ショックです…。なんと何時間もかけていろいろ調べて、やっとこさアップした記事が全部消えてしまいました はぁ~、凹むなぁ~…。全部は思い出せないし、前回ほど事細かに記事を書く気力もありませんが、気を取り直してもう一度『花ノ木~久山編』アップしたいと思います。
旧本田家から井樋之尾の見境石まで来た道を戻って、今度は花ノ木方面へ。
この辺りは車も少ないし自然がいっぱいなので歩くのにはもってこいです。空気も美味しくて気持ちが良いですよ~
ずっと坂を上って行くと、心天(ところてん)の石鉢を発見!案内標示が立っている場所から少しだけ坂を下ると、かつて旅人達に振舞うために作られたところてんを冷やしたと言われる石鉢がありました。夏の暑い日に食べる冷えたところてん。どんなにか旅人の喉を潤したことでしょう ちなみにところてんは「心太」とも表記するそうです。覚えておきましょう~。
次に立ち寄ったのは井樋之尾観世音。入り口には優しいピンク色のシャクナゲが咲いていて、なんだかステキな雰囲気を漂わせています。
境内にはお寺とも神社とも見てとれるような小さなお社がありました。でも観音様がいるということはやっぱりお寺かな?
この井樋之尾館世音の由来は以下の通りです。
井樋之尾観世音は寛永14(1637)年島原の乱のおり切支丹宗徒等の一揆は神社仏閣の焼討ち打壊しを行った。
いち早く乱を察知した肥前国高来郡有馬村・諫巳寺の僧、永誉敬庵主は一揆が立て篭もった有馬氏の廃城・原城北三の丸に安置されてた聖観音像を捧持し法類の喜々津村の正法寺を頼って艱難辛苦の旅を続けた。
その最中、豊かな清水の湧き出る井樋之尾御手洗の地に到り、ここぞ観音様を、お祭りするにふさわしい霊地であると正法寺の末庵を建立したのが井樋之尾観音の創始である。
なんとこちらに祀られている観音様は、キリスト教徒の焼き討ちから逃れるために遠く島原からいらしたようです。ここでは現在も清水が湧いているようで、この日も水を汲みに来ている方がいらっしゃいました。
観音様がいらした仏閣からもう少し歩いたところに、清水の祠という湧き水スポットを発見しました。最近こちらまで飲用水を汲みに来るようになったという義理の父の話によると、こちらの水は大変質がよいらしく、連日たくさんの人がポリタンクを持って水を汲みに来るのだとか。こんな近場に水汲み場があったとは知らなかったなぁ。
ちょうどお腹も減ってきた頃に、御籠立場跡に到着しました。案内板によると、ここは江戸時代末に喜々津の武士前田郡蔵氏の土地で、殿様がここで休息をした際に伺候したと言われている場所です。
殿様が休んだと言われるこの場所で、我々もお昼休憩をとることにしました。外で食べるおにぎりはやっぱりうまいっ!くせになりそうです
お昼も食べてさらに街道歩きを続けていると、いつの間にか久山ゾーンに入っていました。久山には街道にちなんだ言葉が書かれてある板が道の両側にずらりと並んでいる場所があって、その道沿いには昔の街道の雰囲気を取り戻そうと、松の植樹もされていました。 左の写真はたぬき絵の画家として知られている長崎出身の堤けんじさんによって書かれたもので、右の写真は以下の羽根突き歌の最後の一節です。
まちで(長崎)で まんじゅうこうて(買って)
日見で 火もろうて
矢上で やいて
古賀で こんがらがして
喜々津で 切って
久山で うちくうた(食べてしまった)
この歌、ご存知ですか?長崎県民の方なら聞き覚えがあるかもしれませんね。ちなみに私は最近知りましたけどね
さらに街道を歩いていくと、旧茶屋の井戸にたどり着きました。長崎奉行をはじめ、幕府の大名やオランダ商館長、また多くの維新の志士達が通ったとされる長崎街道。もしかしたらあの坂本龍馬もこの井戸の水を飲んだかもしれませんね~
最後に訪れたのは、農林試験場の敷地内にあるお馬の水。ここも清水の祠と同じように水が湧いていて、街道を通る馬に水を飲ませた場所なのだそうです。このように要所要所に水分補給ができる場所があったために、人々が行き交うようになり、次第に街道として成り立っていったのかも知れませんね。
初めてじっくりと街道を歩いてみて、今まで気づかなかったステキな場所を発見したり、今まで知らなかった地元長崎の歴史に触れることができました。この日歩いた距離はおよそ9km。長崎から小倉までは約224kmあるそうなので、そのほんの20分の1にも満たない距離でしたが、なかなか良い運動になりました。普段運動をしない旦那さんも、意外と難なく歩けたので、どうやら歩くのに自信がついたようです。どこまで達成できるかわかりませんが、旦那さんのダイエットも兼ねて、これからも少しずつ長崎街道歩きを続けて行きたいと思います