善を行う者はいない。ただ一人もいない。ローマの信徒への手紙三章一二節
善とは神に向けてなされる行為であります。 神の善にこたえようとする人間のこころざしから生まれる行為であります。 わたしたちに対する神の善は、イエス・キリストを通してなされました。 ですから救い主イエスを知る信仰なしには「ただ一人も」善をおこなうことはできません。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想3」より
善を行う者はいない。ただ一人もいない。ローマの信徒への手紙三章一二節
善とは神に向けてなされる行為であります。 神の善にこたえようとする人間のこころざしから生まれる行為であります。 わたしたちに対する神の善は、イエス・キリストを通してなされました。 ですから救い主イエスを知る信仰なしには「ただ一人も」善をおこなうことはできません。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想3」より
この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。 ルカによる福音書一七章一八節 祈る人はたくさんいます。病気や苦難に襲われたとき、人は祈らないではおれません。 わたしたちもいくたび祈り、そして癒されてきたことでしょう。いくたび試練の谷をくぐらせていただいたことでしょう。 そのとき、しかし、わたしたちは祈ったことを忘れてしまうのです。 自分の対処の仕方が適切であったかのように考える。運がよかったかのように考える。
神を賛美して戻っていった人にキリストはいわれました。「あなたの信仰があなたを救った」。 感謝して帰っていく者こそ神の恵みの視野の中で生き始める者であるからです。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想3」より
火よ、雹よ、雪よ、霧よ 御言葉を成し遂げる嵐よ 詩篇一四八篇八節
異変のことがいわれています。異変は人を不安に陥れ、恐慌をひき起こします。 なにもかもが駄目になると思う。 しかしどんな異変が起こっても(かならず異変は起こりますが)それらは壊すためのものではなく神の「御言葉を成し遂げる」ためのものであります。 神の摂理の外ではなく、内で起こっているのです。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想3」より
イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」マタイによる福音書一四章二七節
人はいつか、死という逆風のさなかに立たなければなりません。 どんな親しい人もそこにはいません。だれもとなりに立つことはできないのです。 そのとは、救い主キリストがよびかけてくださるのです。 「わたしだ。恐れることはない。」 わたしたちの、絶対に避けることのできない嵐の海のさ中に、わたしたちのために立っていてくださる方がおられます。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想3」より
心を尽くし、思いを尽くし<、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。マタイの福音書22章37節
どんな人の心も深く探れば、人生の目的を切に求める思いがきっとある。
息をするのと同じくらい確実に、いつの日か、こう思うはずだ。 「私の人生の目的はいったい何だろう」 ある人は職業に、その意味を見いだそうとする。 「ぼくの目標は歯医者になることなんだ」 すばらしい仕事にはちがいないが、とうてい自分の存在の証(あかし)にはなりえない。
彼らは人間として存在することよりも、人間として何かをすることを選ぶ。 自分が何をしているかが、自分の存在を表すものなのだ。
その結果、彼らはすべきことをたくさん抱え込む。長時間働き続けるのは、仕事をしなければ自分の存在証明を得られないからだ。
また、何を持っているかで自分の存在を示す人もいる。彼らは新しい車や新しい家や新しい衣服に意味を見いだす。
こうした人たちは国の経済には貢献しても、家計は火の車になってしまう。常に自分の持ち物に意味を見つけようとしているからだ。(中略) ほかにも、スポーツや娯楽、新興宗教、セックスなどなど、さまざまなことに手を出す人々がいる。
すべては人生の目的という砂漠に現れる蜃気楼だというのに・・・・・。(中略)
ぼくたちは真実と向き合うべきではないか。神を認めなかったら、ぼくたちは宇宙に漂う塵芥(ちりあくた)にすぎないのだから。『グリップ・オブ・グレース』
マックス・ルケード 「みことばの宝石」より
園丁は答えた。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。」ルカによる福音書一三章八節
三年待ってまだ実のならないいちじくの木を主人は切り倒せと命じます。 しかし園丁は「今年もこのままにしておいてください」と嘆願します。 さらに手入れをし、必要なこやしを与えるから、というのです。 「今年もこのままに」。そういうとりなしの祈りの中にわたしたちは守られています。 とりなしの園丁は主イエス・キリストであることはいうまでもありません。 小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想3」より
最後まで耐え忍ぶ者は救われる。マタイによる福音書一〇章二二節
長いトンネルでは入り口も出口も見えなくなる部分を走らなければなりません。 人生にも出口の見えない暗闇の部分があります。ここが終わりだと考えて立ちすくめば文字どおり「終り」であります。 しかしどんなトンネルにも神の備えていてくださる出口が、かならずあります。 大事なことは、途中で投げ出さず「最後」まで走り抜くことであります。最後の場面で神が待っていてくださいます。
抱きとめるために。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想3」より
あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。ヨハネによる福音書一六章三三節
キリストが勝っているということは、キリストがわたしたちのために闘って勝っておられるという意味であります。 十字架と復活によって。弟子たちには、いま悩みがあります。しかしこの悩みは、キリストがわたしたちのために確保してくださっている勝利に向かうプロセスなのです。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想3」より
神に従う人のためには 光を心のまっすぐな人のためには 喜びを種蒔いてくださる。詩篇九七篇一一節
畑に種が蒔かれます。ひとつぶ、ひとつぶ。ぽつんぽつんと。途切れることなく。ふりかえって見れば、それは一筋の直線。
神は信じる者に光を、よりたのむ者に喜びを種蒔いてくださいます。人生の長くつらいこの道に。ひとつ、ひとつ。ぽつん、ぽつんと。
しかし、けっして途切れることなく、その光をひとつひとつたどりながら導かれて行くのです。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想3」より
そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。ヨハネによる福音書六章二一節
信仰の航海は、順風に送られて目的地に着くというようなものではありません。 「強い風が吹いて、湖は荒れ」(一八節)行き悩む経験をします。 わたしたちの船に近づいて来られるキリストに叫ばないではいられません。
この船は試練をつらぬいて、救い主とともに目的の港に着くのです。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想3」より
イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた。「信仰の薄い者よ、 なぜ疑ったのか」。(マタイ一四:三一)
父なる神さま、信仰の薄い私たちを赦して、み手を伸ばしてつかまえてください。 ペテロはイエスが「おいで」と言われるのに、立ちさわぐ波を見て恐怖におそわれ、信仰を失って溺れかけました。 私たちも目の前の小さな波瀾に心を騒がして、神さまへの信頼を失いがちになります。 どうぞ私たちの神さまに対する信頼の心を強くしてくださるようにお願いいたします。 空の鳥、野の花を見て、父なる神の愛の配慮に信頼して生活せよと、イエスが教えてくださいましたが、 どうぞ私たちの心をすべての事の背後に働いている神さまの愛と力とに向けさせてください。 一羽の雀でも天の父の許しがなければ地に落ちることがないことを思って、 私たちが神さまの変わらない愛と限りない力に守られていることを信じることができるようにお導き下さい。 アーメン
日本基督教団出版局編 「われらの祈り」より
人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。ルカによる福音書六章四五節
心とは神と出会う場所のことであります。 人は心に神のことばを聴くのです。 神のみ声をききとっていく中で、 心の中に語るべきことばは生まれます。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想3」より
忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、ローマ信徒への手紙二章七節
忍耐強く善を行う、それは神がわたしたちにしてくださっていることであります。 逃げても背いても、なお追い求めるみわざによって、わたしたちはくり返しひき戻されるのであります。
善は忍耐をもってしか行い得ないものだということを、わたしたちはこの身をもって学んでいるのであります。。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想3」より