葉山の海と森

葉山町の自然と日々の暮らしのスケッチ

トップの責任

2011-04-24 18:29:06 | Weblog
東日本大震災から45日経っても未だ避難されている方々や行方不明の方々、身元不明の方々など爪あとは残ったままという悲しい現実が続いている。防ぎきれない自然災害は諦めがつくにしてもその後の対応による人災は悔やむに悔やみきれない、残念な事態が起きている。

特に原発の問題は想定外の地震と大津波による不可抗力と言う言い訳でその後の対応が後手後手に回り、未だ混沌として解決には相当の時間と人と費用がかかる事が判明してきた。今の日本はパニックになろうが成るまいが正確な情報を政府が国民に知らせる事が国益と考える政治家が居ない事が人災の端緒であったのである。

放射能汚染という目に見えない敵を相手に戦うのだから、相当の覚悟をして掛からないといけないのに菅首相はじめ東電の経営陣の顔ぶれを見てもどう見ても現場を知らない人達が、右往左往しているだけで苦労している現場責任者の肉声などは全く聞こえてこない。その証拠に事故当時の原子力保安院の最初の記者会見に出た技術系の審議官は本音を喋るからと言う事から、次から外されて他の人に変ったように聞く。つまり技術系の彼はレベルが7と言う事が恐らく分かっていたのだと思う。万一本当のことを言われると政府としてはまずいという事で外されたらしい。

菅さんは一度もサラリーマンや会社での社会経験がなく市民運動から政治家に成り、以後ずっと議員として国から給料を貰い今日に至ったと聞く。人の気持ちや動かすノウハウを持っているはずなのに永田町に居るとそのセンサーが壊れて勘違いを起こすのかもしれない。民主党に期待していただけに落胆も大きいのは当たり前の事だ。
片や東電の会長、社長なども数万人の社員の中から熾烈な出世競争をして、その地位まで上り詰めたのだろうと想像する。避難所を回るにしても周りを取り囲むように護衛や秘書などが取り囲み、さながら大名行列のような有様だ。不断なら奥の院に居て下々の顔など見ないし、まして膝をついて頭を下げるなど思いもよらなかったろう。
恐らく現場原発の所長と言うのは取締役なのだろうが、何故現場責任者として表に出てこないのだろうか?保安院の時と同じように本当のことを言われるのが怖かったのだろうか。経営陣の自己保身としか思えない。
マスコミに教えて欲しいのは現場で働く人達の割合だ。東電社員、メーカー、協力会社(一次、二次、三次下請けなど)どんな割合で居るかで力関係が分かるからだ。

共通して言えるのは現場を知らないトップが指揮を取る事の危うさだ。これに何時まで付き合わされるのかと思うと何時までも胸のつかえが降りない。現場を一番分かっているのは係長、課長、部長クラスの人達だ。何処の会社でもこれらの中間管理職が会社を動かしていると言うのが日本の企業形態だ。トイレの神様が居るくらいだから、原発の神様だって居るのだろうから、もう神頼みしかないのではないだろうか?是非現場で指揮を取っている所長や部課長連中の生の声を聞きたい。

この事故が起きた時に思い出したのは50年前の60年代に見た映画だ。『渚にて』という題で核戦争で北半球が全滅し、残ったオーストラリアが徐々に放射能に侵され、政府が各家族に薬を渡して死を促し、メルボルンの町に人っ子一人居なくなると言う、今の福島とダブるような映画だった。グレゴリーペック演ずる潜水艦の艦長がエバガードナー扮する妻?(恋人?)に見送られ出撃するのを渚で見送るシーンを最後に映画は終わる。
まさに福島の人達にとって帰る当てのない流浪の民で、この責任は東電だけでなく、政府と過去の政権も含めて真剣に取り組んでもらいたい。

折りしも、この小さな町で今日町議会選挙が行われた。定数14名のところ立候補が22名と言う大激戦の選挙が行われ今夜にも大勢が分かります。今変えなければという機運があってこそ、これだけの乱立と言える立候補があった訳で如何にトップの資質により、町が変るかその証明をしてもらいたいものです。
新しい考え方や資本主義に変る何かを模索していく平成23年度でありたいと願うものです。






















コメント
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