7月6日(金)11時半には中華三原でタンメンを食べた後
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銀座4丁目をぶらつく、思い出深い街角なのだ。
ファッションビルを見上げた。
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そして、エスカレーターで6階フロアまで上がった。
今は大手書店になっている。
37年前のおしゃれなフロアではなく
書棚を団地のごとく通路を直線で仕切るフロアだ。
面影は何もない。
僅かな店員がレジにいるだけ、あの煌びやかな明かりとインテリア
緑の絨毯敷き詰めたフロアに可愛いスマイル女性はいないのだ。
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あの時代にここで働いたことが鮮明に蘇る。
およそこの世のもので、いつまでも破れず、変わらずにいるものは何もない。
昭和45年、大学4年生の時、彼女と銀座デートした。
日産ギャラリーの隣に白い尖塔のようなファッションビルがオープンした。
外からエレベーターのガラス張りが見え外の光景が見えた。
エレベーターガールは綺麗なお姉さんだった。
当時としては画期的だった。
彼女とショッピングしていると彼女が「こんな場所で仕事したい」と溜息ついた。
当時、学者先生が女子大生亡国論を言い出していたが
女子大生の就職門戸は小さかった。
http://choko22.blog54.fc2.com/blog-entry-91.html
社会人になり勤務地が数年後、彼女が憧れたファッションビル内オフィスに移動した。
まさかこのビルで勤めるとは想いもしなかった。
卒業して社会人になったが、まだ現役女子大生だった彼女に
あっさり振られてしまった。
入社最初の勤務地は大手町だった。
超近代的ビルで営業の初歩を学んでいた。
上司の不正を追及したら、逆に更に上の部長から
配置転換を命じられた。
私に言った理由は「監督不行き届きで処罰されるより、成績不振で処罰されるのがいい」
そうして、新橋東京電力本社近くの軽食喫茶で皿洗いすることになった。
退社も考えたが必ずや見返してやるとの執念があった。
2年後、事実関係が明らかになり私の名誉回復もした。
後に部長は癌で亡くなり、張本人の上司は夜逃げした。
当時の状況は異端としてブログに経緯を記した。
http://blog.goo.ne.jp/kikuchimasaji/e/0e1f6a91198e7bf7afdd38231ab8eaf4
人事異動が発令され、昭和50年6月銀座外商部への勤務になった。
新婚ホヤホヤで28歳だった。
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ビルの6階全フロアが店舗で海外旅行サロン、海外旅行用品
海外ウエディング、海外土産品、旅行書籍、水着、アロハ等の販売される
総合旅行産業の店舗だった。
高度成長にまっしぐら、大阪万博もあり海外旅行が一気に伸びた。
一般庶民を団体でハワイ、グァム、サイパンへツアー名入りバッグを肩にかけて
飛び立って行った。
今では「へー」?と思うだろうが
店舗で水着の売り上げは日本一だった。
秋、冬にハワイ、グァム、サイパン旅行に行く時
水着を用意しなければならない。
当時、デパートは夏シーズンしか水着を販売していなかった。
女性にとって最新水着で海外ビーチに寝そべることこそ
ステータスだった。
有名女優も買いにきた。
フロアの女性社員は綺麗だった。
採用基準が頭脳よりも見てくれが重要だった。
来店客も銀座で海外旅行を相談するのは満足感があった。
7階も大手電気メーカーの家電サロンで、やはり美人揃いだった。
私は8階の営業本部、外商の仕事だった。
結婚のきっかけも銀座松坂屋裏の古いビル地下に
竹を切った中に酒を入れ炭火でお燗して飲ませる料理屋があった。
そこで先輩から紹介されたのが女房になった。
店主は古代日本文字の研究家でもあった。
その店で、二人だけで三々九度の祝杯を挙げた。
今は既に故人だ。
新婚の妻も新橋で働いていた。
仕事が互いに終わるとビル1階前で待ち合わせして
食事して松戸の公団住宅に帰った。
上司にも恵まれ、私が受けた理不尽な仕打ち耐えたことを労ってくれた。
同僚も温かく歓迎、後輩も出来た。
その後輩は今でも交流があり苦しい時助けてもらった。
三原小路には大衆居酒屋があって時折会社仲間と飲んだ。
居酒屋のオバサンが面白い事教えてくれた。
税務署が突然調査に来て、割り箸の本数を勘定して
売り上げの過少申告インチキを見破られた。
それからまもなく店は閉店した。
税務署から見れば一等地で、少ない売り上げで商売が続くのに疑問があったのだろう。
銀座の柳通りの夕暮れに行き交う人はなぜかネオンの下、明るい笑顔と
優しい瞳をしていた。
2年後営業部は大手町に移転、更に池袋の自社ビルに入った。
更に2年後、再び銀座の外商に異動になった。
そこに会社の籍はあったが労働組合書記長になっていたので
実質的仕事はしていなかった。
34歳、二人目の子供が生まれた。
その時、ストライキを敢行した。
思想的問題有り、破壊者としてのレッテルを貼られた。
銀座の場所でサラリーマンに別れを告げた。
今から3年前、娘が「銀座が似合う女になりたい」と呟いた。
私と妻は何とも言い難い笑みで娘を見詰めた。
銀座でサラリーマン辞めた時、生まれた娘の言葉に涙が出そうになった。
2歳の息子と生まれた娘を抱えて、信念を曲げず屈辱に耐えて
妻と必死に働いた。幼い子供には貧乏は分からない、両親さえ入れば良いのだ。
幼稚園に行かせる金も無かった。
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娘も社会人になり、勤務地が品川、成田空港、桜田門と移り
現在は銀座近くになったのだが、仕事が忙しくて
銀座を楽しむ時間もない。
35年の歳月が流れた、面倒見てくれた上司も旅立った。
同僚も定年、センス抜群の女子社員はどうしただろうか?
下りのエレベーターに乗り、心は37年前に戻っていた。
60数年の人生で一番安定して幸せな日々だった。