無学の農家の次男を父とし、極貧の家庭に育った私は、小学生のとき、栄養失調で病気ばかりしていましたが、平等に義務教育を受け、まじめに学問をやっていたせいか、先生から地方広域の音楽祭、発明展などに出場したり、作品を出品したりする機会を与えられ、また学校の音楽祭、学芸祭などでは重要な役を演じることができました。6年生のときには、毎日の気象観測を任され、授業中でもその時刻になると席を離れ、気象観測室や百葉箱に行って、データを記録しました。卒業前の全校生や父兄が集まった送別会では、「北海道ではなんでも氷る」という漫談をやって、爆笑、また爆笑が会場を埋めました。話のたねは、家にあったわら半紙の安っぽい本の一つを使い、勝手に話を大きくし、馬鹿話にして本当だと言わんばかりにまじめくさって話しただけでした。
小便が凍る、トンカチが必要とか、ラッパの音が凍る、東京に帰ってくると音がとけて鳴るとか、ですね。
中学生になると、より広域から生徒が集まってきて、学問競争を感じました。私も学問で競争してしまいました。学校は、高校受験者(3年生)のために課外教育をやっており、試験また試験をやっていました。優秀な生徒が一人いて、私はいつも総合で2位でしたが、その生徒が転校したのでその後は1位でした。
私は自分の家の近くにある普通高が、屈指の受験高であることなどまったく知らないまま、目の前の階段を上るように入学しました。この高校には市をこえる広域から非常に優秀な生徒が集まっていました。一段と競争を感じたが、ちょっと本を学ぶだけの学問に疲れた私は、実験学的化学に熱心だった化学の先生に惚れ込み、その先生の弟子になった気分で、化学クラブに所属し、実験研究に夢中になっていました。
屈指の受験高だったので2年生から共通の問題で模擬試験がよく行われ、順位が発表されました。私は、順位争いにちょっと気が抜けていたので、順位は乱れに乱れ、上位に行ったかと思うと次には100位以下とひどい結果でしたが、化学だけは1位を他人に譲ったことはありませんでした。
化学の先生は、私が、一期校(大学)に入学することを勧めたが、私は例のごとく家の近く(近くと言っても鉄道で二駅目)にあった二期校(地方大学工学部工業化学科)に入学しました。入学してわかりましたが、施設も貧困、先生も貧困という大学で、高校の化学の復習みたいな学問レベルでした。工業化学科というのに、化学工学に弱く、本で勉強しているだけで、これで就職して仕事ができるのかと思いました。高校の化学の先生が言ったとおり、一期校でなくては駄目だったと思いました。自然、クラブ活動に力が入り、弓道部、マラソン愛好会、自動車愛好会などに入り、奨学金をもらって遊んでいるような大学生活になってしまいました。
しかし、時は化学産業全盛時代で、私は、当時初任給日本一の化学会社に面接だけで無試験で入社することができました。面接では学問ではなく、クラブ活動が評価されたので変な気持ちでした。私は知りませんでしたが、近所の人は、父や私の身元調査があり、身分、思想など聞かれたそうです。貧困は問題にならなかったようですが、同和問題や共産主義は問題になっていました。
会社では、大学の学問の質が関係し、希望の技術開発に行けず、最初から東京本社技術開発管理部門に配属され、取材・文献学的調査研究・企画が主業務となってしまいました。ところがこの種の仕事が私に向いていたようで、現場の技術者の出来ないことをカバーしたようで、私が出す情報データ(報告書など)は現場の技術者のファイルに大切に保管されるようになりました。
中堅になってから上司の指示で仕事をしたことがありません。常に現場技術者とパイプをつないでおり、自分の上司も、現場技術者の上司も、このパイプに介入できませんでした。
そのうちに私は新事業企画に手を出し、ある先端技術について社内の関連技術者を集めて新事業企画委員会を定期的に開き、企画書づくりに入りました。
さすがにここまでくると、現場技術者の上司(研究所長)が怒り、折から、別に技術開発部門常務取締役の指示で私が企画した余剰人員活用子会社に出向を命じられました。企画した人がやれということでした。
新事業企画員会は、私がいなくなった後も続き、新研究所が設けられ、新事業の素となりなした。初代所長は私に敬意を表し、研究所名は何がいいいかと聞いてきました。
私は、余剰人員活用会社で調査研究事業を始め、政府やほかの会社から先端技術に関する調査研究を受託する、あるいは自主的に調査研究して報告書を売る事業を始め、海外の政府機関や会社とも取引を行いました。
この事業が余剰人員活用策としていいということになり、当時、いろいろな分野の会社で同様の子会社づくりが行われ、通産省の意向で社団法人までできてしまいました。
そのうちに私は、子会社の仕事をこなしながら、先端技術に関し、新聞雑誌投稿、講演などが増え、さらに経済雑誌社の編集顧問に雇われるなど、子会社の社員らしくなくなり、55歳で会社をやめ、コンサルタントとして独立し、61歳で大腸・直腸がんで倒れるまで、自由に事業仕事を行い、その後は海外留学生ボランティア、森林ボランティア、町のボランティアとしてやはり自由に生きてきました。
長々と私の人生を書いてきましたが、言いたいことは戦後の自由平等平和の価値観は、極貧の家庭に育った私に不平等、戦争を感じることなく、自由に事業仕事を展開する環境を与えてくれたということです。
現代は違うでしょう。貧困層が拡大し、人々は不自由、不平等に悩み、戦争の不安を抱えて生きているでしょう。貧乏、結婚しない、家庭をつくらない、孤独が増えているでしょう。自由平等平和がないでしょう。政治家は貧困層の拡大問題を放置し、中国、朝鮮(北)、ロシアなどとの対立や、同盟づくりに明け暮れているでしょう。国づくりの基本を忘れているでしょう。
現代人は、戦争好きの政治家など切って捨て、自分の事業仕事に熱中した方がいいと思います。自衛隊は戦うことが使命などと考えず、負ける戦争はしないことです。政府赤字、貧困層拡大の日本が防衛戦争できる訳がありません。強がりの政治家に自分の命を提供するような愚人になってはいけません。
現実的なシミュレーションを行って防衛力・アメリカなどとの同盟強化を打ち出したなどウソです。数百発の古臭い低速巡航ミサイル「トマホーク」をアメリカから買って反撃能力を保有などと言うとは仰天です。反撃は反撃を生むが、日本は何で反撃するのでしょうか。平気で武器弾薬を輸出し、肥え太る武器産業を抱えているアメリカ、中国、ロシアなどと日本は違うでしょう。日本は間違いなく非現実の自分勝手なシミュレーションをやっているだけです。