Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

ふしぎの海のナディア

2009-03-12 01:15:03 | アニメーション
もしぼくが街を歩いているときにテレビ局のアナウンサーから「『ふしぎの海のナディア』を一言で表現するなら?」と聞かれたら、ぼくは迷わずに「おもしろい」と即答します。

「おもしろい」だなんて、こんな抽象的で小学生みたいな感想ってないだろ、と思う人はたくさんいるでしょう。しかし、このおもしろさこそが『ナディア』の最大の特徴だと思うのです。もちろんおもしろさにも色々あります。スリリング、先の読めない展開、ギャグなど。しかしながら、『ナディア』のおもしろさというのは、この世界におもしろさの種類が一万個あるのか一億個あるのか知りませんが、とにかくあらゆる「おもしろさ」の最大公約数的なおもしろさであり、全人類共通して真っ先に想像するおもしろさだと思うのです(直感的な言い方ですが)。

もう少し分析的に考えてみます。このアニメは様々なおもしろい要素で成り立っていますが、その中からすぐに挙げられるのは、冒険のおもしろさ、恋愛話のおもしろさ、サスペンスのおもしろさ、ギャグのおもしろさでしょう。とりわけ最も基本にあるのは冒険のおもしろさです。このアニメは冒険譚です。古代文明の力を利用して地球の支配を企む悪の集団から少女を守り、その組織を潰滅させる、というのが基部のプロットです。そこに、父と娘の微妙な関係や科学の善悪、恋、ギャグ、世界の秘密などの要素をまぶしています。あるいは、エヴァ風味のラピュタ仕立て、とでも言えるかもしれません。『ナディア』は『ラピュタ』の構造をそっくり借りているため類似している箇所が非常に多く、またスタッフとして総監督・庵野秀明、キャラクターデザイン・貞本義行というエヴァコンビを擁し、ガイナックスが制作に協力しています(摩砂雪なども参加)。『ラピュタ』が好きだという人には、『ナディア』はたまらないでしょう。とにかくおもしろいのです。

正統派のおもしろさです。14歳の少女が世界中を旅し、自分で造った飛行機を飛ばすことを夢見る少年に恋をする。この設定だけでぼくなどはやられてしまいます。空に憧れる少年とブルーウォーターという特別な力を秘めた石を持つ少女との恋ですよ。『ラピュタ』です。ラピュタにはアクションシーンが満載ですが、しかし『ナディア』には意外と多くありません。全39話、丸一年かけて放送された作品ですが、緊迫感のあるばりばりのアクションシーンというのは5、6話程度しかないのではないでしょうか。目を引くのは万能潜水艦ノーチラス号での楽しげな生活です。無人島での生活もギャグ一杯で、飽きさせません。

恐らくこのアニメで一番成功しているのは、ナディアの造形です。まず肌の黒いヒロインというのは聞いたことがありません。日本のアニメで、ヒロインの肌の色を黒くして可愛く見せる、というのはかなりのチャレンジだったと想像します。しかし何にも増してすばらしいのは彼女の性格付けです。すごく怒りっぽくて、わがままで、頑固で、素直になれなくて、でも真直ぐな気持ちを持った14歳の少女。彼女に恋をしない少年はいないのではないかと思われるほど魅力的な思春期の少女なのです。時にアスカみたいにつんつんして、綾波みたいに気難しく、シンジみたいに内向的になるナディアは、同世代の少年少女の心情を見事に表現しているのではないでしょうか。ほんっとうにナディアの性格がすばらしいのです。そして彼女を取り巻くジャンやグランディスをはじめとするキャラクターたちも実に気持ちのいい連中なのです。グランディスはドーラ、サンソンとハンソンはその息子たち(シャルル、ルイ、アンリ)に相当します。彼らはジャンとナディアのよき相談相手であり、困ったときには必ず助けてくれるよき仲間です。こんなにも愛すべきキャラクターって、そうはいないと思います。

第36話から突然オープニング映像が変わります。ニュー・ノーチラス号の登場です。ノーチラス号が沈没してから本当に長い時間が経っていましたから、彼らの復活にはものすごく興奮しました。舞台は海から、空、宇宙へと一気に拡大し、ナディアと人類の誕生の秘密も明かされ、世界観も急速に広がります。そして最終回には思いがけない感動が待っていました。ネオ皇帝が最期の瞬間に意識を取り戻し、「私も人と共に生きたかった」とナディアに呼びかけて爆発するシーンにはこみ上げるものがありました。あの機械の身体の痛々しさ、爆死のむごさ。眼に涙が浮かびました。

ネモ船長の壮絶な最期と、彼の子を身ごもったエレクトラ、その事実に気付いたグランディスの瞬間見せる驚きと諦め、悟りの表情は、CLANNADを思わせるところがありました(朋也の渚への思いに気付く藤林姉妹)。それにしても新生エレクトラの着用しているコスチュームは、まるでエヴァのプラグスーツですね。しかも髪を短くした様は、あたかも綾波レイ。あまりにそっくりなのでびっくりしました。破けた服がいつの間にか元通りになっているのはご愛嬌ですが(着替えたの?)。

この服が破ける描写とか、着替えを覗きするシーンとか、見えそうで見えないシーンなどがけっこうあるアニメなのですが、でもそれはちっともいやらしくなくて、なんというか、健康的エロスです。健全な中学生の妄想と結びついています。そう、全てが健全でバランスが丁度よいのです。観ていて非常に心地良いアニメです。

たしか作画監督が貞本義行の回、魚雷か何かがノーチラス号に衝突する描写があったのですが、機械の破裂の仕方がまんまエヴァで、すごくよかったです。船体にぶつかって、ぐにゅぐにゅぐにゅとぺしゃんこに縮んでから破裂する描写は、エヴァ第壱話のサキエルがミサイルを手で受け止める描写を思い出させます。あのほとんど身体的な快感を味わえるのです。

しかし、回によって、あるいは一回の中でもパートによって作画にばらつきがかなりありました。ナディアの顔そのものが変だったこともありましたが、残念だったのは、走る動きがひどいときがあったことです。基本的な動作なのにあれはないよなあ、と思いながら観てしまいました。無人島(リンカーン島)での暮らしを描いたどこかだったと思いますが。オープニング・アニメーションでの走る動きは上手いので、あそこは未熟な人が担当したのか、ただ手を抜いたのか。テレビアニメっていうのは質を一定に保つのは難しいですからね。第34話は手抜きの回(?)でしたし。歌ばかりの異色の放送で、ほとんどが過去の映像の編集。次回から話がいきなりシリアス方向へ急展開するので(ほんとにいきなり)、最後のほのぼの回でしたね。

このように作画の点ではテレビアニメの制約から逃れられませんでしたが(当然ですが)、しかし内容ではずば抜けています。『ラピュタ』のパクリだろうがなんだろうが、おもしろいものはおもしろいのです。バベルの塔にしろ科学の抱える善悪にしろ、『ナディア』のテーマや設定は既に『ラピュタ』で提示されたものの変奏かもしれませんが、これほどのエンターテインメントの傑作に仕上がるのならば、とやかく言う気はしません。

もとは宮崎駿が企画していたアニメ、だそうですが、しかし宮崎駿のフィルモグラフィーには普通『ナディア』のことは一切出てきません。宮崎駿の側から『ナディア』が論じられることってまずないのです。不思議ですね。

そういえば、ノーチラス号が沈没してから「前回のあらすじ」のナレーションをエレクトラが担当することになりますが、そのとぼけた味わいが好きでした。「ナディアは一体何を考えて生きているのでしょう」。笑えます。

全ての少年少女に、そして14歳の心を失っていない大人たちに見せたいアニメです。ぼくはもうグランディスと同世代の人間ですが、このアニメを思春期の頃に観ていたら、一生もんのアニメになっていたと思います。いや、いま観てもそうなりました。でも、ナディアのことを好きになるのは14歳の少年たちに任せます。ああ、ぼくにも彼女やジャンみたいな少年少女が身近にいたらなあ。これだからぼくは中学生を教える先生ってのに憧れるのです。ああいう切ない感情を一緒に分かち合いたくて、ぼくは…リアルでは幻想みたいなものかもしれないですけどね。14歳。シンジも雫もナディアも14歳。なんてすばらしい歳なんだ!

退学の危機!

2009-03-11 00:01:16 | お仕事・勉強など
退学の危機!などと冗談を言っている場合ではないのです、実際は。

きのう、学校からメールがあって、それによると、修士課程の在学延長届を早く出してくれ、とのこと。ぼくは留年するつもりでいたのですが、このまま何もしないでいたら留年ではなく除籍になってしまうようなのです。それで、書式をコピーするために大学のホームページを見てみたら、本当はこの届は4月の一ヶ月前に提出しなくてはいけないようなのです。ぼくは慌ててプリントアウトして、今日それを大学の事務に届けに行きました。受領してもらい、これで一安心。

ところが、です。そこには主任の先生のハンコを押す欄があるのですが、研究室で別の先生のハンコを押してしまったようなのです。それを夕方の6時に助教の方に教えてもらいました。つまり、不備のある書類を提出してしまったことになります。間違ってたら事務の方から知らせてくるよ、と助教の方は言うのですが、やはり心配なので、明日改めてきちんとしたものを提出することにしました。はあ、めんどくせえ。でもこれをしなければ退学の危機なのです。やばいやばいぞ。まさかもう手遅れなんてことにはなってないよね…

それにしても、自動的に留年するものだと思っていたら、大間違いでしたね。まさか書類を出さなくてはいけないとは。そういうことは掲示しておいてもらいたいです。っていうか、事務の人に学生証の更新のことは聞いたのですが、そのとき教えてくれればよかったのに…

もちろん、悪いのはぼんやりしていたぼくの方なのですが。心配性であれこれ考えてすぐに不安になるから万全の準備をするくせに、肝心なところは抜けているのです、ぼくは。『秒速』で「あの子ぼんやりしてるから」とカナエは言われますが、大人になったらちゃんとしっかりした人になる、みたいなことも示唆されます。…ぼくは年齢を重ねても成長しませんね。やれやれ。

そういえば、今日は大学の合格発表でした。門のところにすごい人だかりができていて、掲示板の前は一匹の黒い大きな生き物が体をくねらせているみたいに見えました。←群衆の比喩です、念のため。急いでいたので人混みを掻き分けて受験生の悲喜こもごもを観察することはしませんでしたが、遠くからなんとなく冷めた目で見ていました。ふんって感じ。挫折した人間の方がいとおしいです。大学に合格して有頂天になっている人を見ると、なんだか悲しくなってきます。ぼくも同じ大学にいるわけですが、色々と屈折した感情があるのです。人生がこのまま順調に進むと思うなよ、とか。いやあ、いつからこんなひねくれた性格になってしまったのでしょうか、ぼくは。けっこうナイーヴだと思っていたのですが。

閑話休題。書きたいテーマはあるのですが、そのテーマで書くと研究室の人にこのブログのことがばれてしまうので(既に一名からは気付かれましたが)、自重します。まあ別に知られたって構わないのですが、なんとなく。

坂口安吾『白痴・二流の人』

2009-03-10 01:21:25 | 文学
今日読んだ本というわけではないのですが、坂口安吾『白痴・二流の人』について。
収録作品は、「木枯の酒倉から」「風博士」「紫大納言」「真珠」「二流の人」「白痴」「風と光と二十の私と」「青鬼の褌を洗う女」の8つ。

ぼくは「風博士」が大好きで、何年も前に立ち読みで冒頭部分だけを読んでからのファンなのですが、通して読んだのはこの本が初めてでした。ナンセンス文学、ファルスの代表的な作品に挙げられますよね。

ところで久々に昭和初期の日本の作家の小説を読んでみて印象に残ったのは、その文体です。特に「木枯の酒倉から」は、言っちゃナンですがひどい悪文で、文意がきちんと把握できないほど。こういう文体の文章は、海外の翻訳小説では滅多に味わえないです。やはり学者先生が訳している場合がほとんどなので、文章が正しい文法に則っていて乱れがないのです。一方で文章を崩すとなると徹底的に崩すので、中間である「奇妙な味わいの悪文」にはお目にかかれません。

翻訳小説は文体がちっともおもしろくないことが多いということに、安吾の小説を読んで初めて気が付きました。翻訳は整頓されているんですよね。普通の叙述は一つの目的に向かって流れているように淀みがありませんし、意図的に可笑しな文体にするときでさえ、それは「可笑しな文体」という制約に嵌められているのです。つまり文体が良くも悪くも一つの型に捉われているということです。ところが安吾の文章は変幻自在です。これは「木枯の」に限ったことではありません。助詞の使い方などを見ても、翻訳ではこうはできないなあと思うこと頻り。やはり文学を深く理解するには、原文で読まないと駄目だってことなのかもしれません。

さて安吾の代表作は「白痴」ですが、この本で一番気に入ったのは「紫大納言」です。紫の大納言という人が月の国の侍女が落とした小笛を拾ったことから災難に巻き込まれてゆく顛末を描いています。終わり方に救いがまるでなくて、残酷物語のような結末になっているところがしびれました。それでいて幻想的な、美しい最後なんですよね。

その他の小説は、(「風博士」を除いて)あんまり好みではないかもしれません。そこそこおもしろく読めるのですが、全体的に平凡な印象を受けてしまいます。ただ、「風と光と」の最後のページにある一節はぼくの今の気持ちを言い当てているような気がして、どきっとしました。「私は少年時代から小説家になりたかったのだ。だがその才能がないと思いこんでいたので、そういう正しい希望へのてんからの諦めが、そこに働いていたこともあったろう」。たぶんぼくだけではなく、多くの人にも当てはまる文章ですね。もちろん、希望は「小説家」でなくてもなんでもいいのですが。

安吾の『不連続殺人事件』は日本のミステリ史に残る小説のようなので、次はこれも読んでみたいです。

公立ってそんなに悪いのか

2009-03-09 01:57:43 | お仕事・勉強など
明日は朝早いので、今夜はぱぱぱっと書いて終わらせるつもりです(でも実際には長くなりました)。

私立中学の受験熱が近年高まっていると言います。その理由としてよく挙げられるのが、公立は何もやってくれないから、というもの。学校の指導が酷いから、結局塾に通わなければ勉強ができるようにならない、という主張です。本当にそうなのかなあ。私立に通ったって、受験するなら塾に行く人は多い。それなら公立と同じだと思うんですよね。学校の学費がかかる分、むしろ損しているわけで。

ぼくは中学が公立で高校は私立でしたが、特に指導の差はなかった気がしています。それにできる奴はできるし、できない奴はできない。数学など問題集を自分できちんと解いていれば、誰の力を借りなくっても自然とできるようになりますよ。まあ英語は確かに学校だけだと不安でしょうけどね。中学の英語の教科書って、文法の詳しい説明が欠けてますからね。授業もゲームみたいなのが主となりがちですし。だからこればっかりは、塾に行けない子は参考書を買って自習するしかないかもしれません。ただ、私立の英語の授業がどれだけ受験に即したものかは知りませんが、できる人は塾に行ってますよね。

私立は丁寧だとよく言われますが、少なくとも大学付属校の場合、必ずしもそんなことはないようですよ。中学から大学までエスカレーターで来た人を何人も知っていますが、大学受験組に比べて全然できないですからね。仮に丁寧だったとしても、成績には直結していないですね。受験勉強をしないでのびのびした学校生活を送れたのかもしれませんが、中学受験しなかった人は小学校時代にそういう生活を送ったでしょうから、まあおあいこですね。

予備校やZ会には筑駒や開成がたくさんいましたから、超一流の進学校でも学校の勉強だけではいけないんでしょう。公立と同じ気がします。偏差値の高い大学に入るためには、学校以外のところでいかに努力するかってことが重要になってきます。なら、公立でいいじゃん、と思ってしまうわけです。

小学校で努力して、高校の付属校に入った場合、大学は受験しなくてはいけないので、やっぱり塾に通うことになります。ちなみに付属校にはその付属校専門の塾が用意されている場合があります。ちゃんと進学できるように、その学校のテストに即した勉強をするところです。
小学校で努力して、大学の付属校に入った場合、大学は受験しなくてもいいので、あまり勉強ができなくなる事態が起こりえます。それに、大学までエスカレーターってのはある意味恐ろしいことで、途中で他校を受験したくなったとき、けっこう困難が伴うのです。受験対策は学校では一切しないし、周囲には受験モードはおろか勉強モードもないので、自分だけが孤立して受験の準備をするはめになります。これは公立よりも悪環境ですね。

中学から私立になんか行くなよ、とぼくは言っているわけですが、私立の悪口を書きたいのではありません。公立中学という雑多な人間が集まる環境でもまれて、お金のある人は塾に行き、ない人は参考書で自習しながら、ちょっぴり将来のことを考えて高校受験を楽しもうぜってことが実は一番言いたいのです。何が何でも私立だ、という今の風潮に逆らいたいと思っているのです。それで、私立の悪い面だってこんなにあるんだよ、ということを示してきたわけです。公立にも私立にも悪い先生はいるし、あんま変わらないですよ。ぼくの体験ではむしろ私立だった高校の方に嫌な先生が多かったですけどね。けれども、いい先生ばっかってのはつまらないですからね。むかつく先生がいて、その悪口を言って盛り上がるのが生徒の本分とさえ言えるかもしれません。

特別な理由がなければ、公立でいいじゃん、と思っています。最近は公立の悪口ばかりが声高に叫ばれるので、公立を擁護してみました。公立の中学生よ、胸を張れ。

そういえば、中学は私立じゃなくて公立でいいよ、という考え方は、どうやら男性に多いようです。受験生の家庭では、父親が無関心なのに対し、母親が熱心みたいです。ぼくの考えもこういう性差に由来するのかな。

アンラッキー・デイ

2009-03-07 00:04:28 | アニメーション
昨日深夜から今日にかけて、実についてない一日でした。

昨日はいつも通りCLANNADを観た後、パソコンに向かいました。エントリシートを書くためです。未明の4時まで作業をしました。やっと出来上がって、色々と操作をしていたら、間違ってデータを全て消去。ワードとインターネットエクスプローラーが組み合わさったような画面で、いまいち勝手がつかめないまま途中で保存せずに作業を進めていたため、これまで書いた文章が水の泡と消えました。消してしまった事情はあるのですが、ここで書いても仕方ないので省略。

さてぼくは悔しくて悔しくて、落ち込んでしまい、朝の6時過ぎまで寝付かれませんでした。今日は9時に起きたので、睡眠時間は3時間弱。顔を洗ったらすぐにまたパソコンに向かい、今度はきちんと保存しながらエントリーシートを記入。10時30分には終了しました。

お昼ご飯を食べたあとに外出。外は本降りだったので歩いてバス停へ。途中の赤信号を待っている間、すぐ向かいにある停留所の前をバスがなんと三台も続けて通過。三台ですよ。なんでこんなに立て続けにくるんだ。ぼくが停留所に着いたときにはバスははるか遠くへ。それから長いことバスは来ませんでした。横殴りの雨の中、ひたすら棒立ち。雨が靴を叩きつける音を聞いていました。

バスでようやく最寄り駅に着いて、傘を畳んでいたら、すぐ横にいたおじいさんがぼくの方に向かって雨に濡れた傘をバサバサ。飛沫がたくさん飛んできました。

電車がもうすぐ来るので急いでエスカレーターを上ろうとしたら、なんと点検中。仕方なく階段で。

こんな感じでした。でも午後2時半くらいから運気が開けてきたようで、というか元通りになったようで、あとはいつもと変わらない一日でした。よく考えたら、ちょうどCLANNADを観終わったときから12時間ほどは最悪の運気だったようです。なんとか乗り越えられてよかったです。嫌気がさしてきましたけどね、投げやりにならなくて、ふう。

で、そのCLANNADですが、ぼくは怒りさえ感じました。こんなのひどすぎます。心の中で絶叫しました。

いつまでも覚えてるこの街が変わっても
どれだけの悲しみと出会うことになっても
見せてやる本当は強かったときのこと
さあゆくよ歩き出す坂の道を

主題歌「時を刻む唄」の最後の歌詞です。「どれだけの悲しみと出会うことになっても」。でもこれはいくらなんでもひどすぎませんか。それでもぼくたちは前へ進まなくてはならないし、また出会ったことを大切にしなければいけない、というメッセージを伝えたいんだということは分かりますが、それにしても…です。朋也の悲しみに比べたら、今日のぼくの不運などゴミみたいなもんです。

来週が最終回。見届けます。

『ベスト・オブ・ベケット2』

2009-03-06 00:30:56 | 文学
今日は時間がないので短めにします。

『ベスト・オブ・ベケット2』を読みました。ちなみに『1』には「ゴドーを待ちながら」が収録されていて、これはだいぶ前に既読。

さて『2』には「勝負の終わり」「クラップの最後のテープ」「行ったり来たり」「わたしじゃない」「あのとき」が収録されています。このうち、最も長い「勝負の終わり」は数年前NHKで放送していた舞台を観たことがあります。そのときはなんだか意味の分からないものを観たなあという程度の感想で、役者の台詞がいまいち聞き取りづらかったことを覚えているだけですが、テクストで読んでみると、案外おもしろかったです。訳注が少し過剰かな、と思ったのですが、で実際そうかもしれませんが、この訳注の助けを借りて内容の理解が深まったのは確かです。世界観とか、人間関係とか。核戦争か何かで世界が崩壊した後の出来事と捉えれば、把握しやすいですね。あとハムが自分の思い出を語っているところとか、訳注がなければそうだと気付かないですよね。ユーモアがあり、またセンチメンタルな雰囲気もときに漂う戯曲です。

この「勝負の終わり」もそうですが、後の四作品はそれ以上に実験的な戯曲です。「クラップ」はテープレコーダーに録音された30年前の自分の声が主な登場人物(?)で、「行ったり来たり」は3人の女が行ったり来たりしながら噂話を展開する、いまいち意味の分からない話、「わたしじゃない」は「口」によるまるで意味の分からない独白が延々と続き(「口」にしかライトが当たらない、他の部分は暗い)、「あのとき」は同一人物が3つの時点から思い出を回想する(幼年期・青年期・老年期)構成。

解説を読むと色々分かるのですが、読む前はちんぷんかんぷんな戯曲と言えるかもしれません。ベケットが難解と言われる由縁ですね。ただ、訳注を頼りにゆっくり読み進めてゆくと、意外と多くの事柄が分かってくるので、意味不明と諦めずに無心でテクストに当たるとよいかもしれません。まあ、訳注がないとなんのこっちゃという戯曲はどうなんだ、という疑問は残りますが(でも訳注なしで読んでもそれなりに意味は分かるのでしょうか、試してないですが)。それともそもそも意味の有無など論外なのかもしれませんね。「勝負の終わり」ではチェーホフ劇同様、意味についての会話が交わされています。

ちなみに「勝負の終わり」は「エンドゲーム」であり、チェスにおけるゲーム(勝負)の終盤を指すそうです。ベケットはチェス好きだったようで、チェス用語を使うのも不思議はないですね。関係ないですがナボコフの『ディフェンス』もチェス文学です。

落とされました

2009-03-04 23:41:15 | お仕事・勉強など
このあいだ入社試験を受けた会社、だめでした。
う~む、理由はなんだろうな。エントリーシートには特に自己アピールの類はなく、これで落とされたとは考えにくいです。

グループディスカッションがありましたが、これは選考とは関係ないそうです、会社側の説明を鵜呑みにすればですが。でも選考に関係ないことをなぜやらせたんだろう、という疑問が残りますね。経験を積ませるため、とも考えられなくはないですが、密かにチェックしていたのかもしれません。そうだとすると、これが原因?

しかしやはり入社試験の出来が悪かったことが一番大きな理由と考えるのが当然かもしれません。国語の問題だったのですが、このあいだの都立の試験問題で明らかになってしまったように、どうやらぼくは国語の問題を解く勘みたいなものを失ってしまったようなのです。実は入社試験の最中に、段々とその勘を取り戻していったような気分になっていたのですが、それは大体の問題を解き終わった後であり、手遅れだったのかもしれません。でもそんなに不出来だったという実感はないんですけどね。もともと国語は得意でしたし。ただ、この選択肢には答えがないよ~と思ってしまった時点で、もはや国語の問題を解くという作業から遠くはなれた地点までぼくは来てしまっているのかもしれませんが。けれども記述式の問題ならかえってやりやすかったかもね。

もし上記の理由ではなかったとしたら、考えられる原因は一つ、年齢です。こいつで問答無用、バッサリ切られたかもしれません。出版社などでは年齢制限があって、ぼくはこれにクリアできていない場合がときどきあるのですが、この会社も暗々裡にそういう制約を設けていたのかも。

要するに、落とされた要因は幾つも考えられて、それでいて不明である、ということですね。選考基準をはっきり示して欲しいです。

それにしても、はあ、少し落ち込みました。

『フランス短篇傑作選』

2009-03-04 02:31:43 | 文学
夕方降り出した雨は次第にみぞれへ、やがて21時頃には雪に変わり、隣の家の屋根をうっすらと白く染めましたが、今ではもう止んでしまっています。都心でも3~5cm積もる見込み、とニュースは盛んに警戒を発していましたが、どうやらその恐れはないようですね。個人的には、明日目覚めたときの楽しみが一つ減ったことになりますが。

さて、去年の神田の古本市で購入した『フランス短篇傑作選』を読みました。ずっと読みたいと思っていた本なので、達成感があります。

とてもすばらしい内容でした。基本的には20世紀の小説が中心ですが、ヴィリエ・ド・リラダンからアポリネール、プルースト、イヨネスコ、それにロジェ・グルニエまで、幅広く多彩な作品で構成されています。特に気に入ったものを3点挙げます。アルフォンス・アレー「親切な恋人」、アポリネール「オノレ・シュブラックの失踪」、トニー・デュヴェール「さまざまな生業(抄)」。他にも、シュペルヴィエル「バイオリンの声をした娘」やヴィリエ・ド・リラダン「ヴェラ」、ジュリヤン・グリーン「クリスチーヌ」など、忘れがたい印象を残す作品、またプルースト「ある少女の告白」やロジェ・グルニエ「フラゴナールの婚約者」など終わり方に感銘を受けた作品がありました。もちろん、これ以外の小説にもおもしろいものがたくさんありますが(ラルボー、シュオッブ、アンドレ・モーロワ…)、この調子で一つ一つ挙げてゆけば全ての作品に言及せざるを得なくなります。

アレー「親切な恋人」は、最近ぼくの関心のあるショートショート形式の小説。かなり異様な内容で、恋愛という感情の一途さをグロテスクに誇張していますが、どこかファルスに通じるものもあって、短いながらも強烈な存在感があります。

アポリネールは優れた短篇を書きますよね。この「失踪」もその一つ。本書で一番気に入った作品かもしれません。こういう超現実的で滑稽味がありながら計り知れないような奥深さを感じさせる作品は好きです。「失踪」は擬態能力のある男の話。

デュヴェール「さまざまな生業(抄)」は文字通り様々な職業を紹介しただけの小品集から数編を選んだもの。ただし、その職業というのは架空のもので、幻想性を帯びています。まず牢屋に入り、それからその期間に見合うだけの犯罪を紹介してもらう「裁き屋」、読者の好みに応じて対象となる箇所を本から実際に剃刀で削除する「検閲屋」、自分の理想の姿を肖像画に描いてもらい、実際の姿からではなくその肖像画の美醜で人から評価される「夢の肖像画家」、演奏する真似をするだけで空想で音楽を愉しませる「楽師」など、実に奇妙で色々な職業のありようが描出されます。ちなみに最後の「楽師」はいわゆるエアギターやエアバンドとして現実に存在していますね。もっとも、エア物真似をしているとき、背後で音が奏でられているのですが。

シュペルヴィエル「バイオリンの声をした娘」は、一種の寓話だとも取れますね。そして芥川の「鼻」を連想させます。ただし「バイオリン」の場合はより詩的、というよりは少女性を漂わせているようです。処女喪失の神話化、無垢の聖性、成長することの穢れ、そういった要素が混然として一編の美しい寓話として結晶していると言えるでしょう。

最後にロジェ・グルニエ「フラゴナールの婚約者」。前半はそれほどおもしろいとは思わなかったのですが、フラゴナールの解剖した標本を見学するところから、ぐいぐい引き込まれていきました。特に結末の巧みさにはうなりました。混濁した意識のなか現実と絵画(幻想)の境界線が薄れ、物語はただ「死」という目標へなだれ込んでゆきます。「死」のモチーフの存在はエピグラフから明らかですが、それが女の騎行に重ねられ、デューラーの描くあの死神に成り代わり騎馬は疾駆してゆきます。『チェーホフの感じ』の作者だけあって、チェーホフとレヴィタンとの逸話が導入されるのもポイントですね。

本書は珠玉の短篇ばかりを集めた見事な選集です。

ロシア尽くし

2009-03-03 01:53:25 | 文学
土曜日に引き続き、古書をまとめ買い。以下、リスト。(本の大きい順に並べました)

『カンディンスキー』(ベネディクト・タッシェン出版、525円)←カタログに近い
亀山郁夫『終末と革命のロシア・ルネサンス』(岩波書店、1050円)
ジャック・ジョゼ『ラテンアメリカ文学史』(文庫クセジュ、420円)
エラリー・クイーン編『ミニ・ミステリ傑作選』(創元推理文庫、315円)
呉智英『現代漫画の全体像』(双葉文庫、300円)

土曜日に買うか迷った『ラテンアメリカ文学』は結局買ってしまいました。それとやはり逡巡して買わずにおいた『終末と革命のロシア・ルネサンス』も購入しました。先日はパスカルの『ロシア・ルネサンス』を買ったばかりで、これでロシア・ルネサンス関係の書が一気に2冊になったことになります。ロシア・ルネサンスという言葉をぼくはきちんと説明できないのですが、要するに、ロシア革命期(1917年頃)から30年代くらいまでにロシアで興った芸術のカーニバル的様相を指して言われる言葉であるようです。当時は芸術が百花繚乱に咲き乱れた時期で、美術・文学・建築等において既成の概念を打ち破る「新しい芸術」(あるいは「新奇の芸術」と言ってもよいかも)が次々と現れたのでした。カンディンスキー、タトリン、ロトチェンコ、メイエルホリド、フレーブニコフ、マヤコフスキーなどが活躍し、そして散ってゆきました。しかしながらその一方で、散文は危機の時代を迎えていたと言えます。詩は独特の発展を見ましたが、19世紀的な小説には疑問符の札が貼られ、マンデリシュタームなどは「ロマンの終焉」を宣言し、筋のない小説を実践しました(『エジプトのスタンプ』)。スターリンの主導する社会的リアリズムによって小説が旧来の形式を取り戻したことは皮肉と言わざるを得ません。もちろん、そういう定型的な小説に反発するかのような小説は隠然と書き続けられ、ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』が書かれたのもこの時期です。スターリンによる粛清の嵐は愈々強まり、一挙に花開いたアヴァンギャルド芸術はその花びらを萎れさせ、散らしてゆきます。しかし現在では、スターリンとの熾烈な攻防の中で個々の芸術が高められた過程が研究され(亀山郁夫)、またその芸術そのものが画一的で全体主義的な思想を胚胎したとも言われます。イタリアのマリネッティに遡る未来派の勃興、ツァラが代表する各国のダダの隆盛もこの時期のことであり、非常に研究しがいのある、そして実際人気の高い分野ですね、ロシア・ルネサンスというのは。

先日言及したハルムスはまさにこの時代の人間であり、近年はヨーロッパでハルムス・ブームが起きているとのこと。せっかくなので、彼の代表的なごく短い小品を紹介します。

                           ☆☆☆

ブルーノート№10

赤毛の男がいた。彼には目も耳もなかった。髪もなかった。赤毛と呼ばれるのもとりあえずのことだった。話すことができなかった。なぜなら彼には口がなかったから。鼻もなかった。彼には手だって足だってなかった。腹もなかったし、背中もなかったし、背骨もなかった。内臓なんか一つもなかった!なんにもなかった!もう誰の話をしているのかわからない。いやはや、彼についてはこれ以上話さないほうがよさそうだ。

                           ☆☆☆

引用は『ハルムスの小さな船』から。なお原文に忠実にするため改行は施しませんでした。言葉の戯れのようなこの非常に短い作品(「小説」と呼ぶことさえ躊躇われるような)は、「ハルムス的」と称せそうな特徴を帯びています。シニフィアンとシニフィエの乖離、不条理性などです。しかし難しいことはさておき、この「空の空」を志向するかに見える作品の切れ味鋭いおもしろさは格別です。もっと本格的なハルムスの翻訳が待たれます。特に『エリザベータ・バム』を始めとする戯曲、そして連作集『出来事』の完訳は急務です。まあぼくはどちらもロシア語で読んでますが…

さて、ぼくは抽象絵画というものに苦手意識があるのですが、カンディンスキーのカタログをぱらぱらとめくって掲載されている絵を眺めてみると、その色彩の洪水に興味を惹かれました。バウハウス時代以降の幾何学的な絵はやはりそれほど好きではありませんが、中期の自由で多彩な色彩で描かれた大胆な構図の絵は、シャガールを髣髴とさせるような幻想味を纏っており、まるで目と心を洗われたような気持ちになりました。「絵画の見方」のようなものを勉強しなくては、と前々から思っているのですが、なかなか踏み出せずにいます。せめてもっと色々な絵画に触れるべきだな、と決心を新たにしたのでした。

もうだいぶ長い文章を書いていますが、せっかくなのでもう一つだけ付け足して、今日はロシア尽くしにしましょう。『ミニ・ミステリ傑作選』を購入したことは最初に書きましたが、この中に唯一のロシア文学としてチェーホフの作品が一つ入っています。題して「子守歌」。ピンときましたね。あの小説だな、と思い至ったのはもちろん、題名が変えられていることに「へえ」と少し驚いたのでした。これ、原題は「眠い」という意味のロシア語です。邦訳もそのまま「眠い」が定訳です。ところが、この『ミニ・ミステリ』(初版は1975年)の底本は英語の本であり、チェーホフの小説の末尾に英語の題が掲げられています。そこには、「Hush-a-bye,My Baby」とあります。随分と意訳されたものですね。しかもこの本ではそこから更に「子守歌」に変更されているのです。巻末の解説を読むと、「レフ・トルストイ」とすべきところを「レオ・トルストイ」と書いているので、だいぶ古い頭の解説者だなあといささか呆れました。この解説者は翻訳を兼ねていませんが、チェーホフの邦訳と併せて、なんとなく本全体まで怪しく思えてきます。ま、ショートショートが読めれば十分なんですけどね。

NHKにようこそ!

2009-03-02 00:26:25 | 漫画
『NHKにようこそ!』については随分前に書いたことがあるのですが、先日ようやく全巻読み終えました。

最後はちょっと尻すぼみだったかなあという印象です。最初は突っ走っていって、6巻くらいまでは犯罪すれすれの行為も交えつつ(というか犯罪?)、かなり自虐的な誇張された描写とギャグで楽しませてくれましたが、最後はどうも陳腐なところに落ち着いてしまったなという感じです。

絵が上手くて、それで登場人物に親しみがもてたのだと思います。止まった絵も見応えがありますけども、動きのある絵も躍動感があって、アニメーターとしても成功しそうな能力があるように感じました。

ニートと美少女との組み合わせはおたく迎合的な作風ですが、何か突き抜けるような清々しさがあって、全部笑い飛ばして嫌なことは忘れてしまいたくなりますね。

後半はちょっと残念でしたけど、個人的には好きな作品でした。

今日は短いレビューです。

古書購入

2009-03-01 00:55:02 | 文学
最近読書の感想を書きませんが、どうしてかというと、現在英語の論文を読んでいまして、これに悪戦苦闘しているため、日本語の本を読む暇がないのです。…と言うとちょっとかっこよく聞こえるかもしれませんが、実際には英語で読むのが嫌で嫌で、2:8くらいの割合で読んでいないのです。どうせ読んでいないんだったら、空き時間を読書に充てればいいじゃないか、と誰もがそう思うでしょうが、しかしだからと言って小説を読んでしまうのは気が引けて(やることをやらないで遊んでいることになるから)、結局英語も日本語も読まないで、ただ時だけが過ぎてゆくのです。おれってぇやつは、つくづくだよ…

さて、今日は古本屋に行って、8冊を同時購入。〆て3000円也。うう、浪費だあ。以下、購入した本のリスト。

吉行淳之介選『狂気の血統 掌篇コンクール傑作集』(角川文庫、105円)
各務三郎編『世界ショートショート傑作選』1~3(講談社文庫、三冊で1575円)
坂崎乙郎『幻想芸術の世界』(講談社現代新書、315円)
丸谷才一『樹影譚』(文春文庫、105円)
アブー・ヌワース『アラブ飲酒詩選』(岩波文庫、105円)
ピエール・パスカル『ロシア・ルネサンス』(みすず書房、840円)

他に実は『ラテンアメリカ文学史』というのがあったのですが(420円)、もう限界だあ、と思って買いませんでした。次行ったときにまだ置いてあったら、そのときこそ購入する…かもしれません。

ぼくは最近ごくごく短い小説(掌編、ショートショート)に興味があって、それで↑のような本を買ったのです。今うちには川端康成『掌の小説』、『極短小説』、『Sudden Fiction』(世界編は持っていません)、ハルムス『ハルムスの小さな船』、『ロシア小話 アネクドート』、そしてユアグロー『一人の男が飛行機から飛び降りる』、ユアグロー『セックスの哀しみ』などのショートショート集があります。『チェーホフ全集』(あるいは『チェーホフ・ユモレスカ』)も含めていいかもしれません。こうしたものに関心を抱くようになったきっかけは、ハルムスです。ずっと以前にこのブログでもハルムスのことは紹介したことがあるのですが、彼は20世紀の前衛的ロシア作家です。ウィアードな掌編を幾つも書いています。ウィアードな。ウィアードです。これって一般的用語ですかね?『ウィアード・ムービーズ・ア・ゴーゴー』という本があるのですが、知らないですよね、ふつう。奇妙な、という意味らしいです。ニュアンスは分かりません。

ぼくの所有していない本として、SFのショートショート集がありますし、そしてもちろん星新一の一連の著作があります。またそれに、色々な作家がごく短い小説を書いているだろうと思います。内田百とか。ただ、ショートショートだけを集めた単行本/文庫本を探しています。誰か教えてくれ~と叫びたい気持ち。

ロシア文学において、アネクドートがいかに内面化されているか、というテーマで論文が書けたらおもしろいなあと思います。プーシキン、チェーホフ、ローザノフ、ハルムス、ドヴラートフなどの系譜ですね。アネクドートの文学化、そして文学のアネクドート化。あれ、そういえばこういうことを卒論でも書いたような気がする。進歩してないなあ。