昨日から丸一週間雨マークの予報でしたが降り出しが思ったよりも早かった。
いつもにょうに6時20分過ぎに仕事場に着いた時はもうかなりの雨脚で

花切りを終えた時にはもう道路がこんなに濡れていた。

かと思っていると時々薄日が差したりして

湿度が高いので温度の割には蒸し暑く感じる仕事場で

開け放っているハウスのサイドから吹き込んだ雨のおかげで作業着はびしょ濡れ。

鼻歌なんて歌ってる余裕はありませんでしたよ。
さて、本題です。
ベルギーに大善戦でしたがいくら健闘をたたえられても勝負の世界は厳しいですね~。
2002年、2010年に続いて今回が三度目となる「ベスト8」へのチャレンジでしたが「三度目の正直」とはならず「二度あることは三度ある」という結果に終わりました。
世界の壁はまだまだ厚いなと実感させられた一戦でしたね。
こんなことでは「優勝」なんてことを口にするのはおこがましいんですが・・・いずれは必ずその日が訪れると信じて疑わない賢パパであります。
思い出してほしいのは日本代表の過去のワールドカップにおける成績です。
初めてワールドカップの予選に出場したのが今から64年も前の1954年のことで当時のアジア枠は1チームでしたが参加したのが日本と韓国だけで(中華民国は辞退)ホームアンドアウェイのはずがどういうわけか2試合とも東京で行われたにもかかわらず韓国相手に1敗1分けで本大会への出場を逃した。
その当時はアマチュアリズム全盛の時代であってオリンピックに目標を絞っていたため代表として予選に参加していた選手でもワールドカップがどんな大会か知らずに戦っていたなんて言うエピソードが残っているそうです。
そんなこともあって本格的にワールドカップを目指したのは1970年代に入ってからになりましたが・・・1970年から82年までは4大会連続で1次予選敗退という結果で86年のメキシコ大会の時に初めて最終予選まで進むことが出来た。
で、90年のイタリア大会も1次予選敗退で・・・その後悲願のワールドカップ本大会出場を念頭に1993年に発足したのが「Jリーグ」でした。

それによって国内のサッカーのレベルが向上し・・・94年のアメリカ大会の予選では出場権をほぼ手中に収めていながら最後の最後で取り逃がしたのが「ドーハの悲劇」
そしてJリーグ発足から5年目にして初めて手に入れたのが98年のフランス大会への切符でした。
賢パパ、こう見えてもずいぶん昔から日本代表を応援して来ました。
昔の日本代表は海外でプレーしている選手なんて誰もいなくて国内には「日本リーグ」という企業のチームのリーグ戦があって選手は皆アマチュアとしてプレーしていた。
そうしている時に当時はサッカーの本場ブラジルでプロとして活躍していた三浦知良選手がJリーグの発足間近との情報をつかんで日本国内でのプレーを希望して当時の「読売クラブ」に入団して来た。

このあたりから日本代表のレベルが格段の進歩を遂げてワールドカップに手が届くところまで来たんですよね~。
だから・・・Jリーグが出来る前はワールドカップの本大会出場なんてのは夢のまた夢でした。
それが・・・ドーハの悲劇でもしかしたら夢が実現するかもしれないと本気で思った。
初めて予選に参加してから実に40年後のことですよ。
で、44年目にして初めて本大会に出場したわけですが・・・それからまだたったの20年しか経っていない。
たったの20年で「バスト8」なんて口にするのもおこがましい。
ドーハの悲劇の時に新聞の取材に対して「「W杯は簡単に出られる舞台ではないし、あのときは、きっと神様が日本にはまだ早いって思ったんだと思う」と語ったのは当時の代表チームをけん引していたラモス瑠偉選手でした。
今回のベルギー戦の結果を受けてこの言葉が真っ先に頭に浮かびました。
こうして失敗を重ねることによって成長していつかはベスト8、ベスト4とステップアップして行って・・・賢パパが生きているうちに何とか決勝まで勝ち上がってもらいたいものです。
あと50年あれば・・・大丈夫だよね~。
今日は花切りだけで仕事は早上がりですが天気予報では朝から一日中の雨。
既に「大雨注意報」が出ていてこれは警報に変わる可能性が大きい。
天気が回復すれば久しぶりで藤枝のこんなお店でランチなんてことも考えたんですが・・・どうやら無理そうなので家でおとなしくしていることにいたします。
いつもにょうに6時20分過ぎに仕事場に着いた時はもうかなりの雨脚で

花切りを終えた時にはもう道路がこんなに濡れていた。

かと思っていると時々薄日が差したりして

湿度が高いので温度の割には蒸し暑く感じる仕事場で

開け放っているハウスのサイドから吹き込んだ雨のおかげで作業着はびしょ濡れ。

鼻歌なんて歌ってる余裕はありませんでしたよ。
さて、本題です。
ベルギーに大善戦でしたがいくら健闘をたたえられても勝負の世界は厳しいですね~。
2002年、2010年に続いて今回が三度目となる「ベスト8」へのチャレンジでしたが「三度目の正直」とはならず「二度あることは三度ある」という結果に終わりました。
世界の壁はまだまだ厚いなと実感させられた一戦でしたね。
こんなことでは「優勝」なんてことを口にするのはおこがましいんですが・・・いずれは必ずその日が訪れると信じて疑わない賢パパであります。
思い出してほしいのは日本代表の過去のワールドカップにおける成績です。
初めてワールドカップの予選に出場したのが今から64年も前の1954年のことで当時のアジア枠は1チームでしたが参加したのが日本と韓国だけで(中華民国は辞退)ホームアンドアウェイのはずがどういうわけか2試合とも東京で行われたにもかかわらず韓国相手に1敗1分けで本大会への出場を逃した。
その当時はアマチュアリズム全盛の時代であってオリンピックに目標を絞っていたため代表として予選に参加していた選手でもワールドカップがどんな大会か知らずに戦っていたなんて言うエピソードが残っているそうです。
そんなこともあって本格的にワールドカップを目指したのは1970年代に入ってからになりましたが・・・1970年から82年までは4大会連続で1次予選敗退という結果で86年のメキシコ大会の時に初めて最終予選まで進むことが出来た。
で、90年のイタリア大会も1次予選敗退で・・・その後悲願のワールドカップ本大会出場を念頭に1993年に発足したのが「Jリーグ」でした。

それによって国内のサッカーのレベルが向上し・・・94年のアメリカ大会の予選では出場権をほぼ手中に収めていながら最後の最後で取り逃がしたのが「ドーハの悲劇」
そしてJリーグ発足から5年目にして初めて手に入れたのが98年のフランス大会への切符でした。
賢パパ、こう見えてもずいぶん昔から日本代表を応援して来ました。
昔の日本代表は海外でプレーしている選手なんて誰もいなくて国内には「日本リーグ」という企業のチームのリーグ戦があって選手は皆アマチュアとしてプレーしていた。
そうしている時に当時はサッカーの本場ブラジルでプロとして活躍していた三浦知良選手がJリーグの発足間近との情報をつかんで日本国内でのプレーを希望して当時の「読売クラブ」に入団して来た。

このあたりから日本代表のレベルが格段の進歩を遂げてワールドカップに手が届くところまで来たんですよね~。
だから・・・Jリーグが出来る前はワールドカップの本大会出場なんてのは夢のまた夢でした。
それが・・・ドーハの悲劇でもしかしたら夢が実現するかもしれないと本気で思った。
初めて予選に参加してから実に40年後のことですよ。
で、44年目にして初めて本大会に出場したわけですが・・・それからまだたったの20年しか経っていない。
たったの20年で「バスト8」なんて口にするのもおこがましい。
ドーハの悲劇の時に新聞の取材に対して「「W杯は簡単に出られる舞台ではないし、あのときは、きっと神様が日本にはまだ早いって思ったんだと思う」と語ったのは当時の代表チームをけん引していたラモス瑠偉選手でした。
今回のベルギー戦の結果を受けてこの言葉が真っ先に頭に浮かびました。
こうして失敗を重ねることによって成長していつかはベスト8、ベスト4とステップアップして行って・・・賢パパが生きているうちに何とか決勝まで勝ち上がってもらいたいものです。
あと50年あれば・・・大丈夫だよね~。
今日は花切りだけで仕事は早上がりですが天気予報では朝から一日中の雨。
既に「大雨注意報」が出ていてこれは警報に変わる可能性が大きい。
天気が回復すれば久しぶりで藤枝のこんなお店でランチなんてことも考えたんですが・・・どうやら無理そうなので家でおとなしくしていることにいたします。
