帰国後に、同士と共にした「自立舎」という学習会や、西南戦争直前に開校されたばかりだった私学校「晑文黌(きょうぶんこう)」の名に目指したものの一端を垣間見る思いがする。

南洲墓地のそばには、西郷を歌った勝海舟の歌碑もあった。
  ぬれぎぬを
干そうともせず
  子供らが
   なすがままに
果てし
    君かな



西郷隆盛墓石


勝海舟歌碑
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