Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

ラピュタアニメーションフェスティバル

2009-03-15 23:22:24 | アニメーション
ラピュタアニメーションフェスティバル2009に行ってきました。

3月15日~4月11日まで。今年はエストニアのアニメーション特集です。エストニアに興味のある人は行ってみるといいでしょう。もっとも、日本でエストニアに興味のある人がどれくらいいるか疑問ですが…。ただ、エストニアはアニメーションの盛んな国で、世界的なアニメーション監督プリート・パルンが輩出している国です(ところで「輩出」って二通りの使い方がありますよね。「~を輩出する」と「~が輩出する」と。どっちが正しい?)。世界のアニメーションに関心があるなら、やっぱり観ておくべきですね。

今日観てきたのは「エストニアの作家たち」というプログラム。71分。上映作品は、

カスパル・ヤンシス「ウェイツェンベルグ・ストリート」(11分)
ウロ・ピッコフ「人生の味」(12分)
ウロ・ピッコフ「バミューダ」(11分)
プリート・テンダー「モンブラン」(11分)
プリート・テンダー「フォックス・ウーマン」(10分)
マッティ・キュット「リトル・リリィ」(16分)

「人生の味」と「バミューダ」と「モンブラン」はよく意味が分かりませんでした。「人生の味」は体のマッサージの場面から始まって、その様子は誇張された表現でおもしろかったのですが、次第に意味不明に。解説を読むと「愛と食べ物の関係をブラックユーモアで描く」と書いてあるのですが、食べ物が出てきた記憶がほとんどないのです。確かになくはないのですが、そんなに重要だったとは…

「フォックス・ウーマン」はストーリーは明快なのですが、結局どういう話だったのかがよく分かりません。性格の悪い美人の狐が天国にいる叔父に会いに行ったところ、そこで破廉恥な振る舞いをしたために地上へ突き落とされてしまいます。毛皮のコートを剥ぎ取られた狐は、なぜか馬糞を体にまとい、花を頭に挿します。そこへ鶴(だっけ?)が来て、自分にも花を挿しておくれよと頼むのですが、狐は「これは釘で打ち付けているのだから、お前にもそうするよ、もしそれでいいなら花を自分で見つけておいで」、という意味のことを言います。実際に鶴は花を持ってくるのですが、釘を頭に打ち込まれて死んでしまいます。狐は鶴を食べてしまい、残った骨で笛を作りました。というお話。なんだこれ?インディアンの伝説だそうですが、今で言ったらナンセンスものでしょうか。まあ楽しめないことはありません。

「リトル・リリィ」は、空を飛ぶことを願っている父が蝿を殺すことに我慢できない少女の物語。自分が飛べないものだから蝿にも空を飛ばせない、と彼女はおもしろい理屈を言い立て、もし蝿を殺すのをやめないなら私はご飯を食べない、と宣言します。やがて体が米粒みたいに小さくなった少女は、自動掃除機に吸い取られて、捨てられてしまいます。ところがそこでドングリに助けられ、蝿がやって来ます。蝿の体にはまるでネコバスみたいに入口ができ、そこへ少女はドングリとともに乗り込みます。こうして蝿に乗って少女は家に帰り、身長も元通りになります。父親は蝿を殺すのをやめました。

途中で少女が披瀝する高度な知識はおもしろかったですね。蛆虫によって傷の化膿を防ぐことができる、という趣旨の話です。こういう逸脱は小説でありますよね。

一番感心したのは最初のカスパル・ヤンシスの短篇です。若い男と女が同居していて、男は女の気を惹こうとするのですが、女は蝿(またしても蝿です)にご執心。蝿を相手に喘ぎ声まであげる始末。やがて男は向かいの部屋の水槽を泳ぐ魚に気をとられます。双眼鏡でそれを覗く男。その部屋の住人は自分が監視されていると勘違いし、ヒットマンを雇って男を射殺するよう要請。しかし間一髪で女が男を助けて弾丸は外れます(蝿に命中)。ええと、ラストを忘れてしまいました。男と女は仲良くなったんだっけな?

この短篇のおもしろさはストーリーそのものにあるわけではなく、男の軽快な動きや、なぜか蝿を相手にする女の不可解さ、見られることに強迫的な恐怖を感じてしまう向かいの部屋の男の行動などにあります。男と女の恋愛の機微を象徴的に描いたようですが、ユーモアがあってとても楽しめました。

それにしても。この時期のアニメーションフェスティバルは、実は勘弁してもらいたいのです。だって花粉症の時期でしょう?鼻水が気になって集中できないです。前みたいに12月初め頃に戻して欲しいなあ。

もう一つ「それにしても」。このプログラムの上映は、どういうわけかボリュームがかなり絞られていて、音が小さすぎました。どうしてこんなことになったのか分かりませんが、明日以降は改善して欲しいですね。

アニメーション学会

2009-03-15 02:15:01 | アニメーション
3月14日、日本大学芸術学部江古田キャンパスで催された、日本アニメーション学会の公開研究会に出席してきました。実はこの日は神奈川大学でロシア文学関係の学会(?)もあって、どちらへ行こうか直前まで迷ったのですが、専門よりも趣味を取ってしまいました。いかんなあ。特にテーマの一つとなっていたロシアの30年代の文学情況は、ぼくの専門と被っているのですが。それでもアニメーションの方を選んだという馬鹿さ加減。

しかし、おもしろかったです。色々な話が聞けましたし、最後のトークセッションはけっこう笑えましたしね。ところでいま少し頭が痛くて眠たいので、さっさと話を切り上げようと思います。

一人目の発表者は土居伸彰さんで、「越境するアニメーション――ソユズムリトフィルムを中心に」という題目。主に現代ロシアのアニメーション状況を紹介したものでした。その際に、ヒトルークの「ヴィニー・プーフ」、ノルシュテインの「霧の中のハリネズミ」、プリート・パルンの「I Feel the Lifelong Bullet in the Back of My Head」、コワリョーフの「妻は雌鳥」を上映。4人とも有名な監督で全員知っているのですが、実際に観たことのある作品は「ハリネズミ」だけでした。「ヴィニー・プーフ」のシリーズは別の作品なら観たことがありますが。ちなみにプリート・パルンはエストニアの作家で、明日からの(もう今日ですが)ラピュタアニメーションフェスティバルにてこの作品を含む様々な監督作品が上映予定。

ノルシュテインはヒトルークから影響を受けており、「ハリネズミ」と「ヴィニー・プーフ」は作風が似ている、という趣旨の話でした。で、この二作はとても楽しく観られるのですが、後の二作、パルンとコワリョーフの作品は意味不明でした。しかし土居さん曰く、その分からなさに意味があるそうです。コワリョーフはパルンの作品を観て衝撃を受けたそうで、実際「妻は雌鳥」のヴィジュアルはパルンのそれを思わせます。

ぼくはコワリョーフの代表作「ミルク」を初めて観たときやっぱり意味不明で、二回目の鑑賞でようやく何となく意味がつかめてきたのですが、これが非常に高い評価をかちえていると聞いていたので、こんな訳の分からないものがどうして、と内心不思議で、同時に自分の鑑賞眼のなさを嘆いていたのですが、どうやら意味のよく分からないものを作る作家のようですね。土居さんは「異質さ」と表現していましたが。もっとも、この「妻は雌鳥」を土居さんは解説していて、それを聞くとちゃんとしたストーリーがあることが分かり、驚きました。まあぼくも、妻が雌鳥だと気付かずにいた夫、という最初の設定くらいは理解していましたが、後半から皆目分からなくなっていました。しかしあの津堅信之さんでさえよく理解できていないようだったので、土居さんの理解力が異常なのかな。というか、どこかに解説があるのかもしれません。

ロシアにおいては政府による資金援助がアニメーション制作には必要かもしれない、という認識は、ノルシュテインのことを知っている人なら常識かもしれませんが、これってけっこう複雑な事情ですよね。社会主義体制下の方がよかったと言っているのですから。それにしても現在の金融危機でピロットスタジオが機能停止に追い込まれたとは知りませんでした。あの宝の山シリーズがもう作られないのか……これは世界的損失ですよ。ちなみにピロットスタジオというのは日本ではパイロットスタジオと表記されることもあり、英語表記を確認すれば明らかに後者が正しいのですが、でもロシア語ではピロットと読むんですよね。紛らわしい…

なんかさっさと話を切り上げると言いながら、長い文章を書いてます。後半は簡単に。

二人目の発表者は須川亜紀子さんで、題目は「魔法少女TVアニメーションの「フェミニスト・テレビ学」的読みの可能性」。なんというか、簡単なことを難しく言い換えている、という印象を受けました。わざわざアカデミックな言説に置き換える必要があるのかな、と疑問。もっと明快な言葉で説明して欲しかったです。ぼくもいちおう文学畑の人間ですから用語は分かるのですが、ここでその言葉を使う必要があるのかな、と考えてしまうわけです。TVアニメを学問するにはこういう真面目な言説が必要だと思っておられるのかもしれませんが、ちょっと滑稽でさえあるように感じました。ちなみに、質疑応答のとき、会場からあんまりな質問が飛んでいて、発表者に同情。どうやら質問者はフェミニズムが男性に攻撃を仕掛けるものだと思っているようなのですが、フェミニズムがそんな狭量な学問分野だと考えている人はアカデミックな領域には生息してませんからね。文学関係の学会ではまず出てこない質問だったと思います。その意味で新鮮でしたが…

最後は「「アニメブーム論」の試み」と題した討論。というか各世代を代表する人たちが自分のアニメ体験を語る、という程度のものでした。でもこのセッションが一番おもしろかったですね。小川敏明さんという66年生まれの人が妙に情熱があって、ちょっと変な人というか、いかにもってな感じの人でおもしろかったです。場の空気も読んでなかったし。まあそれはいいんですが。印象的だったのは、ジブリアニメはアニメとみなしていない、という彼の発言。確かにジブリアニメを観る人といわゆるアニメファンとは別の位相にあるのであって、あんまり重ならないんですよね。だからアニメブームとジブリとは一切関係ない、という主張になるのですが、しかしブームというのはそれまでアニメなど観てこなかった観客層を取り込み、客層を拡大したという側面があるので、だとすれば、ジブリアニメ、特にもののけはアニメブームに一役買ったと言える気がします。おたくの世界だけで起きていることは必ずしもブームとは呼べないと思います。ジブリアニメを無視し、おたく的な作品だけに注目するのはあまりに狭い考え方ですよね。棲み分けができているという現実があるわけですが、しかしもっと広い視野でアニメーションという全体を捉える必要がある気がします。

なんか頭がぼんやりしていて自分が何を書いているのかはっきりしなくなっています。

そういえば会場に藤津亮太が来ていました。あんなに髪の毛が短いとは思わなかったぜ。

あと、客層はやはりアニメファンっぽい人が多かったです。むさい野郎がいっぱい。普通の人もいましたけどね。え?ぼくはもちろん後者ですよ。