客土した土から芽を出し、
あっという間に増えた蛇苺。
優秀なグランド・カバーになる。
ただ足を踏み入れる時は、
気をつけないと
愛犬のおもちゃのボールが、
あちこちに・・・。
今考えても、2003年6月は 忙しい月だったし、
よく動いた月だった。
週に一度 東京や神奈川の治療院に行ったし。
週に一度 「あゆむ会」に行ったし。
朝は朝刊が来ないうちに 子どもたちを駅まで送って行ったし。
早起きをしてたから、恵比寿に9時ごろ着く電車に乗ったりもしてた。
だから、用賀に10時前に着く電車にだって、
乗っていけたんだけど。
おっぱいを作ってくれる会社がある。
本社は島根県で、東京事務所が 用賀にあるのだ。
この会社の事は 姉が前から 調べたり連絡を取ってみたりしていて、
「行ってみよう」と強く勧められていた。
興味はあっても それほど行きたいと思ってはいなかったのだが、
姉が「私も一緒に行ってあげるから」というので、
行く事にしたのも、6月だった。
ただし、姉は最近早起きができない。
前の晩に用賀駅の近くのビジネスホテルに泊まる事になった。
外泊なんて、当地へ来てから、いや、結婚してから初めての事。
亭主と子どもを置いて、姉と二人で、食事して。
夜はツインのベッドで、私は精一杯姉に付き合って、
おしゃべりを楽しんだ。
「明日早いから、もう寝ましょう。」と言う事になったとたん、
夢の中へ・・・。
翌朝、姉に「ほんとに バタン・キュー なのねえ。」
と言われた。
「でしょ? 入眠剤がいらないのよ。」
姉は、不眠気味。
ただし、私は、夜中に、パジャマの長袖上着を、
脱いだり、着たり。
術側だけ 着たり。
駅の近くのパン屋で、パンと飲み物を選んで、
テーブルについて、美味しい朝食。
玄米食でない時も、やはり楽しんで、美味しく食べなくちゃ。
そうしてやってきた、おっぱいを作る会社。
他に、義手、義足、義眼、などなど、いろんなものを作っている。
その会社のパンフレットは、
恐ろしくて、その辺において置けないし、
電車の中で広げる事はできない。
技術者は 年に2回ぐらい、島根本社からやって来る。
この日は お話を伺う、というだけだったはずなのだが、
私はいつのまにか、おっぱいを作る、と 頭の中で
話を変換してしまっていたので、気が抜けた。
二人いる女性に、それでも いろいろなものを見せてもらい、
いろいろな話を 聞き、為になったことはなった。
ブラに関しては、人口乳房を押さえるためには、
フルカップ・ブラがいいらしい。
私はフルカップ・ブラを使っているつもりだったが、
もっと(?)フルカップのがいいらしい。
得心できないでいたら、
二人のうちのひとりが ブラウスを脱いで
自分のブラを見せてくれたのには、
胸が熱くなった。
結論。
術後半年くらいでは、まだまだ おっぱいの形が 落ち着かないので、
一年半から 2年くらいしてからでないと、
型を取って おっぱいを作る、ということはしない。
私のように 乳房を温存した人は、
満足できるようなおっぱいを作る事は、難しい。
で、予定通り、お話を伺って、
プラス、愚痴まで聞いてもらって、帰ってきた。
温存したおっぱいにあわせて、
人口乳房を作る。
確かに、難しそうだ。
難しい、という事は、
不可能に近い、という事だ。
またやっちゃった。
私は 乳房再建の講演会を聞きに行った時と同じく、
いますぐ、どうにかして欲しかったのだ。
あわてん坊め。
今すぐおっぱいを作って、
この夏プールへ行きたかったから。
今日この場で型を取って、お金を払って、
来月にはプール、なんて思ったから、
今日は話を聞くだけだって事を、忘れちゃったんだ。
温存の人は、満足できるおっぱいを作るのは、難しい・・・。
温存できた私は、ラッキー! と思っていた、
その気分が揺らぐ。
ラッキーと思いたかったけど、ラッキーじゃなかったのか?
いやいや、そんなはずはない。
私は、ラッキーなはずだ。
がんセンターでもらった「がん告知後ケアガイドブック」の中の、
「乳がんの治療法」にある、
「乳房切除術(胸筋温存)」のイラスト。
女性の首から下の上半身のイラストがあり、
片方は普通のおっぱいが、
そして もう片方には 斜線(/)が引いてある、
そのイラストを見て、私はすごくショックだった。
顔がすうっと冷たくなった気がした。
鼓動が一瞬とまって、そのあと早くなった気がした。
そのくらい、胸の斜線は 私にとって ショックだった。
そんな私が がんとわかって手術して、全摘出だったら、
混乱は大きかったに違いない。
外出を嫌うようになったかもしれない。
人の前に出るのが、怖くなったかもしれない。
声を上げて笑うことが できなくなったかも知れない。
術後もノウテンキに生きている私の価値観は、
もっとがらっと変わってたかもしれない。
私はラッキーなのだと思いたい。
そして、それ以上に確実に、
私は、ラッキーなのだ。
あっという間に増えた蛇苺。
優秀なグランド・カバーになる。
ただ足を踏み入れる時は、
気をつけないと
愛犬のおもちゃのボールが、
あちこちに・・・。
今考えても、2003年6月は 忙しい月だったし、
よく動いた月だった。
週に一度 東京や神奈川の治療院に行ったし。
週に一度 「あゆむ会」に行ったし。
朝は朝刊が来ないうちに 子どもたちを駅まで送って行ったし。
早起きをしてたから、恵比寿に9時ごろ着く電車に乗ったりもしてた。
だから、用賀に10時前に着く電車にだって、
乗っていけたんだけど。
おっぱいを作ってくれる会社がある。
本社は島根県で、東京事務所が 用賀にあるのだ。
この会社の事は 姉が前から 調べたり連絡を取ってみたりしていて、
「行ってみよう」と強く勧められていた。
興味はあっても それほど行きたいと思ってはいなかったのだが、
姉が「私も一緒に行ってあげるから」というので、
行く事にしたのも、6月だった。
ただし、姉は最近早起きができない。
前の晩に用賀駅の近くのビジネスホテルに泊まる事になった。
外泊なんて、当地へ来てから、いや、結婚してから初めての事。
亭主と子どもを置いて、姉と二人で、食事して。
夜はツインのベッドで、私は精一杯姉に付き合って、
おしゃべりを楽しんだ。
「明日早いから、もう寝ましょう。」と言う事になったとたん、
夢の中へ・・・。
翌朝、姉に「ほんとに バタン・キュー なのねえ。」
と言われた。
「でしょ? 入眠剤がいらないのよ。」
姉は、不眠気味。
ただし、私は、夜中に、パジャマの長袖上着を、
脱いだり、着たり。
術側だけ 着たり。
駅の近くのパン屋で、パンと飲み物を選んで、
テーブルについて、美味しい朝食。
玄米食でない時も、やはり楽しんで、美味しく食べなくちゃ。
そうしてやってきた、おっぱいを作る会社。
他に、義手、義足、義眼、などなど、いろんなものを作っている。
その会社のパンフレットは、
恐ろしくて、その辺において置けないし、
電車の中で広げる事はできない。
技術者は 年に2回ぐらい、島根本社からやって来る。
この日は お話を伺う、というだけだったはずなのだが、
私はいつのまにか、おっぱいを作る、と 頭の中で
話を変換してしまっていたので、気が抜けた。
二人いる女性に、それでも いろいろなものを見せてもらい、
いろいろな話を 聞き、為になったことはなった。
ブラに関しては、人口乳房を押さえるためには、
フルカップ・ブラがいいらしい。
私はフルカップ・ブラを使っているつもりだったが、
もっと(?)フルカップのがいいらしい。
得心できないでいたら、
二人のうちのひとりが ブラウスを脱いで
自分のブラを見せてくれたのには、
胸が熱くなった。
結論。
術後半年くらいでは、まだまだ おっぱいの形が 落ち着かないので、
一年半から 2年くらいしてからでないと、
型を取って おっぱいを作る、ということはしない。
私のように 乳房を温存した人は、
満足できるようなおっぱいを作る事は、難しい。
で、予定通り、お話を伺って、
プラス、愚痴まで聞いてもらって、帰ってきた。
温存したおっぱいにあわせて、
人口乳房を作る。
確かに、難しそうだ。
難しい、という事は、
不可能に近い、という事だ。
またやっちゃった。
私は 乳房再建の講演会を聞きに行った時と同じく、
いますぐ、どうにかして欲しかったのだ。
あわてん坊め。
今すぐおっぱいを作って、
この夏プールへ行きたかったから。
今日この場で型を取って、お金を払って、
来月にはプール、なんて思ったから、
今日は話を聞くだけだって事を、忘れちゃったんだ。
温存の人は、満足できるおっぱいを作るのは、難しい・・・。
温存できた私は、ラッキー! と思っていた、
その気分が揺らぐ。
ラッキーと思いたかったけど、ラッキーじゃなかったのか?
いやいや、そんなはずはない。
私は、ラッキーなはずだ。
がんセンターでもらった「がん告知後ケアガイドブック」の中の、
「乳がんの治療法」にある、
「乳房切除術(胸筋温存)」のイラスト。
女性の首から下の上半身のイラストがあり、
片方は普通のおっぱいが、
そして もう片方には 斜線(/)が引いてある、
そのイラストを見て、私はすごくショックだった。
顔がすうっと冷たくなった気がした。
鼓動が一瞬とまって、そのあと早くなった気がした。
そのくらい、胸の斜線は 私にとって ショックだった。
そんな私が がんとわかって手術して、全摘出だったら、
混乱は大きかったに違いない。
外出を嫌うようになったかもしれない。
人の前に出るのが、怖くなったかもしれない。
声を上げて笑うことが できなくなったかも知れない。
術後もノウテンキに生きている私の価値観は、
もっとがらっと変わってたかもしれない。
私はラッキーなのだと思いたい。
そして、それ以上に確実に、
私は、ラッキーなのだ。