Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

AIR

2009-03-18 01:02:46 | アニメーション
CLANNADも最終回を迎えたことですし、以前から観たいと思っていたAIRを観ました。二日で。たった今。

これってバッドエンディングと捉えてよいのでしょうか。それともバッドの中に希望を求める話?バッドともハッピーともつかないラストでしたが、しかし悲しい物語であることは確かです。

第5話から、キました。それまでは、正直イマイチだと感じていたのですが、第5話から一気に引き込まれました。CLANNADでいうと風子のエピソードに近いですよね。ただこの「みちる編」も結局はハッピーエンドだったし(とはいえやはり悲しい話でしたが)、アニメ全体としても幸福な結末を迎えるものだとばかり思っていたのですが、こんなことになるとは。

「みちる編」では、美凪の母が彼女のことを「みちる」と呼んだ瞬間、さーっと風子のことが思い出されて、いったいどういうことが起きているのかが何となく理解できたのですが、案に違わずみちるは幻の少女でした。後編の第6話で泣きました。

二度目に泣いたのは「昔話編」(どういうふうに各エピソードが呼ばれているか知らないので、勝手に名付けます)。

三度目に泣いたのは「母娘編」。観鈴が浜辺で「ママ!」と叫び、晴子が駆け出す瞬間、じわっと目に涙が浮かびました。

たぶんCLANNADよりも洗練されていなくて、幻想性がむきだしの形で顕れています。空にいるという少女を探しているっていう設定に、ぼくは実は少々抵抗がありました。現代の、二十歳過ぎた男がそんなの探して旅しているなんて、どう考えてもおかしい。そう思ったのです。ちょっとロマンチックすぎて、リアリティがなさすぎる。作品世界に入り込めませんでした。

しかし、段々と世界観が掴めてきて、この物語はある種の神話が構造化されているのだと気付き始めました。基層には翼人神話が横たわっている。現代の世界で起こる出来事は、その神話/伝説の名残であり、過去と現代は地続きなんだ。それがはっきり分かるのは「昔話編」を経てからですが、今もその伝説が生きて影響を及ぼしていることは、もっと最初の方で示されています。ぼくがそれを理解するのには第5話を待たなければならなかったのですが、しかしそれからは急速にこのアニメに惹かれてゆきました。

CLANNADもその世界に没入するには「風子編」が必要でしたから、ひょっとするとぼくは世界に入り込めるまでに時間がかかるのかもしれません。

それにしても、悲しい物語でしたね。国崎がいなくなったときに、悪い予感はしていましたが。次の世代、またその次の世代へとバトンを渡し、いつか幸せになれるように、というような標語みたいなものはよく聞きますが、実際にそれを実践してこんなにも切ない結末になるとは。

記憶の話、輪廻の話。母娘の話。

オープニングのイントロが好きでした。それとエンディングの大空を羽ばたく翼人の映像。普通エンディングってスタッフの名前がずら~っと並んで、そこを比較的単純な絵が映し出されるのですが、スタッフの名前が消えて、画面一面に青い空と入道雲が広がり、その真ん中をゆっくりと翼人が飛んでゆく。こんな見せ方もあるんだなと驚きました。

繊細な作画に加え、石原立也の演出は相変わらず冴えていました。音楽と映像とのマッチングが、たしか6、7話だったような気がするのですが、新海&天門コンビを思わせるタイミングの演出の仕方で、切なくさせます。切ないと言えば、各エピソードでフィーチャーされた登場人物たちが、その後の物語に一切出てこないのは切ないですね。それだけに、彼女たちは特別な存在になってゆきます。

うすうす感じていることなのですが、ぼくは本よりもアニメの方が好きなのかもしれません。大学院で文学について勉強しているぼくは、たぶんジャズや映画を好きになるべきなんでしょう。アニメーションにしたって、ノーマン・マクラレンとかスーザン・ピットとか、そういう監督の作品を愛好していればよかったのだと思います。洗練されたもの、いわゆる高尚と呼ばれるもの、センスの光るもの、そういうものの方が、たぶん役に立つし、人に自慢のできる趣味なんでしょう。ところがぼくは、記憶を失う少女の話とか、少年と少女が淡い恋をする話とか、心に傷を抱えた少年少女の話とか、少年が飛行機を造る話だとか、そういう物悲しい、あるいは単純な冒険もののアニメが好きなのです。そう、「アニメ」が。かわいい少女、かっこいい少年の登場するアニメ。現実離れした服装と言動。美しい背景美術。そしてひたすらに一途な思い。

ぼくは大人になんてなりたくなかった。楽しかった少年時代を「いい思い出」として振り返ることもできない。過去を引きずって生きてきた。当時の出来事や当時感じたことを忘れてゆくのが怖い。でもたぶん、多くの人は子供時代のことを「思い出」として心の片隅にしまい込み、現在のこと、未来のことを考えて生きるのでしょう。それは賢い生き方です。でもぼくにとって過去の体験は、どこかにしまい込まれて埃を被った思い出ではなく、今に溶け込む思い出として生きています。いや、そういう思い出を持ち続けていたいと思っています。あの頃の記憶を失くしてゆくのが恐ろしいでのす。中学生のとき、ぼくはどういうふうに感じていたのか。何に怒り何に悲しんだか。ここ数年で、多くのことを忘れてしまった気がします。それがとても寂しくて、悔しい。

だからぼくは、少年少女の心の触れ合いを見るのが好きです。日々忘れてゆく大切なことを再発見できそうな気がするのです。これが大切なことなんだと、確認しているのです。ぼくにとって大切なのは、少年がどのようにして少女を好きになったのかとか、少女がどうして少年に心を開いていったのかとか、彼女らが何を夢見、何に泣いたのか、そういうことです。そういった、儚くて壊れやすい感情の機微にぼくはいつも敏感でありたいし、それを意識し続けることは、自分の少年時代を忘れないための手立てでもあるような気がします。そしてAIRやCLANNADは、このような繊細な感情を描いて見せてくれます。新海誠の諸作品、宮崎駿の作品、近藤喜文さんの『耳をすませば』は、全てこうしたアニメーションです。

「人は思い出がないと生きていけない。でも思い出だけでは生きられない。」

ぼくにとって思い出以外の生きる糧は、結局のところ、思い出を活性化させる何かなのかもしれません。